2009.09.20.

ローマ書講解説教第1

――1:1
によって――

 

 パウロはまだ会ったことのないローマのキリスト者の群れに手紙を書いた。数人の親しい人はいるが、大部分顔を見ていない群れに、心の籠った呼び掛けが出来るのか、と問題を感じる人があろう。コリントや、ピリピや、テサロニケや、エペソに宛てて手紙を書くというなら、もっともだと思われる。しかし、ローマに宛てての場合は違うのではないか。まだ会ったことのない人たちを、目の前に見ているのと同じだけ確かに、呼び掛けているのである。

 使徒が労苦して産み育てて来た教会に手紙を書いたのを讀んで、心の通じ合うものを感じると言う人は多い。この繋がりがあるから、書かれた言葉が良く分かるのだと思われている。それと比べて、顔を見たこともない人々への呼び掛けで、意図が良く通じるのか。讀む我々にとっても、顔の見えない人相手の議論として考えられているかも知れない。

 他方、相手の顔が見えていないから、言いそびれることなく、顔を気にしないで、自由に、憚るところなく語れたのだと高く評価する人がいるかも知れない。

 今述べた意見のそれぞれに、もっともな点があるとしても、それを論じることは止めよう。顔が見えるか見えないかは、ここでは意味をなさない。そのような言葉がここで語られる。そして、ここでは語っているパウロの顔を思い浮かべる必要はなく、ひたすらその言葉を聞き取るのである。

 また別の観点から言えば、パウロはこの書の16章で何人もの人の名を呼び上げている。親しい人、名は知っているが、会ったことのない人、その人たちに等しく呼び掛けるのである。そういう人たちが聞いてくれて、言葉が通じると信じて語っているのである。

 パウロが実際にローマに入った時、我々が使徒行伝の終わりで見たように、ローマにいるキリスト者の多くが、一日路を歩いて出迎えた。一日早く会いたかった。彼らは先年パウロがコリントから送った手紙を読み聞かせられていた。何度も聞いて味わった。

 そこから飛躍することになるが、我々がこれから学んで行くこの手紙は、パウロを見たこともない我々にとって、無関係なところから響いて来る無関係な議論であろうか。そうではない。現実性をもって語り掛けられる言葉であり、そのように我々には届くのである。

 したがって「キリスト・イエスの僕パウロ」と自分の名前を先ず掲げて呼び掛けを始めているのに応じて、こちらも空を打つ議論を聞くのでなく、謂わば私の心に命中する言葉が発せられているように受け取りたい。

 本文に入るが、書いた人の名前を先ず掲げる手紙の書式にしたがったものであって、「パウロが、ローマにいるあなた方に書き送る」と言う。これはパウロという名前を何よりも強調しているものではない。なお、これはパウロが書いたことになっていて、異論はないが、1622節には(この手紙を書いた私テルテオ)という書き込みがあるから、パウロの肉筆でなく、口述をテルテオが筆記したことは明らかである。

 パウロについては、使徒行伝を讀んだ人なら、以前サウロと呼ばれていたことを知っている。ある日以来、それは使徒行伝で言うならば、13章の途中であるが、クプロのパポスで地方総督に会って、そこから船出してパンフリヤに渡った時、その時以来サウロという名は使わなくなっている。

 何か重大な変化が彼の身辺に、あるいは内面に起こったのではないかと多くの人は感じている。我々もそれを感じるのであるが、どういう事件があったかの詮索は差し控えよう。名前の変更は聖書では珍しいことではない。シモンがペテロに変わり、ヤコブがイスラエルに変わる。このようなはむしろ大事な出来事だ。パウロもそれを語るべきではなかったか。……しかし、本人が黙っているのだから、我々も触れないで置こう。

