2009.2.6

「侵略と和解責任――竹島問題から見えるもの」(草稿)

東京告白教会主催 信教の自由を守る日記念講演会

笹川紀勝           


はじめに  

 

・崔善愛『父とショパン』影書房、200812 ピアニストの著作。在日朝鮮人・韓国人の体験に直面して、日本社会の中にある差別と蔑視の根本にある問題を考えたい。その根本問題を扱った一つが『国際共同研究 韓国併合と現代 歴史と国際法からの再検討』笹川紀勝・李泰鎭(イテジン)編、明石書店、2008.129800円。

 

・今日にも存続する課題として日本の韓国への侵略を捉える。日韓・日朝の国家的な和解と、日本国内における在日朝鮮人・韓国人と日本人との和解を将来に預けることは出来ない。

 

・何を手がかりに考えるか。竹島問題、韓国では独島(ドクト)問題。というのは、日本は、中学校の学習指導要領解説において、竹島を日本固有の領土と述べたので、正確な認識が重要に思われるから。参照:日本の外務省のパンフレット『竹島問題』。

 

1.征韓論について

(1) 征韓論は差別と蔑視の発端の問題ではない?

征韓論は5参議(西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が下野した原因といえるか?今日の通説:そうはいえない。

解説:明治政府の誕生、当時の朝鮮に国書を伝えた、だが、国書の体裁が従来の慣行によらないとして朝鮮は国書を受け取らない(1868)。清国を上国とする朝鮮からみると、国書に使われた「皇」は清国の皇帝に使われたものだから。それに対して、西郷ら征韓派は武力で謝罪を求める。大久保らは内治優先を主張。しかし実際のところは、1874(明治6)年における彼らに反対した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが権力闘争に勝利した結果だから。

たしかに政変の原因を狭義の征韓論非征韓論で分析することは表面的な見方。実際は権力をどちらが握るかの問題だったから。例:西郷も国内政治の行き詰まりを打開するために征韓論をブツ。後述するが、木戸孝允のような維新を達成した人々は国学に由来する共通な朝鮮観を持っていた。そのために、政変の本質を指摘することと論者の共通な朝鮮観を指摘することは別。そのために、大久保らが権力をとった時、共通な朝鮮観を実践出来たことが日朝間に横たわっていた問題として注目されるべき。ある意味で、彼らの朝鮮観が今日にまで影響している。

(2) 江戸時代後期の朝鮮観とその流れはどのようなものか?

江戸時代は総じて秀吉の時代とは異なる朝鮮観が支配的。秀吉の侵略に対するある程度修復された日朝関係。例:朝鮮通信使の往来。ただし、日本側は、対馬藩の宗家の家役として行われる日朝の外交と貿易にとどまり、釜山に対馬藩の草梁館(倭館)と呼ばれる出張所を持っていた程度。かかる対馬藩の独占的な利益を享受する家役は廃藩置県(1871)の行われるまで続く。以後は外務省の担当。

具体的:新井白石(16571725)は、通信使に対する厚遇からその規模と経費の縮小をはかる。

佐藤信淵(17691850):弱くて攻めとりやすい土地として支那国、朝鮮。天皇の支配をアジアと世界に広める。世界の中心。

吉田松陰(18301859):征韓論にもっとも影響を与えた。西欧列強の威力を痛感。富国強兵、海外扶植政策。米露など西欧列強に押し付けられた不平等条約による不利益は、朝鮮、中国などアジア諸国への進出によって補う。彼の思想は、門下生に継承される。勝海舟も影響される。

木戸孝允(18331877):新政府に朝鮮遣使を建議。農民や失業した武士階級の不満など内政の不安を外征によって切り抜けようとした。こうした方針の下に新政府は朝鮮に国書を送ったのである。

西郷隆盛(18721877):木戸らと共通の皇国史観に立ち、朝鮮への進出、支配を当然視、維新後の政情不安を征韓によって解決する。たしかに、江華島事件で日本側の対応を批判。そこから西郷は武力による制圧、支配するという征韓論者でなかったという意見があるが、征韓論の展開では使節暴殺論をいい、征韓に備えて部下に朝鮮を軍事調査させている。

大久保利通、榎本武揚、板垣退助、井上馨(江華島事件を起こした。雲揚号艦長)、山県有朋、伊藤博文

福沢諭吉(18351901):文明論之概略。朝鮮、中国は「遅鈍」「野蛮」と呼び、「武力による保護」を主張。蔑視論。「今の支那朝鮮に向かって互いに相依頼せんことを望むは迂闊の甚しきもの」として武力干渉を主張する。その根底にあるものは、先進西欧に習い、近づくためには、これまで交流してきた朝鮮、中国など遅れた国との付き合いは迷惑でむしろ支障となるのでこれとは絶縁し西欧に眼を向けよう(脱亜論)。

 

2.具体的侵略行為ではないか?

