2009.07.06.

 

東京中会教職者研修会

 

私が説教者としてカルヴァンから学んだこと

 

渡辺信夫


 1 聖書を語った宗教改革

 宗教改革は宗教改革の思想、あるいはその精神を弘める運動であったと受け取られることが多い。だが定義として甚だ不十分、また歪んでいる。私はむしろ、宗教改革は神の言葉である聖書を回復し・鳴り響かせようとする運動だと言う。これは今も続いている。

 聖書の権威とか有り難さということなら、当時もそれは認められていた。だが、そう認められていたとしても、閉じられた書物であったから、格付けされているというだけでは、存在意味あるいは効力はなきに等しい。

 しかし、閉じられている書なら、開けば読める。讀ませなければならない。そこで、民衆の言葉で読める書物にして出版する活動が始まる。聖書翻訳の世紀が来た。ルターの聖書翻訳が飛び抜けて有名であるが、同列のもの、ツヴィングリのチューリッヒ聖書翻訳(これには「プロフェツァイ」と呼ばれる聖書講義が随伴する)、オリヴェタンのフランス語訳聖書と、ジュネーヴの牧師たちによる訳文改訂作業の継続、その他がある。これらは事の一端だが、聖書が読まれる運動である。

 それと一体化したと捉えるべきものが「説教」である。すなわち、翻訳によるテキストの提示は、聖書の解き明かし、あるいは「活ける声」による御言葉の伝達、つまり説教へと展開する。宗教改革者は全て説教者であった。カルヴァンが特別そうだったと言うのではない。カルヴァンはその一人に過ぎない。

 宗教改革が説教以外の面にも展開されたことは言うまでもない。「信仰告白」が成立し、それに基づいて教会形成が行なわれた。その教会は、その時までの制度的教会とは違ったコンスティテューショナルな(憲法によって自己規定をする)教会となり、その教会がコンスティテューショナルな国家に影響を及ぼす。その面に無頓着であってはならないが、今日は触れない。

 上述の説教の他に、聖書の位置を確立させるための「聖書論」の確立が宗教改革では重要である。「聖書の権威をまず確定しなければならない」とカルヴァンは綱要の第1篇で言う。これなしでは設計図なしで家を建てるようなものである。それが一番大事だという主張は正しい。しかし今回、聖書論をテーマにするとすれば、それだけで時間一杯になる。そこで、私は聖書論が確立しているものとして、説教論を進める。――実は、聖書論は確立しているとは言えず、かなり危いのである。すなわち建て前だけになり、内容が空疎である。だから、解き明かしをしても、テキストについての態度決定も、確信も、ない場合が多い。だから、聖書論をシッカリ研究しなければならないということにもなるのであるが、モグラ叩きのような議論を繰り返しているだけでは解決にならない。

 今回、聖書論は扱わないが、すでに片付いた問題だから省略する、とうのではない。説教者として聖書を読む姿勢を繰り返し吟味することは最も基本的エクササイズだと私は思う。説教をエッセイにしてはならない。

 2 説教者カルヴァン

 宗教改革は説教のない宗教に対する説教の戦いである。そのことはカルヴァンにおいて最も鮮明に示されていると私は思う。彼は宗教改革者の中では遅く生まれたから、宗教改革の成熟した姿勢を享受することが出来たし、自ら良く整った型を残した。だから、宗教改革とは何か?と問われる時、カルヴァンがその典型であると言われる。つまり、宗教改革が何かを見るためにはカルヴァンの説教を聞け、と答えるのが正解なのだ。カルヴァンは説教に最も力を入れ、彼はまた説教者としてその時代で高く評価された。

 そういう言い方は余り聞かないかも知れないが、チャンと証拠がある。確かに、私の若い頃、説教者カルヴァンに注目する人は少なかった。多くの人は「神学者カルヴァン」を持ち上げていた。綱要を讀むべきだと言われた。しかし、より古い時代には、カルヴァンの書として圧倒的に多く読まれたのは、フランスとイギリスでは説教集であった。

