2008.10.26.
東京告白教会伝道会
汝、殺すなかれ
渡辺信夫
毎日の新聞で、人が無雑作に殺される事件の報道を読むようになった。そのような記事が新聞に出始めた頃、我々は非常な驚き、恐怖、悲しみに打たれたものである。しかし、その衝撃に今ではかなり慣れた。そして慣れたことに気付くと、こういうことが平気になっている自分自身の感覚がおかしくなっているのではないかという不安が持ち上がって来る。
確かに、人間社会は急速に崩壊している。人と人とを結びつけていた絆は切れてしまった。親と子の関係も簡単にほどけてしまう。まして、行きずりの人とは、人間と人間という関係があることにすら無頓着になって行くのではないか。
いや、必ずしもそうではない、という反論があると思う。私の経験の範囲でも言えることだが、人々の親切を感じる機会が最近は多いのである。電車に乗ると、必ずと言って良いほど誰かが私に席を譲ってくれる。――それは私が見るからに哀れな老人になっているというだけのことかも知れない。そうだとしても、私の感覚で言えば、このような憐れみを受けることは少し前には余りなかったのである。
では、人々は優しくなったのか。そうだと思う。ただし、このようにして世の中がだんだん良くなって行くのではない。人を人とも思わぬ凶悪犯罪が増え続けるという、もう一面の事実がある。このように社会が崩れて行くから、それを癒そうとする力が、いわば自然治癒力として働き、人々が親切になっているのかも知れない。――それは或る程度言える。しかし、今日の人間崩壊は自然の治癒力によって回復するとは、もう考えられない程、社会は崩れてしまったのではないか。
30年ばかり前であろうか。あるいは、もっと前に始まって、私が気付かなかっただけかも知れないが、人々は「癒し」という言葉に引かれ始めた。癒しを必要とする人が増えたからだと私は理解した。しかし、癒しという言葉が広がれば広がるほど、癒されなければならない人、そして癒され切れなかった人は増えて行った。人数が増えたというだけでなく、癒されねばならない病いの質が変化した。昔は「変質者」が犯罪を犯すと言われた。しかし、近年は「変質者」とは言えないし、そう見えない「普通の人」が殺人者になるという変化がある。
私はこういう問題に特に関心を払って、研究したり論じたりしている者ではなく、普通の人間の一人として社会を見ているだけであるが、昔は「反社会的人間」というタイプの人がいて、それは普通でない考えや、普通でない振る舞いをして、社会を破壊すると見られていた。だが、この見方そのものに問題があったのではないかと今では思う。すなわち、昔は普通でない人間が犯罪を犯すという説明で一応納得できたのだが、今では、普通の人、まさかと思われる人が大々的な犯罪を起こすのである。
見方を換えて言えば、普通の人であるつもりの私、その私がトンデモナイ犯罪を犯すことはないと言えなくなっている。私が自分についてそう考えるだけでなく、私は人からもそう見られているのかも知れない。例えば、私がセキュリティーのしっかりしたマンションに住むとする。そこは安全で快適かも知れないが、安全な場所と言われる所には、至る所に監視カメラが設置されていて、私の出入りも撮され、時刻が記録に残る。私に対してそのカメラは犯罪人並の扱いをする。そんなにしてまで身の安全を守らなければならないか、という問題はあるが、もう一つ、自分と悪人とを区別し、自分は善人の側にいるのだと考えていたこれまでの考えは、通用しなくなったのだなと感じさせられる。
脇道に逸れ過ぎたかも知れない。主題に戻るが、殺しが横行する時代になって、「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉が、以前よりずっと身近に聞こえ、よそごとに思えない環境になっている。そのため、周囲と自分自身をこれまで以上入念に見回さずにおられなくなった。
ところで、今日私は現代と現代人についてあれこれ論じるのでなく「汝、殺すなかれ」と言われるお方、すなわち神、この神について、また神が私にこう言われることについて第一に思いを向けたい。