思想の段階から具体的な朝鮮侵略行為への変化は注目される。そうした変化は、なによりも雲揚号などによる釜山への入港(1875)がある。これは、先に述べた西郷の例と同じく、新政府は、朝鮮側の国書に対する真意を外務省出仕などに調査させ(18691874)、派遣された理事官の森山茂他は、埒の明かない交渉に対して軍艦を一、二隻派遣して示威運動をしてほしいと要請している(1875)。その要請文の中で、朝鮮の海の測量をすべきだと言っている。この要請に基づき、三条実美、岩倉具視らは協議して軍艦春日、雲揚他三艦を釜山に派遣している。その恐怖は予想以上で示威の目的は十分。その後、西郷らは辞職したが、それに「惟らず」雲揚号は、再び示威運動をする(1875)。雲揚号の海軍演習。そして、飲料水を探す目的で江華湾に入りやがて江華島事件を起こす。

この事件を日本側は国際法に沿って処理した。その結果が日朝修好条規(1876)。開国。

 

3.日清戦争から日露戦争へ

日清戦争(18941895)によって日本は、朝鮮と宗主国中国を引き離すことに成功。そこで、朝鮮とロシアを引き離すために日露戦争(19041905)。この段階で、日本は竹島の日本領土への編入をする。竹島の編入の仕方の問題は後述するが、注目したいことは、1873年の明治6年征韓論の後から軍部が外務省とタイアップして積極的に行動をすることである。

もう少し立ち入れば、当時隠岐島在住の中井養三郎が1904年アシカ漁のためにリャンコ島(竹島のこと)全体の貸下願を隠岐島庁に出した。彼は、同島が韓国に属すると思っていた。そこで、韓国政府に貸下請願をしようと決心して上京。まず農商務省に行き水産局長牧朴真に合った。牧は、必ずしも韓国領といえないのではないかといって、海軍水路部長肝付兼行に聞いた。肝付は、同島の所属は確固としていないといって、位置関係を確かめ、日本人が同島で漁撈している以上は日本領土に編入するのがよろしいといった。こうして、中井の貸下願は、内務・外務・農商務に出されたが、内務省は受け付けず、韓国駐在の外交官生活の長い外務省の山座局長は、韓国領であることを知りながら「時局なればこそ領土編入を急要とする也、望楼を建築し無線若くは海底電線を設置せば敵艦監視上極めて屈境ならずや」といった。かくして19051月の閣議で、同島が無人島であること、他国が占領した形跡がないと断定した。日本政府は「無主地先占」といわれる国際法の理論を適用して日本領土へ合法的に編入した。

したがって、日露戦争の過程で、竹島の占める評価が変えられたのである。確かに、日露の戦局は19056月には緊張していた。日本の輸送船が次々に沈められていた。これに対処するために、海軍は、監視や通信施設の増加をはかった。こうして、朝鮮本土から鬱陵島、リャンコ島(竹島のこと)、松江に至る一連の軍用通信線が引かれた。それゆえに、日本政府にとってリャンコ島は軍事的な利用対象にほかならなかった。

 

4.国民に正しい情報が提供されているか?

竹島にそっていえば、外務省が無主地というようになった経過は説明出来た。これさえ外務省は国民に知らせていない。そして、歴史的経緯についてはもっと知らせていない。以下簡単に述べてみよう。

重要な事件はいくつかあった。

⑴ 元禄時代の「竹島一件」

実は、今日竹島という名称の島(岩礁)は、日韓で相違していた。江戸時代はそれは松島といわれた。鬱陵島が竹島と呼ばれていた。こういう混乱はあった。

元禄時代に、7年間日韓で争われた。1692年、江戸幕府の渡海免許を受けて竹島に出漁した大谷・村川家は、同島で多数の朝鮮人にあった。劣勢の両家は早々に引き揚げて鳥取藩に報告した。翌年もそうであった。鳥取藩からその対処方法を問われた幕府は、朝鮮と交渉した。このとき、竹島とは鬱陵島であった。鬱陵島は韓国の領土とする返書を幕府は得た。幕府は、他の島もあるかと鳥取藩に聞いた。竹島(独島)の存在は知られていなかった。そこで、幕府は,自藩領でないという返事を聞いて,同島は朝鮮領であると判断した。1696年竹島を無用の小島と断じて鳥取藩に渡海禁止を申し渡した。そこで幕府は松島(竹島、独島)について何も言わなかったが,幕府決定における鳥取藩回答を見ると,松島も暗に放棄したとみられる。

⑵ 明治時代の太政官指令

1877年、島根県から内務省に「日本海内竹島他一島地籍編纂方伺」が出された。鳥取藩の文書をもとに返書が作成された。「他一島」とされた松島は現在の竹島・独島である。内務省は江戸時代の書類も調べて,竹島他一島本邦に関係ないという結論を出した。太政官でさらに調べて同じ結論が出された。したがって,今日のいう竹島と鬱陵島は日本領でないと判断された。

 

5.結びにかえて

以上の事例からすると、1905年の無主地を理由とした日本領土への編入はいかにもおかしい。外務省は、歴史的にも竹島は日本の固有の領土だというとき、以上の判断はどこかに行ってしまった。こうした正確な事実に基づいた正しい国家の判断が国民に伝えられてしかるべきである。

そこで重要なことは、竹島の日本領土への編入が、国際法や歴史的判断に基づくよりも、戦争それも日本の朝鮮侵略の戦争のために行われたという事実である。その最後の出来事が1905年の日本による韓国保護条約の強制であった。それゆえに、事実を事実として認識するとか、国際法に基づいて判断するとかは、二次的であった。その結果が日本国内における激しい差別と蔑視をもたらしたといわざるを得ない。事実を事実として認識するとか、法は尊重するとかがないまま、今日の在日の人々の権利関係が形成されている。これは心理的な和解の問題とは別の社会的国家的な和解の課題であると思う。後者が確立しないところで、感情的な前者の問題は解決しない。まさに私たちは和解する客観的な課題に立ち向かわなければならない。

 

 

 

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