2009.10.04.

ローマ書講解説教第2

――1:
2-3aによって――

 

 ローマ書の冒頭、第1章第1節で、パウロは自分が「キリストの僕」であって、「福音のために選び分かたれた使徒」であることを言い表した。前回の説教では、この第1節だけを学んだが、この文章にこめられた一語一語、それは全く聞き慣れた語であるが、一つ一つ心に沁みみる響きを持つ。分かるということよりは、一語一語が我が内において力となる。

 それに続いて、今日学ぶ第2節と第3節の初めの一語では、一語一語の掘り下げというよりは、それぞれの語の結び付きから生み出される力、すなわち救いの力がいよいよ強烈に理解されると思う。

 福音とは「御子」に関するものであることを明らかにしている点が第一の確認事項である。すなわち、「福音」という言葉は、今日ほとんど教会の中でしか通用しないキリスト教用語であるが、本来は「喜ばしい報せ」であり、そのような意味で広く使われることが出来る語であり、したがって神が恵みをもって宣言され、聞く者にとって喜びとして響く言葉は、全て福音と呼んで良い。しかし、福音が真に福音であるのは、神が特に御子に関して、また御子において、語りたもう言葉だと言うのである。

 言い換えれば、二つの場合と区別するように促される。第一は「福音」と称せられるメッセージがあちこちで語られ、それを喜びとして聞き取っている人が少なくないが、彼らが喜びと感じるのは一時的な感覚であって、自分の感性でその時は喜びと感じているとしても、長年に亙って、いや永久的に、喜びを持続させることは出来ない。

 一般的に言われることだが、例えば、長患いから癒された人は、その癒しを心から喜んで福音だと言う。だが、その喜びはだんだん薄れて行く。

 また、福音とは信者の数を増やして行くことだと信じている人もいる。神の国の種が播かれて50100倍の実を結ぶのが福音の力であると信じ、信者集めに熱心であるが、何を信じるかが分からないままに、とにかく熱心に人を集めて行くことを福音的であると信じる人もある。

 そういうものを福音とは言わないのだ、と断定した方がハッキリする。けれども、ここで言い争っても殆ど意味がない。喜びには違いないが、どこまでも確かな喜びだとは言えない。そのように、ある意味では福音と言っても良いという程度の「福音」のために一生を捧げて使徒となることはない。

 第二の場合は遥かに真実、また確実であるが、福音が福音である肝心の点が未だ十分にありありとは示されていないケースである。実例として取り上げられるのは旧約聖書のメッセージである。それは「喜びのメッセージである」と旧約の人たちは思っていたし、我々もそう言う。けれども、パウロはここで旧約のメッセージを福音として扱ってはいない。ある意味で福音と看做して良い、という程度のことのためでなく、確かに、正真正銘、福音であるもののために私は生涯を捧げたのであると言う。

 「来たるべき方が来られる」。そのことの確かさを、旧約の信仰者は預言によって教えられ、信仰によって把握し、先取りして確信していた。我々はこのことを彼らよりもっと良く知っている。すなわち、来たるべき方について、我々は預言としでてなく、すでに成就した現実として、新約において教えられている。だから、旧き契約のもとでも確信をもって待ち望んだという意味でない、もっと溢れる喜びの事実として捉えている。すなわち、「時は満ちた」という宣言がまだ発せられていなかった時点における福音とは区別された福音を持っている。

 実際、旧約時代においても、新約的な福音的というべきメッセージが鳴り響いたことは少なからずある。例えばイザヤ書60章で「起きよ、光りを放て。あなたの光りが臨み、主の栄光があなたの上に昇ったから」と呼び掛けられている。預言者は空想や憧れを語ったのではない。確かな預言を語った。預言ではあるが、十分な意味での預言であり、これは神の確約であるから成就する。神の真実を信じる者は、謂わば約束手形を現金と同じ確かなものとして捉えるように受け取った。彼らは信仰の故にまだ実現していない約束を、すでに成就した事実と等しいものとして捉えたのである。

 しかし、その時、福音のために使徒が呼び起こされることはなかった。使徒が呼び起こされるであろうとの預言は語られていたけれども、使徒が呼び起こされて立てられるという現実はなかった。時がまだ来ていなかったのである。

 以上のことを見て来た我々は、「使徒」が選ばれ、呼び出され、立てられ、派遣されて語っている「福音の時」が「預言の時」に代わって到来したという新約的な現実を、改めて見直さねばならない。

 ある意味で使徒的な役割を演じる者が旧約時代にもいた。神はいろいろな機会に、必要に応じて、使いの者を遣わしたもうた。神の遣わす使いには多種多様な程度やタイプがあった。人間の姿をしているが人間でない御使いが遣わされた場合も多い。名前も知られない使いが来たこともあった。特定の人が特定の時期だけ特定の任務を負って遣わされることもあった。

 「使い」というふうには呼ばないが、確かに神の使いとして遣わされて語る「預言者」がいたことを我々は知っている。このことでは後でもう一度取り上げねばならない聖句であるが、ヘブル書の冒頭に「神は昔は預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には御子によって私たちに語られた」と言われている。ヘブル書はこの冒頭で、昔は預言者によって語られる時代であったが、今は御子によって語られる時代であるという決定的な違いを言い表した。ここでは「預言者の時代は終わった。御子の言葉が語られる時代になっている」と、時代の転換が語られた。