 日本では戦前に竹森満佐一牧師がフランス語からの訳を出版され、ついで森有正氏の訳が出、この点では英語圏・独語圏の教会よりも日本の教会は進んでいたと言えるかも知れない。

 近年、カルヴァンの説教はまた読まれ出した。英語圏では久しく忘れられていた16世紀のカルヴァンの説教集の英訳本の復刻が行われ、多くの国でカルヴァンの説教が翻訳されるようになった。説教の速記に基づく原典出版はまだ部分的にしか出来ていないが、進捗している。このような動向を時代の変化と呼ぶことには慎重でありたいと思うが、人々の着眼点が変わって来ていることは心に留めたい。

 私自身はカルヴァンの説教の本格的研究を遂にしなかったが、日本にいては資料が手に入らないからである。今ならフォトコピーを使うのであるが、私が若くてまだ体力のあった頃は、研究資料は活字本だけであった。未刊の資料を扱うのは神学者でなく、書誌学者だけだと私も思っていた。だから、文書化されたカルヴァンの説教の全体を把握することはまだ誰にも出来ていない。

 それでも、カルヴァンにとって著作活動より説教の方が重要であったという認識は広まっている。したがって、カルヴァンにとって説教が如何に重要であったかを論じることにカルヴァン研究の焦点が移って来つつある。

 私の今日の講演も学界での研究の関心の移行と関連すると思う。しかし、私自身は研究して来た者として知識を語るというよりは、自らも説教者として主の召しを受けた者であるから、自分自身がそこで問われ、炙り出されていることを弁えつつ語るようにしたく願っている。

 3 説教者としての召し

 私がカルヴァンに心惹かれて、離れられなくなって今日に至った経緯については、あちこちに書いたから今は触れない。カルヴァンのお陰で、私は神から離れることが考えられない人間になった。だから、一生の恩人という思いでカルヴァンを学んでいる。結果的に、カルヴァン学者、カルヴァン専門家になるほかない道を来た。

 そのまま牧師になったと見られているかも知れない。しかし、途中でこの道は一度断絶している。特に語る必要はないので、これまで言わなかったが、今日の話しにとって重要だから少し触れる。

 京都大学を出てから関西学院大学に勤めた。文学部神学科の助手であった。大学の講義はまだしなかったが、神学科を学部に昇格させる仕事をした。その神学部で教えることになっていた。この勤めの傍ら、自分の属する教会が無牧になっていたので、日本キリスト教団の補教師の検定試験を受けて、伝道師になった。その段階では大学に勤めながら教会で説教をするつもりであった。1949年秋のことである。

 補教師試験を受けるに際し、自らが主の召しを受けたのかどうかを真剣に問うた。それまで信仰者としてキリスト教の研究をしていたが、伝道者になるつもりはなかった。召命もなかったが、伝道者になることが自らの選択でなく、主の召命によることは知識として弁えていた。今度は当然の認識としてでなく、主からの召しの確認が問われていると自覚し、確かめた。その時の確認はその後60年間1度も揺らいだことがない。

 口頭試問の時、大学勤めと教会の勤めは両立するかと問われ、今の所は出来ると思っていると答えた。その時はそれで良いと思っていたのであるが、後日、学校勤めを捨てることにした。

 一つの理由は教団離脱の準備をしていたので、教団系の神学部に勤めて生計を立てていては潔癖でないと感じたこと、もう一つは牧師の生き方と大学教師の生き方では違いがあるのではないかという考えが私の内に生じたからである。この考えを固持しなければならないとは当時も思わなかったのだが、自分の生き方の決定として適切であったと信じている。学者の如くでない振る舞いをしようと思っている。

 全然別のことだが、さらに一つ、私の生涯に関わることで、事柄自体さして重要とは見られないが、今日の話しとの関連で、やはり語って置いた方が良いと思うことを述べる。それは戦争経験である。死と直面した絶体絶命の体験があった。

