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我々の教会、これは「東京告白教会」と名乗り、東京ではおそらく最も小さいキリスト教会である。我々がこの「告白教会」という名前を選んだのは、信仰を告白し、真実を隠すことなく言い表わして生き、かつ戦うのがキリスト者の道であると信じるからであって、新しく教会を建てようと志して以来42年、「少数者」ということについて、また自分自身が「少数者」である現実について、ズッと考えて来た。――「考えて来た」というよりは、「考えさせられて来た」と言い直す方が正確であろう。
つまり、積極的に「少数者」の意味を考えて、少数者になることを求めて来たのではなかった。我々はそれほど考えの深い人間ではなかった。だが、多少ともキチンとものを考え、少しでも真面目な人生を生きようとすれば、この世では少数者にならざるを得ないという現実にぶつかる。すなわち、多数者から意地悪されたということでは必ずしもないが、結果としては弾き出されて、少数者にされてしまうのである。キチンと考えないで、適当に生きておれば、現実がドンドンおかしくなって行くのに調子を合わせて妥協し、流されるままに生きることになる。これが「多数者」の道であるが、我々は彼らと同じ歩みをすることが出来なかった。
それは、我々が他の人々より純潔で高貴な精神を持っていたから、崇高な目標を目指して毅然として歩んだ、ということではない。信ずるところあって譲れないものがあったのは嘘ではないが、見方によっては、不器用だからスマートに生きられず、新しい装いを着ることが出来なくて、40年1日の如く、不格好な歩みを続けるほかなかっただけかも知れない。
これまで歩んで来た道を振り返ると、少数者であることを余儀なくされていると意識させられる時期が初めからズッと続いている。本心では、少数者でいたくない。多数者を味方につけたい。我々が真実と思い、正義と考えることを、多くの人も真実また正義と思うようになってもらいたい。しかし実情はそう行かない以上、我々が少数者であるというこの現実を受け入れるほかない。――そのように考えていた。
しかし、近年その考えを捨てるようになった。本当は多数者を獲得しなければならないのだが、已むを得ず少数者であることに甘んじさせられているというのでなく、あるいは、多数者になれないのは我々の側にも何か欠陥があるからである、と肩身の狭い思いをするのでなく、考えを逆転して、少数者であることにこそ意味があり、使命があり、少数者であることに自信を持つべきであり、その使命に生きるべきである、と悟ったのである。
勿論、我々はあらゆる材料を捉えて謙遜を学ばなければならない。少数でしかないことは謙遜を教える有効な材料である。しかし、他の点については自分の至らなさを余り反省しないのに、少数であることについてだけ反省するのは、謙遜でなく卑屈である。
そういうことを考えたので、我々は一人でも多くの人を教会に呼び入れて、教会を少しでも拡大して行こうという、謂わば「物ほしげな」姿勢や政策とは決別することにした。では、外に呼びかけることを止めて、扉を閉ざし、内に籠もるようになったのかというと、そうではない。むしろ、前以上に「開かれた教会」となったし、自らを包み隠さずに押し出し、自信をもって外部に呼びかけるようになった。こうして、少数者であるという外見は変わらないが、中身を見ると元気一杯、自信に満ちた少数者として立っている。
我々の格好悪い歩みを逆手に取った行き方に共感を覚えてほしいと訴えるのではない。
自信に満ちた我々についてきなさいと宣伝するつもりもない。では、今日、「少数者の意味」というような題を掲げて集会を催すのはなぜか。
我々はこう考えたのである。多数者の行く道を、他の人々と同じように行くことが出来ず、この世界の住みにくさに戸惑いを感じつつ生きている人がほかにもいる。いや、そういう人が現代では増え続けているように感ぜられる。そういう人が今日の話しを聞き手のうちにいるのではないか、と思われたのである。そして、そのような人々に我々の思いが届くような言葉を語りたい。ただし、その人たちに、「さあ、我々の仲間になりなさい」とか、あるいは「我々の指導に服しなさい」と呼び掛けて、この教会に引き入れようというのではない。呼び掛けに応じる人が続々出て来たなら、我々は少数者であることを守れなくなってしまうではないか。
