2007.11.09.

 

修学院キリスト教セミナー

 

カルヴァン 教会 国家

 

渡辺信夫


 はじめに

 

 この講演に課せられた課題は何であろうか。そして、私にどれだけのことが達成出来るか。………これを先ず考えて見た。すでに年老いて、大したことは出来なくなっている私である。しかし、老大家が、大したことは出来ないと知っているからであろうが、聞きに行ってガッカリさせられる、力を抜いた話しをすることがある。それはしたくない、という程度の羞恥心は私にある。

 今回、京都という都の懐かしさに心惹かれて引き受けたのだが、聞きに来て下さった方に、無駄な労を払わせたと思わせるかも知れない、という恐れがある。出来るだけご迷惑にならない話しにしたい。そのためには、私自身が今なお取り組んでいる問題を、一緒に考えてもらう話しにすべきではないか、と思った。

 今、私はまだ現役の牧師をしている。この歳になってまだ勤める人は稀ではないか。よくやるなあ、と感心される方があるかも知れない。しかし、私の気持ちを言うならば、感心してもらうのとは随分懸け離れたところにある。まだやっているの、と言われる方が多いのではないか。刑期をまだ終わっていない徒刑囚になぞらえては陰惨すぎるかも知れないが、留年してなかなか卒業できない学生と似た所がある。

 昭和天皇ヒロヒトが作戦に悉く失敗しても、「戦争を止めよう」となかなか言わなかった。次の作戦には成功するかも知れない。本人は長生きしたが、彼がギヴ・アップしなかったために、日本人だけでなくアジア人もアメリカ人もどんどん死んでいった。その数を何とも思わずに戦争を継続した罪は万死に価する。だが、それ以外の点では、働きを止めないことについて、私には彼と似たものを持っているように思われる。つまり、敗北体験というものをずっと引きずっている。だから、負け戦のまま止めてはならない、と感じて、かじりついて来た。そういうことが全てだとは思わないが、「まだ何かが出来るかも知れない、いや、すべきではないか」と考えて走り続けるところは似ている。

 

 今回の標題を取り上げて見ると、私のカルヴァン研究も、息ながく続けたと言われるとそうかも知れないが、少なくも私自身は多くの欠陥があることを恥じながら、もう少し何とかなるかも知れないと思って続けて来た。

 教会論の神学構築と教会的実践も、着々と成果を上げて来たと言えるようなものでなく、「主よ、今年も許したまえ」と言いつつ、今一度の挑戦に全力投球をして来た。

 国家の問題、そこに私が生涯を傾注したとは誰も思っていない。事実、私は政治家、ステイツマンになろうと考えたことは全然ないし、天下国家を論じて見たいとも言わなかった。それでも、国家のことは私の最大関心事の一つであった。すなわち、私は若い時、所謂「学徒出陣」に駆り出されて、私の命と私の将来を捧げさせようとしている国家というものに直面した。そこで悟ったのは、命は取り上げられても、私の精神を国家に捧げてはならないということであった。

 私の肉体の生命は国家によって簡単に踏み付けられても、国家によって踏みにじられてはならない私の精神があり、したがってこれを国家に売り渡してはならないということに眼が開かれた。同じようにして分かり始めたのは、キリストの教会が国家によって潰されても、国家に売り渡されてはならないということである。そういうことに戦争の末期から気付かせられ、国家に対峙する自分自身を築き上げるために、教会の生命に関わる神学を深めねばならないと考えて来た。だが、今なお国家から愚弄されていると感じている。

 

 敗戦経験は45815日に始まったのでなく、その前から敗けつづけの戦争経験があった。私は輸送船団の護衛をしていたが、出て行く船、出て行く船、殆どが目的の港に着く前に沈められ、私は沈まないで帰って来た。帰って来ると次の命令が待っていて、また出て行く。こういうことが、消耗すべき船舶がなくなるまで続いた。

