2008.08.12.

東京告白教会主催平和講演会

 

都市爆撃の忌まわしい連鎖について

 

渡辺信夫


  「都市爆撃」について公けの場で語るのは私にとって初めてのことである。これまでズッと私は戦争の悪、その悲惨さ、理不尽さ、虚しさ、真実を隠してしまう偽りについて、戦争経験者として語って来たが、語る際、自分がそこにいて経験したことにしか触れないようにしていた。ところが都市爆撃については加害経験も被害経験もない。
 全く無経験とは言えないかも知れない。私が海防艦に勤務していた時、丁度佐世保軍港に帰っていて、翌朝出港する予定になっていた夜、空襲があって佐世保の町が焼け失せた。それを海の上から見ていた。陸上の経験者以上に状況をよく見ていたかも知れない。というのは、陸上にいた人は逃げ回ったり、火を消したり、家族を守ったりして、とても空襲の全体を観察する余裕がなかったからである。その夜、港内にいた艦船は襲撃の対象にされていなかったから、私は対空戦闘の配備についたまま、攻撃に身を曝すことなしに、一部始終を見ることが出来た。しかし、町が燃えるのを見たとはいえ、焼け焦げて行く人間の姿は海の上からは見えなかった。――これでは空襲の経験にならない。
 初めに戻るが、私が自分の経験した事しか語らないようにしているのは、事実の「目撃証人」としての責任を意識していたからである。経験者でなくても、伝え聞いたことが本当であれば、人を欺くものでない限り、語って良い。それをしなかったのは、他に私のなすべき務めがあるし、事実を私以上に適切に語ることの出来る人がいると知っていたからである。
 私がもし戦争の歴史の研究家であれば、太平洋戦争について研究したところを語るのは自分の天職である。経験していないこと、生まれる前にあった事件でも、資料によって研究する研究者や著述家なら、書いたり・語ったりするのは当然である。しかし、私の使命とする職務は他にあって、私は自分の使命に励むべきである。それでも、自分が関わった戦争の真実、また実際に死の前に立たせられてこそ見えて来たことについて、事実の証言者として語らなければならない場合がある。
 戦争の真相を見もしないで、聞きかじりの断片を、上面だけ捉えて、まことしやかに語る場合があり過ぎるし、「それは違う」と心に思いながら沈黙している人も多いからである。戦争には意味があり、崇高であると言われる時、私が黙っておれば、その声を認めたことになる。現場を見た者には、戦争の真実が曲げられているということが分かっている。だから「戦争には意味がない。私は見て来たのだ」と叫ばねばならない。そのように偽りと戦うためには、確かな真実の範囲についてだけ発言するという生き方しかないと私は思ったのである。

