2010.03.14.

ローマ書講解説教第10

――1:17
によって――

 

 「神の義は福音のうちに顕れる」。……これはローマ書の冒頭部分における、いやローマ書全体に亙っての、最も感銘深い聖句ではないかと思う。

何十年にも亙って聞き慣れた人にはこれが心に刻みつけられていて、繰り返し噛み締めるが、聞き慣れていない人も緊張して聞かずにおられない響きがある。それでも、慣れていないから、緊張して聞くが、心には沁み渡らないかも知れない。

 「神の義」という言葉は、聖書の中では頻繁に聞かれ、信仰生活を建て上げて行く、いわば要石であるが、それ以外の場所では滅多に聞くことがないので、そういう人にとっては、耳に入っても、心に届かない。だから、その人たちは「神」という文字と、「義」という文字との、その人なりに捉えている理解を重ね合わせて考えて見る、という程度の接近しか出来ないかも知れない。神の義という文字の意味はそれで一応は分かったという気になる。けれども「神の義」という言葉そのものの衝撃的な感銘はない。

 「神の義」という言葉の重みを感じていない人は、「神の義」という神学用語を使う以前に先ず神に向き合うことをし、その次に、神は義であられることを心に刻むのが良い。したがって、「神の義は福音のうちに顕れる」と言う言い方よりは、むしろ「義であられる神が私に顕れたもうのは、福音においてである」と言い直して、先ず心に届かせることから始めた方が良いであろう。

 「義であられる神」と言っても、そのような言い方を聞いたことのない人には見当がつかないし、方向が定まらないであろう。それでも、神について幾らかのことを考えた人なら、「義」であられる神こそが本当の神であろうということは或る程度分かるはずである。まともに神と向き合おうとするならば、その神は「義」の、或いは「正義」の神でなければ、存在している意味がないことも分かるはずである。つまり、何となく感じられる程度の、ふわふわ漂っている神を空想しても、風で飛び散ってしまう。神とは、そのお方の前に出るならば、自分の良心が裸にされ、隠された罪も露わにされずにすまないお方である。そういう神の前に立ってこそ、立つ意味がある。

 そのような神が私に顕れたもうところはどこか。どこにいても、どちらを向いていても、何かを手掛かりにして、神のことが分かり始めるのか。そうではない。人は時には神を懐かしく感じて神に会いたいという気を起こすかも知れない。しかし、求めさえすれば神に会えるわけではない。求めて、探し回った揚句、飛んでもないものを掴まされて、これが神だと信じてしまうことがよくある。

 神は目に見えないお方である。こちらからは見ることが出来ないが、こちらはスッカリ見られている、そういう相手である。形のある物に置き換えることは出来ない。そのことは広く知られていると思う。目に見える何物かを神だと言う人があれば、たちまち嘘だと見破られる。ただ、神は目に見えないお方であるけれども、御自身を顕して下さる。したがって、神が御自身を顕して下さる場所に立てば、神と出会えるのである。その場はどこか。それは「福音」である。福音とは、ローマ書が初めの所で明かにしていたように、イエス・キリストに関するもの、キリストを伝えるメッセージである。

 福音とは「宣べ伝えられる」ものだということも我々は教えられて来た。すなわち、神から遣わされた働き人によって宣べ伝えられるおとずれである。それを聞こうとする人は、遣わされた人のもとに集まらなければならない。

 福音は「聖書」という書物として書かれているが、初めに書物が出来たのではない。初めにあったのは言葉である。言葉を宣べ伝えるということが先にあって、それが後で書き記されたのである。後にはこの書き記されたものが基準であるように考えられることになったが、書かれたものこそが本来の姿だったと見ては錯覚である。福音は初めも今も後も宣べ伝えられることである。書物に準拠するのは、教えが本来の正しい道からそれることのないためである。

 さて「神の義」は「福音」が宣べ伝えられるところで明かになる。そのような形で明かになるようにと神は定めたもうた。だから、神の義を知ろうとして書物を調べる人がいても、そういう調べ方は、錯覚だと非難するつもりはないが、「福音を宣べ伝えよ」と命じておられる主の御意向と関係なしに「神の義」を研究することになってはいけないであろう。

