霧社へ……
――台湾の旅――

渡辺信夫


  幼少時の記憶

 

 「霧社」という聞き慣れない名前が体内に飛び込んで来て、寄生虫のように棲みついたのは幼い日であった。計算して見れば7歳の時、私はまだ新聞を読む能力もなかったが、両親が新聞のトップ記事について何やら話し合っていた。親たちは私の質問に答えてくれたけれども、その説明では何のことか全く理解できなかった。ただ「ムシャ」という響きは重苦しさを伴って耳に焼き付けられる。それが地名であることすら分からない幼い時のことである。
 翌年、もっと大きい印象を心に焼き付ける満州事変が起こる。それは私の生涯に烙印を押すものに膨れて行くのであった。それでも、霧社の落とす陰影は消されることなくズッと心に残った。そして、霧社についての知識は時たま少し増加する程度で、依然として貧困でありながら、記憶は抹消されず、戦後もずっとその状態が続く。
 ギクリとさせられたのは、五味川純平の「人間の条件」(だったと思うが)を読んでいた時である。戦後、大陸侵略の罪責について無知でおられなくなっていたが、その小説に登場する若い陸軍将校が満州の前に霧社事件に関与しているのが驚きであった。実在の人物がモデルになったのかどうかも知らない。ともかく作者はその結び付きを読み取って、読者に関心を呼び起こしたかったに違いない。この結び付きを捉える意識はその時までの私になかった。
 私自身は戦争末期に前線に投入され、死と対面しつつ生き、戦争が終わって後の生涯も戦争と無縁であることが出来ず、振り回されている。戦後になってから、あの戦争は何だったのかを吟味し始めた。実際に経験した太平洋戦争は、知るべき戦争の一部に過ぎなかったことが間もなく分かる。だが、霧社事件にまで繋がっていることには思い至らなかった。霧社が見えて来てはじめて、私の負い目である戦争の全貌がようやく見渡せるようになったのである。

 

  近づいても行けない遥かな地

 

 霧社への思いがグーッと重みを増したのは、1975年、2度目の台湾行きの時である。台湾長老教会の宣教110年の記念プロジェクトの一つとして、私が「長老教会の精神」という講演を全島の教会を廻って行なったが、その際、霧社を考えずにおられない二つの機会があった。
 一つは、近年しばしば訪れている水源村のウイラン・タッコ記念教会に行って(その頃、山地伝道の開拓者ウイランはまだ生きていて、会えたが、牧師の資格は与えられていなかった)、後日深い関係になるとの予感も全くないままに、タロコ中会の諸教会から集まった人々に講演した時である。山地の人と顔を合わせるのは初めてはないが、山地部落に只一人の外来者として入って行くのは最初の経験であるから、初心の初々しさと言うと恰好が良いが、より適切に言えば幼稚さのゆえに、私は非常に緊張していた。その時は旅行記を書かず、書いたものは片っ端から手紙にして送ったから、手元には残っていない。しかし、水源村に滞在した日の記憶は深く刻まれたから、今からでも日記を綴ることが出来るのではないかと思うほどである。
 そういう印象があったから、後年、「お婆さんの秘密」というヴィデオを見た時、「あ、あの村だ」と直感した。確かにそうであったが、後でヴィデオを見直すと、私の記憶が正しかったという証拠はなかった。
 軍隊にいた時、台湾山地から南方の戦場に引き立てられて行った人たちが、軍人でなく、軍夫という名であったが、日本兵以上に勇敢で、戦闘適応能力も優れていたという話しは聞いていた。しかも、彼らの多くは戦死し、戦後聞くところによると、生還した者も戦後の補償を受けていないらしい。私は前線から生きて帰ったし、復員の時には若干の退職金を受け取っているので、植民地の兵士に相済まないという思いがある。そういう被害者に会うに違いない。どう言って日本人としての謝罪をするか。――そういうことがその地に着くまで最大の関心事であった。
 予想していた通り、夜、一人の男が訪ねて来た。彼は軍事郵便貯金通帳を見せた。これは自分の貯めた金である。これを引き出せるようにして欲しい。交渉しても日本政府は無視している。何とかならないか、と言う。私は返答に窮した。

