2010.07.11.

ローマ書講解説教第14

――1:28-32
によって――

 

 ここまで繰り返し論じられている論法は、「最も基本的な尺度が狂ったならば、それにしたがって設けられた諸基準も狂ってしまう」ということである。最も基本的なものは何かと言えば、それは神に向かっている姿勢であり、それが人間として立つ基本軸で、偽りも、好い加減さも含まないから、これが狂うと、その次の線も間違って引いてしまうことになり、第三次・第四次の間違いが起こり、一切が全面的に狂う。

 最も基本的なものが狂うために、他のことも狂ってしまう実例として先ず論じられたのは、「神の見えざる本性」ということが自明であるにも拘わらず、これを無視したため、見えざる神を見える偶像に置き換えてしまう。高きにいます神を礼拝することに人間の正しさがあることが分かるはずであるのに、かえって人間以下のものを恭しく拝むという倒錯を犯す。つまり、神に対する姿勢が狂うと、人間の判断が逆になることが、偶像礼拝を実例として先ず説明された。その次には、人間の情欲の倒錯が例として挙げられた。所謂異常性欲である。――今回学ぶ28節以下では、道徳的判断力の倒錯が論じられる。「神を認める」ことが人間としての判断の基本であったのに逆転したため、判断の正しさを取り戻すことが出来なくなった。

 しかも、このことが当然の成り行きでなるのでなく、「神が彼らを為すに任せたもうた」。すなわち、彼らが軌道を外れて、行く所を知らぬまま消えて行くのでなく、神の御旨がそこに働いて、滅びから滅びへと、自分で承知して選んだ道を突き進むのであって、滅びの責任は自らに帰せられるほかない。

 さらに見なければならないことは、一つの悲惨さが、更に大規模な悲惨さを生んで来ているという事情である。人々はその事実を認めまいとし、修復されると言う。「病気になっても、自然治癒力が働くではないか」。「悪が破壊を齎らしても、自然が癒してくれるので平和が回復するではないか」と考える人は少なくない。

 もっとも、そういう楽観的な考えは成り立たないのではないかという意見が強くなっていると思う。戦争という巨大な悪はなくなったから、これからは、時間が掛かるかも知れないが、世の中はだんだん良くなる、と人々は65年前の8月には言っていた。しかし、世の人々の感じる幸福感の回復は起こらない。世界は年々住み辛くなったというのが多くの人の実感である。

 人間は互いに寛容になって行かなければならない、ということに人々は気付いている。ところが実際は人間関係がますますギスギスまして来る。それはさておき、神は絶対的に寛容であられ、憐れみ深いお方であるから、当然落ちるべくして落ちて行く者にも、憐れみを及ぼしたもうということは、我々の間で語られ、聖書にも屡々書かれている。そのため、憐れまれるに価しない者を憐れむところにこそ神の真実が見られると考えられ、その通りだと言われる。だが、この考えが平板化すると、憐れむに価しない者を憐れむ義務を神に押し付ける厚かましさになる。これは、誤りを犯した者は悔い改めなければならないという正当な考えを逆転して、悔い改める必要はないという論法を打ち立てるものである。人々はますます悔い改めから遠ざかり、謝罪しない、謝罪しても口先の謝罪に留め、心を改めることはますます出来なくなって行く。

 与えられたテキストに入って行こう。28節「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いに渡し、なすべからざる事をなすに任された」。――「なすままに任す」という論法が24節以下に繰り返されるのを見て来た。この論法をそのまま受け入れるほかないのであるが、聖書にはこれと違った論法があるから、それも見て置かなければならない。例えば、ホセア書の初めの部分の論法である。

 預言者ホセアは神の命によって姦淫の女を妻とする。その妻は結婚後も姦淫を止めず、ついに落ちぶれて身を売る。その妻をホセアは金を払って買い戻して妻として受け入れる。預言者はこのような行為によって、イスラエルが神のものであり、神と契約を結んだにも拘わらず、偶像礼拝に走り、ために破滅して没落し、赦されて連れ戻されても、なお過ちを繰り返す。これがイスラエルの現実であって、それでも神はイスラエルを見放したまわない。これが神の憐れみであり真実であると明言されている。