 詳しく語るのは気が進まないが、抽象的に話していては分かって貰えないから、分かる程度には話す。1945年の311日の未明、護衛していた輸送船団に潜水艦の一斉攻撃があった。私の乗っていた海防艦にも魚雷が命中した。命中と言ったが、魚雷の弾頭がこちらの艦に触れて炸裂したのでなく、信管に距離を記憶させて発射した魚雷が、こちらの真下で爆発した。艦は衝撃で飛び上がり、一瞬電灯は消え、電探は機能しなくなり、コンパス(羅針盤)が動かなくなった。あちらでも、こちらでも輸送船が火を吹いたが、羅針盤が動かないから救援に行くことが出来ない。

 その夜、下弦の月が西の方に傾いていたので、その月を背にする方向にフルスピードで現場から逃げる他なかった。司令塔に立っている砲術長は落ち着いた人で、その時も落ち着いた口振りで、艦首の方からだんだん沈んでいるようだ、といった。艦橋で聞いた人は黙ったままそうだと感じた。恐怖が支配したが、誰も逃げ出さなかった。荒海の中に脱出すれば破滅だと分かっていたからである。

 航海長は「こんな経験はしたことがない」と言いながら、信号兵を助手にして、懐中電灯で照らしながらドライヴァーで羅針盤の修繕を始めた。艦長はジグザグ航行をするため頻繁に後ろを振り返って月の方向を見た。私は電探の責任者であるから、直るあてはなかったが、思い当たる故障をどう修理するかの指示を出した。それ以外、艦橋で声を発する人はいなかった。知覚麻痺ではないが、全員フリーズしてしまったかのようであった。私は最期の時が来たと自分に言い聞かせ、神に対しては、死の時に平安な心を保たせて下さいとだけ祈った。「助けて下さい」とは祈らなかった。

 羅針盤と電探の修理は20分程で終わった。沈んで行くと感じたのは錯覚だった。自在に舵を動かすことが出来るようになったので、遭難現場に引き返したが、浮遊物が残っているだけであった。

 つまらぬ話しをして相済まぬと思う。沈まなかったのだから、神に祈ったことも笑い話にされるが、この20分ばかりの間、死に直面させられたと感じる経験を持ち、それが心に刻み込まれた。宗教的経験というほどのものではない。心傷性ストレスを自分で手当しただけの話しである。しかし、自分は一度死んだのと同じ経験をしたのだから、生きているのは特別な賜り物であり、使命のために生きねばならぬという思いを焼き付けられた。そういう思いを持たせられたことは、牧師として生きる上で終始強力な支えであった。

 私は戦争の意義を否定しているから、戦争経験を意義あるものと受け取られるのを憚って、滅多に話さないのだが、これが支えであることは事実だ。では、こういう経験の支えなしに説教者として生き抜かねばならない人はどうか。私の体験よりもっと有益な体験を捜し出し、それを身に着けて貰いたい。他愛もないことでも人生の転機になるのだから、意味のある発見をすることは出来るはずだ。

 4 説教の核心部を確認するまでの道程

 召しを受けた私の側の状況に目を向けて置きたい。自分が説教者になるつもりはないが、説教が重要であり、カルヴァンにとって関心事の中心が説教にあるという認識は持っていた。したがって、彼の守った神学を私も獲得したいと願っていた。

 神学という学問は、牧師職につく者の訓練として必要だが、レーマンは神学をしなくて良い、あるいはしない方が良い、という風潮が昔はあった。そういう考えが起こる根拠は分かるが、この風潮の中に置かれるのは、ものを考えずにおられないで、しかも自らの不信仰に打ち勝って信じようとしている者にとって居心地悪いことである。

 そういう風潮が今では弱まったので、敢えて問題にすることは要らないかも知れないが、昔、意識的にレーマン神学を守って行かねばならない状況に生きた人々がいたことは知っていて貰いたい。語られる説教を聞くことが出来なかったのである。

 説教はかくあるべきものと一方で教えられ、それに同意しているからこそ無教会主義に走らないで教会に留まっているのに、実際の教会生活の中では、かくあるはずの説教を聞かせて貰えない。聞けない人たちは空腹感を補うために神学書を読む。ところが神学書にもいろいろあるから、讀んで信仰が駄目になって行く場合もある。説教の貧困がレーマン神学を促進したことについて、実情を知らない人には理解が困難だと思う。

