2010.04.11.
ローマ書講解説教第11回
――1:18によって――
「神の怒りは、不義をもって真理を阻もうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」。今日はこの節から主の御旨を聞き取ろう。 「神の義」について17節で学んだ後、18節で突きつけられるのは、「神の怒り」という、聞くだけでも恐ろしい言葉である。これまで学んで来た「福音」、「喜ばしき報せ」とは余りにも懸け離れているではないか。……いや、そうではない。神の義と一見真反対であるかのようだが、神の義が福音において現れるということを、さらに確かに理解させる教えとして続くのである。簡単に言うならば、福音以外のところに眼を向ける限り、見えて来るのは「神の怒り」しかないではないか、というのが主旨である。このことは、もう分かっている人もあろうが、そうでない人も、少しばかりの解説があれば十分納得出来るであろう。 この18節の初めに「なぜなら」という意味の小さい単語が置かれている。それを無視して文章を訳してしまう例が多いが、「なぜなら」という意味を生かすならば、前の節で「神の義は福音のうちに現れる」と宣言された理由を述べて「なぜなら、福音から聞き取ることをしないならば、天から現れるのは、神の怒りしかないではないか」となる。そういう読み方をした方が心に沁みるのではないか。 さらに、「神の義」と「神の怒り」とは、全く反対の意味でありながら、或る点では似ているということに気付かせられる。すなわち、「神の義」が不義なる人間に対しては「神の怒り」として現われ出るのが当然ではないかと考えられるのである。 「神の義」という言葉は多くの人にとって殆ど馴染みがない。聖書においてこの言葉は、多くの箇所で用いられるが、特にこのローマ書において際立ってハッキリしており、この後益々明らかになって行くのだが、要するに「救いの原理」である。そういう意味の説明は聞いたことのないという人が多いであろう。彼らは、字は読めても、聖書の言う「義」の意味は殆ど掴めない。そこで「神の義」と「神の怒り」を似たものと感じてしまうようである。 「神の怒り」ということなら、比較的容易に理解できるかというと、そうではない。また、この「神の怒り」という語をそのまま言うのでなく、意味が似ていると思われている他の語を無造作に使う場合が多い。だから、神の呪いとか、神の恐ろしさとか、神の刑罰とか、神の報復とかを、同じようなものと看做して使っている。とにかく、「神の怒り」は多くの人に衝撃的な言葉であって、或る程度は感銘を受けているつもりの人は少なくない。それで、「義」である神は、罪ある者に対して「怒り」を発したもうと考えられるから、神の義と神の怒りは同じ様なものと見てしまう。そのような人に対して、神は確かに怒っておられるのであるから、神を「怒りの神」としか感じない人にとっては、まことにその通りである。しかし、先に言ったように、神の義と神の怒りは相反するのである。 少し見方を変えて考えて見よう。人生には晴れた日があり、陰鬱な日がある。晴れた日には、幸福感に浸って、その日には「お天道様の有り難さ」というような言葉を使って、神の恵みをフト思う機会もあろう。しかし、晴れていない陰鬱な日が多く、不快さ苛酷さは人の思いを、悲哀、苦痛、死、滅び、不安、恐怖に引き入れる。その時に思い当たるのは、神の恵みではなく「神の怒り」、「神の苛酷さ」、「神の残忍さ」、「神の刑罰」あるいはそれに類する言葉で言い表される不幸な思いである。そこで、人々は神の報復を避けようとして、どうすれば神が怒りを和らげて下さるかを探求する。こういうところから宗教が発生したのだと考えられているようである。 今、「宗教」についての議論を始めようとしているのではない。宗教について考えたり・議論したりすることを、愚かで虚しい悪だと決め付ける必要はない。ただ、宗教というものは、かなり漠然としたものであって、突き詰めようとするとはぐらかされる。それに対し、我々にはすでに「福音」という確かなものが与えられているのであるから、福音を聞いたことのない人のように、福音の外側で、人間の不安とか苦悩というものを手がかりに宗教を考え、議論に時間を費やすことは避けて良いと思う。 それはそれとして、我々が現に「福音」を聞かせられているという事実の確認を怠っているとすれば、「神の怒り」を感じることが忽ちに起こるであろう。だから、「神の怒り」を自分にとっては無縁なこと、余所事であるかのように扱ってはならない。神の怒りに真剣に向き合うことによって、自分を取り戻す場合がないとは言えない。 ただし、神の怒りに常時向き合わねばならないということではない。むしろ、神の怒りを思うことの意味を重要視しない方が良いのである。すなわち、神の御顔が「怒り」から「和解」に転換したことが「福音」としてすでに宣べ伝えられていること、つまり、罪の赦しの告知をシッカリ把握していなければならない。ここにこそ キリスト教信仰の生命中枢がある。 それでも、神の怒りが遠い彼方に去ったのではなく、キリストの福音の約束が確認されていなければ、神の慈しみは忽ちにして消えて、神の怒りに転じるのである。そのことが我々には分かっていなければならない。 そのことが分かっていなければならないとは、我々が頭をつかって、そういうことをいつも一生懸命に考えていなければ悟れないというのとは違う。我々が精進するのでなく、神が御自身の民を選び、召し出し、御言葉によって教えて、終わりの完成に至らせて下さる、その行程のなかで、命の糧としての御言葉によって養われる間に、修練が重ねられているから、我々はその計画に身を委ねて歩んでおれば、目はどんどん澄んで行く。 さて「神の怒りは、不義をもって真理を阻もうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」。これは、福音が現れ出て、それを聞いている教会の現状があって、それの裏返しの実情として、神の怒りの現れがあるのだと言えなくないのであるが、要するにこういう状態なのだ、と神の怒りを事もなげに言ってはいけない。