2008.09.15.

 

信仰の論理としての予定論

 

渡辺信夫


 1 

 カルヴァンの綱要の出版を記念して開かれる講演会で、何を語るべきかを考えた時、最初に思い浮かんだのは、この書物を、しかも一生涯に二度も翻訳した人間が、どういうことを考えて人生をこの仕事に打ち込んだのか、それを語るべきではないかということであった。私が生涯をかけて学んで来たカルヴァンが、今日なお熱い心で人々に読まれていることを有り難いと思っている。そのような読者をカルヴァンにもう一段近づかせるために、私自身がどのように生き、かつ学んで来たかを語ることには意味があろうと考えたのである。

 次に考えたのは、なぜ改訳したか、どのように改訳したかについて釈明が必要ではないかということだった。読みやすくなったと言って下さる方があるが、そういう声ばかりではない。私自身としても、読みやすくしよう、あるいは現代的感覚に合わせようとして改訳したのではない。私は著者の考えにより良く添うようにと願って全面改訳をした。そのため必ずしも読み易くはならなかった。では、著者の考えに添うとはどういう点であるか。それを語ることには意味があるのではないかと思われた。

 このような考えを撤回して、今日見られるような題を掲げるようにした理由、これは単純である。書店が読者の意見を求めたところ、「予定論」について聞きたいという希望が断然多かったからである。

 そのような希望が寄せられても、直ちにそれに従うことはないではないか、という見識はあり得る。人が聞きたがっている話よりも、私が語りたいと思っている主題の方が、聞く人に有益だということはある。………それでも、私は自分の思いよりも、書店に寄せられた意見を優先すべきだと判断した。もっと厳粛な言い方をすれば、こういう主題で語らせることが主の御旨であると私は聞き取ったのである。

 2

 「予定論」はカルヴァンの神学の特色であると広く語られて来た。カルヴァンに忠実であろうとする人は、通常、予定論をカルヴァンが言った通りに言えば、それが彼の神学を理解していることの指標だとする。そのような常識を覆そうとは思わない。ただし、その逆の言い方を尊しとする傾向もあって、常識というものが如何に不確かなものであるかを、どの分野でも専門家は必ずと言って良いほど論じるものである。そうした解説を聞いて、さすがに専門家は深い理解を持っている、感心するということもよくある話しである。

 カルヴァンの予定論についても、私が世の中の例に倣って、常識で言われている説を逆転させるような話しをすれば、喜ばれるであろう。しかし、今日、この主題を掲げて語ることに決まった以上、常識をもっと高度な知識に置き換えるような話しにしてはならないと思う。

 「信仰の論理」という言葉であるが、こういう言い方は、キリスト者で、ものを考える人々の中では、広く馴染まれていると思う。一般に使われている言い方と、私が今言うのと、同じではないかも知れないが、難しいことを言わなくても分かって貰えるものとして話しを進めさせて頂く。つまり、「信仰の論理」ということを勿体ぶって解説し、定義するところから本論を始めるというやり方はしない。

 簡単な話から始めたい。「信仰の論理」としてでなしに「予定論」が語られる場合がある。すなわち、私が「カルヴァンの予定論はこういう骨子である」と解説するとか、「何という神学者の予定論解釈はこういうものである」という具合に、予定論とその解釈を論評する場合がある。それが間違っていると言うつもりはない。その扱い方にはそれなりの意義があるとして置く。ただ、今日、私はそのような論法、そのような姿勢で語ろうとはしないと言って置きたいのである。

 予定論がカルヴァン神学にとって不可欠な要目、肝心かなめであるとはしばしば語られ、私もそれで間違いないと思っている。では、そんなに大事なものなら、彼が信仰の教えについて論じる時はいつでも「予定」という項目を一つ設けていたか、というと、そうでもない。「予定」という言葉を一度も使わずに、信仰の全体を語っている場合はある。

 そこで或る人は、カルヴァンの予定論は大事なものではないとか、最初からのものでなく、途中から採り入れ始めたものである、とか、どういう所から影響を受けて予定論を語り始め、その論じ方は時を経るにつれてだんだん濃厚に、かつ強固になって行ったのだ、とか言う。私はそうだとは考えないが、この言い方に首肯できる面があるとしても、そのように論じたところで、また人々が聞いて今まで以上に良く理解出来たと言ったとしても、余り意味のある議論ではないと見ている。すなわち、「信仰の論理」としての予定論を語るとは、こういう言い方ではないからである。