 私は変則的な養いしか受けられなかったが、幸いにもコジレた信仰にならなかった。それは旧日基の中にカルヴァンの名が兎にも角にも通用していて、それに縋り付いて、個人的読書による栄養補給をしていたからである。しかし、自分が生き延びられたからといって、人にもこのような栄養補給で生き延びよと勧める気にはならない。シッカリした説教を聞かせなければならない。

 学校勤めでは、キリスト教学校の常として、クリスチャンの教師に輪番で礼拝における「勧め」とか「証し」と呼ばれる講話が課せられる。喜んでこれを果たす人は余りいない。説教の退化したものが語られる。伝道だと思って、それなりの努力をする人もいるが、聞くに堪えるものは非常に少ない。私は進んで引き受けたのではないが、嫌がらなかった。生きていることの証しを立てねばならないと思っていたからである。

 さて、意識的な教師の間で、誠実な議論ではないが、学校礼拝の説教の品定めがある。教会の説教とは別次元のもので、説教のために役立つ議論はなかったが、心に響く話しでなければ聞かれないことは語り合った。話しの上手下手は問題外である。話題の選び方も永続的感銘と無縁である。大学の講義として通用する密度の高い話しをした方が結局心に刻まれる。

 私はその頃から聖書の話しだけをすることにした。聞き手は喜ばなかったが、耳を背けるということではなかった。

 それから伝道者になったが、先ず己れに言い聞かせたのは、説教をする務めとは特権でなく、務めが正しく機能しているかどうかの検証を伴う、ということであった。すなわち、自分でも検証する。聞く人にも、第三者にも検証してもらう。主の検証を受けていることを自覚し続ける。これは主の点検であるから、恐れずにおられない面であるが、主の信任を受けた者として、「主よ、これで宜しいか」と問い、「それで宜しい」との確認を受け取る必要があると考えた。

 5 説教以外のわざの放棄

 伝道者となって何もかも一新した訳ではない。説教以外の仕事はもと通りしていた。週に2日京都に行って大学院で学び、3日関西学院に勤め、高槻で伝道師の勤めをするが、それだけでなく、関西一円と高槻市内で平和運動の運動家であった。戦争で死なずに帰ってきたのは、戦争をさせないためであると信じているから、今でもこのための労は厭わない。ただ、今日は触れない。

 もう一つしていた活動は、今は消滅した団体だが「キリスト教学徒兄弟団」という、当時、京阪神で活発な集会をしていた団体の運営のための奉仕活動、特に「兄弟」という機関誌の編集である。この雑誌の責任者は久山康という後に関西学院の院長となった京大哲学科の10年先輩の人であるが、一つには私にいろいろな経験をさせようという考えであったと思うが、編集の仕事の大部分を私に負わせた。それは或る意味で文化的伝道活動だった。この活動についても詳論は省く。

 伝道者の本来の仕事でないことを沢山したが、無益なことをしたとは思っていない。教会の役に立つ知識を身につけ、それを後年活用できた。余計なことを覚えて伝道者としての純粋さが失われたとは思わない。

 関西学院は2年で辞め、平和運動以外の多くの余分な仕事は返上し、それらを放棄して惜しいとは思わなかったが、暇になったのではない。間もなく教団離脱、新日基建設という、これまた大仕事が始まる。新日基の中では一番若かったが、若い教職でも担わなければならない荷は重かった。一つの教会を守るだけでなく、全国規模の視野を広げなければならない。生存している時間の大部分は日基のために投入されるようになり、非常な充実感を味わった。

 その時、研究生活は縮小されることになると思った。しかし、そうでないことが間もなく分かる。圧倒的に強大な日本キリスト教団に対して反旗を翻したのであるから、そのしっぺい返しが始まる。「日基は学問のない人たちの集団である」という逆宣伝が流される。それに対して口答えでは済まない。学問的な書物を日基のために著作しなければならない。それを書くだけの力量はまだ貯えられていなかった。知名度を上げるのでなく、実力をつけるためには何十年にも亙る表面に出ない研鑽が必要であった。