 ところで、今夜は自分の経験でない主題について語る。これまでの方針を棄てるつもりではない。新しい試みをしようと思ったのでもない。
 新しく考えさせられる二つのことがあった。一つは自分の戦争経験を語って来たが、近年これだけで良いのかと考えなおすよう迫られることがある。経験のある人がない人に伝えるのは当然だが、ある方からない方にという方向に固執していては、問題があるかも知れない。例えば、私が戦争のことを論じる。人は「やっぱり戦争経験者の話しには迫力がある」と敬意を表してくれる。それで私はいよいよ使命を感じて語るのだが、経験のない人は、経験者にはとても適わないと思ってしまう。だが、それは違うのではないか。戦争経験がないことは単にデメリットなのか。経験していないというメリットもあるのではないか。経験によって盲点が出来てしまい、見るべきことがあっても見えて来ないし、本人は見えないことに気付かない、という場合があるのではないか。そこが経験のない人には却って見えるということはないのか。
 戦争は無意味である。それは繰り返し言われたが、この無意味さは実際に経験しなければ分からないのか。人間はそんなにまで愚かであるのか。――「そうなのだ」と言ってしまっては余りに惨めではないか。事実そうだとしても、本来そうあってはならない。戦争経験者はだんだん死に絶え、近い将来一人もいなくなる。では戦争をまともに語り得る知者はなくなるのか。いや、経験者がいなくなっても、経験していない知恵を、真実に語り伝える人が立てられなければならない。むしろ経験した人に見えなかった知恵が、次の、あるいは次の次の世代に見えて来ることがあるべきだ。これが近頃頻りに考えるようになった一つのことである。
 もう一つのことがある。今年、私は初めて中国へ行き、武漢を訪ねた。これまで戦争の跡をあちこち訪ねていながら、中国には行きそびれていたその訪問を思い立った事情については、説明を省かせて頂く。漫然と旅をしたくなったのではなく、かの地の研究者たちと会って見たいと思うことがあった。
 私は中国に行くことはしなかったが、日本のキリスト教はアジアに足を踏まえていなければならないと考えて学びをして来た。だからアジアのいろいろな国に行って学んでいた。その中で心に留める一つの事を知った。
 それは南京攻略の後、本拠を重慶に移した中国キリスト教指導者が、重慶爆撃のもとで、戦後のキリスト教会の復興について考えを練り、キリスト教の古代以来の古典の中国語訳の叢書を出版しようと計画したという話しである。その計画は戦後の革命のため、中国本土では実現されず、香港、シンガポール、台湾、また東南アジアの中国人キリスト教によって実現されつつある。
 これを知った時、私は恥ずかしいと感じた。というのは、私も戦争の中に投げ込まれたのだが、戦後の日本についても日本のキリスト教についても、これをどのように再建するかについて、何も考えていなかったからである。日本が崩れて行く、日本のキリスト教も崩れて行く、という感じは戦争の中で受けていたが、戦争が済むまで自分が生きているとも考えられなかった。だから自分がこの戦争の中でどのように恥ずかしくない死に方をするか、そのことで頭が一杯であった。
 こんな詰まらない戦争で死んではならないから、何としてでも生き延びようとは考えなかったのである。中国のキリスト教の指導者について私は殆ど知らないが、戦争に対する姿勢や見識が自分と余りに違い過ぎることに衝撃を受けた。私に衝撃を与えたことの内実に迫って見ようと思ったのである。

 「武漢」という地について、私の世代は浅からぬ関心を抱いている。武漢三鎮、あるいは武昌、漢口、漢陽という三つの都市の名が特に胸に刻まれたのは、70年昔、この地で日本軍が中国軍と大激戦をした時である。時に私は15歳の少年であった。軍事的なことに関心があったとは思わないが、記憶力の旺盛な年齢である。当時の新聞は武漢大会戦について毎日書き立てる。私はその近在の地名まで覚えてしまった程である。
 また中国の歴史に詳しくはないが、武漢の名は歴史の転換点になる戦争の場所として登場することを長い生涯の間に知った。辛亥革命の時そうであった、我々にとっては戦後であるが、中国共産党の国民党への勝利も武漢決戦であった。そして、日中戦争の時、日本軍を迎え撃った国民党軍も、南京を失った後の態勢を逆転させようとした。日本軍もここで戦争を終わりにしたいという考えでいたらしい。つまり、もうこれ以上大規模な作戦は出来ないという実情があった。
 その時、私自身も日ならずして戦場に赴かねばならないという予感があった訳ではない。しかし、国民党政府は徹底抗戦の方針を固め、戦争は長引き、飛躍的に拡大し、太平洋戦争に移行する。そうなると、中国との戦いの間で余りなかった敗北が相次ぐ。そのため武漢会戦の5年後、私は学徒出陣で軍隊に組み入れられる。こうして1カ年の訓練の後には戦場に立たされることになる。
 私の経験した戦いは南方の海上で、中国内陸部における陸戦とは全く別のものに見えるが、局面は別々でも、全体を一つの戦争として捉えるべきであることはだんだん分かって来た。別の場所にいても、同じ戦争の中にいたという一体感を戦争当事者らが共有しているということを付け加えて置いて良いだろう。とにかく、日本軍によって中国で行われた忌まわしい行為を、私はよそごととは感じていない。それで、武漢に行ったなら、戦争と関係のある場所を一つは訪ねて見たいと思った。そしてその一つの場所として思い当たるのは旧飛行場であった。