 「予定」は必ずしも「信仰の論理」としてでなしに語ることが出来るし、語られている。すなわち、「神が、絶対的意志決定者として、永遠の初めから、或る人を救いに定め、その逆に、他の或る人については、そのように定めたまわなかった。これが『予定』、プレデスティネーションである」と言うならば、これは信仰の論理としてでなく、単なる用語の解説として言ったものである。「予定とは何か」という試験問題が出て、今言ったような答えを書いたとすれば及第点が貰える。しかし、前の晩に覚えたことを忘れないうちに書いたというだけのことであって、私の存在そのものとは無関係であり、神が生きておられ、生ける神が私と関わっておられることとは無関係である。その説明で納得出来るというなら、話しは終わったことになる。

 3

 ところが、「それには承服出来ないではないか。神の好みのままに人間の成り行きが決められて良いのか」と異議を申し立てる人が出て来る。そこで、延々と議論が続くことになる。そういう反論に答えられないなら、神に対して申し訳ないと思って、躍起になって、これでもか、これでもか、と反駁を加える人がいる。こうして、もう反論は出来なくなったであろうと看做される所まで行って議論を止めても、反論する人はなお反論するのである。――これはカルヴァン以後のことを言っているのではない。遥か以前から同じ論法が繰り返されているのである。例えばアウグスティヌスが答えたことを、カルヴァンがほぼ同じ論法で蒸し返す場合が幾らもある。同じ問いに同じ答えが向けられ、それがいつもいつも繰り返されている。

 こういう繰り返しがなされていることに気付いた人は少なくないと思う。そこで、不毛な議論の蒸し返しをしなくて済むような決着点を見出せないかと考えて、妥協案を提案することが試みられた。その妥協案で満足する人もいるのだが、「ここで折り合いをつけるようなことをして、それで信仰が立つのか」という疑問が提起される。そこでまた延々と議論が続く。これが思想史の現実である。反論に留めを刺す決め手を見出せると思うのが間違いであると私は思う。

 では、「こういう不埒な議論は相手にしない」と宣言するのが正しいのか。だが、それは謂わば、医者が「私の処方する特効薬で癒される人だけ来て下さい」と看板を掲げるようなものであって、教会の牧師が「私の説教する予定論を受け入れる人しか求道してはいけません」と言うことは許されないのである。開かれた教会は、素直に納得しない聴聞者をも受け入れて信仰に導く。そういう使命を持つのである。

 その場合、「信じられない」と言う人を信じさせる秘訣とでもいうものがあるのかというと、そんなものはない。秘訣はなく、ただ最もありふれた答えであるが、確信をもって、辛抱強く、誠実に語り続ける、という道が一つあるだけである。遠い道かも知れないが、抜け道はない。

 4

 予定論について論じることはこれで種が尽きたと見て良いかも知れない。これ以上のことは議論しても無駄だと思う人がいても、私はそれを非難するつもりはない。が、ここで「信仰の論理」ということを持ちだして見よう。

 「信仰の論理」という言い方について今日は定義を下すことは考えていないが、「信仰の論理」という言葉を使うからには、当然心得ているはずのことはある。第一は、すでに述べたことだが、これが「信仰」の論理であって、信仰抜きでは話しにならないということである。この点について今日は時間を費やすつもりはないが、言わずに置くわけに行かないので、一度だけ言って置く。信仰なしで予定を語ることがあり、その語る人が信仰のあるかないかについて何とも感じないで「予定」ということを口にしている。それを拒否するのは、信仰のない人はこの用語を口にすべきでないという意味ではない。信仰なしで絶対者の意志による予定がなされることを言ってはならないと閉め出すことは余り意味がない。哲学者が信仰抜きでこういうことを論じた例はある。そのことについてキリスト教の立場から何かの評価をすることには意味がない。

 次に、「信仰の論理」というからにはここに論理がある。考える道筋がある。信仰は信仰以外の何物でもなく、信仰を論理にすり替えることは出来ない。しかし、信仰は「考える」ことを伴うのである。考えるとは論理の筋道を辿ることであって、「ただ信じなさい、ただ信じなさい」と迫られて、信じるほかないところに追い込まれたように見られたとしても、筋道がなかったのではなく、その筋道を後で辿って見ることは出来る。だから、信仰は言葉によって表明されるし、表明されねばならない。信仰の始まりは、不信仰から信仰への奇跡的な飛躍であって、道筋を辿って行った帰結ではないように見えるかも知れないが、不信仰から信仰へショートサーキットしかないと見えたところに、道筋があり、後から神との対話の中で、つまり祈りの中で、また自分自身の内省・思索として、あるいは他者との哲学的対話の中で、辿って検証することが出来る。こういうものを「信仰の論理」と呼ぶことが許されると思う。