 そのあと、まだ残っているのは、海岸線に沿ってその沖合いに機雷を敷設して行く作戦であった。作戦というよりは作業である。むなしい作業であった。

 全面降伏をしたから戦闘行為はそこで終わったのだが、内なる敗北の意識は継続した。そして、この世の行動における敗北の事実はその後もズッと続く。ただし、もう敗北の人生には終止符を打とうではないかと思うことはなかった。だから、負けてばかりいたのではあるが、最後には勝利の日が来るという信念は失っていない。

 この終わりの日への希望を伝えることが出来れば、私の話しは面白くなくても、語る私としては満足したい。

 

 カルヴァン 人と言葉

 

 改革者カルヴァンの生涯について、その業績について、その評価について、語るつもりは今日はない。限られた時間の中で語っても、不十分であって、それならば、むしろ文献の紹介でもして置く方が聞く人のためになろう。

 また、人物について語るならば、良い点ばかりを並べ挙げることに大した意義はない。もっとも、その欠点を掘り起こして得々と論じることにも殆ど意味はない。短い時間で人間について語る場合、聞く人に分かっても分からなくても、また断片的であっても、その人の存在を感じさせることが大事だと言われる。私もその意見に賛成であるが、カルヴァンの存在を感じさせる話しは私にはなかなか難しい。勉強が足りないからである。

 勉強すればその人物に接近することが出来るか。必ずしもそうではない。時間とエネルギーをどんなに注いでも、対象物のまわりをグルグル廻るだけに終わることがある。しかし、どういう姿勢を取るかによって、その人に至近距離まで接近することが出来る。また、どの角度から肉迫するかによって、その対象を美しく捉える場合と、そうでない場合が分かれる。

 カルヴァンは人によって毀誉褒貶の著しく異なる対象として扱われる。こういう違いがどこから生じたかというと、私自身はそれほど仔細に調べた訳ではないが、私よりももっと良く調べた人もいて、人物評価には幾通りかの系譜があるらしいことが分かる。今日では大まかに言って、批評する角度が余りに開き過ぎることはなくなった。というのは史料に忠実に発言しなければならないという学識が一般化したからであろう。

 では、悪意を込めた評価はなくなって行ったか? 客観的評価が出来るようになったというだけでは、人間を生身の隣人として捉えることにはならない。近い所から見ていると、その人から得られるものは汲み取ることが出来るようになり、褒めそやすということではなく、人間としての同感や懐かしさが感じられるようになるものである。私はカルヴァンが生きた時間より遥かに長い時間を生き、その間ずっと彼について考察して来たから、受けたものの多いことを考えるならば、感謝を覚えなければならない。しかし、感謝という捉え方でなく、懐かしさという捉え方で、彼について語るのが良いのではないかと思っている。

 

 その人と、その人の周辺に迫ることはかなり興味深いことである。カルヴァンの説教を筆記した古文書を手に取って見ることなども本人に接近するためには必要であろう。私はそのような古文書を見たことはあるが、綴り字が全部読めたわけではない。専門の研究者はかすれた字を読み取り、言葉を確定し、現代の文字でタイプする。そこまで私がしなければならないとは思わない。本文が校訂されて出版されるまでのことは、その専門家に任せて良い。ただし、私のする仕事の前の段階の作業をする人々の、学識と熟練と労苦を尊敬することが必要だと思う。

 原典が出版されて、人は金を払ってその本を買う。金を払うことによって、私の手に入るまでのことは私が買い取ったと考え勝ちである。それが常識で、その常識を覆すことは出来ない。しかし、原典が私の手に入るまでの作業を尊敬することによって、それを或る意味では継承出来るし、継承するための然るべき鄭重さを、人はとにかく私は大切にして来た。

 肉筆のものが出版され、場合によってはそれが翻訳されて、それから内容が議論になるが、翻訳のことは次に触れることにする。私はせいぜい近代になってから出版された活字本を読み比べる程度以上には踏み込めない。

 作業に関しては、この程度に留めるとしても、刊本の違いがいろいろある。無視して良いとされるが、拘り始めれば句読点の打ち方がエディションによって違う、という問題がある。訳し方も違って来る。だから、誰の校訂した版を原典に使うかという問題を先ず決着させなければならない。

