2007.10.08.

長老・執事・委員研修会

主のために器を掘り起こす


 1

 我々の教会が「残りの民の教会」として立つことを使命と考えるようになって久しい。それは我々の突飛でキザな思い付きからでなく、聖書研究に導かれて見えて来た道筋であり、現代社会と向かい合う中で歳月をかけて吟味され、確かな使命感となって捉えて来た方向である。この理解へと導かれた恵みへの感謝を忘れていないが、我々の理解をさらに詳しく捉えること、また必要ならば修正を加えることは重要である。

 我々の教会が「残れる者の群れ」であるとは、教会が崩壊して、キリストの体なる教会としては失われてしまい、教会の肢体だけが散り散りになって残り、それを掻き集めた、ということではない。残った教会は主が残したもうた教会であって、教会の務めを続行しているのである。だから、我々の一人一人は務めを担う器なのである。

 それらの務めが御言葉に従って機能しているならば、そこに教会があるのであって、群れとしての大きい小さいは問題に出来ない。小さいから価値が低いということにはならないし、小さいほど本物に近いということにもならない。卑近な譬えを借りるならば、体格の大きい人と小さい人とで、人格としての価値の違いがあると考えてはならないのと同様である。

 そのように考えていた我々を昨年襲った試練は、牧師が倒れかけて、説教職が維持出来なくなるのではないかという危機感であった。緊急の場合には、長老が臨時に説教職を代行すべきであるという理解はあった。その覚悟と用意も出来ていた。しかし、かつて予想していた緊急事態は、病気とか事故とか災害とかによる一時的なものであって、長期に亙る牧師の不在は想定していなかった。長期に亙る牧師不在ということならば、新しい牧師を迎えるべきである。しかし、牧師が高齢になって、健康を損ね、務めを続けることが出来ない日が近いと思われ、さらに、他から牧師を招聘することが極度に難しいという状況があった。

 この危機は主の御手によって乗り越えることが出来た。その御手がどのように働いたかをつぶさに見、また考えることは有益なことであるが、今日は触れない。

 危機が乗り越えられた時、我々は考えた。牧師職、説教職に関しては、務めの継承という問題は解決した。だが、牧師職以外の教会の職務に関しては、務めを引き継ぐ器を備えて置かなければならないという課題が差し迫っているのではないか。

 2

 牧師職の担い手たるべき器の備えについては、これまでにも考える機会は多かったし、用意もしていたので、牧師職の後継者を迎える道は比較的単純に開かれた。しかし、牧師職以外の務めを担うべき器について、これまで具体的な用意は考えられてもいなかった。まだ、それを考えるだけに成長していなかったからである。

 務めの担い手となるべき器を用意して置くためには、自然増であれ、努力した教勢進展であれ、人数を増やせば良いではないか、と言われるであろう。しかし、我々はこれまで、それと逆の方向に向いて考えを掘り下げていた。

 多数者の教会を目指すことは、多くの人が長い時代に亙って、それなりの善意で健気な努力して来た。それが間違いであると論じることは今日はしないが、この考えに立って伝道を進めても、務めを負う教会は建たない。「教会成長論」が破綻していることは、我々の東京告白教会の開拓伝道開始以前、すでに兆候は読み取れていた。だから、多数者を目指すことに真理性があるという考えはなかった。全体として教会が衰微して行く時代に移って行く中で、教会が成長することこそ真理であるとし、それを前提として将来の計画を立てるわけには行かなかった。

 だから、教勢拡大によって務めの担い手たるべき器の数を確保するという考え、あるいは、多い目に器を造って置けば、その中にはまともな物もあるはずだ、という楽観は間違いである。では、どう考えるべきか。主は務めの担い手を選び出すことを教会に命じておられる。務めを授けるのは主であって、主が授けたもう務めを受け止める器を、教会は、建設された教会と言われるからには、教会の秩序として選び出す義務がある。その義務をどう果たすかを考えなければならない。

 教会の肢体が全て務めを帯びているとは、教会の理念としてはズバリと言うべきことである。だが、教会の秩序としては、簡単には言えないし、また無造作に言ってはならない。万人が奉仕者だということを強く言うなら、現実の弱さを持っている人間の社会においては、強制や威嚇になってしまう。では、そういうことは言わないようにして置くべきか。いや、そういうことになれば、教会は骨格のない軟体動物の肉体のようになってしまう。

 務めは教会にとって本質に属する。しかし、務めを実際に担っている人とその働きは、本質と矛盾するものであってはならないが、それがそのまま教会の本質だと捉えるべきではない。その結果として、務めを担う人の数は教会全員より少ないのが通例である。