 

  山の人の胸に刻まれた傷跡

 

 もっと驚いたことがある。集会の休憩時間に私は従軍した者として彼らの参戦経験を聞いて見たかった。実際に南方で戦った人はそこには顔を出していなかったのだが、話しがどうも合わない。その理由がやがて分かった。私が「戦争の時どうでしたか」と聞いたのを、彼らは太平洋戦争の15年前の戦争、つまり、霧社事件のことと受け取り、それについては語りたがらなかったのである。太平洋戦争よりも霧社事件の方が彼らの心に重くのしかかっていることに気付いて、心が凍り付く思いであった。
 死者の数は太平洋の島々における戦いの方が多かった。けれども、それは遠い彼方の戦いであった。男たちが往って帰って来なかったのであるから、戦争の印象は淡かったのであろう。霧社事件は地続きの所で行なわれた。女も子供も殺された。それは後々まで恐怖と重圧感を引きずる。
 タロコの人は、霧社事件を起こしたタイヤル族とは別で、したがって水源村では霧社を別世界と見ていると予想していたのだが、軽々しい憶測であったのではないか。民族学ではこの2族は同じに扱われるようだが、私の触れた限りでは、彼らはタロコとタイヤルは別であると頻りに言う。自分たちには霧社事件との関わりがないことを極力証ししなければならないと思っているらしい。私の憶測であるが、事件を起こしたタイヤルに対して血の繋がりによる近親感を抱きながら、そういう感情を持つことを罪悪視させる圧力を感じていたのであろう。この点、もっと質問したかったが、彼らの内心に深入りする資格は自分にないと見切りをつけずにおられなかった。
 同じ講演旅行の間に埔里に行く機会が2度あった。埔里から霧社行きのバスが出ていて、唯一の門戸である。本数が少ないので、距離はそれほどでもないのに、どうしても2日掛かりになる。行きたいと思ったが時間が取れない。さらに、当時は山地に入るためには入山許可証を台北の警察で発行して貰わなければならないから、断念せざるを得なかった。埔里の廖牧師は日本語を完璧に話せるので、多くのことを教えられた。
 台湾の元「慰安婦」の裁判を支援するようになって、イワル・タナハさんが霧社の生まれ、しかもその父親が霧社事件の犠牲者だと知って、霧社への思いはいよいよ重苦しいものとなった。霧社事件を扱った書物が幾つか出版されていることは承知していたが、自分は専門家ではないのだ、と限界を弁えてそれを読まなかった私が、ボツボツ文献集めを始めたのはその頃からである。慰安婦裁判支援会の仲間である中村さんはその道の専門家であった。
 ピホ・ワリスという人が中村さんに教えられつつ日本語で書き上げ、それを加藤実牧師がさらに文章を直して教文館から出版した「霧社緋桜の狂い咲き」という本がある。とても読みにくい。書物としての品格にも欠ける。それでも、文字文化を持たない民族の被害者側の証言を加害者側の日本語で書こうとした熱意に敬意を表して読んだ。またピホ・ワリスさんは霧社事件で殺された人の名前を全部聞き取って書き残した。出版社はこれ以上読みにくい本の出版に資金をつぎ込むことを断ったのであろうか。名簿は出版されなかった。加藤牧師からその名簿の写しを貰ったので、イワルさんの父タナハ・ノミの名前をマヘボ部落の死亡者の中に捜したが、見つからなかった。まだまだ知られていない事実があるのだろう。霧社は遠い雲の彼方。なかなか行けない。しかし、そこが日本の罪を一点に凝縮させた象徴的な意味の土地となり、そこに到達しなければならないと思う巡礼のような気持ちになる。

 

  出国

 

