2008.07.27.
荻窪北教会修養会
「仕えられるためでなく仕えるために来られた主に仕える」(マルコ10:45)
――仕える務めについて学ぶ――
渡辺信夫
I. 使徒的教会におけるディアコニア
「執事」とか「執事職」という言葉は使徒時代に使われ始めた。ピリピ書1:1に「ピリピの教会の全ての聖徒たちと監督たち並びに執事たちへ」という呼び掛けが記されている。最も古い記録であろう。この時代にすでに「監督」と「執事」という職務があった。今、「長老」という言葉がないので、意外な感じを持つ人がいると思う。そのことで問われるなら私は喜んで答えたいのであるが、今日は執事職についてのみ語ることにする。
「執事」が仕える務め、「しもべ」の務めであることは明白だが、具体的にどういう奉仕であったか。初期については、必ずしも明確でない。ある人たちは使徒行伝6章にある7人の選ばれた役員たち、すなわち、貧しい寡婦の日々の食事の配給をするために、「使徒」だけでは手が回りかねて、公平な配給を支障なく行なうため、新しく選ばれた働き人7人が「執事」ではなかったかと考える。
この説には異論があって、あの時選ばれたのは「長老」ではないか、と言う聖書学者がいる。実際、パウロが援助金を長老たちに渡したという記録があるから(11:30)、長老が貧しい人への援助を管理していたことは確かである。しかし、エルサレム教会の長老は、15:6以下で見られるように、異邦人の入信者が先ず割礼を受け、それから洗礼を受けるべきか。それとも、割礼なしで洗礼だけで良いのか。その決定をする人たちである。寡婦の日々の配給を管理するのと、人々を教会に入会させる資格について決定するのとは職務として混同できないのではないかと思われる。
この職務の内容について詳細に論じることは今回は省略して良いと思う。初期のことには明確でない部分があったと見て差し支えない。Iコリント12、ローマ12にあるような「様々な務め」とその呼び名があった。そして、そこには執事という名称はない。ただし、間もなく、務めの内容はキチンと分けられ、名称も確定する。
使徒行伝6章が教会の務めの歴史の画期的段階であったことについて説明は要らない。その時まで教会には「使徒」と「弟子」という2種類の人がいた。使徒はキリストによって任命された者であり、イスカリオテのユダの脱落後、教会は籤を引いて、つまり人間の好みとか判断でなく、主の判断に委ねるという手続きをとって欠員を補充した(1:15-26)。務めを担う者は主によって立てられた者でなければならない。
使徒だけでは務めを担い切れないということになった時、使徒以外の職務担当者が挙げられ、これまで使徒の担っていた務めを分担するようになる。その人たちは会衆によって選挙されたが、より正確には主によって任命されるものと理解された。主によって任命された別の名称の職責を持つ者が使徒の職務を分けて担う。したがって、教会の務めは、根元としては主によって立てられた使徒にあると理解すべきである。
初めは、使徒がキリストから与えられた権威をもって教会を指導した。使徒の世代はやがて終わる。では、その後、教会の権威はどうなったのか。ローマ・カトリック教会はここで一つの理論造りをした。使徒の後継者が使徒の権威を引き継いだという理論である。この理論が長年かけて造られ、補強され、19世紀に至って、使徒の後継者たるローマ教皇の無謬というドグマを完成した。しかし、このドグマはその世紀のうちにすでに破綻する。その破綻を埋め合わせるために、複雑な理論が造られて来たが、それについて今日は触れない。何よりも、16世紀に宗教改革が必要であったという一事が権威の継承という考えの成り立たないことを示したのである。
大まかな言い方をするならば、使徒に委ねられた権威は、務めを担う者の集まった会議によって引き継がれる。我々が中会、大会の権威と言っているのは、務めを帯びている者の会議において現われ出るキリストの権威である。使徒たちは全会員の中から務めの担い手7人を選ばせ、それに按手して(6:6)、キリストの権威がここにあり、また使徒の権威がここで分担され・拡大されると示したのである。
II. 務めの多様性から階級制への変質
使徒時代が終わる頃には、教会の制度はかなり整えられ、監督・長老・執事が立てられることとなった。この三職が教会の秩序の基本になったと多くの教会で考えられている。その説明をすれば、以下のようである。
監督(エピスコポス)、これは「上から見ている者」という意味であるが、教会は旧約におけるイスラエルに相当するもので、それは羊の群にたとえられ、したがってそれを見守るのは牧者であったから、監督は群れの牧者である(使徒20:28)。