 「宣べ伝えられる」とは福音を顕し、受け入れさせる方式として、かけがえもないものであるが、福音の内容ではない。宣べ伝えられる内容は、「喜ばしきおとずれの言葉」である。それは「イエス・キリストを伝える」言葉であるが、イエス・キリストを伝えるとは、イエス・キリストについて説明しているという意味ではない。その言葉が語られ、語られたことが受け入れられて、こうしてイエス・キリストを信じることになり、キリストの命によって生きるという現実が起こるということである。そうでなければ、どうして神の義の顕れがあると言えるであろうか。

 神の義が顕れるというのは、隠されていたものが明かにされるということ、啓示されるということであるが、明かにされたものを見れば分かって来るという程度の理解では神の義の理解には足りない。理解させ、認識させることは必要であるが、説明図を見て分かったという程度の理解ではない。神の義とはそのような理解で捉えるものではない。「福音は全て信じる者に、救いを得させる神の力である」と先の16節に書かれていた。「救い」を得させられるところまで進まねばならない。「救いを得させる」とは、分からなかったところを、見て納得させるということとは遥かに違う。

 簡単な喩えを引いて言うならば、日が照ると、日を浴びて心も体も健やかになる。それと同じように福音が宣べ伝えられれば、それで祝福があまねく聞く人に及ぶかというと、そうではない。水を撒けば地は潤うが、そのように福音を全地に行き渡らせば全ての人が救われるかというと、そうではない。宣べ伝えることがなければならないのであるが、それだけでは救いは立ち上がって来ない。「聞いて信ずる」というもう一つのことが伴わなければならない。神が太陽を与えたもう恵みは、良き者にも悪しき者にも無差別に及ぶ。しかし、神が義を宣言したもう恵みは、そのこと自体絶大な恵みであるが、信ずるという、もう一つのことを起こさせる恵みがなければ、実を結ぶことはない。

 福音が宣べ伝えられることと並んで、それを信ずることの重要さをシッカリ捉えたい。宣べ伝えられることがあっても、それに対応して「信ずる」ということがなければならないのは当然のこととして良く分かると言う人は多いであろう。しかし、そう簡単に分からない方が健全ではないか。我々は人から語り掛けられた場合、それに応答する。これは人間としての道理である。語り掛けられても反応がないとすれば異常である。ところが、この関係を神と人との関係に当て嵌めて、神の言葉が宣べ伝えられるのに対応して人間の信仰が立つのが当然だと見るのは、それで良いと言える場合はあるが、人と人との平等な対応関係と、神と人との関係とを同一に扱って良いのかと考えなければならない事情がある。神を相対的なものと考えてはいけないではないか。

 難しい理屈を扱っているのではない。今は平易な扱いをすべきところである。信仰を神に対する対等の関係において捉え、神のこれほどの真実に対して、人間の側でも精一杯の真実をもって応答するのが当然ではないかという議論は成り立つと思うが、今は神に対する人間の義務という面から考えないで、信仰が「恵み」として与えられるという面から捉えるに留めて置いて良い。

 この事情をもう少し踏み込んで考察するためには、この17節に書かれている言葉を、部分的にでなく、全部聞かなければならない。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」。

 先ず「信仰に始まり信仰に至らせる」という部分を見なければならない。文語訳聖書では「信仰よりいでて信仰に進ましむ」とあった。「進ませる」のは神の義であるのは分かるが、進ませられるのが何かが良く分からない。信仰が進ませられるように読んでしまう人もいた。この部分は新共同訳ではかなり違った取り方をしている。「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と訳している。その訳でよいのか。

 この部分、原文では「信仰から信仰へ」という言葉である。「信仰から信仰へ」という言葉が何に懸っているかが明確でない。そのために日本語訳では「進む」という言葉を付け加えた。口語訳では「神の義は……信仰より信仰へ」と言う線を中心に据えているように思われる。新共同訳では神の義が実現することを言いたいらしく思われる。