 2005年5月23日、霧社訪問を何とか実現したいとの願いを胸に、秋に行なわれる台湾スタディー・ツアーの下見のため、渡部純平さんと台湾に向かった。月曜日に出発して金曜日に帰って来るという切り詰めたスケジュールである。
 これで霧社行きの時間を確保できるのか。……ズッと気掛かりであった。私の持つ情報は古いから、交通事情がそのままではあるまいと期待するのだが、古い情報に頼る限り、霧社行きは絶対無理なのである。それでも、「不可能」という結論を出さないで、出来るだけ目的地に接近して見よう。そのためにはスケジュールを決めずに出発するほかない。
 私の大抵の旅行は、費用も時間も限られているからであるが、かなり細かい点までキチンと決めてから出掛ける。ところが今回、出発前に決まっていたのは、台北空港に到着して荘經顕牧師と子息の牧師に迎えられることだけであった。彼と別れてから、南下するのか、東向きに飛ぶのか、台北で一泊するのか、自分にも分からなかった。

 

  台北で

 

 荘經顕牧師と会うのは久しぶりである。電話は時々掛かって来る。3月には孫がICUを卒業するので卒業式に来たと言って電話して来た。今回は旅行の意図を手紙で伝えておいた上で前の週に電話を掛けた。彼は私たちの着いた日のことは考えて置くと約束したが、予定をキチンと決めていたわけではない。だから、気の毒にも昼食を摂りそこねたのである。私たちは機内で昼食が済んだと言ったため、こちらの都合に合わせて早速動いてくれた。
 彼の意中には淡水に連れて行く予定もあった。淡水は台湾教会史では重要である。が、私たちが短い時間をやりくりしているのを見てとって、それを割愛して良いと判断した。しかし義光教会に連れて行く計画は譲らない。なるほど、これは台湾理解のためには見るべき史跡であることを行って見て納得した。
 独立派の弁護士である林義雄氏は政府の捏造した反乱罪で投獄されており、その留守中、自宅にいた母と2人の娘を国民党の刺客に殺された。この惨劇に長老教会が直ちに反応し、募金してその自宅を買い取り、教会にした。事件はその時から知っていたが、その家には行ったことがなかったので、私は是非訪ねたいと思っていた。
 荘經顕牧師は私より一歳年長だが、牧師の務めは10年余り前に引退している。それでも、あちこちの教会に招かれて説教するし、この先生は説教だけでなく独唱に招かれる。こういう特技があるのを知ったのは、彼が引退記念に奥さんにピアノ伴奏をさせて、独唱の録音テープを来会者に配り、私も貰ったからである。それから有名に成ったのではないかと思うが、教会や学校の式典とか、特別行事に歌うために招かれる。余人には真似が出来ない。確かに上手であるが、上手下手を超越したものがあり、老人が力強く歌ってくれると、それだけで聴く人に元気が湧く。
 荘牧師は空港からの車中で、早速、いろいろな歌を聴かせてくれた。ジルヒャーの「ローレライ」と、シューベルトの「野ばら」をドイツ語で歌うことがレパートリーに加えられたようである。満83歳の老人が歌って聞かせてくれるのは、微笑ましいばかりでなく、また感動的でさえある。羨ましい限りと私は思う。

 

 義光教会は、教会堂らしい雰囲気を予想した人には意外であろう。アパートの1区画である。出来た時は高級アパートであったかもしれないが、今では何となくくすんだ狭苦しい建物で、人の集まる所にしては天井が低く、そういう点では記念碑的意味の建物である。1階と地階が林さんの住居であった。教会はいつも開かれていて、誰でも入ることが出来る。1階が会堂、地階は教会学校の教室その他に用いられている。階段は狭く、傾斜が急である。荘經顕牧師は惨劇の行なわれた場所を示してくれたが、そういう表示があるわけではない。
 開かれた教会であることを目指し、誰でも入れる。丁度、書道教室が開かれる日で、履修者である婦人たちが集まっていた。中に日本婦人もいた。

 