 ローマ書118節以下で読んだ神の対応と全然違うことが書かれている。しかし、何度も述べたように、「神の義は福音のうちに現われる」のであって、福音の外では、罪人を義とする神の義は、見ることが出来ない。ホセアの妻場合、脱落が繰り返されるごとに、修復が繰り返される。それで結局、回復の機会が来たのか。その結末は確認出来ないままである。神の忍耐が比喩的に語られたお話しに過ぎないのではないか、と言われるかも知れない。確かに、神の赦しは「再生」、「新しく生まれること」と結び付くのであって、再生の伴わない赦しの繰り返しを、イエス・キリストが七度を七十倍する赦しとして示したもうたのではない。

 ただし、ホセアの例が不適切だというのではない。歴史の或る部分については、神が重ね重ね赦したもう。際限なしに赦しが繰り返されるのではないかと見られる事実がある。神の寛容が人間の理解を遥かに越えていることは確かである。それでも、何をしても結局裁かれないということにはならない。神は最終的な破綻の前に、結末を付けたもうから、世界は保たれている。

 28節の「神を認めることを正しいとしなかった」というのは、先に21節に「神を知っていながら、神として崇めず」と言ったのと主旨は同じであるが、言葉のニュアンスには違いがある。その違いを的確に言い表すことは難しい。日本語訳の聖書では「知る」と「認める」との違いで区別しようとしたのだが、「知る」というのは、それについての知識を持つことで、神を「認める」とは神に向き合う姿勢、心の持ち方に関することを言うのではないか。

 初めの時の前には、存在するものは何もなく、神が在られただけである。神が天地を造り、海と陸を造り、植物を造り、動物を造り、全てが整ったところで、万物の頭として人間を造りたもうた、というのが創世記1章の教えである。これはこれで真実であるが、神が人間を万物の頭として造られたのであるから、他の物の創造は別として、人間が真っ先に造られたと考えることは、理解を整理するためには有益である。

 すなわち、神は先ず人間を「神に向かい合った存在」として造られた。これは「神の形に似せて造られた」と言われている意味である。神の形から外れないように造られた。譬えて言えば、大望遠鏡を備え付け、それを覗けばいつでも太陽が見えるように、人間の目から見ればいつでも神が認識され、神を認めることが全ての事柄の出発点であるように設定されていた。ところがその設定を狂わせた。「神を認めることを正しいとしなかった」とはそういうことである。

 その結果どういうことになったか。的を外した物しか見えないようになった。だから間違った物を基準にして、次々に物事を定めて行った。距離も、方向も、星の名も全部が間違っている宇宙像が書き上げられるように、世界が捉えられ、世界に対する一切の働きかけが実行された。それが「神は彼らを正からぬ思いに渡し、なすべからざる事をなすに任せられた」と書かれていることである。

 これを具体的に描き上げるものが、29節から31節までが言うところであって、「彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とに溢れ、嫉みと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また讒言する者、謗る者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事を企む者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている」と書かれている。

 説明の必要はない。汚らわしい所に向けて望遠鏡を設定して置くならば、視野一面に汚らわしいものしか映らないのである。これは誇張ではない。誇張だと言う人はおり、世の中には多少善なる人もいるではないか、と言われる。また、人間の感性は鈍いから、誇張して言わないと通じないのだと言って、理解する人もいる。しかし、誇張ではない。本来、神の方向に向けられていた望遠鏡が方向違いに固定されたため、見えて来るのはこのようなものしかないのである。

 パウロが人類に対する憎々しい感情をもってこのように批評したと解釈するのは、事実を歪めるだけである。ここには憎しみや蔑み、要するに偏見をもって書かれていることはないと見る方が良い。逆に言うならば、福音の外がこういうものであることを認めないのは率直でない。説明は要らないが、分かり易く類別されている。