長老(プレスビテロス)、これは老人であるが、イスラエルにおいては老人が指導者として立てられた。しかし、老人なるが故に権威があるのではなく、この長老の会議が権威を持つと考えられた。ユダヤ人のシナゴーグにおいても長老の指導力があった。その制度がキリストの教会に引き継がれた。
執事(ディアコノス)、奉仕者という言葉は一般の社会の中にもあった。したがって主イエスは福音書でたとえを語りたもうた時、しもべとか食卓で給仕する者についてはしばしば語られた。だが、しもべであることの意味づけの原型が旧約の体制の中にあったと言うことは無理であろう。しもべであることの積極的意味はなかった。しもべであることの意味が説かれるのはイザヤ書53章に預言される「主の僕」においてだけである。僕であることの卓越性は、この「主の僕」の預言を踏まえて、マルコ10:39-45によって、主イエスが創設したもうた務めの秩序だと捉えるのが適切である。異邦人の共同体にある指導者原理をキリストの民の中に持ち込むことは出来ない。しもべとなる者こそが大いなる者であるとはイエス・キリストにおいて開き示される真理である。
このことは教会に立てられるあらゆる務めについて言えることであるが、監督や長老は、僕ではあるが、職務上指導者となって指導力を行使しなければならない。それに引き替え、執事は職務上でも仕える者である。
本来「務めが種々ある」とは多様性を意味するのであって、同種類の職務に上下の階級差があると言うのではない。務めが多様であることの意味が見落とされるようになったとは、主として「説教職」が重要視された半面、他の職務の独自性が見失われたということであろう。
説教をする務めも実際は余り真剣に考えられていなかったのではないかという問題があるが、今日はこれには触れない。説教の務めを真剣に遂行しない説教者がいたとは断定しないで置く。この職務に励み、何を説教すべきか、如何に語るべきかの実例を書き残した例証は少なくないから、説教職は重んじられていた。しかし、それ以外の職務は説教職の補佐のようなもの引き下げられ、下級職に組み込まれてしまった。
宗教改革以前の教会では、教会の基本的な秩序は一つの務めの三階級としての監督、長老、執事と捉えられるようになっていた。監督はカトリックの訳語では「司教」になる。長老は原語には残っているが、意味は「司祭」になる。そして執事は、司祭を補佐する僕という意味で「助祭」と訳されるようになる。務めの多様性は消滅して、上下関係だけになる。
もう少し付け加えて置くと、ローマ・カトリック教会は、この三段階では足りないと見て、上にも下にも階級を増設していった。司教の上に司教を立て(大司教)、その上の司教(総大司教)、そのまた上の司教(首都大司教)というふうに、上位の位を次々に創設して、最高位が「ローマ教皇」となるような階級制度を築き上げた。一方、下の方にも下級職を何段も造る。
プロテスタントの教会から見て、教会の職階制という考え方は全く奇妙である。しかし、気をつけていないと、階級の上下差という考えが容易に入って来る。牧師、長老、執事、これは偉い順番だと思っている人がいるではないか。そうまでは言わないとしても、務めの上下差があると見られているではないか。この考えが改まらない限り、執事職の意味は回復されない。
III. 宗教改革における執事職の回復
宗教改革は新しい時代に即応するための教会の改革だと見る人がいるが、これを遂行した人たちの意識はそうでなかった。彼らは教会の本来の姿を回復しようとした。復古運動と言っては、また別の意味に取られる懸念があるから、そうは言わないでおくが、彼らは教会の本来の在り方は、人間の思い付きによってでなく、神の言葉によって定められたと確信し、そのように実践した。
したがって、教会が神の言葉の教会となることが第一であるから、神の言葉に仕える務め、説教職、これが第一に強調されるのは当然である。しかし、改革主義の宗教改革を行なう教会では、御言葉に仕える務めの回復とともに、その回復によって事柄が明らかになったことに伴い、それ以外の務めの再発見が行なわれた。すなわち長老職と執事職の回復である。それは御言葉の宣教の下級職ではない。牧師の下に長老があり、長老の下に執事がいるのではない。それぞれの職務が独自性を持っている。
三つの職務が同じように回復して行くわけでなかった事情は理解される。すなわち、全体が本来の姿勢と非常に懸け離れたものに堕していたから、事柄の理解そのものに手間取ったのである。長老職についての理解もかなり遅れた。そして執事職についてはさらに遅れた。このような遅れは、良いとは言えないが、現実がそういう遅れを伴うものであることは分かる。
長老職についての理解がどんなに遅れたかについても、かなり長い話しが必要である。すなわち、長老として選ばれた人には立派な人物がいると言って良い。が、職務が果たされているかどうかは別問題である。だが、今日の課題ではないので省略する。執事職についての理解の遅れは、長老職についての理解の遅れよりもさらに甚だしい。