 ここから、何故全員が務めを帯びた者であるという理解にならないのか、という疑問が生じる筈である。一つの体に譬えられる教会は、多種多様の肢体によって成り立っている。そして体のうち何一つとして、務めのない肢体はないではないか。………

 この問いは正しい。そして、全ての肢が務めを帯びており、存在理由を持っていて、弱い肢はますます重要だということを、理念としては、確信をもって唱えなければならない。ではあるが、理念でなく、教会の具体的行動や、秩序ある任務、法的義務として万人の働きを示すだけの理論を、教会はまだ造り上げてはいない。

 3

 教会の務めについて、教会は長い間、「御言葉を宣べ伝える務め」だけを正式の務めであると教えて来た。それ以外は「レーマン」として、正規の地位を持たない付属部分として見られた長い時期がある。この考えを大きく変えたのは、宗教改革の改革派であって、教会の務めに多様性があると聖書が本来説いていたことを読み取って、教会の実際の制度として立て上げたことである。すなわち、牧師、教師、長老、執事の四職制である。

 それ以後の教会はこれ以上には前進することが出来なかった。この職にある者以外の教会員の積極的位置づけは今日も出来ていない。せいぜい、国家から自立している教会において、教会財政を維持する責任、信徒総会において務めの担い手を選挙する責任、この二つだけは義務として理解されるようになっている。だが、市民社会における納税と選挙の義務を常識の次元で横滑りさせて、教会の務めを理解しているらしく思われる。したがって、世俗社会において主張される「納税者の権利」の発想が教会に転用される危険がある。

 この二つの務めについて、意味付けをもっと深める余地があり、また必要があるが、今日の学びの本筋ではないから、触れないで置く。

 とにかく、務めを担う人と、そうでない人との同格は、「教会を信ず」という信仰の次元では明らかであるが、実際論として、それにしたがって同格の仕事を負わせることは無理なのである。

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 では、務めを負う人と負わない人との間に違いがあって、しかも同格である、ということは何によって生じるのか。――それは、聖書の教えによれば、務めは霊の賜物と結び付いているということ、そして、賜物は自由な恩恵として与えられるということを踏まえて考えを詰めて行くと分かるのではないか。

 教会における選挙を難しく考える人がいると思う。厳粛に考えるという意味では、それで結構なのだが、教会の務めという大事なことに携わることが出来る人かどうか、人間の価値を判断する、ということになると、誰が考えても難しい。考えれば考えるほど分からなくなる。

 教会が行なった最初の選挙の時、これは使徒行伝6章に記されているが、ペテロは一同に勧めて、「御霊と知恵とに満ちた評判の良い人を選び出せ」と言った。これを難しい資格と考える必要はないのではないか。世間的な地位や財産については、考慮の必要はない。御霊と、それに結び付いた知恵はなければならない。さらに、信仰のことに熱心であっても、人々の間で、つまり教会外の人にも評判が悪くない人が選ばれなければならない。

 だが、それだけでは教会の職務を持つ者としては足りないのではないか。だが、足りないところは御霊が満たして下さる。教会が選挙に際して断食したという記録があるが、これは選ぶ人の受ける賜物としての判断力に関わるだけでなく、選ばれた人の受ける賜物のための断食の祈りとしても考えなければならない。

 人々に向けて福音が語られる時、福音は無代価で与えられる贈り物であるから、人を偏り見たり、選り好みしてはならないことは当然である。しかし、人間を通して福音が運ばれて行くのであるから、運び人による限界、偏りは当然生じる。

 しかし、最初、ユダヤ人によってユダヤ人に宣べ伝えられることにならざるを得なかったのであるが、非常に早い段階でユダヤ人以外の人々に福音は広がったのである。この広がりの速さは偶然的なものでないことを、我々は使徒行伝を学ぶことによって知っている。それは初めからの神の計画である。だから、今でも福音は無差別に宣べ伝えられる。

 ただし、それは全ての人がクリスチャンにならなければならないということではない。無差別に宣べ伝えられるが、信じて受け入れる人は多くない。それは伝道の失敗ということではない。神の宜しとしたもうた者が信仰に与ることは、神のみの知りたもう秘義に属する。伝道の成果が上がらないことについて我々が咎めを受けることはないと信ずる。しかし、無代価で与えられ、また自らも無代価で受け取って来たものを、他者に与える時に条件を加えるということになれば、その業については裁きを受けなければならないであろう。他の人に提供する時には無代価、無条件である。或る人には勿体をつけて、すなわち価高く売りつけ、買いたくなければ買わなくても良い、という高姿勢をとってはならない。この点では我々は厳粛に自己批判をしなければならない。

