2006.02.05.


東京告白教会全員協議会での発題


「野宿者への奉仕」

渡辺信夫


今年2月の全員協議会のテーマに選ばれたのは、野宿者への奉仕である。協議会の発題として、私には教会的・原理的な観点から論じることが課せられた。

 ディアコニアの教会として、考えるだけでなく、具体的に何を始めるべきかを長い間模索していた。だんだんホームレス問題に焦点が絞られて来たが、「仕える」ということは、キリストのためなら何でもする、という姿勢で行なわなければならない。だから、何でもする身構えがなければならない。

我々の教会としては、久しい昔から平和のための活動をディアコニアと考えて来たし、元慰安婦の人々の支援運動も同様である。これらの活動のために時間もエネルギーも使う。その領域の仕事はだいたいにおいて靖国委員会が担当になるが、分担領域をハッキリ区分すると、セクショナリズムになる危険がある。誰か気がついた人が動くことにして置くべきであろう。ディアコニアは幅広い流動性のある活動である。けれども、散漫にならないように、守備範囲というようなものを決めておくべきであろう。平和運動や慰安婦運動を教会の主な奉仕領域と決めることは出来ないとは言わないが、運動としても多角的で、幅が広すぎるから、むしろ、そういう活動をしている人たちに主力となって貰い、我々は出来るだけ協力するような形にすべきであろう。例えば、日曜日に行動することがあっても、我々は参加しない。ノンクリスチャンの運動家たちがその立場を受け入れている。

野宿者に奉仕するのはチームワークであり、専門知識とまでは行かないが、それでも一定水準以上の知識を必要とするから、誰でも良いということにはならない。しかし、運動の支援は素人的であって良いし、素人である方が良い。

 砧公園の毎週のパトロールを始めた時、我々には細部に亘る計画は立っていなかった。細目について考えていては、いつまで経っても実行に取り掛かれないと思われたからである。とにかく始めて、いろいろなことに出会う中で考えて行こう、というのが方針であった。こうして始めて、3度目の冬も峠を越したと感じる今の季節は、来た道を振り返って考えるには近すぎず、遠すぎもしないところである。始めた時の印象もまだ薄れていないから、懐かしさを語り合うというような後ろ向きの姿勢でなく、検討材料としての生の記憶も残っている。

 

 実行に取り掛かる前の段階から話しを始めよう。ディアコニアのことに関し、先駆的役割を担ったのは小川武満牧師であった。葉山島診療所の活動は古いが、もっと古く、私が最初に出会った時すでに、彼は中国に対する罪責を感じて、中国医療伝道に赴く志を固めていた。それが当分は実現不可能ということが分かって来て、路線変更を余儀なくされたが、植民地主義の尖兵でもあった医療伝道よりは、教会のディアコニアの方がずっと教会的であった。

教会のディアコニアを立ち上げたいと考えた先生は、さまざまの試みをし、奉仕団体を結成する呼び掛けもし、何度か研究集会を催した。また老人のためのクアハウスを始めようとした。今可能な設計図というものを私に示され、「あなたが賛成するなら始める」と言われた。私は居住面が貧困だからこれでは難しいと判断した。資金面からこれ以上の設備は無理なので、先生は断念された。私の判断は間違っていなかったと思うが、ここで踏み出したなら、何かが出来たかも知れない。

 もう一人考えていた人を知っている。長谷川保男牧師である。寡黙な人であるから働きは知られていないが、実行力は抜群であった。阪神大震災の時、東京から真っ先に駆けつけた人である。自分一人でいろいろなヴォランティアをしていたが、ヴォランティアではなく、教会のディアコニアを始めなければならない。それは教会が大きくなってからでは遅い。伝道所のうちに始めなければならないと考え、執事を立てることも始めようとされた。「伝道所のクセに執事を置くとは何事か」と叱る人がいたらしい。これがガン発病間際であったため、奉仕委員を制度化しただけで働きは進展しなかった。先生が死ななかったなら、世田谷の公園パトロールは二つの群れの連合体として実行していたのではないか。

 もう一人、私が具体的なことで手引きを受けたのは、芳賀繁浩牧師である。カルヴァン研究所の書籍の登録のために長期間奉仕に来ておられたが、お茶の時間には豊富な話題の話し合いが出来た。その一つが野宿者問題である。彼自身パトロール経験者であり、今でこそ大中会の仕事で実行不可能な状況にあるが、野宿者支援組織との関わりも持っていて、情報も豊富であった。「パトロール」というアプローチがあることを教えてもらったのは彼からであった。「シェルターレス」という専門雑誌を読み出したのも芳賀牧師の紹介による。