 それをどう訳すか。――この段階でいろいろの問題が表面化する。私事になるが、カルヴァンの主著「キリスト教綱要」を私は生涯に2度翻訳した。前例のないことかも知れないが、世界に例のない偉業だということではない。むしろ、改訳したのは先のものでは足りないと感じたからである。では、改訳して完成に近づいたか、というと必ずしもそうではない。翻訳には解釈が入るから、悪くなることもあり得る。

 少し話しが本題から逸れているが、翻訳について、ことのついでにもう少し述べる、翻訳について考えるに便利なのは、聖書翻訳の歴史との比較である。かつて私は聖書翻訳は後に出る物ほど優れているのではないかと考えたが、今日はそういうふうには考えていない。後の物ほど悪いとは言えないが、簡単に翻訳の優劣を比較することは出来ないと考える人が今日は少し増えている。

 時代時代の言葉があって、翻訳は原則としてその時代に通用する言語に移される。その時代の言葉の品格が落ちていると感じる人は、敢えて少し古風な文体を採用しようとする。訳文の文体ということでは、今回はここで打ち切るが、言葉が如何に生きるか、あるいは如何に人を生かすかという問題は、日本という国、また日本のキリスト教会にとって、等閑に付することの出来ない問題である。

 

 さて、さらに、その次の神学的解釈が出て来る。ここで1010色の解釈になる。カルヴァンを対象とする研究作業がある。その作業が歴史をなしているので、今ではカルヴァン研究史が研究される。彼を対象として研究した個々人を対象にして研究する。それはもはやカルヴァン研究とは別の物だと言い切れるようであるが、別の物であっても、無縁の物ではない。研究史は研究した時代を炙り出す。どの人も研究している自分が客観的に中立であると幻想を抱いてはならない。研究者は時代の子であることを承知しなければならない。

 さて、カルヴァン解釈をする研究者として、お前自身はどういう立場を取っているのか? それに短く答えて置きたい。私は私自身の現代における戦いに、近く寄り添ってくれるカルヴァンを捉えて、その近くに立とうとしている。

 

 教会

 

 私が生涯かけてカルヴァンを学ぼうと考えたキッカケについては、他で語ったことがあるので、今日は触れないで置く。だが、彼の神学全分野の中でも「教会論」に焦点を絞るようになったことについては余り語って来なかった。私はそれについて黙っていたが、気付いてくれる人はいた。その人たちは黙って私を支えてくれた。黙っていたのは知恵が足りなくて、「教会はこれで良いか」という思いが胸に疼くのであるが、それがキチンと教会論の論法にならなかったからである。

 私はクリスチャンとしては様々な経験をしたことになる。生まれた時、父は信仰者として生きる決意を与えられていて、その時生まれた二番目の息子に「信夫」という名を与えた。彼自身の求める思いと、息子に託する期待が篭っている名である。その命名にほぼ忠実に親たちは子供を育ててくれたと思う。

 私の生まれた町に、その時は日基の講義所があったが、父の入信が最後で、教勢不振のため閉鎖になる。そのような教会事情は幼児であった私には何も分からない。しかし、後年、両親から聞いた話しを繋ぎ合わせ、そこに断片として残る記憶を嵌め込んで見ると、幾らかのことが捉えられる。すなわち、教会も信者も極度に弱体であった。数的に弱いだけでなく、精神的にも養われていない。教会として機能しないから衰滅の寸前であった。そして衰滅した。――自分のことをクドクド述べるのは、私が教会をどのように経験したかを説明するためである。

 幸いなことに、物心つく頃、父の転勤で名古屋に移る。父はここで信仰を取り戻し、熱心な教会生活を始める。都市の教会は教会としての存在感を初めて私に与えた。両親はここで生涯に亙って持続するものを養われた。その力の大部分は牧師の人格的感化であったと思う。幼い私には日曜日に教会に行くことの充実感があったが、キリスト教固有の何かが与えられたとは思わない。その時の追憶が後年、信仰の危機の中で支えになったということもない。幸いに幼稚であったため、教会から躓きを受け取る感受性がなかった。