「いきなり神について語られても、取っつきようがないではないか」と言われるかと思う。その人の戸惑いが分からぬ訳ではない。私はこれまで、神のことが語られても、取っ掛かりがないと感じる人のために、回り道ではあるが、少しは歩き易い道を付けるのが自分の務めではないかと考えて、信仰の世界の外にいる人に「神を信ぜよ」と、いきなり押し付けることは差し控え、その人と一緒に考え、その人の持つ知性、考える能力を手がかりに、信仰の意味が少しは見えて来るように論じていたつもりである。今後も、そういう論じ方を続けて行きたい。しかし、今日は「汝、殺すなかれ」という言葉、またこの言葉を発しておられるお方の前に直接皆さんを立たせたい。
今日は話し方を変えるとは、どういうことか? いつものやり方、すなわち、人間について、あなた自身について、あなたと他の人との関係について、そこにあるいろいろな問題について、問題の行き詰まりについて、掘り下げを一緒にして行くやり方では、いけないのか? いけないとは思わない。だが、これでは問題に対する一つの解答が四つも五つもの新しい問題を呼び起こし、止めどなく広がって行く。特に今日の主題についてはそうである。取り上げねばならない多くの問題は、作り事でなく、事実あるのであり、それを論じるのも空虚な遊びではない。だが、差し迫っている問題に立ち向かっている時なのに、長々と時間を取って、しかもまだ核心部に踏み込めない、というようなことではマズイのではないか? と私は考えたのである。今は端的に核心部に踏み込むことが必要なのではないか?
もう一つのことがある。時間が掛かり過ぎるというのと必ずしも矛盾しないと思うが、この問題を考える人間の「姿勢」というか、目を向けている「方向」、これこそが決定的な点であるから、ここでは端的な言い方をしなければならないと思うのである。つまり、人が人を殺してはならないということは、人間というものをつぶさに考えた末の結論であると言えるが、神が「汝、殺すなかれ」と言われて、それに従う場合は、理屈を突き詰めた結論とは違った意味合いを持ち、そのことこそがここでは大切だと思われるからである。――ここまでは、手引きされて、丁寧な説明に納得しつつ歩んで来たけれども、ここは自分で飛び越えなさい、と言われる勘所である。
「神」という言葉を聞いて、何とも感じない人が今では圧倒的多数になった。つまり、その神が「人殺しをしてはならない」と命じていると聞いても、自分とは無関係であり、無意味な言葉だと思ってしまう人が大部分になった。そういう人に「神の言うことを信じなさい」と勧めても、「神などというものはないのだから、ない者の言葉を信じることは出来ない」という答えが返って来るだけで、話しは進まない。
しかし、考えてもらいたい。神があって、その神が私に、「これこれのことをせよ」、あるいは「これこれのことをしてはならない」と言われるなら、私はそれに従うほかないのである。そのことは、神を信じている私にとっては事実である。つまりあなたが神の存在を信じているかどうかとは別問題として、私にとっては事実だと分かって貰えると思う。
私の場合、もし私が神からそのように指図されたのに、それを聞き流し、神の言葉を聞き流したことについて良心の咎めも感じもしないとすれば、私が「神、神」と言っており、「神を信じる」と言っているのは、ただ空転するだけのコトバに過ぎないということも分かって貰えると思う。そういう私が、また私だけでなく信仰者たちがいて「汝、殺すなかれ」という戒めを守っていることは、あなたの問題ではないとしても、あなたは事実として考えて見ることが出来る。
コトバだけというのは、別の言い方をすれば、私が「神」と呼んでいるのは、私の頭の中で空想された創作、構築された「観念」に過ぎないということになる。したがって、私が「信じる」と言っていることも、自分は信じていると自分で思い込んでいるだけ、ということである。つまり、「神」と呼ばれることになっている架空の作り事があるだけで、本当の神ではない。また、「神を信仰している」といっても、信仰していると自分で思っているだけ、もっとハッキリ言うならば、自分を騙しているだけのことである。信じるとは、ウソのないことが立証されることである。