 この飛行場が気になる理由は、ここから重慶その他内陸部の都市を爆撃する飛行機が飛び立ったことを知るからである。記憶に強く刻まれたのは新聞紙が派手に宣伝したためであろう。日中戦争は泥沼に陥って抜き差しならなくなった。史上例のない大編隊の爆撃機で首都を攻撃すれば、戦争は終結すると思って大本営は航空戦力をつぎ込んだ。しかし、戦争は終わらず、拡大するばかりであった。もう少し付け足して言えば、その爆撃は陸海軍航空隊の合同作戦として始まったが、海軍の方が深く関わり、やがて海軍の独壇場になった。私は戦争末期の海軍にいたので、このことについて関心を深める機会が多かった。海軍は重慶爆撃を続けた経験によって「ゼロ戦」とか「一式陸攻」とか新しい飛行機を開発し、航空兵力を充実させて対米戦争に備えたのである。
 そしてもう一つ、これも自主的に気付いたのでなく、指摘されて目を開いたことだが、重慶爆撃に代表される都市への大規模爆撃は、近代の戦争の特色であるが、それが次第に肥大し、戦争の主流となって行ったのであり、アジアにおいてこの戦法の先鞭を着けたのは武漢基地から発進した爆撃隊である。
 都市爆撃が問題だと気付かせられる以前から、重慶爆撃については知っていたが、飛行機に特に興味があったとも言えず、どうということもないと感じていた。戦争ならばそういう作戦が当然行なわれるではないか、という程度に考えた。向こうでどんなに無惨なことが起こっているか想像は出来たはずだが、考えようとしなかった。
 しかし、確かに恐るべき大量殺戮の道が切り開かれた。重慶での死者の数は万を越えた。その後の戦争で都市爆撃の犠牲者数はどんどん大きくなるから、初期の犠牲者数の多さは忘れてしまう。が、都市爆撃は一つの呪われた連鎖であって、一旦始まるとどんどん悪魔化する。鎖の発端は重慶爆撃で、この連鎖の続きに、米軍による日本の大都市爆撃が位置を占める。別系譜の禍いと考えてはならない。一連の連鎖に、入れ替わり立ち替わり国々の航空兵力が注入される。日本の重慶爆撃の後継者は続米軍の日本本土空襲で、こちらは遥かに大きい損害を齎らしたが、一連の禍いと見なければならない。それは早い時期に気付くことが出来たはずではないか。
 重慶爆撃の時、作戦立案者がどれほどの犠牲者を想定したかについては分からない。が米軍の日本爆撃の立案者たちは、確かに、より多くの人間を殺すためには、どういう種類の爆弾を使うか。どの時刻に、どの方向から、どの順序に空襲するのが有効かを考え、どれだけの犠牲者が出るかを承知していた。彼らは承知していながら、これではいけないと思わなかった。殺される人間を人間と見なかった。あるいは、アメリカの兵士の犠牲は日本の一般市民の犠牲よりも価値高いから、低い価値の者を犠牲にすることは善であるとは言わないとしても、已むを得ないと判断したのである。
 それを我々日本人としては是認出来ない。幸いにして日本ではアメリカの残虐な空襲に報復すべきだという輿論は起こらなかった。しかし、都市爆撃の連鎖を断ち切るためには、「日本はもう繰り返しません」と言うだけでなく、「アメリカよ、お前ももう繰り返すな」と言わなければならない。だが、日本では戦争がいけないという見識よりは、負けたことがいけないという感覚の方が勝ってしまい、強い相手を真珠湾攻撃によって怒らせた罰は忍ばなければならない、と考えた。沢山殺された日本の側が殺した側に頭を下げすぎ、敗戦後の日本政府はアメリカ政府の言いなりになった。正義を基準とする判断は日米間に回復していない。
 今なおアメリカでは原爆投下が正義であったとの輿論を大衆は支持し、その輿論を有利に操作することによってアメリカの戦争政策は維持されておる。イラク戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、ヴェトナム戦争、朝鮮戦争で、無防備の民衆がその政策によって無惨に殺されて来た。この輿論構成の構造が変わらないなら、戦乱はまだ続くし、次にはイランや北朝鮮の無防備の民衆の犠牲が始まることになる。ただ、アメリカではまだ少数ではあるが、これではいけないという人が増えている。
 63年前、日本は無条件降伏をし、無条件降伏した以上何も言えないと思ったが、世界の良識を後ろ盾にすれば、アメリカに対して異議申し立てをすることは出来たし、すべきであった。少なくとも講和条約を結んで以後は無条件の屈服はない。後れ馳せながら、あの時のアメリカの行為はあれで良かったかと問うことは出来る。それをしなかったために起こった以後のアメリカ軍隊による他国の住民虐殺の全ての犠牲者について日本は責任を感じなければならない。それが言えないのは、重慶その他の都市爆撃、中国の住民一般への暴虐な行為についての反省をしていないからであるが、悪いことは悪いと言わなければならない。