 第一類として、不義、悪、貪欲、悪意、この4部門の悪の全てに満ちているものと言われる。これは悪の原理的な働きをするものを纏めたものである。いちいちの項目について詳しく違いを論じることは省略して良いと思われる。すなわち、パウロはそれらの悪について個別的に詳細に論じることが必要だと考えている訳ではない。ただ、それらの悪が「満ち満ちている」ことは強調すべきだと考えていた。

 第二類は、嫉み、殺意、争い、詐欺、悪念という、悪質で陰性な犯罪を生み出すものに満ちたものが列挙される。これらの犯罪によってパウロが苦難に遭ったのは事実であるが、その実例を挙げることで時間を費やすまでもない。

 第三類では、先ず、悪を実行している悪徳人間として、讒言する者、謗る者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事を企む者、親に逆らう者、が具体的に挙げられ、続いて無知、不誠実、無情、無慈悲という悪徳が列挙される。

 三種類に分けて整理されたが、順序・等級がつけられたとは思われない。第一類から第二類が生じ、第三類に進むと論じようとしているのでないことは分かるが、神を認めることを正しいとしなかった者に対し、神が彼らを正しからぬ思いに渡したもうて、こういうことになったと言おうとしているのは確かである。

 こうして、32節に至る。「彼らはこうした事を行う者どもが死に価するという神の定めを良く知りながら、自らそれを行なうばかりではなく、それを行なう者どもを是認さえしている」。これが最終的な纏めである。

 「彼ら」とは誰か。「神の定めを良く知っている」人たち。それではユダヤ人、また特に神の定めに良く通じている律法学者のことではないか、という解釈がある。2章の初めに書かれているのは明らかにユダヤ人への非難であるから、1章の最後の句がそれと繋がっていると見ることは出来なくない。しかし、前の方から読んで来て、ここでいう「彼ら」は前の方で取り上げられた人たち、主として異邦人、そのうちでも権威と富と文化を持っている人を指すと見た方が良い。ローマ帝国が文化や富の隆盛を誇っていた時代に、神の民はこういうふうに見ていたのである。

 「神の定めを彼らは良く知っていた」のか。一般論を言うならば、当時のローマ帝国では法律が良く整備され、犯罪は裁判に掛けられ、秩序があった。神を敬うこと、宗教が重んじられていた。「神の定め」ということも結構論じられた。ただし、昔から旧約聖書が教えていた神の定めとは比較にならない雑駁な着想である。したがって、神の真実な言葉の前には引き下がるほかないものであるが、或る程度真理を指している。しかし厳密に検討されるならば、崩壊するほかないという両面がある。この両面を捉えて、キリスト教の伝道が積極的に推進されると、他宗教は敗退し、キリスト教が勝利するという事態を生むことになった。パウロがここで用いる論法は大いに功を奏した。

 パウロの論法そのものに立ち入って考えることにする。「罪を犯す者が死に価する」これが神の定めである、と人々は良く知っていたのか。「罪を犯す者は死ぬであろう」という定めは聖書にはハッキリ宣言されている。エデンの園の中央にある木の実を食べるな。食べれば死ぬであろう、と神は言われた。だが、神を知らない人たちがこの命令を知っていたわけではない。それでも、全ての人は死ぬのだ、と哲学者たちは言っていた。悪を犯した者が罰として死ぬということも多くの人が言った。それは真実だと思われていた。それが神の定めであるということも本当と思われた。

 しかし、結局「神の定め」という考え、仮説を人は無視した。無視出来たのだ。神の定めであるという確信があれば違反は出来ない。けれども、確信は恵みによって与えられるもので、彼らはその恵みを受けていない。神の定めであろうと考えられると言うだけだ。だから、別のことを考えて良いことになる。つまり神の言葉によって定められたことと、人間が考えて、その考えに人間が検証を加えて、尤もらしいと思ったこととは、一見似ているが、確かさという点で、全く違うのである。恵みによって信ずる確かさと、頭で考える尤もらしさは別である。福音の外では尤もらしさしかなく、それが結局崩れ去るのである。

 


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