 新約の時代になって、御子の言葉が語られるという転換が起こったのであるが、これは「使徒の派遣」という「救いの新しい方式」が現われ出たということでもある。旧い形の様々の神の使いが廃止されたとは言うべきでないが、そういう者の働きの重要性はなくなって行ったと見なければならない。

 新約の時代には、預言者に代わって「キリストの使徒」が立てられ、それが遣わされて「福音」を宣べ伝え、「教会」を建て、それによって「救い」が成し遂げられることになった。「使徒的」という言葉を余り使わない教会があり、我々の教会もどちらかと言えばそうであるが、教会が「一つの・聖なる・公同の・使徒的」教会であることは最も重要な点として繰り返し語っている。こういう教会をこそ我々は信ずる。そこに命を預ける。

 パウロが自分は「使徒」であるということをローマ書の初めで強調している。これは、我々にとっても重要なこととして聞いておかねばならない。Iコリント91節で彼は「私は使徒ではないか」とコリントの人たちに注意を促しているが、使徒としての職務を主から授けられていることを無視してはならないと警告するのである。使徒がいなければ救いの言葉は宣べ伝えられなかった。「宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか」とローマ書1014-15節で言っている。

 「使徒」と呼ばれる役目の人は、キリストによって弟子の中から任命された限定された人たちで、また一代限りである。2世紀の初めには使徒は死に絶え、使徒という役目を持つ人はいなくなったのであるが、使徒的な教え、使徒的な制度、使徒的な職務は、教会の中に生き続けている。

 それを強調し過ぎることは間違いを犯すもとになるかも知れない。というのは、「使徒的」なものを受け継ぐという点を強調することによって、何か形あるものを伝統として重要視する形式主義に陥る危険があるからである。だから使徒は形式的な型に拘束されるのでなく、「福音」のために選び分かたれて、福音を真に福音として、規格に合ったことを言っておらば良いというのでなく、福音が命として伝わって行くように、その務めに立てられた、というところに繰り返し立ち返らなければならない。

 使徒は福音のために選び分かたれたと先に言われたが、その福音がまさしく福音であるのは、福音が御子に掛かっているからである。御子は神の子である。神が永遠におられ、御子がそこから来られた。このことをシッカリ捉えなければならない。

 神については旧約の時代から語られて来た。それで十分であったとは言えない。神について教えられたけれども、神という言葉を知っただけで、神について真に知るに至っていない人は多い。だから神の恵みが語られても聞く人に福音が十分に福音としては届かない。神が御子を差し出したもうて、それでやっと福音が現実のものとして聞く人に届いた。

 神について教えても効果がないから、神について教えることは止めて、御子について教えるように切り替わったと考える人がいると思う。この理解は正しいように思われるかも知れないが、正しくない。神がおられて、その神が「御子」を我々に差し出したもうという順序があるところでこそ、神の愛がありありとして来たのである。

 福音が順序にしたがって示されていることが今学ぶ論点である。「福音は神が、預言者たちによって聖書の中で予め約束されたものである」という順序がある。神が予め約束された。その約束が先ずあって、次にその成就として御子なるキリストが、時満ちて来られたのである。この順序で福音を捉えるのが神の御旨である。

 順序を詳しく言うならば、預言者が神から遣わされて預言を語るということが先ずあった。その預言は語られ、あるいは叫ばれたもの、つまり「声」であるが、声として何時までもこだまして持続するのではない。声は文字として「聖書」の中に書き記され、そのため、持続し、記憶される言葉として時代の変化の中にも変わらず受け継がれて来た。だから、「書かれた言葉」そのものが生きた証人と同じ働きをするということを我々は読み取らねばならない。

 聖書と言っても人間が書いて、持ち上げたものではないかと感じている人がいる。聖書を偶像視することは確かにいけない。しかし、神が書き記せと言われて、言葉を消え失せないものとして残したもうたことは真理に適っている。

 預言者によって予め伝えられていて、成就したこと、それが御子の福音である。「御子」という呼び方は聞き慣れないものではないが、この当時のパウロの活動について使徒行伝を通じて或る程度知っている我々としては、この言葉の使い方に関心をそそられる。

 イエス・キリストを「御子」と呼ぶ呼び方はパウロの書いたもののうちローマ書に特に多い。ローマ書に特に多いことに拘る必要はないが、キリストを御子として位置付ける神学的理解について、この頃パウロが頻りに考えていたと想像しても余計なことではないであろう。

 パウロの教理の体系の全体を示している資料と見られる最も古い時期のものは、ピシデヤのアンテオケの会堂における説教であって、使徒行伝1316節以下に記されている。その中で詩篇第2篇を引いて「あなたこそは私の子、今日私はあなたを生んだ」と言っている。キリストを御子として捉えた資料として讀むことの出来る最初期のものである。もっと前からこの理解はパウロのうちでハッキリしていたと思う。パウロ以前にイエス・キリスト御自身がマタイ伝1127節で「全てのことは父から私に委ねられている。子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は子と、父を顕そうとして子が選んだ者のほかにない」と言って教会の教理の大枠を示しておられる。

 それにしても、パウロが福音は御子に関するものだと定義づけたことの意味は大きい。福音の意味と確かさはそれが神からというだけでなく、御子において差し出されることによって明確化するのである。

 御子について我々の心に最も鮮やかに印銘されている御言葉が8章にある。「御自身の御子をさえ惜しまないで私たち全ての者のために死に渡された方が、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」。

 


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