 学者として認められる道は放棄して、説教者としての生き方に徹するようにしたが、説教者が学識を持っていることがマイナスだとは思わない。学識を表で振りかざさなくて良いが、学問を深めて説教の質を高めることは、聞く人の魂の養いのため、また教会のために必要なのだ。

 だが、学問には時間が掛かるし、時に集中作業が要求される。だから、説教をしながら、学問をして行くことには、精神の内面における矛盾はないが、牧会も惜しみなく時間を注入することを要求するから、外面の時間の消費としては明らかに矛盾する。その矛盾を回避して手抜きをしてはならない。大事なことは何であっても時間を惜しまず注ぐ生活原理、スピードとか効率というものと無縁な生き方を築くことが必要である。何事につけても長い期間評価されない作業に耐えろ信念がなければならない。

 勉強は倦まず弛まず50年位学び続けると、事柄のいろいろな脈絡が見えて来る。私が多少学問的な書物を書くようになったのは70年代に入って後である。この話しは今日の主題ではないから、ここで留めて置く。学問に関して、学べば学ぶほど良いのは確かだが、知ったかぶりはしないことをお勧めする。

 これから本論に入る。

 6 説教者として生きる

 私は検定試験を経て伝道者として認可されただけで、伝道者としての訓練は受けていない。召しを受けたことの客観的認定は一応なされたとしても、実質的に訓練なしで務めを始める訳には行かない。――神学校で訓練されても五十歩百歩ではないかと言われるかも知れない。それはそうだと思う。しかし、正規の訓練を受けたことと受けないこととの開きは大きい。

 真の訓練が何かという話しには今日は立ち入らない。根本的には、キリストによる訓練に服するのだと言うに留めて、私自身の実際を語って置く。2点ある。1つは最寄りの教会の牧師から学ぶことである。教会が最も近距離であったのではないが、旧日基時代から関係があったし、個人的にも引きつけられていたので、大阪北教会の小川武満牧師と相談した。小川先生との関係については到底語り尽くせないから、今日は全く省略する。

 第2点。私はカルヴァンがどう実践したかを、調べられる限り調べ、それを自分に適用しようとし、生涯それを続けた。それが私の実践神学の学びの殆ど全てである。

 勿論「調べられる限り」ということの中味、実質は初期には低いものであった。敗戦直後だから、新しい本は何もない。軍隊にいて時間と知性を無駄にしたから、知識欲は貪欲と言って良いほど旺盛であった。だから知識を少しずつ伸ばした。このやり方は伝道者としての私が次第に身に付けて行った心得であるとともに、私のカルヴァン研究の蓄積にもなった。

 説教はどのように行なったか。カルヴァンが連続講解説教をしていたことは知っていたから、その通りしようとした。彼の説教は若干の実例しか提供されていない。しかし、少数例があれば他の場合は推論出来る。それ以外に、カルヴァンの註解書の英訳が入手可能であった。彼の註解は讀みやすいとは言えないが、とにかく讀む。問題はその註解で読み取ったことを、どのようにして講解説教に持って行くかである。

 今ではカルヴァンの説教がかなり手に入る。日本語訳でさえ或る程度入手出来る。註解書の翻訳は新約では大部分出来ている。だから、例えば、カルヴァンがエペソ書についてどういう註解をし、同じテキストを説教としてどう語ったかは、日本語だけで調べられるようになった。

 占領下のみんな貧しかった時代には、英訳本を辛うじて少しずつ買うことしか出来ない。カルヴァンの原典の全集は西日本には2セットしかなかった。同志社神学部と、個人では無教会の黒崎幸吉さんが持っていた。京大にもなかった。私は必要な時には黒崎さんの所に見せて貰いに行った。黒崎さんは気さくな人で、持って行って良いと言ってくれたが、長期貸出で研究に使うのは躊躇われた。私自身もそこまで深入りする状況には達していなかった。