 神の予定を教えられて、良く分かったから、反論したり疑ったりすることはあり得ない、と言っている人に、それ以上考えなさいと勧めるのは余分なことかも知れない。が、教えられたままに受け入れるというのでは、受け入れたと思っていることが、或る時フト分からなくなる場合があるかも知れない、と考えてもらいたい。ここで「信仰の論理」ということが意味を持って来る。

 「神が絶対的意志決定者として、永遠の初めから或る人を救いに定めたもうた」このことを、その「或る人」である「私」が「私は信じている」と言うなら、そこには「信仰の論理」に入って来ている。「神が絶対者として存在され、絶対者の意のままに全てのことが行なわれる」ということは、信じるかどうかは別として、一つの命題として成り立っていることを人は認める。自分が信じているかいないかに関わりなく、人がこう信じている、ということは認める。その上でこの命題が正しいかどうか、自分にうけいれられるかどうか、それが議論される。

 「信仰の論理としての予定論」は、「神が或る人を予定したもう」と言うだけでなく、「神が私を予定したもうことを、私は信じている」と言うのである。こういう信仰の論理としてこそ、キリスト教の予定論は成り立つものであると私は思う。予定論はそういうものとして成り立っているのであるから、そこでは先に挙げたような議論の果てしない蒸し返しは起こらない。

 5

 これは予定論の場合だけでなく、他の全ての教理条項についても言えるのではないか、と問われるであろう。まさにその通りである。例えば、神の創造についても、キリストの贖いについても、信仰をもって、信仰の論理にしたがってスンナリと受け入れる人と、理性的に考えて納得できればという条件を付ける人との違いがあるのと同列である。

 どんなことについても信仰の論理として論じる場合とそうでない場合があるとは思うが、予定論の場合は特にスッキリするのではないか。なぜかと言うと、「救いの確かさ」あるいは「確信」が予定論では特に大きい意味をもつからである。ただし、これは信仰のことであるから、納得できていなくても信じるほかない、と言うなら、それはそれで成り立つと思うが、信仰の論理はここにはない。

 そもそも予定論は、ただそれだけとして取り上げるならば、絶対者のなさることは絶対であるというだけの、当然と思う人には当然としか言えないことであって、抽象的な議論としては成り立っている。一生涯これを問題なしとして奉じ続ける人はいるかも知れない。しかし、現実の場に持って来ればどうなるか。現実の人間はいろいろな試みに遭う。その試みの中で、当然と思っていたことは当然でなくなって行く。確かだと言っていることも確かでなくなって行く場合が多い。信仰者たちが予定論という教えの有難さを味わうのは救いの確かさとの関係においてではないか。

 救いの喜びは、経験者ならば知っているところであり、聖書の中にも例えば詩篇の中で読まれるように、しばしば揺らぐのである。それは待っておれば嵐が過ぎ去るということと同じではない。経験する嵐の大半は待っているうちに静まった。しかし、待っているうちに滅び失せた例もある。信仰の試練の中で信仰を失った人がいることを我々は生涯に何度も見る。それを見るにつけ、自分はどうなのか。大丈夫なのか。不安になる。その時に予定の信仰が支えになる。

 不適切な比喩かも知れないが、高名なピアニストが高名になっても比較的単純な基本的な曲を弾き続ける。そのように「信仰の論理」としての予定論のレッスンを繰り返し受けることは有益なのである。ということは予定論を繰り返し学習することによって確信がいよいよ確乎不動のものになるということか。ちょっと違うのではないか。「信仰の論理」ということを今日のところでは難しく考えず、ごく単純に信仰の筋道という程度に理解しているのであるが、予定論の筋道を繰り返し辿ることによって、信仰はいよいよ硬直化すると考えては間違いである。硬直した要素は取れて、柔軟になって行くと私は思っている。

 6

 カルヴァンは予定論を教理の全体系の中での位置付けをどこに持って行くのが適当か、かなり考えていたのだと思う。創造者なる神の御業として予定論を体系の初めのところに位置付けるというのも一つの考えである。つまり、摂理と同じように、神の決定として予定を摂理と並べて扱う人は多い。実際、カルヴァンがそのように並べて扱っている時もある。

