2008.03.16.

横浜長老教会にて

横浜長老教会教会建設57年の記念に際して

渡辺信夫


 個人的な思いを述べているように受け取られるかも知れないが、今年の受難週主日は私にとって忘れてならない時である。50年前の受難週主日、私は開拓伝道を始めた。つまり、東京告白教会はこの日に発足した。

 それなら、この日、東京告白教会の記念日として、何かの催しがあって、外へは出られないはずではないか、と考えられよう。――幸いなことに我々の教会は、50年間この日には礼拝だけしかしない、という慣例を守って来た。キリストのみが崇められるようにすべきであると考えたからである。だから、午後こちらに伺うことが出来た。

 それでも、この午後、横浜まで来て講演をするとなると、それをするだけの余力を残して置かなければならない。つまり、それだけ力を抜いて、朝の礼拝をするのはいけないではないか? 釈明めいたことは言わないでおくが、私にとっては、今朝東京告白教会において覚えたことと、午後横浜長老教会に来て確認することは、同一ではないが、結び付いたものとして受け取られている。横浜長老教会がこの日を記念する、と聞く時、それを余所事のようには思われない。ただし、私にとって大事な二つのことを重ね合わせて語るのは適切なことではあるが、実際には長い時間を必要とするので、避けねばならない。57年の歴史を優先させて、50年の歴史は今日は割愛する。

 それでも一日の限られた時間のなかで二つの課題を果たすという無理は残っている。不適切な譬えであるが、二つの正面で戦いを構えることは避けなければならない。しかし、無理だと分かっていながら、同時に両方面で戦わねばならない現実はある。今日がそれであると言えるかどうか、問題かも知れない。朝、全力投球をして、午後にまた全力投球をする。それは無謀と言うほかないかも知れない。それが分かっていながら、もう一つ講演をしようというのは、私が無謀な人間であることの証明なのだが、無謀なことであると分かっていても、逃げることが出来ない。それが我々の時代なのだ。

 本論に入って行きたいが、かつて私は――13年前のことだが――「決断する教会の教会論」という題で、故藤田治芽牧師の記念講演をしたことがある。その一年前に世を去られた藤田牧師は、かつて日本キリスト教会福岡教会(のちの教団福岡渡辺通り教会)の牧師であったが、その職を辞し、福岡教会を退会した人たちと共に福岡城南教会を建設した。それは鎮西中会の中で辛うじて一人の支持者を見出すのみの、殆ど暴挙と見られるほどの行動であった。実際、こうして発足した教会が苦渋に満ちた歩みをしなければならなかった次第を私は知らされている。それでも、苦難を覚悟しての決断の意味を我々は考えずにおられない。

 「決断」ということが、信仰者の必然の行為として評価されるのはごく普通であるが、教会の本質的要素と見ることについては、異論がある。私自身も教会にとって決断が本質的であると定義づけることには躊躇を感ずる。つまり、御言葉が宣べ伝えられ、聖礼典が執行されていても、決断がないなら、それは教会でない、と断定することは差し控える。

 それでも、「告白的」であろうとしている宗教改革の教会、すなわち、教会が教会であるとはどういうことかを問う教会にとって、「決断」という出来事は起こらないとしても、「決断的」な生き方をすることは、本質とは言わぬまでも、性格あるいは属性の一面であると言わなければならないのではないか? 決断を教会の本質の中に入れてしまうのは問題であるとしても、決断しないことを教会の本質とするのは、教会の生命の衰頽を招く大きい危険である。

 では、教会が決断的であるとはどういうことか? そのことで今回は時間を取りたくないので、詳しい話しは省略させて頂くが、誤解を避けるためにひとこと言って置きたいのは、決断とは、個人の生き様に関する個性的な行動であるよりも、教会の生き方、特に告白に関するものだということである。

 決断は特に告白に関わる出来事だと言ったが、それは精神的なことという意味ではない。決断を実行している者にとっては問題にならないのであるが、様々の不便、苦痛がある。決断していない時には、礼拝に行くか行かないかだけであるが、決断するとみんなで礼拝を守る場所をどう工面するか、という課題になる。

 ここで、もう一段本論に迫って、横浜長老教会の「日本基督教団離脱」と「日本キリスト教会形成」という二つの決断の問題に立ち入って行きたい。これが、二つの決断であり、同時に一つの決断であることは、すでに多くの人々が語って来た自明のことであるが、このこと、二つであって一つであることを、今日考えたい。