 劇的な事件があって名が新しく与えられたのかも知れないが、前から持っていた名を正式の名として用い出しただけかも知れない。すなわち、ギリシャ語世界の中でユダヤ人として育った彼は、子供の時からユダヤ名サウロとギリシャ名パウロを持っていて、エルサレムではユダヤ名を使ったが、それをギリシャ式に変えたのである。異邦人の使徒という意識が打ち出されたと理解するのが適切かも知れない。

 手紙を書いた責任は明らかにされるが、それは名を残し、名文章を残すためではない。パウロという名を印象づけようというのではない。ただ、「キリスト・イエスの僕」という点がここで十分注目されなければならない。

 僕とは「奴隷」である。自分の主張も個性も抑制する。ギリシャ語で手紙を書く人の間で、自分を奴隷と卑下して呼ぶ例はなかったと言われている。確かめたわけではないが、プライドある人の間では自己卑下が過ぎて、不快感を与える。だが、ユダヤ人の間では自らを神の僕という呼び方は普通に用いられていた。

 誰の僕であるかが鍵になる。自分を顕すのでなく、主の御意志を明らかにすることが存在意義になる。「僕の間にも序列がある」と思う人がいるが、この考えには危険が潜んでいる。確かに「僕」というのは譬えを借りたものである。主の僕は多数いて、そのなかに等級がなければ秩序が成り立たないと考えられる。そのため、僕の中の秀でた者が上に立つことになり勝ちである。こうして僕の中の首が他の僕の上に君臨することになる。主に対してはあくまで僕であるが、主に対してという場合を除けば、他の全ての者の場合、自分が人の上に立ちたがる傾向がある。

 そのために、僕の下に僕、そのまた下に僕、という支配構造が教会の中にも出来てしまった。カトリックの制度はまさにそれである。いや、カトリックだけでなく、我々の教会の中にも上下の構造が出来やすい。それでいて僕であるという原理に何ら違反していないつもりでいる安心感がある。それで良いのか。

 この考えが正しくないことを真剣に確認しなければならない。宮廷では序列がある。営利事業でも軍隊でも序列がある。それを基準に秩序が考えられ易いが、教会に適用するなら間違いである。他の社会秩序のことは別として、我々は今「キリストの僕」ということについて学んでいるのである。

 「主よ」という敬称が日常的に広く使われているが、誰もが本来の主であるわけではない。「主」という言葉は本来「唯一の主」なるヤーヴェについて言われた。「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と宣言される。他の誰かを本当の主と思ってはならない。勿論、自分が主として立てられねばならないと思うなら、それは錯覚である。

 もう一つ思い起こさねばならないのはマタイ伝2025節以下の主イエスの教えである。「あなた方の知っている通り、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちはその民の上に権力を振るっている。あなた方の間ではそうであってはならない。かえって、あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間で首になりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして自分の命を与えるためであるのと丁度同じである」。

 そのお方の僕であると言う時、「僕であるが或る意味では偉いのだ」という考えは出て来る余地がない。彼が唯一の主であって、他は皆僕である。そのお方は、通例イエス・キリストと呼ばれるが、ここでは「キリスト・イエス」である。その呼び方は珍しいものではないが、このお方が「キリスト」であられるという意味が強く響く。

 そのお方は「ナザレのイエス」と人からは呼ばれた。イエスという名の人は他にもいるから、ナザレのイエスと呼ぶことは必要であった。だが、彼を信じる者たちは、彼こそが約束されたメシヤであるとの確認の意味を籠めて「キリストなるイエス」と呼ぶ。これは他の人と区別する呼び名ではなく、「この方を信じる」という告白を籠めた呼び名である。同時にこの呼び名は自分が誰に属しているかの表明である。

 その次に「召されたる使徒」という言葉が続き、その次に「神の福音のために選び分かたれたる者」という言葉がくるが、これらは一息に唱えられねばならない。だから「神の福音のために召されたる使徒」という繋がりで理解するのが適当である。

