信州カルヴァン・コロキウムにおけるオープニング・レクチャー

2000.10.30.第5回信州カルヴァン・コロキウム基調講演

キリスト者の生活について

 はじめに、このコロキウムについて、初めての参加者のために若干の解説をしておく。「信州カルヴァン・コロキウム」の名が示すように、これは信州から起こった運動である。上田を中心として行なわれている牧師たちの月々の「綱要」読書会、これを年に一度規模を拡大して、他地域からも参加者を集めて、二泊三日で実施される。
  毎年のコロキウムの主題と綱要の個所の選定は信州でなされ、私はその意向に沿ってオープニング・レクチャーを用意することになっている。
  母体の読書会がすでに超教派的な会合であるから、拡大された形のコロキウムもエキュメニカルである。しかも、コロキウムには例年信徒の方々も参加し、これがカルヴァンの学びの特色を示していると私は考える。カルヴァンの神学は開かれたものであった。神学者や牧師たちが占有するものではなかった。
  ただし、誰が来ても良いというのとは少し違う。教会に仕えて行くという志、神学の学びによって信仰を深め、その学びが教会を建て上げて行くものとなると考える人たちが集まっている。

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今回のコロキウムで取り上げられる部分は、「綱要」の中でも特殊な性格を持つ文章である。すなわち、ここにあるのは単なる教理ではない。多くの神学書や教理の書は、これらの項目について、カルヴァンの「綱要」が割くほどには多くのページを費やさないし、「綱要」が論じるほど行き届いた掘り下げをしない。信仰について語る時、これらの項目について詳しく論じることは、不必要と見做されているわけではないが、信仰の教理として教えなければならない骨子であるとは、普通、必ずしも考えられていない。
 では、これは「教理」ではなく、教理の付加物、あるいは、教理の学びを終えた者が、その次に進むべき新しい段階としての「実践」とか「生活訓練」というものなのか。それとも、教理や神学でなく、敬虔主義が強調したような「敬虔」の修業の勧めであろうか。さらに、これを論じて行く論法は神学的認識の論理ではなく、むしろ心情について省察し、心に語り掛ける敬虔主義の文学の手法であるか。……かなり多くの人はそのように教理以外のものと受け取っている。
 そのように取って間違いとは言えないと思うが、カルヴァン自身の理解に即して言うならば、これは教理そのものである。だから、もっとシッカリした把握が望ましいのである。彼には教理と信仰生活の実践を区別して教えようという意図はない。彼は「教理の大要」を書き記すために「綱要」の著作を始めたのであるが、ここで「教理」からしばらく離れて、「実践」の勧めをしなければならないという考えではなかった。ここも「教会の教え」として重要な点であると考えて論じている。その論法がこれまでと違うような感じを与えるとしても、別個の観点に立って、論法を変えて説くのではない。
 今、「敬虔主義」という言葉を口にしたので、これについて少しだけ触れて置く。「敬虔主義」は18世紀のドイツのルター派の中で、またイギリスの反カルヴィニズムを標榜するメソジスト派の中で、顕著に見られる動向である。だから、カルヴァンとは無縁のもののように、所謂カルヴィニストも含めて、多くの人は印象づけられている。しかし、敬虔主義の歴史を研究している人たちの間では、これの源流を遡るとカルヴァンに行き着くと理解するのが、検証を経た、確実な定説とされている。
 これ以上詳しく論及することは、今回は省略する他ないのであるが、我々が読もうとしている「綱要」の個所、また第3篇ではさらに20章の「祈祷について」の教えがあるが、これらは敬虔主義の源流とも言える。その源流がどのようにして歪んだ流れになったかについても議論を他日に譲るほかないが、当面、我々は歪んだ方向に行かないような読み方をしなければならないと注意を促されるのである。
 兎に角、全てのカルヴァン研究者に注目されているとは言えないが、カルヴァンにとっては、「教理条項」を教えることと、今ここで我々が取り上げているような「敬虔」を教え勧めること、あるいは敬虔の修練へと手引きすることとは切り離されていない。この特色が、カルヴァン理解においては不可欠な点であるということを見ておかねばならない。意識的にこのことを取り上げて論じる人は多くなかったとしても、このような事情があることをウスウス感じていない人もまた稀であった。だから、カルヴァン研究が知的探求にのみ深入りすることは先ずない。カルヴァン以外の神学者を対象とする研究とはハッキリ違う特色である。この面でカルヴァンに共鳴するものを持たない人たちは、カルヴァンを読むことは読むかも知れないが、一通り分かったと思ったならば、それ以上の興味は示さない。