 長老教会の総会事務所に行く。幹事たちは皆出払っていると聞いたが、1月のカルヴァン学会で世話になった荘淑珍さんだけがいて、出迎えてくれる。彼女も驚いたが「ヤアヤア」という挨拶になった。彼女は財務主任である。研修旅行の下見に来たことを話し、協力を頼んで置く。今日のうちに花蓮に飛ぶことに決めたので、総会事務所から航空会社に予約を入れて置いてもらう。
 日基が宣教協約を結ぶに先立って、台湾に対する植民地支配について謝罪宣言をするのだと話すと淑珍さんは笑い出す。荘牧師は台湾人の殆どは日本から謝罪してもらおうとは全然考えていない。日本人がそういうことを言うと台湾人は笑ってしまうのだと持論を展開する。私も持論を蒸し返し、台湾人のその寛容が日本人の反省を遅らせるとやり合う。
 荘經顕牧師父子はそれから松山空港まで私たちを送ってくれ、そこで別れた。おみやげに、旧知の許石枝さんが日本語で書いて台湾で出版した本を貰った。帰国してから読んだのだが、この本はなかなか有益であった。
 花蓮行きの切符を入手したところで、もう一段の飛躍を思い立つ。すなわち、明日、イワルさんとの話しが済めば、明日中に高雄まで飛び、その足で新營に行って泊まることにしようではないか。純平さんも賛成してくれた。そこで、花蓮から高雄行きの飛行機を捜すと、かなり遅く到着する便があるだけだった。仕方がない、毎日、一歩でも霧社に近いところに歩み寄っていなければならないので、台北にいるうちに予約する。

 

  花蓮、第2日

 

 花蓮空港に着陸した時は、たそがれの薄明かりだったが、西に屏風のように高い山が聳える花蓮では残照がなくて闇になる。予約していなかったがナルワン・ホテルは泊めてくれたし、割り引きまでつけてくれた。イワル・タナハさんに連絡し、ヤン・アパイさんにも明日来るように伝えてほしいと依頼する。
 翌朝、水源村に行く。ヤンはとうとう来なかった。私はイワルさんから聞き取りたいことがあったので沢山の質問を持って来た。今回、聞き出せた大きい収穫は、ウイラン・タッコによるタイヤル伝道はイワルの手引きによるものと分かったことである。
 昼に例の通りの小さい食堂で麺を食べる。昼どきだから、村に働きに来ている人で、いつになく混んでいる。食堂のおかみさんはまたいつものように自宅に私たちを招き入れる。

 

  雨の高雄

 

 高雄に着いたのは7時過ぎ。空港も町も行くたびに変わっている。タクシーが早いだろうと判断して、空港玄関からすぐ乗る。猛烈な雨、道路は混んでいた。高雄車站に着いたが、建物が以前と全く違うので、ひどくまごついた。新營に一番早く着く特急の切符を買う。それから新營教会に到着予定時刻を電話で知らせる。牧師夫人は米国仕込みの流暢な英語で、英語の電話はいつものことながら汗だらけになる。食事する時間がないので、プラットフォームの売店で牛乳と菓子パンを買って乗り込む。
 特急は筥光号という。(ほんとうは、竹かんむりにウかんむりを書いて呂を書く。)初めて来た時、台北から台南までこれに乗った。車中の空気は昔の日本の汽車を思い起こさせ、たまらなく懐かしい。特急だから、高雄を出れば次は台南で、その次が新營かと軽く考えていたが、結構たくさん停まる。けれども一つ一つの名前が懐かしいので少しも焦らない。
 新營駅で皆さんに迎えられ、一旦教会に寄ってから近所のホテルに入る。明日の予定を説明する。王牧師は明日地区の牧師の会があるので、台南に同行することが出来ないと気の毒そうに詫びるが、台南はよく知っているから決して心配は要らないと説明する。

 

  第3日、台南――懐かしい人たち

 