 貧しさの中での学びについて語っても、興味のない方が多いと思う。あるいは、教訓として語られることに反発する方があるかも知れない。それを覚悟の上ここで語るのであるが、それは私自身、最近「貧しさの恵み」ということを頻りに考えるようになったからである。戦争を経て来た者らは、貧しさの中に生きることの惨めさを味わい、そこから脱却しようとした。そういう考えから一番遠いところに立とうと思っていた私でも、贅沢は却けて、少しでもゆとりが生じると本を買っていた。それが間違いだったとは言わないが、貧しさの中で学びを深め得たことを恵みとして感謝しながら、貧しさが解消された後に襲って来る深みの喪失、それに備えることを何も考えなかった。深みの喪失ゆえに困惑するのは、次の世代とそれ以降である。それを今悔いているということを言い残して置く。

 私の場合、手引きする者がいないゆえの無駄な労や迷いはなかった。方向が一応決まっているから、方向を間違えないで前に進めば少しずつ見えて来る。もし目標が定まっていないならば禍いであった。私が自分の導き手がカルヴァンであると定めていたことを自画自賛しないが、最も迷い少なく、伝道者の生涯を最終コースまで走ることが出来たのは感謝というほかない。しかし、一応方向は決まっていて、ブレていないつもりだが、スタイルが決まって安定した走り方が出来るまでに約9年掛かった。

 かつて人の説教を聞いて「これではいけない!」と感じることがあった。自分が説教する立場になると、人が「これではいけない」と思うかも知れない。その時には謙虚に批判を聞くべきであるが、批判する人が間違う場合もあり得る。その時は主張しなければならないから、証拠の記録を残さなければならないと考えた。私は記録も兼ねる完全原稿を書いて、それを讀むことにした。今でも原稿なしでは説教しないことを原則にしている。そして原稿を先ず作るのであるから、自分の説教を客観的に見る。その説教が聞く人にどう響くか。それを聞いて悔い改めが促されるか。検討が出来る。

 原稿を作って説教する方法をカルヴァンは取らなかった。彼は筆記された説教に筆を入れることもしなかった。聖霊によって、神の口となって語ったことに人為的な修正を加えることは許されないと考えたようである。その姿勢を尊重するが、私はカルヴァンより遥かに能力が低いから、説教前にも説教後も努力が必要であり、その努力は説教職に召された者にとっては人為的な加工ではないと思っている。

 9年の後、私は東京告白教会の開拓伝道を始める。そこからまた新しい学びを沢山汲み取ったが、それについて語るのも別の機会に譲る。今は、固まった姿勢が何かだけを述べる。

 

 7 聖書講解の心臓部

 現在私の仕えている教会は51年前に始まったのであるが、その開拓伝道を始める少し前、カルヴァンのイザヤ書53章の説教「苦難と栄光の主」の翻訳が出版された。さらにその数年前この書の原書を讀んだ時、私の説教の方針はこれで行くべきだと思い定めた。以後その通りやって来たと思う。ここに講解説教の心臓部があると言い切って良いであろう。私が説教のモデルにしたと思って頂いて結構である。

 説教は説教者自身の言いたいことを聖書から適宜抽出して語るものであってはならない。聖書本文がそこで語っている使信を、損なわず・歪めずに、鳴り響かせなければならない。テキストから解き明かされることが聖書的メッセージの中心点を衝いていなければならない。都合の悪い語句を除去するような扱いもすべきでない。――こういう原則は早くから分かっていたが、実行するに困難なテキストがある。それが旧約には多い。そこをクリア出来る見通しが立つまでは自信がなかった。

 カルヴァンのイザヤ書説教の53章以外の部分は讀んでいないのだが、53章を解き明かした手法が他の箇所でも使われたに違いないから、この部分から全体を推し量ることが出来ると感じた。呼び方が適切でないかも知れないが、「旧約聖書のキリスト論的解釈」と言われる行き方に従おうと大体決めていた。が、それについては、牽強付会と言われるのではないかという懸念があった。この不安をカルヴァンが整理してくれた。