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今回のコロキウムで読んで行くテキストは、第3篇の6,7,8,9章であるが、ここを読むに先立って、最低限の準備、前置きとして、ここまでに何が論じられたかを知って置かなければならない。そしてまた、ここに述べられることが「綱要」全体の中でどういう位置を占めているかも瞥見して置く必要がある。
 第3篇は「キリストの恵みを捉える方式、そこから我々に生じる実り、それに伴う効果について」という標題になっている。「キリストの恵み」、これが教えの生命中枢であることは言うまでもない。キリスト教の神学でそれを語らぬものは殆どない。しかし、「キリストの恵み」が如何にして我々のものになるかについて、必ずしも語らない場合が多い。
 キリストが我々のために何をなしたもうたかを明らかにすれば、それは時間・空間の隔たりを越えて、当然、我々に向けて作用して来ると考えられている。
 ことさらに論じなくても良い場合があることは確かである。だが、「恵み、恵み」と言っているうちに、その中身と恵みの経路が曖昧になって行く実例も少なくないであろう。あるいは初めから事柄を捉えそこなっている場合もあるようである。例えば、ローマ・カトリックが普及させた観念のように、神の「恵み」が教会の配分に委ねられ、教会の機構を通じて分けられる、というふうに教え込まれる。しかもそこには教会に対する信頼・服従という条件がつくので、「恵み」はいわば教会に何らかの代価を払って買い取る形になり、その恵みは本来のキリストの恵みとは全く別のものにすり替わっている。そういうことがあるから、恵みを恵みとして捉え、受け入れるためにどうすべきかが厳密に考えられなければならない。
 恵みはキリストを通じて差し出される。これはヨハネ伝1章17節の言う通りであると認められてはいるが、恵みそのものが何であるかは、曖昧になっている場合が多い。確かに、恵みは多種多様であるから、その拡がりを捉える必要があるのだが、その結果、中心的なものより周辺的なものに目が行って、焦点がボケて来ることがある。さらに、その恵みをどのようにして自分のものにするかについては、キチンと押さえられていないため、確かに把握されているとは言えないことが多い。
 その確かさは聖霊の保証によるのである。
 恵みはキリストを信じる信仰によって捉えられ、また受領されるのであり、極めて確かなものである。その信仰は人間の努力によって到達する境地ではなく、御言葉と聖霊によって作り出されるものである。ここに宗教改革的主張、もっと適切に言うならば、宗教改革によって復原された聖書的主張がある。
 信仰によってキリストを受け入れ、キリストに与る時、キリストの恵みは、最早かなたに留まるものではなく、こちら側の現実となり、我々のものとなる。その恵みとして第一に「新しい命」がある。これは生まれ変わり、再生、あるいは悔い改め、あるいは聖化という概念で捉えることが出来る。
 今、同義語のようにして「再生」、「悔い改め」、「聖化」を並べたことについて意外な感じを持った方があるかも知れない。これらを別々に捉えるように教えるのが普通とされるからである。しかし、カルヴァンにおいてはこれらは一つである。先を急がなければならないから、これが一つであることの説明を省くが、良く分からなくても、これらが一つなのだということを心に留めて綱要を読み進んでもらいたい。読んで行くうちにカルヴァンの考えが分かるはずである。
 この新しい命、これを細部に亙って、具体的に述べているのが、今回読もうとするテキストである。
 さて、キリストの恵みとして第二に挙げられるのが、「信仰による義認」である。義認の教えはキリストにある新しい命、あるいは悔い改め、あるいは聖化の論を一応論じ終えた後に始まっている。この順序がまた興味あることで、教えの順序の特色については今は論じないが、ジックリ味わいたい。
 教える順序はそうなのだが、与えられる恵みそのものとしては、同時であり、また結び合ったものである。キリストにおいて与えられるものであるから、バラバラになることはない。つまり、義認と聖化が別々に捉えられることはない。これはカルヴァンの特色の一つである。

