2010.06.13.

ローマ書講解説教第13

――1:24-27
によって――

 

 ローマ書117節は「神の義は福音のうちに現われる」と最も大切な宣言をするが、その次18節以来、福音の外では「神の義」でなく、「神の怒り」しか示されないという議論を展開して来た。今や、24節以下では「神の怒り」として顕された人間本性の逆転、さらに言えば、抑えが効かなくなった欲情を破滅に突進させ、被造物を拝むという倒錯状況に至ったことを具体的に論じる。神の怒りについて学ぶ機会が我々の信仰生活では少ないが、この所続いて教えられる。

 言葉の一つ一つに立ち入った説明をつける必要は余りない文章だと思う。文章の進め方に留意すれば、意味はごく平易に心に届く。

ここでは「故に」という言葉が文章の中で繰り返される。理由があって結果が来るという論じ方が重ねられる。つまり、初めの禍いが次の禍いを呼び起こし、それがさらに次の禍いを呼び出し、禍いの規模が次々と大きくなって行くことが説かれている。

 最初の悪が最初の罰を引き起こすということなら、普通の人でも、考えさえすれば、承認出来よう。そして比較的考え深い人なら、一つの禍いに出会った時、その原因が自分のうちにあるのではないか、それは何であったのか、と考えて見る。結果から原因へと遡る反省をする。そこで、禍いなる結果を生まないために、原因を摘出したり、抑制したりする。――普通の人の考えではそれで終わる。ところが、ローマ書が描き出しているのは、それと違う図式である。我々は一般に言われている考えを無自覚に採り入れてはならないと気付かせられる。

 ここでは一つの悪が次のさらに大きい悪を呼び起こし、第二の悪がさらに大きい第三の悪を呼び起こす。さらにその次には、もっと大きい悪が生み出されると論じられる。これがローマ書のこの部分における論法である。それも悪自体が自動的に増殖するのでなく、神の怒りが介入しているからである。

 そこまで結果を見届けるべきなのに、見ていないではないか、次々罪が大きくなって行くことに無頓着なのではないか。と我々は注意を促されている。

 そもそも「神について知り得ることは初めから明らかである」という単純で自明なことが先ずあった。ところがそれを知ろうとせず、知らないでいることに気付こうともしない。それがどんなに大きい禍いを来たらせているかを見ようともしないうちに、罪はどんどん大きくなり、それを自覚する感覚が失われて、分からないままに罪は深まり、罪の刑罰も深まって行き、それがなお分からない。これはボタンの掛け間違いのたとえではない。一コマずつずれるのでなく、一段階ごとに飛躍的に破滅して行くのである。

 こうして落ちる所まで落ちたというのではない。1章の終わりまで辿ってもまだ終わらない。異邦人の罪を論じ尽くしてまだ下がある。イスラエルの罪まで行って、キリストの福音に転じるのである。

 この破局に至ったのは、人類の歴史が長年に亘って罪に罪を重ねて来た挙句の果ての近年の事と思ってはならない。確かに、21世紀の現今、歴史はもうどうしようもなく破綻したと人々は気付く。だからパウロが言うことに逆らい得ないと思う人が今増えている。しかし、パウロの主張は二千年後こうなるという予告ではない。彼の時代がこうだと言う。彼の時代、ローマ文明が、繁栄したけれども爛熟し、道徳の頽廃を生んでいたが、それを描写しようとしたというのではない。確かに、当時のローマ文明の頽廃がここに反映していると思うが、その時代の文明批評がなされたのではない。いつの時代にも当て嵌る時代への指摘がなされたのである。彼の時代がこうであるとは、だんだん悪くなってこうなったという論法ではない。ノアの時代はまだ良かったというようなことは言われていない。「福音」のない所では、初めからこうであったということを論じているのである。墜落し始めたなら歯止めが掛からない。簡単に言うと、神に立ち返ることは起こらない。それが福音なき世界である。

 以上のことを心に留めて読んで行くなら、パウロが118節以下で論じていることは詳しい説明がなくても、共鳴出来る。だが、やや詳しく学んでゆくことは無益ではない。

 24節、「故に神は彼らが心の欲情に駆られ、自分の体を互いに辱めて、汚すに任せられた」と言われた。ここまでで読んだことは、それで十分悲劇的な結果であった。しかしまだ結末ではなく、その悲劇の結果がさらに深刻な悲劇となる。前の段落では神との関係が破綻したため、被造物として創造者を礼拝する当然の基本秩序が逆転したことを明らかにした。これは「偶像礼拝」のことであるが、これが人間自身を貶めて、人間以下の被造物を拝むことによって自らの尊厳を放棄した悲惨さを述べたのである。だが、その悲惨さでもう十分と言うのではない。これを原因として、さらに大いなる悲惨に落ちて行く。その刑罰は、悪を矯正させるような苦痛を味わわせる打撃を外から加えるのではなく、彼ら自身が自らをなすに任せるという処置である。

 「任せる」という言葉がここから以後3回繰り返される。それは一見、彼らが好きなことをして良いとされる神の寛容な処置、あるいは人間尊重の処置に見えるかも知れない。彼ら自身としては自由になったと思っている。だが、寛大に扱われたのではなく、心の欲情のなすがままに渡されたということである。自分で自分を歯止めのない破滅に陥らせるようにされた刑罰である。

 24節で語られていることは、言い直せばこういうことである。人間には理性が与えられていて、欲情に対して自ら規律を課するという判断が出来るようになっている。ところが、この徳を自ら破棄して、恣に振る舞うようにされると、自分の格が上がり自由に振る舞える領域が広くなったと得意がることではない。なすに任せるとは放棄である。