今、「信じる」と言っていることに証しが伴わなければならないという意味のことを言ったが、同じように、「神はない」とか「神は死んだ」と言う人は、それを本当に信じている証しを問われるであろう。どういう証しがあるか。或る人は神はいないと立証するために、一つの殺人事件を起こす。その事件を誰からも知られない完全犯罪にすることに成功した。それでは、神がいないことの証明が成り立ったか? これはある小説に書かれた話しであるが、小説の筋に触れることはしない。それとは別のことであるが、今日、人を殺しても平気でおられると思って、平気でこれを実行する人がいることと、人々が「神はない」と思っていることは繋がっている。つまり、神がないと言うなら、その証しとして、何とも思わずに殺人が出来ることを示すであろう。今日、何とも思わずに人を殺す人が、神のいないことの証明というような思想的なことを考えた訳ではないが、神がいないと思う人がいることと、人を殺して何とも感じない人がいることとは、意識的に結び付けられてはいないが、無関係ではない。
空想された神ならば、偶像と同じく人の手で造られたもので、そういう神は捨てて、「本当の神」の前に立たなければならない。自分を騙すことは出来なくなって、真実が全てにおいて明らかにされるようにしなければならない。その「本当の神」が「汝、殺すなかれ」と言われる以上、それには絶対に服従しなければならない。こうして、殺人は起こらなくなるであろう。
その逆に、神はないと信ずる人は、神がいない証拠に、自分は人殺しをして見せる、と言うことがあるかも知れない。いや、知らされていないだけで、そういう事実が起こっていると見ても良い。しかし、これは思想としても破綻である。
ここまで私が論じて来たことは、「神を信じなさい」という説得としては不十分である。しかし、「汝、殺すなかれ」と語られる神を、多くの人が見失っているところに今日、至る所に殺人事件が起こっているという問題の根底があるということを、私が指摘しようとしている点に、お気付きの方は少なくないのではないか。
では、一人一人が、自分を騙すような独りよがりの信仰でなく、そのお方の前では全ての真実が露わになるような、その神を信ずるようになれば、今日の世界の問題は解消する、と私が勧めているのか、というと、少し違う。確かに私は人々が神を信じるようになってくれることを願う者ではあるが、その願いを述べたところで、現代の問題の解決にはならないことを承知している。だから、今日の話しがここで到達点に行き着いたかのように、「神を信ぜよ!神を信ぜよ!」とお題目を繰り返し唱えることはしない。もっと踏み込んだ問題について論じなければならない。
しかし、ここまで論じただけでも、或る程度のことは分かったであろう。すなわち人々が「神なき世界」を造ってしまったために、かつての人々が直面して苦しんだ以上の苦悩が現在始まっている。いや、これはそう簡単に理解出来ることではないから、分からない、という人がいても良い。それでも、キリスト教の牧師がこのように叫んでいることには心を留めて置いて欲しい。今は分からなくても、いつか分かる日が来ることを期待して私はこう叫んであるのである。心配なのは、「分かった」と言う日が来たが、もう遅すぎるということになりはしないかという点である。
さて「人を殺してはならない」と神が規定したのは何故か。それは人間の生命の尊厳によるのだと理解している人は多いと思う。その考えを長らく支えていたのは宗教だと言われる。そして宗教の意味が現代では著しく衰頽した。
「人間の生命の尊厳」ということについて、嘗て人々は全く疑わなかった。人間の生命の尊厳は侵し得ない、と殆どの人は考えていた。そのことの説明のために持ち出されるのが「たましい」、「霊魂」というものであった。しかし、「霊魂」というものが本当に存在するのか、と疑問視する人は昔からいた。そういう疑問を抱く者は不埒な人間と決め付けられたのである。「霊魂の不滅」という原理が最も重要な原理であると昔は普通に考えられていた。霊魂の存在と人間の生命の尊厳は容易に合体させられていた。しかし、今では「霊魂」という言葉を聞くことすら稀になっている。