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そこから浮かび上がって来るカルヴァンの特色は、初めに述べた通りである。この特色が単なる実践の重視というようなことで片付けられてはならない。
 その特色について、以下、幾つかの観点から論じるが、第一に、これを歴史の流れの中に位置づけて読んでみるとどうなるかを考察する。
 第二に、ここでハッキリして来るカルヴァンの考え方を、幾つかのキーワードを手掛かりに描いて見たい。
 さて、第一の考察として、それ以前の神学の歴史と比べて見よう。非常に大ざっぱな一般論になるが、中世の神学の典型をトマス・アクィナスの「神学大全」に見るとするならば、カルヴァンの「綱要」はまるで違った性格を持つ著述である。すなわち、トマスは哲学を前提として神学を構築している。それに対して、カルヴァンは一つにはカテキズムとして神学体系を捉え、二つには聖書のテキストに即して考えを深める。
 敬虔の教えは聖書の中に充ち満ちているから、聖書に素直に聞き従うならば、最も重要な要素として読み取られる。これは多くの実例に見ることが出来る通りである。聖書そのものは体系ある書物ではないから、これに聞き従うというだけでは、論理的には纏まりのない思想であって、感情とか、心掛けとか、生き方というようなものになる。それで良いとする人は良いのであるが、この世にあって務めを担って行く場合には、論理的に一貫するとまでは言わなくても、さまざまの局面に対応出来る教理の体系が必要になって来る。その体系は聖書のさまざまの教えについての知識を論理化したものである。
 論理化することによって心の問題が抜け落ちるとは必ずしも言えないのであるが、その恐れがあることは事実である。したがって、多くの教師たちは教理の体系を説く時にも、それが知的なことに傾き過ぎないように、必ずと言って良いほど、敬虔の勧めをどこかで補っている。すなわち、教理的な書物の他に敬虔の勧めの書物を書くとか、教理の書物の端はしに敬虔さを滲ませる。ところが、カルヴァンはキリスト者の生き方の教えを端はしではなく、本論の中で、幾つもの章を起こして取り上げるのである。
 先ほど、中世の神学書の典型としてトマス・アクィナスを挙げたが、中世にトマスしかなかったわけではない。また彼の神学大全しかなかったと思ってはならない。一般に知られていないだけで、中世の立派な書物は沢山ある。また多彩である。神学大全を取り上げたのは、翻訳で読めるようになっているという理由によるに過ぎない。それでも、カルヴァンと比較して見るならば違いは歴然としているし、中世の神学の特色をよく示している。
 日本語で読める中世の書物をもう一つ挙げれば、トマス・ア・ケンピスの著作と一般に言われている「キリストに倣いて」(デ・イミタティオーネ・クリスティ)がある。これと「綱要」を比べて見ると、特に今回読むことになっている部分はかなり似ている。
 余計なことであるが、この書物の著者問題に少し触れておく。本当の著者はトマスではなく、その師であったデ・ホロートという人であったことは、今日殆ど確かと思われている。私もその説が正しいと思うが、今ここではこれ以上この問題に深入りする必要はあるまいと考える。
 日本で「綱要」をラテン語原典から完訳した最初の人は中山昌樹牧師であるが、彼にはトマス・ア・ケンピスの「イミタティオ」の翻訳もある。カルヴァンとトマスのある面の共通性を読み取ったのであり、その捉え方は正しいと思う。ただし、中山牧師は、この他にもダンテの「神曲」やゲーテの詩集まで訳している人で、それらの文筆家の間に共通項があると論じることは不可能ではないが、このコロキウムにおいてはそこまで取り上げなくて良いだろう。
 さて、カルヴァンは中世のその動きとどういう関係にあるのか。影響を受けたと見ることは出来る。しかし、その時代に生きた者として受けた影響の一つであっても、ホロートたちの営んでいた「共同生活の兄弟団」の系譜にカルヴァンが属していると見ることは出来ない。
 では、似ている点は何か。敬虔という点が似ていると言われるであろうが、むしろ、御言葉への固着が特色であろう。別の観点から言えば、御言葉への聴従という要素以外のものを受け入れていない。トマス・アクイナスの「神学大全」では論理性が顕著であり、著者は論理性への服従を御言葉への服従に優先させようとは意図しておらず、むしろ信仰の優位に論理性を仕えさせようと志したと見られるが、意図は兎も角として、論理性が自立し、結果的に優先している。