 流石にこの点については、恣な振る舞いが、結局、わが身の破滅であると気付いて、自制心こそが人間の品位を保つ手段だと気付く人はいる。しかし、分かっていても、自制することが出来ない人が多い。自制せざるを得ない条件を強いられて、やっと留まるに過ぎない。例えば、貧困の中で欲望を抑えるという条件を課せられ、辛うじて品位を保つということがある。富が自由に利用出来る人は富を欲望のために費やして自滅する。

 その欲望の代表的なものは、肉の欲望である。つまり性欲である。この肉欲の欲しいままな追求が、肉体の健康を弱らせ、感性を鈍くし、寿命を短くし、精神の高貴さを失わせる。今日学ぶ段落ではおもにこの問題が扱われる。

 25節では「彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕えたのである」と言う。「真理」が全く逆の「虚偽」になったというが、それは真理であったものが、だんだん劣化して、ついに虚偽になる、あるいは真理が少しずつ偽りを交えられて虚偽になる、という変質をいうのではない。神の真理は依然として真理そのものなのだが、彼らが真理を扱う扱いは、真理を逆さまに立てて、逆向きのもの、虚偽としてしまった、ということである。あるいは、彼らの向かっている方向が逆になって、あらぬ方、神に向かうのとまるで逆の方向を向いていると言っても良い。神がいなくなったのではなく、神は在ますのであるが、彼らはそこに向いていないで、神が在まさないとしか見えない方に向いている。

 これは20節に「神の見えない性質」と言われていたものの彼らの取り扱いに良く表れている。神は依然として見えないお方であられる。しかし、「彼らはこれを朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せた」。見えない神を見える偶像にすり替えるすり替えが起こって神ならぬものを神だと言うのである。

 22節の「彼らは自ら知者と称しながら愚かになり」と言われたのも同じである。逆立ち、逆転をたとえに引くのが適切である。逆さにしか見えないから、価値判断が転倒する。自ら賢いと思うだけ、それだけ愚かになっているのである。

 ついでに論じると、神の栄光もそのままではなく全く逆のものとして見られ、だから栄光でないものが栄光だと思われ、栄光は見えないとされる。

 22節で語られた「偶像礼拝」が、25節でもう一度語られ、偶像礼拝と「肉欲」の類似性が指摘されている。これはパウロのみでなく、聖書では一般性ある主張である。コロサイ書35節に「だから、地上の肢体、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」と言っている。

 25節の終わり、議論としてはまだ続いているのに、一旦閉じて「創造者こそ永遠にほむべき者である。アアメン」という讃美が挿入される。文章として変則であることは言うまでもない。しかし、パウロとしては、神から離れた人間の忌まわしさに触れて、堪えられなくなり、議論の途中だけれど、気分を一新しないではおられないので、神に逃れて、神讃美によって息を吹き返すことをしないではおられなかったのである。

 この点に関しても説明は要らない。誰もがここで共感する。その共感の正当なことを論証する必要はない。それでも、ここで一息入れなければたまらないと感じる現実があるということは心得て置きたい。

 26節に入る。ここでまた「故に」という論の起こし方と「任せられた」という帰結の論法が用いられる。「それ故、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた」。前のことから続いて、その理由によってこの帰結になると言うのである。先には24節で「心の欲情に駆られ、自分の体を互いに辱めて、汚すままに任せられた」と言われたのと同様、基本的には同一方向であるが、さらに進んで28節では「恥ずべき情欲に任せられた」と言われるのである。「心の欲情」でなく「恥ずべき情欲」と言われる。

 「恥ずべき情欲」とは異性の間の自然的肉欲、すなわち種族保存を目的とする本能から一段と悪化したもの、肉欲それ自体を目的とする情欲に転落し、そこからさらに転落したものとして「同性愛」に至ったことを言う。このことはその続きの文章に示されている。「彼らの中の女はその自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように、女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを身に受けたのである」。

 この点に関しては最近の学説、あるいは世論の論調に変化が起き、「同性愛」についての従来の考え方は誤解と偏見に満ちていたから、訂正すべきではないか、との意見が出て来ている。従来「同性愛」と呼ばれて「一段といやらしいもの」とされ、非難され、偏見や処罰に遭っていたものは「性同一障碍」という「障碍」であり、「病気」であると学問的には論じられるように変わって来た。

 私にはこの問題について論じるだけの学識がないから、慎みをもって論じるに留まるほかないが、新しい学説には受け入れられる点が多い。その逆の議論は聞こえて来ないが、反対論が成り立たないから反対しないのか。別の要因が働いているのか。そこは良く分からない。だが、少なくとも言えることは、その人は、とにもかくにも私の隣人であることは確かである。だから、障碍を持つ隣人として接しなければならないということは確かである。他の人が非難しているからと言って、私も一緒になって非難することはない。

 しかし、パウロがここで論じているのは、そういう人の「性的」な「情欲」であって、病気だから潔白だと言えることではない。それは自然的な、あるいは当たり前の情欲でないけれども「情欲」であることには変わりはない。ここに書かれていることの実態に接したことがないし、従来巷で伝えられていたものが真実でなかったという説明は聞いていないので、「恥ずべきこと」と呼ばれている実情を正確に掴んでいないので、本当とも嘘とも言えない。だから、「書かれている通りならば」という制限をつけなければならないであろう。

 とにかく、神に関し、神との関係に関して、逆転し・倒錯した見方がここで問題にされている。それについて論じるだけで胸が苦しくなるほどであるが、聖なるものと忌まわしくも汚らわしいものとの逆転を平気で行う。それは聖なるものを求めることを失ったことであって、この喪失は現代においては甚だしくなった。レビ記1145節は言う「私はあなた方の神となるため、あなた方をエジプトの国から導き上った主である。私は聖であるから、あなた方は聖なる者とならなければならない」。

 


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