 日本人も中国で市民が爆撃で殺された当時、何とも感じなかった。だが、今ではそれを問題にしなければならないと思う人が少し増えつつある。気付くのが遅すぎた。遅かったのは、人道的感覚が天皇制教育の中で歪められたからであり、また人道的感覚そのものの伝わりの遅さからであろうか。道義的感性を通じて伝わるには時間が掛かる。感性そのものでなく、感覚的に訴えるジャーナリズムが加わってくれなければ効果がない。まして、戦時下日本のジャーナリズムは軍部の支配下にあるから、軍の言いなりに、重慶爆撃のようなことを「壮挙」だと言ったのである。
 私自身、戦後になって、しかも戦後かなり時間が経って後、都市爆撃のことを問題にして来なかった己れ自身の無知に気付いた。私の周囲の人も同様である。例えばピカソという芸術家がゲルニカの爆撃を告発し、それをジャーナリズムが取り上げたとき、人々は感性の遅れた見っともなさを恥じて、ゲルニカ、ゲルニカ、と騒いだ。それでも、それと同じ、いやそれ以上に残虐であった重慶爆撃については、知っていても自分の問題とは感じない人の方が多かった。ようやく最近変わって来た。私も近年やっと気が付いた。重慶市民が日本で裁判を起こす頃になって、ようやく我々は目覚めた。
 自分の感性の鈍さについて弁護しようとは思わない。それよりは、自分を俎上に載せて、人間が如何に鈍いか、しかし、その鈍さからどのような順序を経て目が開かれて来たかを語る方が人の役に立つと思って語るのである。