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ところで、キリストによる「新しい命」についての議論が終わった次に、信仰による「義」に移る。これが先に少し触れたが、カルヴァンの「教えの順序」の特色の一つである。この順序で学ぶことによって、新しい命も、聖化も、信仰による義も、十全に論じることが出来、この逆ではそれがうまく行かない。
 ここから、直ちに我々の信仰の問題に移るが、我々の間では「信仰による義」がプロテスタント信仰の核心部であることは広く知られている。それだけに、「信仰によって義とされる」ことをめぐって論じられることも多いが、その際、カルヴァンがここで取ったやり方、すなわち新しい生き方をシッカリ踏まえた上で信仰の義を論じるということをしないならば、すなわち、信仰の観念を一通り見ただけでは、実りが少ないということを知らなければならない。
 それ故、カルヴァンが信仰についてかなり深く立ち入って論じているこの扱い方はカルヴァンに共感を覚えている人も、共感したから分かっているというふうに粗略に扱ってはならない。
 幾つかのキーワードを拾い上げる。カルヴァンが「信仰」の問題を「知識」と切り離すことに反対していることは良く知られていると思う。カルヴァンによれば「信仰とは確固たる認識」なのである。そうでない「茫漠たる予感」、「期待」、「推論」を信仰だと思っている人が我々の身辺にも多い。
 認識であるから対象がある。何を信じているかが掴めていない漠然たる気分は信仰と相容れない。だから、何を信じているかについて説明出来るのである。
 知ることには限界があるのではないかという疑問が出るかも知れない。たしかに限界はあるのだが、それは神学の問題にはならない。というのは、信仰は啓示されたことについての認識あるいは知識であるから、啓示されたならば限界を越えなければならないのである。例えば、予定である。人間の知恵をもって神の予定を知るとは限度を弁えない高慢ではないかと考える人がいる。カルヴァンは高慢だとは思わない。かえって、啓示されているのに、それを知るまいとすることが高慢なのである。
 認識であっても不確かなものは多い。信仰はそういうものではない。「確固たる」とは疑っても疑っても否定出来ないという意味である。すなわち、対象の確かさの故に、揺らぐ余地がないと共に、信じる側の、真理を受け入れる確かさが揺らぐことがない。
 「信仰は知識ではない」と、いとも軽々と言って除け、「知識でないのだから伝達は出来ないのである」として、教えることがないまま、お手上げにしてしまう好い加減さは通用しないのである。
 ところで、「知識」ということであれば、その隣接事項として「理解」ということも考え合わせなければならない。「理解なき知識」が「知識」と呼べるかどうか疑問である。Iコリント8:2に「もし人が自分は何か知っていると思うなら、その人は知らなければならない程のことすら、まだ知っていない」と言われる通りである。単純な、しかし真実な知識と、間違っていないかのようでありながら知識と言うに足りない浅薄な知識の区別は一見難しい場合があるが、区別はつく。このことについてもさらに詳しい論及は省略するほかないが、兎に角、知っているという意識は、「自分はほんとうに知っているのか」との自己吟味、自己への問い掛けを伴わずには置かない。
 ところで、「知識」があり、「理解」があれば十分なのか。カルヴァンはそうは考えない。そこに「修練」が加わらなければならない。修練が加わらないと、知っていて、解かっていても、物にならないのである。
 「知っている」と言うが、「知っているつもり」に過ぎない場合が多い。だから「知っているつもり」を乗り越えるために、知ることに当然伴う自己吟味の内的省察がなければならない。その上に修練を積まなければならない。修練を経て学びが本物になる。
 カルヴァンの文章を読む時の一つの心得として、文章の特色を捉えておかねばならない。私は彼の文章は極めて論理的ではあるが、理論的・学術的な文章ではないと思っている。学術用語は用いられていないと言っては過言であるが、それに近い理解をもって読んでもらって良い。
 一つ一つの語彙を厳密に捉えなければ読み進んではならない神学書がある。神学的概念をハッキリさせている文章はそうである。カルヴァンの次の世紀のカルヴィニストは神学の概念を細かく規定した。しかし、カルヴァンはそうではない。未発達であったというのも一つの見方であるが、私はそうは考えない。論法の基本線が違う。スタイルが違う。どちらが優れている、というようなことは簡単には言えない。例えば、プラトンの哲学とアリストテレスの哲学とどちらが優れているかを簡単には論じられないのと同じである。
 カルヴァンは綱要の読者に難しい個所があったなら、十分分からないままに先に進むのが良いと勧めている。先へ進んで行くうちに先に分からなかった所が分かるようになるのだ。
 一語一語がハッキリ概念規定出来るような言葉遣いではない。文脈の中で意味が確定するような言葉遣いがなされる。植えにも一例を見たが、同義語が頻繁に用いられる。
 ただ、我々の周辺で、あるいは我々の間で用いられている意味や含みを不用意にカルヴァンの文章に読み込んではならない。訓練、修練などもそうだし、自己否定も色つきになった概念を世も込まないようにしたい。
 以上で「綱要」の学びの前置きを終わる。
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