 今、その方の名前は挙げないでおくが、横浜長老教会と個人的な関係を持つ某教派の牧師が、自分も教団離脱をしたから、そういう点では同じだと言っておられた。そう言った人の言葉をあげつらう意図はないのだが、私はその方の言葉を聞いた時、「チョット違うのではないか」という感じを持った。その方の教派が教団離脱をして、もとのミッションとの関係を修復したことは、我々の教団離脱とは似て非なるものであることが、その後の歴史においていよいよハッキリ見えて来た。

 

 教団離脱をしたことは我々にとっては、そこで終わった単なる手続きではない。日基の人たちは、大なり小なり、その時から、教派合同とは何か? 日基とは何か? 教会とは何か? という問いを突きつけられることになったのだと私は思っている。

 あの時から57年、個人差は当然あるのだが、日基の者は「日基とは何か?」だけでなく、「教会であることとは何か?」という問いを突きつけられつつ走って来た。それが日基であることの存在意義であったと私は思っている。

 しかし、「日基とは何か?」、「教会とは何か?」という問いを突きつけられているという意識が、近年、日基の中で急激に衰えているように私には感じられる。それは私が年を取ったからかも知れないが、ズッと若い人の中にも私と同様な懸念を持つ人がいる。だから、「日基はどうかしているのではないか?」と言わねばならないのではないかと焦り始めた。

 私と危機感を共有される方がおられると思うから、今日ここに駆けつけたのである。

 私は1951523日の日本キリスト教会の創立大会に参加した。今ではそこに名を連ねた牧師の唯一人現役の生き残りとなってしまったので、何かにつけあの頃のことを思い起こし、感慨に耽る時があるが、昔のことを覚えている人はここにも何人かおられる。私以上に深い感慨を持っておられる方もあるはずである。私は50年前に近畿中会から東京中会に移った者で、それ以前の初期の東京中会については詳しくないから、横浜長老教会の初期については、私が語るよりもより適任な方がおられると思う。ただ、今日は思い出を語る機会ではないから、追憶の量が足りなくても、今日の会の責めを果たすことは許されるかも知れない。

 私は林三喜雄先生と親しくさせて頂いたので、他中会にいながら横浜長老教会には親近感を持っていた。初めのバラックの会堂で、ベンチを合わせてベッドにして泊まったこともある。当時、私は高槻教会の牧師で、離脱第一陣という点では横浜長老教会と轡を並べて走っていたのだが、離脱のために教会内の意見を取り纏める苦労も煩いもなかった。引け目を感じるというのではないが、苦労の足りない所を補わねばならないという思いは持っていた。

 もう一方、東京に移ってからであるが、指路教会の人々とも接する機会が少なからずあって、そちらからもいろいろ聞いた。指路教会と横浜長老教会の間には険しい関係があって今も傷が残っている。私のかつていた関西では、離脱妨害工作というようなものは殆ど聞くこともなく、教団に残る人と教団を出た人との間には険しい人間関係はなかったので、驚く他なかった。だが、50年も東京にいると、東京地方の教会には特殊な問題があったのだということが分かって来る。最近になってかなり見えて来たのは以下のような事情である。

 東京ではもともと日基が盛んであったから、日基系の牧師の多くが教団の重職に就いており、戦後、その人々は立場上エイト・ミッションの教団支持の方針に強く拘束されていた。その人たちが自分のためにアメリカ・ミッションからの援助を利用したとは思わないが、援助を分配する特権的地位にいたことは客観的事実である。

 さらに突っ込んで言うならば、日本を占領した連合軍は、キリスト教の保護・育成を占領政策としていたので、教会内部の分裂は占領政策にとって有害であると見たらしい。かつて、戦時中、教会人は軍部の意向に逆らうことを憚ったのであるが、敗戦後はアメリカの軍部を憚るという点で似ていた。進駐軍が教団離脱を牽制したとは思わないが、離脱を軍部の意向に添わぬことではないかと恐れる教団中枢部がいたことは確実と考えて良い。

 噂を漏れ聞くことは当時もあった。私は金の流れを追って行くことが不得手また無関心であって、そこを手がかりに教会内の不祥事を解明しようとは思わなかったが、誰かが何時かは解明する日が来るであろうという予感を持っている。戦争中の教会の姿勢について論じられることは多いが、戦後の教会の不透明さが明るみに出されることは非常に少ない。しかし問題が掘り起こされる時が来るであろう。「教団護持」のイデオロギーには不透明部分が多過ぎる。