 私自身、都市爆撃について考え始めたのは戦後25年して沖縄を訪ねた時である。その25年前の1月、私はその地に一軍人として着任した。すでにその前年沖縄の都市は爆撃によって消滅し、那覇市は端から端まで見通せる焼け野原であった。間もなく私は陸上にいるよりもさらに危険だと思われていた海上に配置されて沖縄を離れたため、結果的には沖縄で死なないで生き延びたのである。とにかく、私は都市爆撃の跡を見たのだが、これについて考え始めたわけではない。
 さて、二度目に見た沖縄は米軍の占領下にあった。焼け跡は殆どなくなっており、那覇は一国の首都として賑わっていた。那覇の受けた都市爆撃の跡はないが、沖縄を基地として行なわれる都市爆撃の事実を見せつけられ、身の毛がよだつ思いをしたのである。余分なことを言うが、当時沖縄を訪ねるためには米軍によって身元調べをされた上、日本政府からの身分証明書を得なければならなかった。米軍にとって好ましくない人は審査に通らなかった。私がパスしたのは取るに足りぬ小者だと見られたからである。
 ある日、嘉手納基地の北側の道路を通っていた。フェンスを通して飛行場の中が見えるから、ここでは立ち止まることさえ禁じられていた。ところが、偶然停車を命じられた。少し先に知花弾薬庫の門と飛行場の門が向かい合わせになっていて、そこをトレーラーが通過して行く。運んでいるのは今夜ベトナム爆撃に行くB52に積み込む爆弾であった。ベトナムではその夜何人かの人が死ぬということが予想できる。黙っていて良いのかという思いが体を駆けめぐる。だが、誰もおし黙っている。喚いたところで摘まみ出されるだけである。叫ぶことの出来ない非力を申し訳ないとは思ったが、それでいて、漢口基地での重慶爆撃のための爆弾の積み込みも、まさにこういうことだったという思いはスグには浮かばない。アメリカ人がベトナム人を何とも思わず殺しに行こうとしていると憤慨しただけである。自分の問題だとは捉えられていなかった。
 爆弾を落とされる側に立場を換えて見ることは難しいのであろうか。聖書には「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛さなければならない」という命令がある。具体的な例を当てはめて見れば、「私の頭の上に爆弾が落ちて来るとすればどうなるかを思うのと同じように、今、爆撃のもとに置かれている重慶の人を思い見よ」という風に言い換えることが出来たはずである。しかし、私は15歳の時、聖書をそのように読むのだと教えられなかった。
 教えられなくても、それが分かる位に頭を回転させることが出来なければ、クリスチャンではないではないかと思い至る筈であるが、自分ではなかなか思い付かなかったし、年長者は教えてくれなかった。戦争に敗れてやっと目が覚め始めた。そして、それまでの自分の愚かさ、鈍さを恥じるようになった。それでも、一挙に目が開けたのではない。少しずつ見えるようになった。前田哲男さんという軍事評論家が重慶爆撃について本を書いてくれるまでは、重慶爆撃についての私自身の責任、つまり知らないままで済ませて来た責任については考えなかった。
 戦争は憎悪と復讐の連鎖である。やられた以上にやり返せば、向こうからの仕返しを抑止することが出来ると考えられて来た。しかし、これでは復讐心を増大させる一方で、片方が破滅するまでは止まず、戦争犠牲者はどんどん殖えるということに今では思い及ぶ人が増えた。
 昔は目の前にいる敵を倒すだけであったが、飛び道具が出来てからは、犠牲者は彼方の見えない敵に拡がり、ますます増加した。次には飛行機で飛んで行って爆弾を落とす。その極端まで行ったのが原爆攻撃である。これが2回行使されただけで、さすがにこれ以上は行使するに耐えられなくなって、3発目は落とされていない。――もっとも、核兵器を使用しないだけで、残虐な爆撃は繰り返される。武器は武器を発達させ、クラスター爆弾のような恐ろしい兵器が作られ、日本の自衛隊がすでに大量にそれを持っている。戦術は戦術を発達させ、犠牲者はどんどん増え、目に見えない相手を殺すことは痛みなしに出来る。
 しかし、その一方、これではいけないという声が微弱ながらある。そして、この系譜が少しずつ厚みを増している。