職務の回復のためには、その職務が何であるかを知ることが第一であり、第二に、その職務の担い手を育てることに励まねばならない。執事という職務が教会において如何なるものであるかを聖書から、また世々の教会から学び取るためには、失われたものが多いだけに回復の努力も大きくなければならない。
執事のなす働きは大きく分けて、教会内のいろいろな雑務の奉仕と、教会内に限定されない全ての隣人の必要としている援助とである。前者については実際に起こって来る事を労を惜しまず担うのである。後者については専門的知識が求められる場合があるが、専門的知識がなければ手を出してはならないというわけではない。道端に倒れている人を見たなら、その人の痛みを共に負う者として、とにかく駆け寄る。何か出来ることはある。
困窮者の援助については宗教改革以前は修道会が行なっていた。その前は使徒行伝6章で読まれるように教会の使徒職が行ない、その働きは執事や女執事の働きになったが、とにかく教会の任務と考えられていた。修道会というものが立てられるようになって、これは教会の別働隊と言うべきものであったが、教会の霊的衰頽の時期に、教会の復興を願って、しかし教会的秩序は守らず、今日のカトリック制度で言うと、教区教会と別の組織として、さまざまな作業を引き受けた。修道会に入る人は誓願を立てて修道会に献身する。また修道会外から不動産や耕作人つきの田畑、その他いろいろの寄進があって宗教改革当時、修道会は膨大な財産を持っていた。だから、社会事業のようなことも出来た。宗教改革はこういうキリスト教的な団体の存在を認めない。したがって、修道会が担当していた社会福祉的な業は国家が負わない場合には教会が負った。
執事職の本来の姿の回復のことを考えたのはカルヴァンであるが、カルヴァンの考えの先鞭をつけたのはブーツァーである。いずれも都市国家の教会の宗教改革を遂行した人たちである。都市でなく、領邦の教会の宗教改革をした地域では社会福祉は積極的でなく、なされる場合があるとすれば政府の行政であった。今回は教会のディアコニアについて述べることであるから、福祉行政には触れない。ブーツァーがストラスブールで始めたことをカルヴァンがジュネーヴでどのように発展させたかの話しも、興味をもって聞いてもらえると思うが、時間の節約のために省略する。
一こと付け加えるが、ブーツァーとカルヴァンの違いは、程度の差か、本質的な理解の違いか。私は本質的な神学の違いではないかと思う。ブーツァーは執事に当たる職務を創設したが、執事という聖書的名称を使うことはしなかった。したがって、貧しい人たちへの配慮を教会の課題として考える点では不徹底であった。
IV. 宗教改革に残された不徹底
執事職の回復という点では、ジュネーヴの宗教改革が、最も進んでいたと言って差し支えない。しかし、ジュネーヴの宗教改革においても、本来到達しなければならなかった所までは行っていない。ただ、これは彼らの考えが足りなかった、あるいは今日の方が進んでいるというようなことではない。事情の違いがある。彼らの不徹底を論難しても殆ど意味はない。
少しく目を転じて、牧師職の任免権は誰が持つかを考えて見よう。これはキリストが持っておられる権能であるから、教会がキリストの名によって行なわれることは我々にとって自明である。しかし、カルヴァンの当時、ジュネーヴでは市参事会がその権威を持っていた。カルヴァンの晩年にはジュネーヴでのカルヴァンの主張は権威を認められていたが、それは人々がカルヴァンの語る御言葉の権威を認めずにおられなくなったからであって、カルヴァンが権威を獲得したからではなく、カルヴァンの人格的感化が行き渡ったということでもないし、制度の改革が行われたということでもない。
つまり、当時は宗教と政治、あるいは教会と国家の分離という制度が出来ていなかった。だから、政治が容易に宗教の領域に介入したのである。
また、ジュネーヴで教会の長老がどうして選ばれたかというと、教会の会衆によってではなく、市の参事会員によって選ばれた。
同じように、ジュネーヴにおける執事の働きも、精神的な意味では教会の業としてなされたが、実際としては市の行政の一部として、福祉行政として行なわれた。教会が病院や養老院や孤児院などの施設を運営して、大したものだと評価する人がいると思うが、状況が違っていることを見ないで感心していても意味はない。もっとも、改革者たちが貧困層や病人、難民の問題に、今日の教会人以上に深く関わっていたことは見落とさないようにしたい。