 言葉の順序を見ると、「神の義は啓示される。信仰から、信仰へ」である。「神の義が、信仰から啓示され、信仰へと啓示される」という読み方をすべきことが先ず示されていると取らなければならない。

 この「信仰から」の信仰と、「信仰へ」の信仰が同じなのか、別なのか。別ならどういう信仰からどういう信仰までを言うのか、このことで多くの議論がなされた。

 何よりも神の義が、福音を通じて「信仰に」啓示されるという基本線を単純に把握しなければ、話は始まらない。「信仰」抜きで、「神の義」や「福音」や「啓示」について論じるということが実際にあるが、それは虚しい議論である。

 神も、神の義も、福音も、啓示も、客観的に確かな真実であるから、信仰のあるなしはどちらでも良いではないか、という議論がある。それを聞くと、我々は「それはそうだ」と思い込み易い。しかし、信仰抜きで議論を始めると、忽ちのうちに虚しい議論に陥ってしまうのが常である。つまり、我々の内面には真実なことを論じていても、それを虚しい物にしてしまう虚妄、いやむしろ悪性の「罪」があるから、その罪からの救いに関わることを大真面目に議論していても、空しい議論になってしまうのである。そうならないためには、信仰をもって考えれば良い。

 「信仰から信仰へ」と福音を通して神の義が啓示されるのは、どのようにしてかということについて、多くの説がある。或る人は神の義が旧約的信仰から初めは示されたが、そこから新約的信仰に進ませると説く。面白い解釈であるが、それによってどれだけの深みに達し得るかは疑問である。信仰から信仰へと「進む」と訳した人は信仰の前進や成長の意味をここに読み取りたく願った

 単純な線だけを捉えておけば良いと思う。すなわち、神の義が福音において顕れるのはこれを宣べ伝える器が信仰の人でなければならない。伝える人は信仰をもって語ってこそ有効に伝達される。福音そのものが間違いなく語られたなら、語る人は信仰がなくても届く、と考えられるかも知れないが、それは間違いであるということには先に触れた。言うならば、神は御自身の義を福音によって啓示する時、この啓示を受け止める道として信仰を用意したもう。

 受け止める側の信仰について、それだけ語られれば十分だというわけではないが、受ける側の信仰についてだけでなく、宣べ伝える側の信仰についても語られていることを捉えて置かねばならない。神の義が福音によって啓示される。それは先ず信仰からであり、次に信仰へである。つまり、最も単純な理解として、「信仰から」啓示の言葉が発せられ、「信仰に」まで届いて受け入れられる。

 平たく言うならば説教者が信仰から語る御言葉が信仰をもって聞く人の胸に収まるのである。信仰がないのに、キリスト教についての理解だけに長けていて、信仰の言葉を、言葉としては一語も間違わずに語れば、信仰の内容は伝わるのではないか、と考える考えがある。実際問題として信仰を伝えていた伝道者が信仰の破船に至り、信者が取り残されるという場合がかなりある。こういう深刻な経験を重ねたために、教会は、福音宣教を行う器がだめでも、伝えられた真理そのものは変わらないのだということを個々のケースとしては認めるようになっている。我々もそれを認めるほかない。

 しかし、信仰のないところから神の義が明かにされても有効に伝達される、ということが大っぴらに認められたなら、教会の務めの制度の空洞化に道を開くことになる。やはり、本来あってはならないことである。ただ、そういうことが起こってしまった時には、教会がこの空洞を修復することは出来る。

 信仰から、信仰へ、それは救いの伝達でもあるが、義とされることは生きるということによって総括される。これが旧約の預言によって約束されていたことであるから福音によって成就されなければならない。このことはハバクク書によって預言されていたことであるから、キリストの福音が来たからには成就される。それだから義とされた人は信仰によって生きるのである。ハバクク書の引用についても解説は省略する。「義人が信仰によって生きる」ということの典拠を明白にするのでなく、このことが預言の成就としての確実さを持っているということこそ重要なのである。


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