では、何故このような題を掲げて講演をするのか、と問われるならば、うまく答えられないのであるが、少数者にならざるを得なくされて、困惑している人々、「少数者」ということの意味を考えさせられながら模索している人々、また少数者であろうとして、苦しくても頑張って生きる人々、そういう人々が我々の話しを共感をもって聞いてくれるのではないか。また我々が彼らと一緒に考え、彼らにエールを送り、少数者であることを深めて行く活力を与え、少数者として生きる勇気の根源を指し示すことが出来れば……。こう考えたからである、と一応答えを出して置きたい。我々は自分の教会を大きくすることは出来なくても、人々に生きる勇気を与える奉仕の出来る教会でありたいのである。
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ところで、我々が近年になって考えを変えた、ということを先に述べたが、「近年になって変わった理由は何か」と疑問を抱かれた向きがあるかも知れない。この問いには大事な問題が籠められているように思う。すなわち、これまで十分考えないままで生きて来た人々も、考え直すことを迫られる急激な変化が近年、日本でも世界でも起こったのだ。――もっと正確に言うならば、これまでは気がつかないままでおられた「危機」が、最早気付かないままでは済ませられないほどに顕在する時代が来たのである。
今日、私はこの話しの中で「現代の危機」について論じることは予定していない。今が危機に突入した時代であることはすでに自明であり、話しを聞きに来た皆さんには分かっているものとして語らせていただく。
これまでの時代にも危機を叫ぶ少数者はいたことはいた。古くは古代のイスラエルに預言者がいた。この人たちが危機を叫んだ典型であるが、余りに現代と懸け離れているように感じる人にとっては適切な例証にならないので、しばらく措いて、もっと近い時代に目を移す。19世紀の半ば頃から、時代の危機を叫ぶ人が、少数者というよりは、人から相手にされない孤独な人として、ボツボツ現われる。人々はその人には気付いたとしても、その声を聞き流していた。それを無視してもやって行けるように思われたからである。しかし、近年それが出来なくなった。危機を叫ぶ少数者はあちこちに現われるようになった。そして至る所で危機が露呈するようになった。
依然として多数者が大きい顔をしていて、少数者の言うことには耳を藉さず、少数意見を言う人がいても、いないかのように黙殺されてことが進んで行くように見える。例えば、日本国の国会において、多数決の原則によって、次々と法案が議論を尽くさぬままに可決されて行く。それは以前と同じことのように見えるかも知れない。が、以前と比べて何かオカシイと感づいている人が増えている。
多数者が多数者であることを維持するその仕方も以前と違って来ている。政治の世界に限って見ても、安定した多数というものがなくなった。非常に無理をして多数者を維持していることが多くの人の目に露わになっている。そういう無理の上に現状が成り立っているので、今日多数者であるものが明日は逆転するかも知れない。実際、思いもかけないようなことが起こるのであるから、この逆転があり得ないと考えることは出来なくなっている。
少数者の声が以前より大きく聞こえるようになっているのは確かである。これまでは、一応スタンダードなものがあって、それに反対する少数意見があるという形で議論がなされたが、今では何をスタンダードなものと言うべきかが掴めなくなった。正しいと思われていた権威が実は正しくなかったという事実が次々と明るみに出て来ると、これまで黙殺出来た少数意見の地位が高まって来る。
政治のことではまだ激変が分かりにくいかも知れない。教育の分野に目を向ければ、これまで原理とされていたことが通用しなくなっている。学校が崩壊している。相次ぐ少年犯罪に対処する道を見出せなくなって、大人が右往左往しているうちに、犯罪現象はますます肥大して行く。教育者は昔は大きい顔をしていたが、今では自信をスッカリなくしている。
こういう大掛かりな変動が起こっている中で、我々もこれまでの考えを練り直さなければならないと思った。そしてその考え直しの結果の一つが、少数者であることの意味と自信の発見であった。
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我々がこの世で、少数者であることを余儀なくされて来たと語ったが、さらに言うならば、キリスト教の中でも少数派にならざるを得なかったのである。ただでさえ少数であるクリスチャンの中のさらに少数者なのである。