 1年して後、父は本社勤務になって、一家はまたもと町に帰って来る。講義所も解散したその町には、クリスチャンは私の家庭だけであったが、父は今度は福音の旗印を積極的に掲げるようになり、隣の町から若い牧師を毎週招いて集会をし、これが伝道所となり、やがて教会になった。それを私はズッと見ていた。その見方は次第に批判的考察となって行く。

 教会の中で育って、あるいは大人になって教会に来初めて、それから年を重ねて行くうちに、教会の問題性を感じる人は少なくない。むしろ、問題を感じる方が自然ではないかと私は思う。大袈裟に言えば、私は幼い時からズッと躓いていた。大人になってから、クリスチャンは躓きという言葉が好きなのに驚いたものである。

 大人のクリスチャンの中では、そのような問題が問題にならないで、処理されて行くケースが多い。自分で処理出来ない人は、我慢の緒が切れて教会を離れてしまう。教会側では、あれは所詮去るべき人だったのだと判断するから、問題を問題として受け止めない。

 教会を去らない人は、問題を感じる自分の内に謙遜が足りないのではないかと考える。あるいは、そのように人から教えられ、初めはおかしいと思いながら、そのうちにおかしいと感じる感性を失ない、別のキリスト教特有の感性を受け入れて、その型に嵌まって行く。それが通常、敬虔なクリスチャンと言われる。私は敬虔なクリスチャンに成りきれなかった。――ただし、プツンと切れて教会を飛び出すことにはならなかった。

 この敬虔なクリスチャンのタイプを一刀両断に切り捨てて良いか、という点を考える必要が別にあると思う。しかし、敬虔さを重要視する教会の姿勢のもとで、教会の問題に対する異議申し立てが自己の努力で消されて行って、問題はないということになっていながら問題がいつも燻ぶり続ける。これが日本のプロテスタント教会の遺伝病であった。宗教改革が起こらねばならない病気であるのに、宗教改革の本来の道と全く違った癒しによって、病気への不満を消してしまう。

 

 宗教改革ならどのようにしょちしたか。私流に言うならば、教会はこれで良いのか?と問う問いを封じ込めず、教会は何であるか?の問いに高め、次に、神の言葉が語られているか?という診断に持って行く。

 

 「教会はこれで良いのか?」との問いを最初に、しかも突き詰めた問いにならぬ杜撰な形で感じたのは戦時中である。私自身、戦争の中で或る程度は戦争に批判的であったが、結局は国家の威力に屈服し、迎合したつもりはなかったが、国家のために自分の命を犠牲にすることを厭ってはならないと本気で思うようになっていた。せめてもの気休めとなるのは、そういう立場にたまたまいなかっただけであるが、私の命令で人を殺すことはなかったことである。

 自分のことを棚に上げて、人のことをあげつらうのは恰好の悪いことだが、あの頃、私は教会の姿勢がつくずく情けないと感じていた。国家が教会を統制するのはおかしい、という程度のことは、中学上級生でも分かった。国家がどんなに悪魔的になるかについて殆ど考えなかった。だから、国家が宗教法人を統制するのには反対だという意見が教会の中にあると知ると、まだ教会員としての意識は低かったし、将来牧師になることを予想もしていなかったが、そういう教会に属していることを誇りに思った。

 言うまでもないと思うが、私が誇りに思った教会というのは、当時の「日本基督教会」、日基である。極めて気位の高い教派であった。ところが、見る見るうちに教会の論陣は崩れて行く。反対の意見は消えて行く。そういう印刷物は出回らなくなったのかと思ったが、それだけではなく、意見を持っている人もそれを言わなくなった。

 私はそれを見ていて、教会を説いている人が、教会を実は知らないし、信じていないのではないかと感じた。生意気な感想であるが、間違った判定だとは思っていない。日基はシッカリした教会なのだと教えておきながら、シッカリしていない所を若者にも見せてしまった。