 「占領軍の意向」ということばが、朝鮮戦争勃発ののちは剥き出しに語られることはなかったであろうが、その意味に近い響きを帯びた言葉が、日基が離脱した頃には語られ、やがて「エキュメニカル」という流行語が幅を利かせるようになった。日基がミッションと関係を持たないことについて種々の非難があった。

 私が東京に移ったのは1958年で、間もなく60年安保の時代に投げ込まれる。それ以前から執筆の機会は私の年齢の割に多かったし、戦争経験者でもあったので、時代と向き合う発言をさせられた。そういうことから、キリスト教の出版界やキリスト教の平和運動や学生運動の関係者と交流することは日基の人間としては特別に多かったが、教団護持派と対論する機会も少なくなかった。そのとき、言うべきことは言わねばならないから、気詰まりを感じつつ敢えて発言していたが、キチンと述べても、大体において日基の立場は無視されていた。世界的なエキュメニズムの潮流に抗する日基は、衰頽の一途を辿る他ないと大っぴらに論じられていた。孤軍奮闘したが、客観的には負け犬の遠吠えとしか見られていなかった。

 ところが70年代に入ると、日基に対する非難を聞くことは急激に減った。教団の中では造反が起こって混乱したが、日基はその動向と無縁であったからである。

 そんな事情で日基の株が上がるのは決して喜ばしいことではなかった。教団の中の「造反派」と呼ばれる人たちは、社会的意識に比較的よく目覚めていた人たちであるが、「我は教会を信ず」という信仰に立つ教会論を持たなかった。それでは、教団は弱体化して存立出来なくなったか? そうではなかった。教団は居丈高に教団護持を言わなくなる。崩れた形の教会、あるいは教会にやや似た「教会らしきモノ」として存続する、そういう得体の知れぬ教会となって存続するように変質したのであった。

 日基の評価が上がったとは、教団の評価が下落しただけのことで、何のメリットもない。こういう機会に日基が励んで、日基の日基たる所以を非難の余地のないように明確に打ち出す努力をすべきであったが、その努力は余りなかった。全然なかった訳でないことを後で論じるが、70年に始まる日基のその戦いは、日基自身の中でも自覚が凝集されなかった。一方、日基の教団化が始まっていたからである。日基の教団化とは看板が日基でも中味が教団的になって行くことである。何故そうなるかと言うと、日基の人たちの読む神学書が殆ど非日基の著者によって書かれた物だからである。初めの頃、神学書が全体として少なかったから、問題は見えて来なかった。出版物はだんだん豊富になるが、日基の人の書く本は少ない。だから、教団の牧師が読むのと余り変わらぬ読書を日基の牧師もするから、教団の牧師のする説教に似て来るということであろう。

 教団の崩れについてもう少し話しを続ける必要があるが、21世紀になって、教団の中には聖晩餐に関して二通りの見解の対立が露骨になって、教派合同の積極的主張の論拠はいよいよ成り立たなくなった。いよいよ教団は解体するか?というと、解体しない。「自分は居座る。反対派こそ出て行くべきである」という姿勢を、両方が取っているので、決裂が起こりようもない。「決断」という要素を抜き去ることによって教会を成り立たせようとして来たからである。

 さて、70年代という時期は我々にとって極めて重要である。この時、日基は「靖国闘争」を掲げるとともに、「神学校改革」を実行した。ここで日基の教団離脱の意味が初めて明らかになったと私は思っている。しかし、繰り返すが、この二点について日基の認識は不十分であった。

 「靖国闘争」は戦争反対の潮流として見られているかも知れない。その見方に我々は逆らいはしないが、日本キリスト教会としては「教会と国家」の位相の違いを明らかにする勘所として受け止めた。したがって、「信仰告白の戦い」であって、政治闘争の次元のものとしては捉えない。

 教会が政治に関与することを忌避する体質が日本の教会に伝統的にある。靖国闘争は政治的なものでないという原理が、日基では早々に打ち出された。そのため、この闘争を否定する動きは今日まで表面化することはなかった。しかし、「教会の、信仰告白に関わる戦い」ということが正しく把握されたかというと、そうとも言えない。したがって、闘争がお座なりに終わる危険が付き纏っている。現状では信仰告白の戦いという理論を掲げる方が力関係では優っているが、この関係が優位にあり続ける保障は弱い。だから、戦争経験者が死に絶えた時には、旗印を下ろそうという現実主義が優勢になる時が来るかも知れない。その時には単なる力関係でことが決まる恐れがある。つまり、理論的裏打ちを持つ精神が確立していないからである。