キリスト教の内部では、今日でも「少数者であってはいけない。もっと努力して、日本におけるキリスト教人口を増やさなければならない」という主張が正論であるとされている。そういうキリスト教界の中で、我々は「少数者であって何が悪いのか」と言うのだから、変人扱いにされかねない。
近年の情勢の変化について先に語ったが、キリスト教においても、近年、変化が起こっている。それはキリスト教が行き詰まりを意識し始め、意気込みが著しく衰えたことである。その原因は伝道の伸び悩みであると言われているが、むしろ、それが結果ではないかと私は思っている。とにかく、多数者の声は勢いを失った。しかし、少数者の声が盛んになったとも言えない。それでも、少数者が声を大きくして行かなければならないことは確かである。オカシイことをオカシイと言わなければならない。
今日はキリスト教の伝道会であるから、キリスト教の欠陥をあげつらわずに置くのが当然の常識であると思うが、真実を隠さずに言うことにする。キリスト教の中にもおかしいことは一杯あるのだ。それをオカシイと指摘すると、少数派になってしまうのであった。例えば、私は戦前からのクリスチャンであるが、戦争になると、教会は、「国が始めたこの聖なる戦争を、己れを犠牲にして戦い抜くのが、この国におけるキリスト者の使命であり、それが神の御心である」と教えた。国家の宣伝が私を戦争に駆り立てるよりも、もっと得心の行く話し方で、教会は私を上手に駆り立てて、死地に赴かせたのである。
そして、戦争が敗北に終わると、今度は、「平和を守るために率先奉仕するのがキリスト者の務めである」と教会は教えた。イエス・キリストが「幸いなるかな平和ならしむる者」と言われたのであるから、これは戦争への勧めよりもっと納得の行く勧めで、私は進んで従わざるを得なかったのであるが、つい今しがたまで言っていたのと180度方向の違うことを言うこの人たちは一体何者か、という疑いを起こさないわけには行かなかったのは事実である。
しかも、戦争が終わって5年にならないのに、朝鮮戦争が始まった。すると、今の今まで「平和だ、平和だ」と言っていたクリスチャンはピタッと黙り始め、その代わりに、「キリスト教は霊的な救いを追求するのであって、政治に口出しをしないのだ。『平和、平和』と叫ぶ政治運動に巻き込まれてはならない」と言い触らすようになった。比較的短い期間に、日本のキリスト教がこのようにコロコロと変節しているのを私は体験した。そして、キリスト教の偉い人の言うことにはもう従うまい、と心を決めた。
私が不器用であるから、変化に適用できなかったというだけではないかと言われるかも知れない。当たっている面がないとは言えない。しかし、このような変節は明らかにオカシイのである。ところがオカシイと思う人は、キリスト教会の中でも少数者の立場を取らされる。
こういうことを問題にする人は余りにも少ない。世の成り行きに合わせて流されて行く方が樂であるというだけでなく、その生き方こそが正しいのだ、という考えの人たちがキリスト教の本流を作っているのである。
時代が次々と変わって行く中で、自分の棲み場所を見出して、平穏な生活を営むのが正しい道である、という考えがキリスト教の一部にあり、今日でもその主張が主流をなし、多数意見となっている。一見もっともらしい面があるが、検討して見なければならない。例えば、国を挙げて総力戦を戦っている時代に、キリスト者はその社会のなかで別行動を取るのでなく、みんなと一緒になって苦労するのは当然の良心的行動のように言われるのであるが、私自身かつてそのように考えていた時代の自分を俎上に載せて見ると、日本によって侵略を受けて苦しんでいる人々の実情が全く無視されていたことに思い当たるのである。「アジアの解放の戦争である」と意義づけていたが、教えられたからそう思っただけで、実態を確かめることはしていなかったし、実情を知ろうともしなかった。だから、「良心的」だと自分で評価していただけであって、良心的でも何でもなかった。――それと同じようなことが現代でも横行している。
先に挙げた戦争中から戦後にかけてのキリスト教の変節と無定見は、おかしい事のほんの一端である。ところが、キリスト者は全ての人と平和に過ごさなければならないし、まして同じキリスト教信仰を持つ人々と、心を一つにして主のみわざを行なわなければならない。だから、キリスト教内部でいがみ合いを起こすようなことは慎しまなければならない。争っても何も良い物は生まれない。