制度上、今日では教会と国家は分離されている。だから、教会本来のことに国家が介入してはならないし、教会が国家の行使するような権威を持つべきではない、と教会は考え、主張する。そういうことで、教会は霊的な救いに関わることだけをやっておれば良いと思う人がいるのだが、それが政教分離の真の達成であるだろうか、これが問い直されるようになっている。「教会と国家」という神学問題に取り組む点で日基は靖国神社問題を信仰的・教会的に戦うべき問題として、日本では先端的な働きを負わされて来ていると見られているが、ディアコニアを考える場合も、「教会と社会」という枠組みでなく、教会と国家という枠組みで考えなければならない。
イエス・キリストは「貧しい人はいつもあなた方と共にいるのだから、いつでも彼らのためにして上げられる」と言われた。ということは、目の前に助けるべき人がいても、これは自分の職務ではない、と逃げることが出来るわけはない、という意味である。イエス・キリストは善きサマリヤ人の譬えを語って、「あなたもそのようにせよ」と言われたのであるから、祭司のように、レビ人のように、見えなかったことにして、道の向こう側を過ぎて行けば申し開きが出来るということにはならい。
V. 今日における執事職
歴史の中のことを大雑把に見て来たのであるが、今日あなたはどうなのか、と問われるであろう。幾つかの視点から考察してみたい。
1)今日におけるカルヴァン研究の課題として
私はカルヴァンの学びをして来たので、彼が取り組んだ問題は私も取り組まねばならないと考えて人が余り立ち入らない領域も掘り下げた。一般的に言って、カルヴァン研究は、教理的な方面に関して行われるのが古くからの通例であった。だから、執事職に関し、研究という程のものはなかった。研究資料としてはそこまで明らかに出来るものが得られなかったからである。宗教改革当時の古文書が研究資料として用いられるようになってようやく、執事職についての研究が行なわれるようになった。今日、この面での代表的研究者はエルシー・マッキーである。宗教改革の中で幅広い現実問題に関心のない人は、今日も執事職を探求しないのであるが、この問題に無関心でおられない状況はいよいよ深刻化しているので、その中でカルヴァンの思想が一層特色を発揮しているのではないかと思われる。
2)今日における社会崩壊の中の課題として
キリスト教が代々人間存在の問題に真摯に取り組もうとしたことについて、ここに論じることは要らない。現代において人間存在の問題が社会的視野において捉えられるようになっていることについても、説明の必要はない。キリストの救いを宣べ伝える教会は、人間の社会的側面について考察し評論するのみでなく、何らかの働きかけ、重荷を担うことを考えるようになっている。ここでは、狭い意味での福音宣教ではく、福音に基くアクションが必要である。ここから、教会のディアコニアが教会の使命の中枢的な位置を占めることになっている。
キリスト教において愛の奉仕が強調されなかった時代はない。宗教改革以前のカトリック教会においても奉仕活動は盛んであった。しかし、仔細に考察して見ると、奉仕する人は実によく奉仕しているが、先にも触れたように修道会の事業としてそれをしていただけで、キリストの体なる教会の業として、体の肢が首への服従として行なうという活動ではない。宗教改革におけるディアコニアの回復は「仕える教会」の機能回復である。したがって、これはまたヴォランティア活動と似ているように取られている場合も多いが、凡そ別である。
ヴォランティア活動が現代の先進社会においてかなり盛んになった。このままでは現代社会の中で窒息してしまうのを感じ取って、人間回復のための健康法としてこれを選択しているのではないかと私は思う。クリスチャンの中でこれに無関心な、あるいは冷淡な人が割合多いのは、ここに自力救済の臭いを嗅ぎ取っているからかも知れない。しかし、とにかく、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われたお方の声を聞かないで、自分の判断を掲げていては危険である。
使徒の書においては、御言葉に仕えることと、貧しい人の食卓に仕えることとは一体のディアコニアとして把握されていた。後の時代には宣教と社会的奉仕とは区分され勝ちになった。それを統一的に把握しようとする人は、「社会的福音」とか「社会派」という名で呼ばれるようになったが、福音が社会化されて、福音の本来的な意味が見失われるようにした。また、そのような傾向に反発して、社会的なことに目を向けないキリスト教が造られるということにもなった。この分裂はディアコニアを捉え直すときに回復する。
3)キリストにおけるキリスト奉仕
今日の主題聖句として聞いたのはマルコ伝10章であった。「仕える」ということの根源を御自身の中に求めなければならないと主イエスは教えておられる。主の弟子たちの間でも、誰が上か、誰が下か、ということが関心事であった。それは教会の外での関心事である。「あなた方の間ではそうであってはならない」と主イエスは言われる。