 「神学校改革」は日基がこのために臨時大会を開催したほどの、教会の死活に関わる重大事であるが、教会全体の認識は著しく不徹底である。ハッキリ言って、神学校改革に矛盾したことが堂々と行なわれている。現に見られる幾つもの欠陥を指摘して克服する批判的精神が弱体である。神学校改革の精神を守って行こうという精神が弱いのである。

 日基が離脱早々、自分たちの神学校を持つべきであると決断したことは正しい。しかし、神学校で行なわれる教職者養成の営みが、神学的原理として正しく、また学問としての誠実さを貫いて行われていたとは言えない。この破綻が70年に多くの教派の神学校に現れた。日基も同じであったが、日基はその時、全教職を召集して、誤魔化しなしに、自分たちのなすべきことは何であるかを表明した。

 この世には教育が行われ、教育の機関がある。教会の教育機関もこの世の教育機関とある意味で類似し・平行していると言える面はある。だから、神学校が教会的教育の最高機関と見られることはあって良い。宗教改革の時、神学校が教会の教職の共同研究として始まり、次の教職養成機関を兼ねるようになり、それぞれの都市における大学の中核となる神学部になったという歴史は重要視しなければならないと思う。

 しかし、日本では、この国の中で、民衆の間から教育機関が生み育てられたのでなく、古い時代には藩校が領主によって領主の支配のために立てられた。明治になると、政府が統治のための人材養成のために大学制度が海外、主にドイツから直輸入された。それが既に問題であった。しかも、戦後、アメリカの大学制度が重ねられる。

 しかも、かつては文部省と最も縁の薄かった「神学校」が、「神学大学」という格付けのものとなり、それだけに政府の規制を受けるものとなり、さまざまの矛盾が累積されて爆発した。さらに、諸神学校における紛争は大学紛争の飛び火として発火したものであって、自分自身の燃焼力によって燃え上がったものでない。幸いにして日基の神学校は大学の真似をしようとはせず、出来もしなかったので、教会のセミナリーはどういうものかを、本源に遡って考えることが比較的容易であった。

 日基における神学校改革は、日基の中でさえ十分理解されていない現状であるが、相当に大きい意味を他教派に対しても持っていると私は信じている。

 現実の神学校改革は口で論じるだけでは何の意味もない課題であった。欠陥の指摘は当たっていても改革とは別のことである。「改革」とは、「何かを改革する」ことであるが、先ず「自分自身」を改革しなければならない。改革とは走り続けることである。例えば、神学校教師は教会としての靖国の反対運動にも動員される。毎週のように全国動員が掛かると、講義の準備のために寝る暇もない。また講義の質が問われるから、学問的業績として恥ずかしくないだけのものを示さなければ証しにならない。必死で勉強した。16世紀の宗教改革者が、休む暇なく説教し、神学書を著作し、改革のための実際の運動に携わったのはこういうことだったのだと理解できるような全力投球の日々を生きた。

 私は牧師であるとともに神学校教師であることの重荷を70歳になった時に免除してもらおうと思い、そのように実行した。この判断が正しかったかどうか、今も釈然としない点を残している。自分が潰されないように庇っていることが自分に分かっているのである。

 神学校を辞めたから、講義していた原稿を本にすることが出来た。もし講義を続けていたなら体を潰したであろうし、本を出版することは出来ず、講義内容は密室の中に置かれたのである。講義が続いていたとすれば、講義原稿は常に書き換えられるから、原稿の完成には遂に至らないのである。そのように、コマネズミのように働いて、成果を上げるに至らずに死んでしまう。それで良いのか? と問われるであろう。――だが、逆に問わなければならない。それではいけないのか? 主の支配しておられるもとで、生きて、命がけで働いて、仕えることが出来たならば、それで本望ではないのか? 生きた上で、何かの褒美、自己評価、業績を獲得しなければいけないのか? そんなことでは恵みのもとで生きることが消え失せるではないのか?