今日は霊魂について論じるつもりはない。かつてキリスト教では、あらゆる局面で霊魂が論じられ、厄介な問題はこれで簡単に片付けられた。今では霊魂、たましい、という言葉を聞くことが稀になったと言ったが、それはキリスト教が弱体化したからであろうか。必ずしもそうではない。霊魂というような言葉がもともと聖書になかったとまでは言わないが、それは聖書の重要な教理ではなかった。聖書と別の思想が入って来て、霊魂不滅がキリスト教本来の第一義的な教えであるかのように受け取られたのである。その次第がだんだん明らかになったために、人々は霊魂とか魂ということを余り言わなくなった。霊魂について触れたのは、生命に関してこれが持ち出されることが多いので、私がこれを取り上げないことについて説明しただけである。
前の世紀から、人間の生命は霊魂という「もの」ではなく一つの現象であり、その現象は科学的に、化学記号を用いて説明のつくものであると見られるように変わった。その理解は人間の生命だけでなく、全ての生き物の生命についても同じように適用できると言われるようになった。
人間の生命の尊厳を思うことと、可愛がっているペットをいとおしむことは同列だと思う人が出て来た。ペットの葬りを商売にする人が、これは人間の葬りを行なうのと同列であるから、宗教であって、宗教としての免税措置を受けたいと言う人まで現れた。さすがに税務署ではその言い分は通らなかったのだが、人間の死の意味と愛玩動物の死の意味との違いが分からなくなっている人が現われ始めた。
そのことの逆の面の現われが見られる。我々が有害な昆虫を叩き潰して何とも感じないように、自分にとって有害な存在である人間を抹殺するのは、基本的に同じではないか、と考えられるようになっているのではないか。
自分にとって有害である人物だから抹殺したい、という衝動が働いて、人を殺すことは、人類の歴史の初めの段階からあった。しかし、憎しみの衝動に駆られて人を殺すことが出来にくいように、強い抑制が人間の内面に働いた。それは「人間の生命の尊厳」という思想で、その思想がいろいろな形で教え込まれた。今でもこの思想、観念はかなりの程度の抑止力を持っているので、殺人という犯罪はかなり抑えられている。
けれども、人類社会の教育力は、以前と比べて著しく劣化した。生命の尊厳が教え込まれても、人は必ずしも受け入れない。隣り人の生命の尊厳を侵してはならないという観念が、良心に強く作用していないケースが増えている。だから、何とも思わずに人殺しが出来るようになった。
このことは人類が劣化した表れだと慨嘆する人が多い。当たっているかも知れないが、そんなふうに決め付けても何も出て来ない。人間が劣化したなら、その再建を考えねばならない。その再建については別の機会に議論することにしたい。今は、人間というものが、過ぎ去った世代と過ぎ行きつつある世代によって教えられ、形成され、自らも自発的に修練を重ねて、人間になって行ってこそ人間なのだということ、したがって、成熟段階に達していないとしても、その方向に向けて歩んでいるのだから、達成を先取りして評価されること、この二点が重要である。にも拘わらず、そういう人間理解がなくなった、あるいは忘れられたという問題には心に留めなければならないのではないか。
今言った「形成されて行くこと」、またそのように「形成されつつあるものとして捉えられる」という二つの点は、一つのことの両面と見た方が良いかも知れない。すなわち、人間は将来に向いた存在として理解されねばならないのである。自分自身を捉える時も、今ここにこのようにあるある者として捉えるのでなく、来たるべき時に向けて方向づけられている者として、彼方から評価されるのであり、したがって、そのように見られている者は、現実で規定されるほかないのではなく、現実を越えて規定されるそのような生き方をしなければならない。他の人を見る時も、その人を現在見えるままの彼として判定するのでなく、彼方から、来たるべき時から見られ、判定される者として理解される。
ここで少しの間脇道にそれる。「殺すなかれ」とは他者を殺してはならないというだけでなく、自分自身を殺すことも禁じる。今日、私は自殺の問題に触れなかった。少し脇に置いた。