 朝、王豊栄牧師が車で駅まで送ってくれる。台南駅では西口に降りる。西口が出来ていることは知っていたが、そこを利用するのは初めてである。道は完全に分かっているつもりでいたが、新しい道路が青年路までの間に出来ていて、そこで折れたため、神学院に行き着かない。神学院が消えてしまったのかと大いに慌てた。
 とにかく歩けば知った道に出るはずだと気を取り直して歩くと、青年路に出た。先ず公報社に寄って、誌代を払う。昔からの購読記録が取ってあった。職員が歓迎してお土産までもらう。
 神学院のキャンパスはほぼ昔のままである。ちょうど鳳凰木が咲いている季節だった。図書館と教室の間の一般道路は車の通る道に広げられている。昔この裏通りを散歩していて、纏足の老婆が付き添い人つきで、杖を頼りに歩くのに行き遭ったことがある。前世紀に舞い戻ったこういう経験は類がない。これは台南の町の古さを深く印象づけた。
 チャペルに入って見ると、補助椅子が入って席が増え、全席が指定席になっている。出欠がカウントされているのではないかと思う。その時はピアノの練習をする音楽科の学生一人だけであった。熱帯植物の庭園のある所で、チャイコフスキーの四季の「11月・トロイカ」を聞いたのだが、変な気分にはならなかった。
 研究室のビルの下を廻ってもう一度校舎に来ると、ちょうど休憩時間になる。学生や先生がゾロゾロと出て来る。私の顔を知っている先生はもういないので、こちらも名乗りを上げず、黙礼に留める。ところが、教師休憩室と書いてある部屋から出て来た学生の一人は、私の顔を見て、ハテナ? よもやそうではあるまい、と不思議そうな顔をして立ち止まる。そこで私が「コンニチワ、林さん、渡辺です」と呼び掛ける。1月のアジア・カルヴァン学会の時、彼女は学生として参加した。積極的に英語で発言するので、活きの良いお嬢さん、と感心していたが、次には私たちに対しては日本語で話し掛けるので驚いたものだった。日本に関心があると言っていた。
 林さんはその時の写真を部屋から取って来るから待っていてくれと言って走って行く。かなり待たされた。戻って来た彼女は私たち夫婦と一緒に写した写真と、桃を2つくれる。桃の実も木も台湾では余り見掛けないことに気がついているので、貴重なものではないかと想像したが、その想像が正しいことは翌日わかる。長居しては授業の邪魔になるから、また会いましょうと別れる。

 

 神学院の中を通っているのが新樓街というのであろうか。新樓病院の表の筋である。病院の向かいに昔はなかったアパートが建っており、その一階に「台南中会事務所」という看板が上がっている。昔は図書館の脇の小さい家にあったのではないか。知っている現役牧師はもういないが、顔を出して置くのは有益かも知れない。入って行くと日本語の出来る人はおらず、それを申し訳ないことのように感じているので、これは迷惑を掛けたと気付く。
 事務所の人々は日本語の分かる人を呼ぶ。呼ばれて入って来た人を見て、「ヤアヤア」という挨拶になる。どちらにも思い掛けない旧知との出会いである。もと神学院の院長張徳香牧師は、引退して近くのアパートに住んでいたので呼び出された。事務所に来ている日本人が私だとは思い及ばなかった。彼は私が台南神学院にしばしば来るようになって二代目の院長である。気さくな人柄である。
 呼び出すことになって恐縮だと詫びながら、スタディー・ツアーの下見に来て、立ち寄っただけだと言い、長榮中学の歴史博物館が見学コースの予定に入っているから地図を頼って歩いて行くつもりだと言う。そうすると、歩かなくて良い。迎えに来させる。と言う。そして、長榮大学も見て行け、それも案内させる、という。さらに、今日は学期の終わりで、引退する教師の式典があるからそれにも出なさい。早い目に大学から帰って来て、現院長と話ししなさい、とアレヨアレヨという間にスケジュールが埋まる。
 長榮中学の方では予定があろうに、非常な迷惑である。少なくとも日本では急にこんなことを言われると拒絶反応が起こる。それをこともなげに受け入れてしまうのは元神学院長の威光であろうか、台湾人の大らかさであろうか。予定も告げずにフラッと行って世話になるのは虫がよすぎるのだが、辞退してはもっと迷惑を掛けるであろう。

 