 私が武漢に行ったのは、古くからの友人が武漢にある華中師範大学で10年教えていて、今年で最後だから来ないか、と誘ってくれたからである。私は即座に行くことに決めた。そして、先に語ったように、武漢では旧飛行場に行って見たいという思いを伝えた。この友人は私の来た時そこへ案内出来るよう、場所がどこであるかを特定し、どういう道を通ってそこに行けるかを実際に足で調べてくれた。
 初めは日本軍が用いた飛行場がどこにあるか分からない。大学の近代史の教授に聞くと、彼も知らなかったが、すぐ書物に当たって調べてくれた。そこは市販の地図にも出ているが、もう飛行場としては使われなくなっていた。
 武漢攻防戦の前からこの飛行場が漢口の北郊にあった。王家トンの飛行場と言い、ソ連の支援で送られてきた戦闘機の部隊がいた。381月の日本空軍の爆撃の航空写真が残っているが、飛行場は田園の中にある。その北に万国競馬場と華商競馬場という2つの競馬場があった。日本軍は漢口占領後、200機が発着出来る大飛行場とするため、前からの飛行場を北と東に広げ、2つの競馬場もこれに併呑させた。この年の1226日に第一回重慶爆撃が行われた。爆撃は218回に及んだ。爆死した市民は合計11889人、負傷者14100人と言われる。
 さて、武漢に着いた次の日、滞在している武昌の北の端、つまり揚子江の川岸であるが、そこまで行って、そこから渡し船で漢口の旧フランス租界の埠頭に着き、市街地をさらに北に抜けて行く。旧飛行場のある所に入って行くには東から長い路地が一本あるだけのようである。道は荒れ放題で歩き難かった。それでも、その道路沿いの工場跡に幾らかの人が住んでいる。武漢の盛り場に集まる身綺麗な人たちとは一見して違う暮らし方の人である。近年地方農村から流入した人たちであろう。
 やっと飛行場の中に入った。その広い地域は今ブルドーザーで掘り返されている。間もなく商業地区となり、大型ビルが林立するようになるらしい。近年まで人民解放軍の空軍が使っていた。滑走路は私が行った時には破壊され始めていたが、原型を偲ぶことは出来る。昔の航空写真を見ても滑走路は東北東に伸びていて、離陸した飛行機は重慶と反対向きに飛び立って、上空で編隊を組んで出発したのであろう。そこまでは想像で思い巡らすことは出来た。だが、その飛行機が落とした爆弾で、倒れて行く人々の顔を思い浮かべることは出来ない。飛び立つ人にも、見送る人にも難しかったであろう。今の方が想像が容易になったのではないかと思っていたが、今でもまだ困難がある。
 旧飛行場に行けば、戦争と人間の罪と悲惨さ愚かさを偲べると考えていたけれども、戦争を偲ぶ手がかりになるものは現地からドンドン失われつつある。飛行場がなくなって、もとの田園に戻るというのでなく、そこに巨大ビルや豪華マンションが建つというのだ。複雑な心境であった。