 「召された」という言葉は人々からそう「呼ばれる」という意味に取る向きがあるかも知れないが、神から、主から、「お召しを受けた」という意味で旧約の人々、特に預言者の書によく使われる。全ての信仰者は召されて信仰者となったのであって、「召された」ということが信仰者としての意識の第一歩である。すなわち、選び分かたれていたことは時間的順序としては先立つのであるが、選ばれたという意識が初めからあったわけではない。神の選びはもともと隠されている。隠されていることは、やがて顕されるのであるが、順序がある。召されて、その召しを確認して、召しに答えるときに、選ばれていたことが分かって来る。そこで、ハッキリとした、また確固とした信仰が立ち上がる。

 これは信仰者全てについて言えることで、このあとにも「あなた方も召された」と言う。もし、召されていることが分かっていないなら、「あなたは召されているのだ」と教えられ、召しを確認しているかどうかを自分に問うて、確かめなければならない。確認のないままでクリスチャンの一人になったつもりでいても、何となくそう思っているだけであって、風が吹けば飛んで失せる籾殻と同じである。

 キリストに属する者となるのは、自分で思い立って願い出てそうなるのではなく、召されたからキリストの者になる。全てキリスト者はそうであるが、その中でも使徒と呼ばれる者は、自分でなりたくて、使命感に燃え、あるいは人に勧められて、自分は使徒なのだという意識を持つのではない。自ら選んでこの位置に就いたのではなく、上から召され、もといた所から引き去られて、この地位に置かれるのである。

 使徒が立てられるのはどのようにしてであるかは、主イエスが12使徒を立てたもうた実例について見ればハッキリする。マルコ伝313節である。「さて、イエスは山に登り、御心に適った者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこで12人をお立てになった」。マタイ伝101節では「そこでイエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒す権威をお授けになった。12使徒の名は次のとおりである」と書かれている。

 ガリラヤ全域から夥しい群衆が主イエスのもとに集まっていた。彼が山に登って行かれると、多くの人が随いて行った。その人たちの中から御心に適う12人だけが使徒として立てられた。使徒たる者を募集されたのではない。

 さらにハッキリと主イエスは「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。そしてあなた方を立てた」とヨハネ伝1516節で言っておられる。

 使徒として呼び出され、立てられた者に対して、主イエスは「権能」をお授けになった。務めを果たすためには力が必要である。つまり自分の力を越えた力によらなければ果たせない務めだからである。自負心を持ち、実力が認められて、確信ある態度で職務を遂行すれば、人は随いて来るかも知れない。しかし、見かけは確信に満ちているようであっても、権能が授けられていないならば、確信ありげに振る舞っても底が見すかされており、やがて破綻する。そうなってから、自分はホントは召しを受けていなかったのではないか、と考える人が出て来る場合がある。そうなるまでは、召しが分かっていなかったとは、本人のためにも、導かれている人にとっても不幸である。教会はこういう誤りを未然に防がねばならない。

 「使徒」という言葉は「派遣された者」、「送り出された者」という意味である。漫然と立っているのでなく、使命のために立つ。神はみこころを知らせるために使徒を遣わされる。みこころを伝える何かの徴しが用いられることはあるが、重要なことは必ず使いを遣わして、言葉を語らせたもう。使徒は言葉と結び付いている。使徒は神々しい姿を見せて感化を及ぼすのでなく、救いの言葉である福音を発する務めを果たす。

 その福音のために選び分かたれた。選ばれたという意味を含めて良いと思うが、分離されたという意味が主になる。丁度、神に供える生け贄を他の獣から引き離すように、世の人々から分けられるのである。その目的にだけ向けられるのである。だから、福音以外の目的のために兼用されることはない。

 使徒となったのは神の福音のためである。すなわち、神から来た福音を遍く宣べ伝えるためである。その福音とは何か。それについては2節が語っているから、そこで詳しく聞くことにするが、単純に言えば喜ばしい告知である。イエス・キリスト御自身「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたように、使徒もそう叫ぶのである。

 


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