 それでも、予定の置かれるより適切な位置は、御霊の働きを論じる信仰論に続くところだと彼は考えたのだと私は理解している。先程、確かさについて論じたが、信仰にとって確かさが最も重要であると主張することはいささか問題である。信仰にとっては何を信ずるかのその対象、また信じていることの内実を明確に認識しなければならない。その内実とはキリストが私にあって生きたもうということである。だから、選ばれたことの確信はキリストにあって選ばれている確かさである。しかし、信仰は確固たるものでなければならない。情緒的な流動態に置き換えられてはならない。それは選ばれ、召され、主が完成させようとして歩ませておられる道を進んでいることの確かさである。だから信仰論は予定論と至近距離にあると捉えるのが適切である。予定論が綱要の初めに来ないで第3篇に置かれていることの意味は大きい。

 予定は結構だが、「二重予定」というのは言い過ぎではないか、神が「遺棄」されるとは言うべきでないと論じている人は割合いるようである。しかし、「選び」と「遺棄」は一対のものであって、一方を見落とすことは他方の意味を弱めるというのがヨーロッパの論理学の基礎になっており、その線で二重予定を理解すべきである。

 似た扱いの例を上げるならば、信仰に関する言い表わしは、これこれの条項を「受け入れる」ということと、それを「拒否する」というのとが対になっている。「信ず」ということと「呪詛す」ということとを組み合わせて用いるのと同様な、入念な確言の仕方である。私が選ばれたことと、誰かが遺棄されたこととは、同じ意味のことの反復ではなく、別の事柄を言っていると受け取られることが多いことを私も認めるが、選びは恵みの業であって、遺棄は悪魔的な業だと感じているところは問題である。

 予定を「誰それは選ばれたか」、「誰それは遺棄されたか」という形で展開して行くのは間違いであることをカルヴァンは警告しているが、そのところを読まないで、空しい議論をしている人は割合多い。

 「私は私の選ばれていることを信じる」と言う時、その「私」がどこに立つかを知らないで、そう思っているのであろうか。そうではなく、「私の救い」、「私の信仰」を言う時、「私は私である」ということが最も明確に把握されている。それと反対に、「或る人が遺棄された」と語られる時、遺棄されたその人を特定することは我々には出来ない。それは秘められている。神のみが知りたもう。だから、「遺棄」についての把握は「選び」の把握より遥かに不分明である。私の選ばれたことは確固とした確信であるが、誰かの遺棄は私の確信になれないし、してはいけない。その人のために祈りが出来るだけである。

 「二重予定」という言葉はアウグスティヌスも言い、彼の場合もこの言葉に躓く人がいた。だから、時代が古いか新しいかは問題にならないと言えるようだが、この点について躓きを感じる度合いは、古代よりも、宗教改革時代よりも、その後の近世、近代のほうが強くなっているのではないかと私は思う。それだけに、ここに躓きを感じる人はいよいよこじれて行くかも知れない。

 カルヴァンの二重予定論によって「私は選ばれているのか、遺棄されているのか」という不安に陥る人が多く、そういう人は自分の選ばれていることを確証しようとして、懸命に働いたのだという理論が作られ、それに納得している人が多いように思う。

 うまく出来た理論だと言いたいが、実際はどうだったのか。その理論が当て嵌るケースもあるが、そうでないケースもある。「個」の意識を読み込み過ぎてはならないのではないか。まして、自己が選ばれているかどうかの不安があるために、懸命に働いたし、また自己抑制をして、それで財をなした、というモデルを作り上げるのは、一つの話しとしては面白く聞けるが理論化するのは問題である。

 予定論の影響で個別者の意識が深まったであろうか。全く無関係とは思わないが、予定論を個の意識と結び付けるのは近代意識の読み込みに過ぎない。選ばれた者とは「選ばれた民に属する」という確信があることなのだ。これが教会論の底流になっている。「教会の基礎は隠された選びである」というカルヴァンの言葉は「我は教会を信ず」という信仰告白を基礎づける。

 教会が選ばれて、教会の外には滅びしかない、という選民思想や教会独善主義は今日幸いに衰頽したが、確信のないクリスチャンが増えてしまった。「教会の選び」を知ることは、教会が確信をもって立つためには必要である。実際、予定の信仰が稀薄になったことが今日の教会の衰頽と意識低迷と連動している。

 ただし、私は予定論を盛んにすることによって、今日の教会に隆盛を取り戻そうと呼び掛けようとするのではない。予定論のレッスンは、教会のアイデンティティーの回復ではあるが、教会が教会であることを知るとは、選ばれた僅かの民が、己れの使命を弁えているということである。塩が塩であることを取り戻す道がここに残されている。

終わり

 

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