むしろ非常に深刻な事態であることを弁えたい。だから、18節で言われる一語一語をキチンと聞いて置こう。 「神の怒りは天から啓示される」。漠然と不安を感じているというようなものではない。「啓示される」とは覆われていたものが取り除けられてハッキリ示されたということである。何となく分かって来た、ボツボツ見えて来た、というような分かり方ではない。それは17節で「神の義が福音のうちに啓示された」というのと対になっていることで、福音のうちに現われた神の義はありありと示されるのである。 このことを、「神の義」と「神の怒り」とが、対立原理として拮抗していると取ってはいけない。福音において啓示される神の義は、勝利して、救いを打ち立てる。その勝利を把握するのが信仰である。信仰には対立とか格闘という面があり、その面があるから事柄が明確にされるのであるが、対立原理との終わりなき闘争というような捉え方をしてはならない。――それでも、勝ちっぱなしのような気分の能天気な捉え方をしては危険である。 神の怒りが「天から」啓示されるとは、この怒りについての認識が漠としたものではないことを示すとともに、それは天から、上から示される。内に重苦しいものが積み重なっていると感じる様なものでなく、上から「裁き」として落ちて来る。これは刑罰として顕されることもあり、直ちに刑罰になるのでなくても、悪しきことであるとの判決が降るのである。 それは、「あらゆる不信心と不義とに対して」落ち掛かって来る審判であると言われる。神の怒りが何に向けての怒りであるか分からないで、神がただ無闇に怒って、当たり散らしておられるという不気味な不安を生み出す怒りではなく、「人間の不信心と不義」という局所に向けられた怒りである。そのことは、この後の節の文章で、具体的な説明があるから十分分かるであろう。 「不信心」と「不義」という言葉は、どちらも包括的・総論的な意味を持っているが、聖書でこれらの言葉の使われる例をみれば、罪の中でも悪性のもの、具体的に言うならば十誡の第一の板で禁じられた罪、すなわち、人に対する悪というよりは神に対する悪、また不注意のうちに犯してしまう罪よりは、意識して犯す罪と理解されて良いであろう。それがあらゆる種類の不信心と不義に亘っていることを示している。「不信心」とは神を恐れぬことである。神のことを或る程度教えられ、また知っていて、しかも恐れないユダヤ教徒やキリスト教徒の場合があり、神について何も教えられていないままに神を恐れない異邦人の場合もあるが、どちらも神の怒りに曝される。「不義と」は行為としても、内なる態度においても、正しくないことである。 不信心と不義は神の「真理」を「阻もうとしている」。だから、神の怒りを引き起こすのである。では、「真理を阻む」とはどういうことか。「真理」とは随分難しい問題に立ち入ったことになるのではないか、と心配する向きもあろう。いや、そうではない。これについては直ぐ次に解説が付いている。「何故なら、神について知り得る事柄は彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造この方、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。うんぬん」。こうして、この下りは章の終わりまで、少なくとも23節まで続いているのである。だから、今日だけでなく、当分続けて教えられるのは緻密な理論というよりは、分かり易い説明である。 だから、今回は立ち入って詳しく説明しなくても良いから、簡単に論じさせてもらう。真理について難しく考えなければならないと思っている人はいる。そういう考え方が無意味なものだと言う必要はないかも知れない。キチンと誠実に考えることをしないで、真理ということばを無闇に用いて、人を恐れさせたり、混乱させたりする悪巧みがあるからであるから、真理と言うからには誠実にものを考えていなければならない。 それでも、「真理」という言葉が特に厳密に使われなければならないとは言わなくて良い。真理そのものは分かり易く我々の眼の前に差し出されている。例えば、神の「見えない」という性質が分かり易く示されている。だから、人々は神が見えないお方で、しかも存在することの確かな方であるから、眼に見えない神を、見える姿に型どってはならないということを弁えることは出来た筈である。 ところが、実際は、イスラエルを例外としてどの国民も自分たちの神を目に見える形で表そうと試みたのである。多くの民族がした試みは、神を人間や人間以下のものの形の偶像を立てて拝むことであった。生きている人間が命なき偶像を拝むのはおかしいではないか、と言われると反論できなくなる。 神が見えないお方であるとは、神が霊であるということであり、霊であるから、礼拝する者も霊と真実をもってしなければならない、と主イエスがサマリヤの女に教えたもうた。であるのに、「霊と真実をもって」するというのと真っ向から逆らう礼拝を人々は作り上げてしまった。これはキリスト教も例外ではないかも知れない。そのことは、我々が霊と真実をもって礼拝しているかと自己吟味すれば明らかである。 このようにして、本来明らかであった神の真理が、人間の不義によって阻まれてしまい、明らかでなくなったのである。神の真理が、人間の不義によって覆われてしまうなどということはあり得ないではないか、と言う人はあろう。それはその通りであって、我々は神に逆らうことは出来ない。しかし、神の真理を見えなくすることは至る所で行われている。最後には人間の真理に逆らう企ては破綻するのであるが、人は真理に目を閉ざして見えないことにしてしまっている。 神が差し出しておられる、ありありとした真理が、阻まれるという事実は起こる。しかし、神は引き下がっておられない。神は怒りを現わしたもう。その模様は続きの所で讀む通りである。差し当たって今、福音の外で神の怒りの現われのもとにある人間を見たならば、その目を転じて、福音を直視し、そこに神の義がありありと示されているのを見よう。 |