 車が来て長榮中学に着く。ここには現校長蔡忠雄氏と前校長蘇進安氏と、校長が二人いて、校長室が二つある。前校長の威厳の方が大きいような感じ。学園長である。食事に行こうというので連れて行かれた先は大億という五つ星のホテルのレストランの特別室。正装で来なければならないのではないかと気になるほどの豪華な場所であった。
 長榮大学については、南部の教会人が熱を入れていることを前々から知っていた。日本の教会人はキリスト教系の大学を大事にする気持ちを持っていないが、それが台湾と違うところである。長老教会は大学を持つことが長い間出来なかった。詳しい事情は知らないが、政府から睨まれていたことが最大の理由であったと私は思う。淡水の真理大学も近年まで専門学校であった。前回長榮中学の歴史資料館を見に来た時、やはり蘇校長と会ったが、長榮大学を建て始めた話しは聞いた。その時は大学の認可はまだ受けていなかった。
 長榮大学への道は遠かった。台南の東の郊外になるらしいが、台湾に来ると方角が分からなくなる。或る程度道を知っていただけに、新しい道が出来ていると混乱してしまう。もとからの高速道路の東にもう一本高速道路が出来たことは聞いていたが、それをしばらく走って降りると、間もなくキャンパスであった。
 蘇学園長は大学を建て上げた達成感を持っているようであった。お金はどうしたのかと聞くと、全部募金だと言う。教会が大学を建てるという気概を台湾の教会は持っている。見習うべきであろう。

 

 神学院に帰ったところ、予定時刻を過ぎて、院長はチャペルに入ってしまった。しかし、外に集まっている教会関係者の中から一人が急いでやって来て、英語で語り掛ける。「許天賢です。高雄事件で投獄された時、先生から励ましの手紙を頂きました。今は新樓病院のチャプレンをしています」。
 彼のことは勿論忘れていなかったが、顔は覚えていない。厳しい時代であった。長老教会は狙い撃ちされていた。台湾の教会の支援活動を大っぴらに行なうことは出来ない。私はしばしば台湾を訪ねたが、入国許可が下りるかどうかを気にしながらヴィザを申請し、出国許可が下りて飛行機に乗れ、その飛行機が滑走を始めるまでは気の休まる時がなかった。
 短時間のうちに次々と知人に会うという幸運に恵まれ、台南滞在は僅々数時間に過ぎなかったが、主の手のもとに置かれている充実感を味わった。蘇学園長は台南駅まで送ってくれた。

 

  新營教会の祈祷会

 

 新營に帰って、夕食は牧師一家や、林長老その他教会の有志との会食であった。牧師夫妻の息子、ルカとルターも加わり、同年輩で幼稚園のクラスメートも加わるという賑やかさ。呉長老は奥さんの入院が重なって、来られなかった。王牧師は今日、地区の牧師会で陳博誠牧師といろいろ話したことを告げ、彼が今夜新營に訪ねて来ると言っているから、祈祷会前に電話で話してはどうかと勧めてくれる。その勧めにしたがってかなり沢山話し合った。
 今日台南であったことの報告、今後の台日関係について、特に言語の問題。高度な内容の通訳の出来る人がいなくなっている事態の深刻さ、という点で私たちは同じ意見である。彼は玉山神学院から毎年2人ずつ日本の農村伝道神学校に留学しているが、その人たちは通訳の仕事はしてくれない、とこぼす。そして、明日の予定について話すことになる。陳博誠さんは明日の予定が決まっていなかったら、自分が車を出して霧社に連れて行くのだが、誰かが埔里まで車を出してくれなければ、なかなか難しいであろうという判断であった。
 祈祷会は呉牧師(王牧師の夫人)の司会であった。ノートパソコンに原稿が入っていて、それをスクリーンに映し出しながら奨励する。大学の講義にもこういうのがあるらしいことは知っている。私自身はこういう装置を使うことを考えもしないが、これを使って聞く話しが分かり易いという人がいるなら、それにケチをつけることは要らないと思う。新營では評判が良いのではないかと感じた。
 王牧師は静かで地味な人柄であるが、奥さんの呉牧師は口八丁手八丁タイプで北京語も台湾語も英語も出来る。
 ホテルに帰って鄭定國牧師夫妻の訪問を受ける。楽しい一時であった。彼は新營の自宅に住んで、奥さんの運転で、嘉義縣義竹郷の過路という田舎の教会に通う。2時間かかるという。病気は良くなったそうである。そして、病気がひどかったのは、医者が薬を間違えたかららしい。

 

  第4日、霧社に行けるかどうか

 