「私が仕えられるためでなく、仕えるために来たように、あなた方は互いにしもべとして仕え合わねばならない」と主はディアコニアの共同体として教会を規定したもうた。これはかなり重要な点である。すなわち、教会がしもべの共同体でない方向に向きやすいからである。「あなた方はセンセイと呼ばれるようになってはいけない」と言われたのに、教会ではセンセイになりたがる人が多い。だから教会の中に序列という世俗的な考えが持ち込まれる。教会の職務にも序列がつく。執事職が最も低く見られるのはその歪みの現われである。低く見られているから執事自身この職務を蔑んで、懸命に働こうとはしないし、この務めのために修練を積もうとは願わない型が出来てしまった。この型を砕かなければならない。
ディアコニアの基本的な型はキリストの後に随いて行くことだと思う。そこから考え始めれば道は開けるし、実践方策が幅広く見えて来る。
VI. 執事職の実践のために
1)最後に実践的なことについて具体的に述べる。実践的なことに至る前段階があるので、それにも触れておく。東京告白教会が伝道を始めて今年で50年になるが、初めの頃から、教会が自己目的化してはいけない、ということを皆しきりに言っていた。それでも、その主張はかなり理念的であった。理念に留まっていた。
理念的であっても、学びは止めなかったので、実践への意向は次第に固まり、同じ関心を持つ中会内有志の結集によって、恵泉伝道教会主催のディアコニア研修会が開かれたのは1993年5月であった。この時の講演が「今、教会を考える」(97年、新教出版社)に収められている。
故小川武満牧師は以前からディアコニア活動に関心を持たれたが、葉山島に土地と山林の入手の機会があったので、教会のために自費で購入しておられた。教会の敷地の中にクアハウスを建てることを考え、財政的に可能な限りの設計図を用意された。結局、そのクアハウスは当時の一般の福祉施設の水準にかなり劣るものしか計画出来なかったので、実施は断念された。上記の中会内の気運の高まりと重なった時期であるが、まだ実を結ぶ動きにならなかった。これは我々の間にあった、施設と関連を持つディアコニアの構想から離れて、群れのディアコニアに向かわざるを得なくさせる転機になったと思う。
2)東京告白教会では執事の課題としてホームレス問題に取り組むことになる。教会として取り組む経験がないので、初期は横浜寿町の日本キリスト教団神奈川教区社会委員会の活動の見習いから始め、これが数年続く。支援団体と研究機関と支援行政の季刊雑誌『シェルターレス』を芳賀牧師の紹介で購読し始める。
実際の奉仕の場所の設定としては、同じ区の砧公園を選んだ。そこにはまだ援助団体の手が及んでいなかったから、そこでのパトロールを始めることを要請された。
砧公園は、園内にビニールシートや段ボールの工作物を造ることを禁じている。したがって、ここには雨や厳冬の中でも工作物で身を覆うことが出来ないことを承知する野宿者だけが比較的少数生活している。この人たちは可能な限り日中は働き、夜、公園利用者がいなくなってから公園に戻って来る。公園管理事務所はその人たちの様子をほぼ把握し、公園の規定を侵さぬ限り、野宿を黙認している。その少数者に週に1度定時に訪問して、安否を確かめ、若干の食物、衣類、日用品、風呂券を配る。他の公園の野宿者でその時刻に集まる人もいる。聖書の言葉を「おたより」として配るが、信仰の強制はしない。同格の隣人の支援という姿勢を貫いている。
年に2度ほど、教会に招いて食事会をする。この時は普段のパトロールに参加しない教会員も会食する。これは給食ではなく会食である。招かれる人と招く人とが同じテーブルに着く。
我々の教会の活動が始まってから、行政の野宿者自立支援政策が始まったので、それとの連絡を取る。個人的な関係で自立を助け、成功に至った例も失敗例もある。
家族との連絡が取れるよう援助する。死亡者が出た時の対応には、幾つかのケースがある。家族が引き取りに来る場合。教会が必要に応じて葬儀を執行する場合。行政側で行路死亡人として業者に火葬させる場合。
執事会が管轄し、定期小会・執事会の中で活動報告が行われ、受けた益の共有を図っている。費用は教会会計で賄うが、個人の負担で処理されている部分も若干ある。教会の外への募金宣伝はしていないが、金銭的協力は受け入れている。
3)この奉仕によって受ける我々の益は何か。
多くの益を受けたが、自己宣伝めいた報告はしないし、今後もするつもりもない。ただ、教会の業であって、公けのことで、敢えて隠れて行うべきではないから、この行事の妨害にならない限り、参加して、見てもらうことは歓迎している。どういう益を受けているかは、実際に参加して把握されるのが良いと思う。