 

 我々の側の準備としては執事会の充実があった。だいたいにおいてホームレス問題が我々の立ち向かわねばならない課題ではないかと考えるようになった。徳永静子さんが3年ほど横浜の寿町に通って経験を積んだ。クリンケンの「ディアコニア」の学習も準備になった。

 

 パトロール方式を選択したのは、我々の態勢やスケールとして、それしか出来なかったからであるが、教会的な業としては最も良くマッチしたものであると後になって気付いた。パトロールならば設備や施設というものは要らない。組織というほどのものも要らない。人間と人間の出会いと協力があれば、スグに仕事を立ち上げることが出来る。また、仕える器としての人間を磨くことが出来、忙しさにかまけて修練が出来なくなるということもない。設備維持の関心と努力が、人間よりも設備の方に重点を置かせるという矛盾もない。

 ただ、このような小規模な営みでは、巨大化する一方の野宿者問題の解決にならない。これでは一種の趣味に近いのではないか、という批判があると思う。何もしないで批判だけをしている人が言うなら、答えなくて良い。この問題は後で取り上げる。

 

 私自身パトロールに参加した回数は少ないので、経験を語ることは今日は差し控えて置く。私が老齢になり、働きの中心になれなかったことは却って良かったと思う。すなわち、私がこれにのめり込んだならば、パトロールは牧師中心の業になってしまい、説教は低下することになって、奉仕活動にも結果的には良くなかったと思う。牧師には「キリストのために何でもする」という気構えが必要であるが、先ずその気構えをもって説教をしなければならない。

パトロールを始めてから私の説教が奥深いところで変わったと私は感じている。それは初めのうちズッと対馬さんがいたため、彼を意識した、ということではない。特別な立場の人が来ているから、言葉の表現に気を遣うということは、その人に対する思い遣りのようではあっても、実は差別、軽蔑、警戒であると私は思う。

 ある教会の礼拝に野宿者が訪れ、長老たちが大慌てしたということを当の長老から聞いたことがある。普通の教会、特に大教会の姿であろう。その来訪者は二度と来なかったので、慌てた長老たちも安堵したようだが、二度と来なかった人は、ここは自分の来る所ではないと感じたのであろう。

ところが対馬さんは、ここで自分は受け入れられていると感じた。教会に来た他の野宿者もそういう感じを持ってくれる。それは会堂が小さく、貧しげであるということの別の表現に過ぎないから、有頂天になってはいけないのだが、貧しいからこそ、その人たちにアットホームな感じを与え得たことは嬉しい。

 逆に、もし私たちが、「もっと立派な会堂に建て替えようではないか」と言い出し、「そうだ、そうだ」とみんなで賛成し、綺麗な会堂が建って、「目出度し、目出度し」と言っていると、対馬さんのような人が来ても、「自分の来る所でなかった」と言うであろう。これまでにも、会堂はもう少し何とかならぬか、と言った人はいる。その声で踊らせられる人がいなかったことは幸いであった。しかし、まだとにかく建物の形があるから、問題は起こらない。そのうちに、いよいよ建て替えねばならなくなるのではないか。その時、貧しい人が訪れて、ここで自分は受け入れられていると感じるかどうか。そうなることは不可能ではない。それを今から追及していても良いではないか。

 

 支援を餌に教会宣伝をすることになると困るというためらいが以前にはあった。しかし、始まって見ると、意識しすぎる必要はなかった。与える側の優越感はないし、受ける側の卑屈感もない。解釈によっては、優越感と卑屈感があると言われるかも知れない。何かの機会にそれが露呈されることはあるかも知れない。しかし、我々の関係は相互の理解を目指すものだから、理解は時とともに深まり、人間疎外の方向に行くことはないと思う。

 対馬さんのように初めからスッと入る人は少ないようだ。それでも、教会で食事会をする時、わだかまりなしに入って来る。毎週のお便りも喜んで読んでいるし、伝道会にもこだわりなしに来る。求めて門を叩くというのではないが、大衆的でない文化的な集会に行って、得るものを得てくるというような姿勢がある。求道心が刺激される話しでないことは聞き手にとっても幸いである。