自殺は人殺しほど古くはないが、昔からある。考えに考えて、苦しんだ選択として自殺するという場合も少なくなかった。そういう訳で、自殺について考えられ、論じられることは従来もあった。現代では自殺の件数は飛躍的に増えているから、新しくない問題だと見てはいけない。しかし、普通の人が殺人を犯す、とか、人を殺して何とも思わないと言うこと、それが増えていることは現代的な衝撃的事件であって、昔からあったものとは別に考える方が良かろう。
自殺は本質的に殺人と同じと見られて来た。それは正しいと思う。聖書ではその点ハッキリしている。すなわち、「殺す」とは人を殺すというよりも、その人の内にある「神の形」を壊すことだからである。人間が神の形に造られたということについて説明が必要だと思うが、省略する。神の形をどう解釈するかよりは、神の形を壊すことそのものが禁じられている。自殺のことはここで終わる。
「彼方から、来たるべき時から、見られている者として」という言い方に馴染みのない方も多いであろう。そう言われて戸惑う他ないかも知れない。しかし、今を見るのでなく、「来たるべき時から」見られているという別の視点を押さえて考えることは大切な見方ではないだろうか。――私が今言おうとしていることとは別件なのだが、我々を取り巻く環境が将来どうなるかを考えなければならない、という警告を、今日ではしばしば耳にするようになった。「このままでは都市は荒廃し、田園も荒廃し、山河も荒廃し、砂漠も、海も荒廃するのではないか」と来たるべき日を予想して慄然とさせられることは、最早冗談でも悪夢でもなくなっている。見えてから分かったのでは遅すぎる。見えない先に推し量ることが求められているではないか。それならば、世界や自然でなく、自分自身を、今なりに見るのでなく、己れに将来から光りを照射して見直すことを学び始めねばならないではないか? それだけの想像力のある知恵が必要な時代になったのだ。
未来から見られているということが、今日では現実性を持つようになった。そのことに気付いたならば、来たるべき方が、向こうから見ておられ、そのように見られている私として、自分を捉えることは、出来ないとは言えないのではないか?
「汝、殺すなかれ」と呼び掛けているお方はその方である。
「汝、殺すなかれ」という命令には従わねばならない、と納得するには、その命令を発する方を、恐るべき・力ある方として知らなければならないのであるが、「来たりつつある」という捉え方では、恐れが現実性を持たないのではないか? 未来の恐れになってしまわないか?と疑問を抱く人があるだろう。
それに対する答えは分かり難いかも知れない。だから、単純に、「恐るべき裁き主がこのように命令されるのだから、その命令に服せば良いではないか」という説明で諒解して貰えるなら、その言い方を通して置いて良いと思う。実際、そういう単純な捉え方で、神の恐るべきことを知って、神に服従して、反抗を止める、というやり方で多数のクリスチャンが、過去の長い時代に生きて来た。今でも、神は恐るべき方であるから、その命令を守って、人の命を大切にしなければならない、という論じ方で納得して貰えるなら、私もここで話しを留めたい。
しかし、「来たるべき者が来る」という言い方は、聖書になかった新しい言い方ではない。これが、古い言い方では承知出来なくなった近代人のために、新しい時代のキリスト教が新しく考え出した言い方ではない。旧約聖書の時代からあった言い方である。だから、これを語るのは余計なことではない。「主は来られる」。「来たるべき者が来られる」。「神は迎えて下さる」。あるいは「神を待て」というような言い方を聖書は重んじているのである。
難しくて呑み込めないと感じる人は、神は恐るべき王よりもっと恐るべき君主に譬えられるお方である、と今のところ考えて置かれても良い。だから分からないところを無理に分かろうと苦しむよりは、分かり易い譬えによって満足し、本当の所は分からないままに聞いて置かれて良い。やがて分かる日が来る。