 その私が戦後、牧師になる。牧師を嫌悪していた訳ではないが、初めは牧師になることを考えていなかった。戦後はキリスト教神学を学ぶ道を行った。自分自身の信仰をまともなものにするために神学の学びは必須のものと考えていた。或る大学の助手になっていた。

 そのうちに私の属する教会の牧師が転出し、私が説教を代わって語るようになり、教団の補教師試験を受けて伝道者となり、やがて大学の勤めも辞めて、ひたすら教会に仕える生活に入った。学校勤めをしながら牧師を兼ねることはいけないと考えたのである。誰からもそう指導されたのではないが、牧師になるとは、必要な時には命を懸けることだと信じていた。

 戦争では私の乗っていた艦は沈まなかったが、輸送船も護衛艦も次々沈んだ。勿論、私の乗っていた艦もスレスレの所で助かるという機会が何度かあった。私はそこに神の御手があったのだと感じている。したがって、他の人たちが沢山死んで行く中で私が生き残ったのは、私に何かをさせようとの計画であると考えざるを得なかった。

 牧師としての召しを受けた時、私が生かされたのはこの道に進ませるためであったのだと確信した。そして、教会のために教会論を思想的、学問的にもシッカリしたものとして築き上げなければならないと考えた。

 

 国家

 

 すでに繰り返し言ったように思うが、私は日本という国家に対する異議申し立てをキリストの民としてして来た。初めは、異議申し立てにもならない弱々しい不満の呟きである。

 学校に入った時、すでに君が代とか御真影とか教育勅語とかいうものは教育の中に安定した支配権を確立していたので、家庭とはひどく違うが、学校とはこういうものであろうと、違和感なく受け入れた。ここで、おかしいではないか?と感じるのが本当であるが、私はこの点で鈍かった。

 変化というほどには感じなかった一時的な出来事であるが、神社参拝が学校教育の中に正式に採り入れられたのは小学校3年の時であった。それが鮮明な記憶に残っているのは、神社の本殿に昇らせられ、柏手を何度、拝礼を何度という神道の正式の儀式を自覚のないままにさせられた時である。

 後になって考えて見ると、神社参拝に対する抵抗が少数例であるが始まっており、当局は神社参拝を押し進め、キリスト教がわの抵抗には先手を打って、神社は宗教ではない、という解釈を教会内に広げた。私の記憶では時間的順序はハッキリしないが、ほぼ同じ時期に起こっている。教会を通じての宣伝を両親から神社は宗教ではないそうだ、だから神社参拝をしても良いのだ、と聞いた時、かつて両親が十誡を教えてくれたことと違うのではないかと感じたが、問い直すだけの知識もなかった。しかし、何か不潔なことに与しているのではないかと子供ながらに潔癖感を傷つけられた。

 国家との対峙で次に大きいのは兵役の問題であった。兵役に服することは、「殺すなかれ」の戒めに反する訳ではないと言う教会の教えは知られていた。それでも、そこに何か誤魔化しがあるのではないかという疑念はなくならなかった、その疑念をさらに問いただすことをしなかったのは確かに私の怠慢である。軍務に対する良心的抵抗の事例が断片的な知識ながら、耳に入る機会はあった。本気で調べれば、かなりのことが当時でも分かった。

 とにかく、私は国家との対決を避けた。戦っても勝てなかったのだから、戦わなかったことは正しい選択であったと言えなくない。それにしても、戦わずして負けていたことは事実である。相手の圧倒的な力を認めて屈服したからである。旗を掲げているつもりでも、その旗は降参した印であった。その屈服のままにして置いてはならない。教会は国家と別の次元にあるが、神の御手のもとにある神の秩序として国家に屈服しないものを示していなければならない。

 このことは62年前には言い逃れる余地なくハッキリした。しかし、屈服の姿勢は終わっていないのではないか。私は明日に期待することを止める訳に行かないのである。

終わり。

 

 

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