 伝道の成果はないではないか、と言う人がいると思うが、我々は伝道と奉仕を混同していないのだから、パトロールのお蔭で教勢が伸びたということにならなくて幸いだったと思っている。

 もう一つ、我々の教会で差別感の克服を早い時期から学んでいたことも、野宿者の受け入れ準備になっていたことを思い起こす。すなわち、ハンセン病者への偏見が強かった頃、我々はそういう偏見を卒業し、同情という名の差別も克服することが出来た。差別の克服は交わりの拡大であって、我々は小さい教会であったが、小さいからこそ豊かな交わりを主から頂くことが出来た。

 

 敗戦によって目を開かせられて以来、私は政治の不正に対する憤りを持ち続けている。だが、野宿する人と知り合ってから、この人たちの見る目で国の政治を見るように近付いた。政治そのものが格段に悪くなっているということも確かであるが、社会の底辺に突き落とされた人が、どういう人であるかが分かるとともに、その人の目で見ることが出来るようになって来ると、政治の貧困がいよいよ我慢出来なくなってくる。それも評論家の目で見るのでなく、キリストがこれを見られて、どう言われるかと考えながら見る。そうすると、痛みなしでは見ておられないと共に、怒りなしにもおられなくなる。これは私だからということではない筈だ。私といっしょに御言葉を聞く人たちの共通意識でなければならない。

 説教が変わったと言っても、よその人たちには通じないであろうが、告白教会の中では、それは共通確認事項になっていると思う。

 説教とパトロール、この二極が我々の教会の現在の活力の源泉だと言って良いのではないか。

 

 我々の奉仕はこういうことが求められているから始めたのであるが、我々はこれが事業であるとも考えていない。だから、その成功を望むこともなく、事業の拡大ということはまして考えない。ディアコニアはディアコニアである限り、しもべの業であって、自己目的化する要因を抱えた事業にはなれない。

 それでは、ドンドン野宿者が増えて行くこの時代の現実に何も対応できないではないかと言われる。それはそうかも知れない。我々は社会問題の解決という使命を持っているのではない。このようにホームレスの人が増えて行くのは政治の失策である。政治の失策の生み出した問題は、正しい政治によって解決すべきである。そのような正しい政治の回復を我々は支援しなければならない。しかし、我々は政治を使命とするものではない。

 我々は「あなたの隣人を愛せよ」と言われたお方の命令に、主を信じる者として従っているのであって、目の前に助けを必要とする人がいる以上はそれを助ける。我々の働きの対象は野宿者群でなく、ホームレス層でなく、常に一人の「何々さん」という隣人である。

 

 では、このようなささやかな活動では役に立っていないのかというと、自分自身としては、「私はふつつかなしもべ、すべきことをしたのみ」と答えるしかない(ルカ17:10)。これは主イエスが教えて下さったままの答え方である。ところが、少人数ではあっても、我々の訪問を毎週待っている人がいる。その人たちは我々を必要と判定してくれる。隣人が我々の働きを必要とする以上、我々はその働きを止めない。また、そういう人が増えれば、我々の働きも増やさなければならない。その覚悟は必要であろう。だが、我々の能力を遥かに上回る規模拡大が要請された時はどうするか。

 そこまでは考えていない。これまでにも考えていなかった問題が起こることは当然あるが、その時は主に問えば良い。我々は教会の業として行なっているのであるから、教会の枠を超えたものは今のところ考えない。考えねばならない場合があるかも知れないが、仕事が我々の手を離れることを考えるのも許される。

 

 それで、いろいろな問題を今日持ち出すことはしないが、こういう形の援助が求められている時代、また、社会全体としてこういう活動が必要だと考える人が少しずつではあるが増えている時代に、我々の実践で得たノウハウを分かち合うことは考えてよい。

我々の教会はずっとディアコニアを考えて来たから、ディアコニアの実行が出来たのであるが、そういうことを考えて来なかった教会が、今、急いでこれを始めても、旨く行くとは思われない。例えば、我々の教会が教会独立の時から強力に主張し、むしろ戦い取ったというべき執事の按手が理解されず、実行もされていないところで、ディアコニアを立ち上げようとしても、うまく行くとは思われない。何かをしているが、教会的ディアコニアでないものになって行く恐れがある。それでも、こういう問題を新しく考えないではおられなくなっている人を邪険にあしらうことは主の御旨ではないと思う。

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