 そういうわけで、伝道がなされて、人々が集められる時、将来務めを担う人として教会の会衆によって選ばれるであろう人を、それに先立っては、人の目では全く評価を下せないまま無差別に呼び集めるということになる。ここに人間による人間の評価が介入してはならない。ただし、教会の主はすでに見ておられるということは信じなければならない。

 福音を宣べ伝える相手は、我々の判断によって選別された人ではないはずである。しかし、無差別のつもりで人を選別している場合があるのではないか。悪意の先入見が支配する場合もあるが、必ずしも悪意でなく、そのように見ていることに気付いていない場合もある。

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 福音を宣べ伝えることと、務めを立てて教会を建て上げることとは切り離せないことであるが、別のことであり、二段構えになっている。初めから、どのような人材に育つかを見通して伝道するケースはあると思う。実例を見ることも出来る。しかし、それが普通の伝道者に出来ること、あるべきこと、したがって全ての伝道者にそれだけの鑑識能力を期待し、義務づけて良いと言ってはならない。パウロが優れた伝道者を早い時期に見抜いて育てたことは事実であり、その実例から学ぶことは大いにある。しかし、パウロが期待したのに、伝道者としては失格した人たちもいる。あるいはまた、パウロが期待を断念したのに、バルナバが忍耐深く育てて、有力な伝道者にしたマルコのような人もある。

 主イエスは伝道を種蒔きになぞらえたもうた。種を蒔き、時が来て刈り入れるまでの労が伝道の業の比喩である。そのように単純で熱心な集中的努力として伝道を理解する教派の人たちは、教会が建て上げられるまでの多種多様な労苦を考慮に入れないために、労苦が実らない悲哀を味わわなければならなかった。

 教会形成を重要事と捉える教派においては単純な人集めでは教会が建たないと考えている。福音とは何かをかなり突っ込んで考える。務めとは何か、務めを担うとは何か、教会とは何か、そのような問題を単なる熱心さで割り切って行くのでなく、しきりに考える。それは一応正しいと思うが、堅実に教会形成が出来て来たかということになると問題は別である。

 福音に対し、また教会に対し、この世が格段に厳しくなっている現代において、我々はこれまで以上に深く考えなければならない。この厳しさは、この世が福音と教会を無関係なものと思わせるように働くという面と、この世の力が福音と神の支配を低俗化して、教会をこの世と同質化させる面とに現われていると思う。この世と同質化しようとする力に対しては、我々の間では論じられる機会が割合多かった。そのことについて、今は議論しない。

 議論しなければならないのは、この世が教会を無縁なもの、「キリスト教はもう要らない」と思わせようとしている動向に対して、教会が無気力感に陥って、こちらから切り込んで行く迫力と意欲を失っている点である。

 「キリスト教はもう要らない」と思わせる力が働いていることは確かである。したがって、教会側でもそのような無関心なこの世と関わって労する必要はないではないか、と考えて閉鎖的になり、話しの通じる人だけのサークルとなって、社会の中で一定の存在意義を保っておれば、それで良いのではないか、という姿勢になり勝ちである。これはしかし、落とし穴に落ちたことである。

 世界が、キリスト教も神も必要と感じないものに、どんどんなっていることは確かである。我々も普通の社会生活を営んでいるだけでは、そのような考えに巻き込まれ勝ちである。しかし、もう少し踏み込んで物を見、また考えるならば、現代が神を必要と感じなくなるだけそれだけ、行き詰まりを覚えずにおられなくなっていることに気が付くはずである。

 それが伝道の機会であると言うのは無理かも知れないが、イエス・キリストの福音によってでなければ癒されない傷口がある、と少なくとも我々の間では感じている。そして、キリスト教と関係のない人のうちにも、このことに多少なりとも共感出来る人がいる。

 では、良い傾向があるかというと、そうではないと私は思う。キリスト教内部で現代人の魂の隠れた求めに答えて行く力が盛り上がって来ていない。その力の盛り上がりとしては、教会の言葉が届くようにすること、キリスト者の生活が発散する力が周囲の人々に存在感を与えること、巷の中にあるキリスト教会が町の中で力を感じさせるものになることが必要であろうということは分かる。力を感じさせるとは、世俗次元の宣伝とは確かに別のことなのだが、これは空論を語っているのではない。そのことについては議論をし、知恵を絞らねばならないが、それは力の結集の現われである。その次の段階でその力が器の素材を掘り起こすことになる。

 

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