 新營の林三寶長老の息子さんが仕事で埔里まで行くから、埔里までは連れて行ってくれることに急転。昨晩は台中まで行くから便乗させてくれるという話しであったが、父親か誰かが説得して予定を変えさせたのではないかと思う。人々の善意の働きが相当あったと考えざるを得ない。これなら霧社行きの可能性が出てきた。
 朝8時に出発、息子さんも奥さんも日本語は全く出来ないので、英語で用を足す。休みなしに走り続け、台中の手前で高速道を下りた。草屯という町であったと記憶する。そこから埔里に抜ける近道がある。草屯という名が草深い田舎を思わせる。私の記憶違いでなければ、これは台湾山地人の昔の首狩りのことだったはずだ。
 やがて台中から埔里への道に合流する。道の南に谷が並行して走る。その川に吊り橋が架かり、昔は川向こうは鬱蒼とした森に隠れ、山地部落があると聞いたのだが、今では沢山の家が建っていて、こちらからスッカリ見える。先年の地震で大きい被害があってその機会に建て直された家々ではないか。まだ新しい感じである。こちらの道幅も倍になっている。埔里は全く変わってしまった。見覚えのある風景の片鱗でもあるかと目を凝らすが何もない。

 

  山道へ

 

 バス乗り場で林さんと別れる。11時前だった。とにかく午前中に埔里に着いた。聞いて見ると霧社までは40分、帰りのバス便はたくさんあると分かる。やっと念願かなって霧社に行くことが出来る。純平さんと相談して、もっと先まで、鳳山までは行けるし、それが毒ガスで全滅させられたマヘボ部落の跡に出来た村なので、前から行って見たいと思っていたのだが、今回は欲張らないで、霧社までにしておく。鳳山は次回にまわす。
 バスの待合い所にはタイヤルの女性が2人おり、そのうちの1人は年配者で、日本語で話してくれたが、霧社の人ではなかった。平地に下りて住んでいるらしい。そして2人ともそれぞれ別の行き先のバスに乗った。
 ほぼ満席の乗客の中には行楽客らしい人はいない。その日だけだったのかも知れないが、バス利用者は生活者である。山の上に稼ぎに行く漢民族で、原住民のタイヤル族の顔はない。埔里を出れば、あとは俗に言う「秘境」になるという予想は間違っていた。行っても行っても、そこは漢民族の生活空間であった。生産に適しないただ観光だけの地だと思っていたのは私の知恵の浅さである。高山では平地で出来ない作物、あるいは品質の高いものが収穫出来る。稼ぎが良い。それを知った漢民族は、平地がすでに耕し尽くされたからであろうが、上へ上へと居を移す。バスの停まるところは全て漢民族の村であった。――タイヤル族はどこへ行ったのか。

 

  霧社にて

 