 教団離脱は、終焉の時を間近に控えている私にとって、一生涯の課題であったことをいよいよ深く考えさせられている。離脱そのものは1951年に起こった一回の出来事であった。当時私が仕えていた高槻教会では、一回の会員総会で可決され、問題を後まで残すことはなかった。決議していながら内心踏み切れないというようなこともなかった。

 それだのに、生涯の課題となったとはどういう意味か? 簡潔に言うならば、教団離脱という事柄の意味の深さの把握に一生費やしたということである。見方を換えて言えば、教団成立によって失ったものがどれほどあったかが分かるまで、人生の全ての時を費やさねばならなかった。

 ここで、ついでながら、若い頃どうであったかに触れて置きたい。私は生まれた時にすでに信夫という名を与えられ、信仰者として生きるべく定められていた。しかし、その名を与えた父は、自ら信仰者として歩む覚悟であったが、子どもに神の約束を受け継がせるという信仰理解は教えられておらず、そのため息子に小児洗礼を受けさせる考えはなかった。私が洗礼を願い出て受けたのは17歳の時、1940年であった。

 恥ずかしい話しを付け加えることになるが、当時、日本は紀元2600年と言って浮かれていた。私は幼稚であって、国中が沸き立っているとき、自分も何かしないと恰好がつかないように感じ、それならばクリスチャンらしく生き抜くために洗礼を受ける、と言い出した。このような洗礼の受け方を問題にすれば多くのことを語らなければならないが、きょうは触れない。とにかく、日本基督教会の会員になった。

 洗礼を受けたからには、意識的なキリスト者であろうとした。だが間もなく、日基がなくなって教団に合同するのだと言われるようになる。日基についても教えられていなかったが、家にある書物を読んでいると、日基の良いことばかり書いてある。ところが教会で聞かせられるのは、日基ではいけないから教団になる、という主旨のことである。私は腰を折られた感じになる。

 ここで牧師が丁寧に教えてくれれば、納得して、教団は良いものだと考えるようになったのではないかと思うが、ただただ教団が良いと言うだけで、考えることは止めろ、と脅迫されているような感じである。そのうちに戦争が始まり、教会内も思想統制の気風になる。つまり、教団合同に反対するなら出て行け、と言いはしないが、出て行かざるを得なくなる。

 私は194312月に学徒出陣で軍隊に入ったが、その前数カ月、自分の属する教会の礼拝には出ることが出来ず、合同のことを良いとは言わない牧師のいる二駅隣の日基の教会に通った。そのことで被害意識を持つのはおかしいと言われるなら、その通りと答えて良いが、戦争の中で一億一心、異なった考えを持つ者は許さない、と言わんばかりの空気を教会が持ったことは確かなのである。私は引き戻して欲しいと思いはしなかったが、教会は何もしなかった。

 当時、教会は出征する教会員がいる時、祈祷会を開いて送り出すのが常であった。しかし、私の場合、私が去ったのであるから、私のために送別の催しをしなかったのは当然だと言わねばならない。だが、教会から見放されて死地に赴くとは何と惨めであろうかと私は感じていた。

 ただし、教会が餞の言葉を贈ってくれたなら良かったのか? 人情的なつながりを切り離されて、放逐されていたから、辛いには辛かったが、戦争中の教会について同情的にならずに考えることが出来たのかも知れない。

 とにかく、「日本キリスト教団を護持する精神」に関しては、私は深く心を傷つけられたという思いしか持っていない。教団に対する恨みというのとは少し違う。私は軍隊にいた間、行ける範囲にある教会で主の日の礼拝出席を守ろうとした。二つの教会に行ったが、どちらも日基ではなかった。そして、他派の信者である兵士が死を前にして礼拝を守りに来ているのをその教会は暖かく受け入れてくれた。

 

 教団を護持する精神によって傷つけられた人が、戦争中、私以外にいたかどうかを知らない。けれども、日基の教団離脱に際しては沢山いた。それは横浜長老教会の側だけではないようだ。指路教会の側にもいたことを私は近年知った。教団護持が主のためと言われ、主のためという名のもとに多くの人々が傷つけられた。

 この件について今日は論じない。教会にとって本質的でない問題がからみつき過ぎているため、際限なく論じなければならない。

 しかし、真実が求め続けられるならば、見せ掛けの理由は剥げ落ち、事柄の本質と事実は明らかになって来る。我々は自分の正しさが明らかになれば、ことが済むと思ってはならない。相手方の誤謬が明らかになるだけでなく、誤謬からの回復の道を相手のために開いてあげなければならない。それが主の僕の行く道である。

終わり

 

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