 牽強付会ではないという確信を自ら持つとともに、聞く人に安心感を持たせる義務がある。そのため、良く勉強して置くことが説教者にとって非常に重要であると私は思っている。だから聖書の中心がキリストだということに納得できるまで勉強した。カルヴァンもここを謂わばフォーカスとして把握している。「キリスト教綱要」がその実例である。この書の中で聖書がどのように引用されているかを調べるだけでも目が開ける。

 私の勉強について言って置く。一方では旧新約全体を覆う満遍ない聖書研究でなければならない。教会では最近、次の方に引き継いでもらうまで、約60年毎週の祈祷会で聖書の1章を順次30分間解説し、最低限の理解を確保するようにしていた。それでも正直に言うと、或る部分がなお手薄なまま生涯の暮れ方が来てしまった。

 もう一方、組織的な研究でなく、物好きでやっているように見られ兼ねないが、聖書釈義の歴史に興味を持っていた。願う所は、初めの日以来の釈義の連鎖の続きとして今日の釈義が立ち上がる、というような解き明かしをしたいのである。主の民が召しを受けた初めの日から、終わりの日まで信仰の命が続いているのであるから、その連続の重要な証しの一つとして、教会における解き明かしの連続性が示されていなければならない。

 私が日本キリスト教会神学校で講義をしていた頃、聖書釈義のなかで釈義史部分に重きを置く時代がきっと来るから、時代を先取りした勉強をしていなさいと勧めていたことを記憶しておられる方もあろう。私が予想したほどに時代が進まないので、若干苛立ちを感じているが、2-30年経って見直すと、歴史的・批評的本文釈義は頭打ちになって、釈義史分野の研究が明らかに伸びている。新しい流行を提唱するのではない。地味な勉強しかないと分かれば良い。

 8 カルヴァンが言っていないが、生きていれば言うに違いないこと

 時間に限りがあるから、言いたいことは多いが、結びに入らなければならない。やや乱暴な言い方で纏めることをお許し頂きたい。

 カルヴァンが説教はこうでなければならないと言ったことは、彼とその次の世代の人によってほぼ纏められ、定式化した。では、それを受け継げば、もう書き加えることはないのか。そうではないと私は思う。

 定式化したことが問題だ、という発想形式にしたがって定式化をなじる人もいるが、その人自身いつも自分の定式でしか物を見ていないから、話しにならない。

 定式化した仕方に問題があったと言うべきか。それは言える。しかし、その定式を取り上げて吟味することに興味がない訳ではないが、その吟味に大きい実りがあるとは思わない。比喩を借りて言えば、練習問題を解く程度の勉強にはなるが、新しいリサーチにはならない。

 カルヴァン時代に問題になっていなかったことが、今では問題であって、それが問題だということは多くの人が言うようになっているが、それを解くことは誰も始めていない。こういう問題を解けなくて、カルヴァンの時代には問題を解いていたというお話しをしているだけでは、歴史物語にはなるが、生きた神学ではない。

 カルヴァンは自分が聖書から語るとき、それが聞く人に神の口から出る声として響くと信じていた。そして聞く人もそう信じて疑わなかったと思う。ところが昨今「神の言葉が語られているか」という深刻な疑問が広がっている。「御言葉が語られている」ということが、ただの建て前になっていることは皆知っている。聖書の言葉や神学用語が空中を浮遊している。それは心に突き刺さって来ない。

 言葉が力を取り戻さなければならない。このことに教会は責任を感じなければならない。言葉が形骸化して行くのは今日的悲劇であるが、カルヴァンの時代にもなかったわけではないであろう。彼らはそれと取り組んでいた。同じ事が今日では容易には出来ない事情があると私は思う。しかし、同じだけのことは出来なくても、同じ目標設定は出来る。彼らは御言葉のもとで会議を開く教会を建て上げようとしたのである。その目標設定なら我々にもできる。

 

終わり

 

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