こちらから、向こうにある神を捉えるというのでない。未来からこちらに、現在に向かって来られ、向こうからこちらを捉えるのが神なのだ。神が天の王座に座って支配しておられる、というふうに上下関係として描くのは、分かり易い説明だし、神への恐れ敬いは良く分かる。が、これは地上の支配者に譬えて説明したものであって、「神に望みを置く」という聖書の言い方は、こういう譬えではうまく掴めない。さらに「私はあなた方に将来を与え、希望を与える」という言葉が旧約聖書エレミヤ書29章にあるが、これは神が上の方に、天の上におられる、という捉え方では十分理解をこなすことが出来ない。向こうから来るお方であるからこそ、将来を齎らし、希望を齎らす。
その神が「汝、殺すなかれ」と言われるのであるから、殺人行為をしさえしなければ良い、というだけの理解ではいけない、という事情が分かって来る。神は生きた神、生かす神、命を与える神であって、「生きよ」と言われ、「生かせよ」と命じられる。辛うじて死なないように維持すれば良いというのでなく、豊かな命、生きることの意味が充実しているような生き方へと方向づけをされる。このことについて、もっと多くのことを考えねばならないが、他にも語るべき要件があるので、今日は省略し、その豊かな命を乏しくしている力について暫く論じたい。
「汝、殺すなかれ」という神の命令に逆らう殺人事件が爆発的に増えていることを憂慮する点で、誰も同じだと思う。ところが、大方の人のこのことについての憤りは、「犯罪者が増えて困ったものだ」という方向に向かっている。しかし、その程度で良いのか? 足りないのではないか? いや、間違っているのではないか?
犯罪が増えていることは確かである。そこで、犯罪人に対し厳罰を課すべきであるという輿論が圧倒的に強くなっている。人を平気で殺すような者には、死刑を執行すれば殺人事件は減る、と考えている大臣が増えているようである。しかし、死刑執行を増やしても犯罪は減っていない。もっと大きい枠で考えなければならない。犯罪を犯している個々人よりもっと大きい枠で「汝、殺すなかれ」を捉えるべきであるなら、個人の倫理としてよりも国家の犯す犯罪が浮かび出るのではないか。
今日、生きることの意味の豊かさを味わっている人は少ない。生きることの意味の豊かさということならば、精神生活の充実になり、この点で充実した生き方をしている人はまことに少ない。したがって、精神的に充実した生活について、教会の牧師は大いに力説しなければならない。しかし、今日は物質的な生活の乏しさに喘いでいる人たちが増えていること、そういう貧しい人を増やしているのは「国家」だということ、国家が自分の利益を追求する装置となってしまい、小さい人民の利益を考えられなくなっていること、そして、そのような悪を見過ごして、自らの精神生活の充実にのみ心を傾けるような信者を作りだしているようなことでは、「汝、殺すなかれ」と命じておられる神の御心に適うことにはならないであろうと考えたい。
命ということから国家の問題に触れる時、どうしても論じなければならない問題が二点ある。一つは「戦争」である。もう一つは「死刑」である。この二つについてキリスト教は長い間、問題にしていなかった。むしろ、この二つは行なわれねばならない、と長い世紀に亙って教えて来たと言っても過言ではない。
聖書には正しい戦争はなすべきであると読み取れる指示が沢山ある。だから、神を信ずる者が、戦いに赴いて悪を滅ぼさなければならないと説かれて来た。しかし、新約聖書でイエス・キリストは「悪人に手向かうな」、「敵を愛せよ」と言われ、初期のキリスト教会はその教えを守っていた。兵隊であった者は、クリスチャンになると軍隊から身を引いた。そのために迫害や不利益を受けたが、主キリストの命令を守らねばならないと彼らは信じた。
ただし、キリスト教が非戦、無抵抗を貫いたのは初めの約300年で、ローマ帝国がキリスト教を受け入れた時以後、キリスト教は多数者の宗教になり、帝国と一体化した宗教になり、教会の名で戦争を起こすことさえ普通になった。その後、今に至るまで、キリスト教の主たる流れは戦争肯定である。