 武昌の華中師範大学のもと学長で、今も研究所の所長をしている章開(しょう・かいげん)という学者と会うことになっていた。外国で初対面の人と会うことは少なくなかったが、私の場合殆どキリスト教の関係者であるから、話しはスグに通じた。しかし、章さんはクリスチャンではない。私は話しの切り出しに窮していた。彼もこの客人をどう受け入れるか、困っていたことだろう。知恵が浮かばないので、武漢に来て先ず見に行ったのが昔から心に掛かっていた旧飛行場であったという個人的関心から話しをはじめる他なかった。
 それで話しの糸口がついたのである。彼は重慶爆撃の経験者であった。私より3つ若いが、中学生の時、爆撃隊の掩護戦闘機に麦畑の中で襲われた恐怖を経験している。彼を狙った戦闘機は次にソ連から援助で贈られたイ16戦闘機の攻撃を受けて墜落した話しも付け加えた。彼は被害者側の人として加害者側の私と会うというのでなく、同時代の苦悩を負って来た者同士として私を受け入れてくれた。
 そればかりか、この機会に学生に話しをしてくれないか、と切り出した。元学長の一存でそういうことが出来るとは、日本では考えられないが、彼は教授たちに指図して時間を決めてしまった。勿論、私はそのような機会が与えられることを名誉と思うが、初めて中国に来た者として何を語れば良いかに迷った。
 今さら講演の構想を練ることも出来ないから、ありのままの私が、若き日から今まで生きて来たこと、普段日本で考えていることを、考え考え語る他ないと肚を決めた。だから、武漢に来て最初に旧飛行場を訪ねたこと、そこから重慶爆撃のために日本の飛行機が飛び立って行ったこと、それを知っていながら中国の人々の痛みについては何も感じなかった私、このようなことについて考えるようになったのは戦後になってからであるが、63年後の今に至っても、いや時が経てば経つほど、考えずにおられなくさせられていること、そういうことを語った。
 この話しを締め括るためには、戦争中の一つのエピソードを語るのが適当だと話しながら思い付いた。それは私がアチコチで話しているもので、またかと思われる方もあろうかと恐れるのであるが、今夜もその話しを使わせて頂く。私は戦争の最後の8ヶ月を第44号海防艦という小さい軍艦で過ごしたのであるが、そこに一人の共産主義者の兵がいた。国鉄の小倉工機部にいた労働者で地下活動をしていた時、警察に目をつけられたことを知り、逃げて、動き始めた汽車に飛び乗り、持っていたパンフレットを細かくちぎって、汽車の窓から少しずつ散らして、証拠品を湮滅し、何ごともなかったかのように帰宅し、その後まもなく徴兵で海軍に入った。
 海軍に入っても労働運動については一ことも口に出さなかったが、海防艦に乗ってから、この艦にクリスチャンがいるとの噂を聞いて、その人と話して見ようと思った。そのクリスチャンというのは私である。私の直属の部下ではないが、小さい艦であるから、死ぬ時は一緒だという連帯感があって、名前も顔も知り合っている。しかも、彼は私の当番兵になったから個人的接触の機会は幾らでも作れた。
 或る夜、彼は活動していた頃のこと、当局に感づかれたことが分かって逃げた時のこと、それ以来沈黙を守って来たこと、しかし今も共産主義を奉じており、この戦争は間もなく日本の敗北によって終わると信じていることを話してくれた。
 彼は共産主義者である自分が、その主義については一ことも言えないでいるのに、私がクリスチャンであることを隠しもしないのを、羨ましく思ったらしい。しかし、私は彼の方が私より偉いと思った。
 日本の軍隊の中でキリスト教は抑圧されていた。しかし、海軍では、特に将校の場合、キリスト教徒である故に迫害されることはなかった。だから私はキリスト者であることを隠す必要もなかった。一方共産主義は軍隊外であっても禁じられていたから、まして軍隊内では口にすることも禁じられていた。
 しかし、私のキリスト教はどういうものであったか。真面目に信じていたが、軍隊がそれを恐れる必要のない程度の、薄められたものになっていた。信じている信仰とこの国の現実が食い違っていても、衝突にならないよう骨抜きにされていた。私は敗戦後に反省したのであるが、国の方針や多数者の意向とは、どのようにでも柔軟に順応出来るようなキリスト教では、信じるに価しない信仰である。そのような信仰を人に説いて信じさせることは出来ないと堅く心を定めた。さらに私は前線に出た時、あわや命を失うような所に何度か立たせられたので、生かされた生を生きて信じるからには、ブレることのない信仰に生きようと決心して今に至ったのだと言って話しを閉じた。

 その後、元学長の章さんは壇に登って私に対する謝辞を述べつつ、学生たちに向かって語り始めた。私の語った平和への思いに答えて、彼も若い時に味わった空襲の恐怖、敵愾心、戦争末期に8ヶ月だけだが国民党の軍隊に取られたこと、そして今持つ平和への熱い思いを語った。その後で学生がどんなに熱心に私に質問してくれたかについて今は触れないでおく。
 目出度し目出度しの美談として今夜の話しを閉じるつもりはない。翼を連ねて重慶爆撃に出て行き、非戦闘員を無差別に殺し、そのことについて日本はまだ後始末をつけていない。謝罪もしていない。そして都市爆撃の連鎖は今の日本には繋がっていないようだが、今日も続き、南オセティアの町に対するグルジアの爆撃、またグルジアの町に対するロシアの爆撃が行なわれている。63年前に終わった戦争を回想しているだけでは、人類世界の戦争を終わらせることは出来ない。戦争の連鎖が人類に纏わりついて来るのを断ち切らねばならない。そして、それに対抗する「良心の連鎖」と言うべき戦争放棄の連鎖の厚みを加えて行かねばならないのである。

 

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