 霧社事件の起こった部落、霧社は、今では都会化された町である。街道沿いに事務所と観光客相手の店がギッシリ並ぶ。店を持てない果物屋は軽トラックに商品を並べて売っている。商品の中にドリアンがあったのには驚く。南方から輸入した果物を海抜千メートルの山の上に運び上げて誰が買うのであろうか。
 行楽客相手の食堂で昼食し、そこで荷物を預かって貰って、手ぶらで歩く。
 私は事件のことは一応知っているが、今の霧社のどれが往時の何になるかは全く分からない。純平さんは旅行案内書をよく読んでいて、先導してくれた。道路の傾斜は最も緩くなっている部分であるが、標高差はどんどん増えて行く。
 来た方向に戻ると記念碑があるというので先ずそこを訪ねることにする。行く途中に台湾長老教会霧社教会の看板がある。挨拶くらいはしなければなるまい、と立ち寄るが表の扉には鍵が掛かっていた。長老教会一覧表で調べると、平地族の台中中会埔里区に属し、牧師はいず、伝道師がいるが、もう一つの教会を兼任している。定住でないらしい。
 それから記念碑を見る。国民党政府がこれを建てた。日本時代には、霧社事件は日本の恥部ではあるが、これだけ有名になると打ち消すわけには行かないから、出来るだけソッとして置かれたのではないか。そして、国民党の支配に変わってから、霧社事件は大きく取り上げられるようになった。かつて一見の価値があるというので、台北の忠烈祠(靖国神社の国民党版)を見に行ったことがある。国民党の辛亥革命以来の戦没者が祀られている。軍がこれを管理し、衛兵をつけている。衛兵の交替のセレモニーが観光客を呼ぶようになった。その忠烈祠の中で大きく取り上げられているのが霧社事件の殉難者であった。日本の侵略に抵抗した勇士として、中日戦争の抵抗者の先蹤として位置付けられている。なるほど、そういう見方も出来る。
 国民党政府のすることは万事冷淡に見ていたのだが、存在の意味もないものとして扱われていた殉難者の名誉回復をしてくれたのは良いことではないかとその時は感じた。しかし、今回、感じるところは違った。はたして虐げられた人々の立場に立って犠牲者の復権を果たしたのであろうか。戒厳令を布いて弾圧を行なっていた政府が、弾圧はそのままにして評判を高めるためにタイヤル族を利用しただけではないか。日本政府が謝罪記念碑を建てるならまだ話しが分かる。タイヤル族の発意で企てが進み、国民党政府がその企てを応援したというなら結構なことだ。だが、これでは心が籠っているとは感じられないのではないか。
 銅像を造った芸術家は台湾人か外省人かは分からないが、漢民族であることには違いなかろう。上手に造ってある。一時代、社会主義リアリズムと言われた手法ではないだろうか。山地民の意識が高まって来たので、早晩こういう記念物に対する拒絶行動が現われるに違いない。この銅像は破壊すべきほどのものではないと私は思う。メインの記念物として、沖縄県が造った「平和のいしじ」のように全犠牲者一人一人の名前を記した碑をズラッと並べて建てれば良いのではないか。タナハ・ノミの名前もこうして歴史に残るであろう。
 ここには昔のものは何も残っていない。おそらく、自然も昔とかなり違うのであろう。自動車がひっきりなしに通って行く。昔は人間の足で歩くしかなかった。だから秘境であった。今では自動車がどんどん登って行く。

 

 道路から少し離れた所に下の谷を見おろす展望台がある。垂直の崖ではなく木も草も生えているのだが、遠い谷底が真下のように見える。
 反対側に目をやると、山の上も見渡せる。これも急峻であるが、下から見ると傾斜が丸みを帯びる。あちこちに家の集まりが見える。それが部落であり、バスの停まる所であろう。上へ上へと人家が造られて行くように感じられる。眺めは何とも雄大である。高山ではあるがトゲトゲしさがない。合歓山と地図に記されているのはこの山だった。どうしてこのようなやや慎みを欠く名前がついたのか不思議に思っていたが、何となくそういう感じを帯びている。何時の時代から名がついたのか。

 

  山を下って   

 

 2時間ばかりいて、埔里行きの下りのバスに乗った。来る時には気が付かなかったが、山の斜面で桃の栽培をしている。沿道にしきりに広告がある。台南の林さんが呉れた水蜜桃はここの産であったに違いない。
 埔里から台中行きのバスは霧社行きの車体より見かけはキレイであったが、キレイにしている内装が古びていて、ギシギシ音を立てて、きしみ続ける。台中までの道がまた遠かった。どこを走っているのか全く見当がつかなかった。町に入ったから、台中だと思ったのに、そこからまた出て高速道路に入り、鉄道駅の西から町に入る。ここも或る程度知っているつもりの地であるが、記憶していたことは全く役に立たないほど全てが変化していた。バスから降ろされたところは駅に近いと分かったが、街の名は民族路である。それなら民族路教会が近い。寄って見ても良い、と思ったが疲れているので止めた。古い知人の張宗隆牧師はもう引退していることを後で知った。山の上で陽に当たり過ぎたようである。一刻も早く横になりたいので、一番近いビジネス・ホテルに入った。
 一寝入りしてのち、夜になってから夕食を執りに外に出たが、疲れていて食欲はなかった。しかし、案内書に紹介されている店で、味はなかなか良かった。

 

 第6日、ホテルの直ぐ傍のバスターミナルで空港行きのバスに乗って、高速道路をノンストップで走り、予定通りの飛行機で無事帰国した。

終わり

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