この傾向が揺らぎ始めたのは、20世紀になってからである。第一次世界大戦の時、戦争はいけないと主張して罰に甘んじる人が少し出て来た。戦争がますます巨大化した第二次大戦の時には戦争に反対する人がもう少し増えた。そして第二次大戦で敗北した後、日本は加害者としても被害者としても戦争の悪を最も深刻に経験したため、戦争放棄の憲法を掲げて再生の道を歩み始めた。したがって、国家のために殺されることはこの国ではなくなった。人が人を殺して、それを国家の名によって是認するという理不尽から日本人は解放された。我々はこのような国の国民である特典を喜び、誇りに思い、他の国々もこの行き方に倣うべきだと言う。
この憲法に異を唱える政治家がいること、その政治家に踊らせられている若い国民がいることについて今日は語らない。この憲法が守られている限り、「汝、殺すなかれ」との神の掟は守られている。私自身、キリスト者であって、しかも戦争に赴かねばならない矛盾の中で苦しまねばならなかったが、今その苦しみに遭わなくて良い幸いを喜ぶ。
もう一つ「死刑」の問題がある。日本で戦争放棄のことは1945年8月以降はかなり盛んに論じられた。しかし、死刑廃止については、キリスト教の中でもハッキリした意見を述べる人が少ない。
死刑廃止を唱えることに半ば傾いているけれども、踏み切れないという感じを持つ人がいる。それは厳罰主義の風潮に逆らえないという理由ではない。この風向きは早晩変わる。文明国では死刑廃止になっている風潮は日本にも及ぶ。バスに乗り遅れることを恥じる人たちは、文明国並の選択を喜ぶに違いない。
聖書に照らして考えると、この問題は決して平易ではない。世間を説得することが難しいと言うのではない。聖書が難しいのだ。
「人を殺したものは殺される」と聖書は言うではないか? 人を殺す罪を犯した者は、その罪を償わねばならないから、死刑になるのは当然ではないか? あるいは、「好ましいことではないが、仕方がない」と言うべきではないのか? そのように考えているクリスチャンは少なくないのではないかと思う。死刑にされる人の事情を最大限に考慮しても、「罪とその償い」という問題を放棄することは出来ないのではないか? 人情としては罪を犯した者を許したいと思っても、正義が廃れるだけではないか、という疑問が出て来る。
ここで考えて貰いたい。罪というものを厳密に考えて行くならば、罪は償わなければならないのだが、誰が償うのか? あるいは償わせるのか? 通常、国家が正義の執行人として、人を殺す者を殺して、正義を完遂すると言われる。だが、本当にそうであろうか? 殺人犯を殺して、正義が満足したという証拠はどこにあるのか? 法務大臣が執行命令に捺印して、務めを果たしたのだから正しい、と言うのだが、実際に死刑台に死刑囚を載せて、その足台を外す役をする人の方が務めを果たしている。ところが、彼には満足感はなく、人を殺したトラウマがその人に押し付けられる。罪悪感の乏しい人を大臣にして置けば、執行はスムーズに運ぶが、矛盾の皺寄せがどこかに行く。これが正義か?
死刑に関しては、これに携わっている人々を取り上げても解決は着かないのである。ここで「神」に解決を求めるほかないのではないか? 神があるとは思わない、と言っている人でも、誰かに人を殺す矛盾を押し付けないで置こうとすれば、神を考えねばならないであろう。死刑は可哀想だから止める、というのは人情として当然だが、解決にならない。
実際、神は「復讐は私のすることである。私が復讐する」と言われる。人間が神に代わって罪に対する報復ができると思ってはいけない。「私が復讐する」と言われる方だけを立てなければならない。その方は死を死によって償わせるのでなく、ここは説明抜きで言うが、殺された死を自らの死によって償う。
この問題は大きすぎて、すでにかなり時間を費やしたこの話しの続きとして取り上げるには無理だと思う。だから、ここで宿題を残して打ち切るが、宿題であるから、考え続けて頂きたい。
罪は償われなければならない。このことを有耶無耶にしてはならない。が、誰が償うのか? 償う方は何と言われたか? その方は死刑に相当する罪を犯した女が連れて来られた時に言われた言葉がある。そのことを私は最後に言いたい。新約聖書のヨハネ伝8章11節を家に帰ってから開いて読んで貰いたい。
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