しかし、信仰とは真理に関わるものであるから、真実を誤魔化して他の人と調子を合わせているわけには行かない場合もあるし、オカシイと自分では思っているのに、その問題点を外部の人に隠すのも偽りではないか。争いを起こして多数派と張り合うのではなく、こちらが敗けていても良いが、とにかく、違うことは違うと言うべきである。それが少数者の道である。
4
キリスト教の中のいかがわしい問題を語ったが、私がこのように言うのを人が聞いて、同じことは仏教にもあったのだ、と話してくれた。仏教においても、やはり戦時中、国家の総動員態勢に組み入れられて、仏教に本来ない教えがなされ、本来の教えが影をひそめ、宗教が戦争遂行の道具にされたこと、それを反省しなければならないと主張する少数者がいること、その少数者に対する圧迫があることを知らされている。
今、仏教内部の事情まで取り上げて論じるゆとりはないが、仏教教団が多数者そのものになってしまっている点、キリスト教と同じだということは触れて置いて良いと思う。
権力を持っている国家の前で、宗教団体が、キリスト教も仏教も、本来のものを失って行った情けない姿が見えるのである。どうしてそうなったのか。少数者であることを恐れたからではないか。自分が何であるかを考えようとしなくなったからではないか。
イエス・キリストは「私の国はこの世のものではない」と言われた。これは彼が「自分を王としている」ということで告発されて、裁かれた時、裁判官であるローマ総督ポンテオ・ピラトの前で表明された言葉である。「私の王国はこの世の王国と別である。別の原理に立っている」とイエス・キリストは言われる。
キリストの王国、これはキリスト教会のことであると言ってよいが、教会はこの世の原理とは別の原理によって立っており、また動くのである。だから、この世の国家が「聖なる戦いだ、聖なる戦いだ」と言っていても、教会は必ずしも同調しなくて良いはずである。少なくとも、国家に同調せよとは教えない。キリストの教えた明瞭な規範があるのであるから、それに照らして判断すべきである。
さて、人と違った意見を言うのは煩わしいことである。争いは避けるべきであるし、人と意見が違っても、出来れば黙り通して置きたい、という気持ちを多くの人は持つ。それでも、黙っておられない場合がある。自分のことを言うが、私は黙っていることが出来なかった人の一人である。というのは、私は戦争に行って、何度か危ない目に遇いながら生還したので、それ以来、生き永らえさせられた命を、自分のためではなく、自分を生かしてくださった神のため、また人々のために用いなければならない、何度か死んだはずなのだから、今度は身の安全を図って沈黙するようなことがあってはならない、と心を決めないではおられなかったからである。
さらに、私の場合、すでにクリスチャンになっていたにも拘わらず、参加すべきでない戦争に、もっともらしい理由をつけて、ハッキリ言えば自らを誤魔化して参加した過ちを、償うために生き残らせられたように感じているから、間違ったことを聞いたとき、聞き流すわけには行かなかった。常識的な正義感とか人権感覚とか、感覚的なことだけを基盤として現実批判をする人もいたが、戦後の半世紀余を生きて来た目から見ると、そういう人の主張は長続きしなかったようである。
私は負い目があるから、袋叩きになるとしても黙っていてはいけなかったのである。幸いなことに、私は孤立無援に陥ることなく、少数ではあっても、私と同じ考えの人がいて、そういう人たちと一緒に叫んで来た。こうして長年にわたって考えているうちに、少数者に関していろいろなことがだんだん見えて来た。そして大胆になって来た。
「見えて来た」と言ったのは、年を重ねて、経験の蓄積により、かつては見えにくかった物事の奥行きや、襞の中、細部に至るまで見えるようになって来たということとは少し違う。もっと単純なことが見えて来た。我々キリスト者にとって聖書が非常に大事なものであることはキリスト教と関係のない方でも知っておられると思うが、「少数者」というものの理解が、聖書に導かれて深まり、また固まって来たのである。
ということは、聖書の教えはもともと「少数者たれ」ということであると単純に読み取るべきであって、その真理がだんだん深く分かって来たという意味かというと、必ずしもそうではない。「少数者たれ」という単純な路線が自明のこととして打ち出されているならば、少数者であることを恥じたり恐れたりする卑怯な自分を打ち叩き、抑制して、服従させれば良い。ところが、聖書の教えは、少数者原理ではなく、容易に読み取れる範囲では、むしろ多数者を目指していると思われる局面が多い。すなわち、全世界にキリストの福音が宣べ伝えられねばならない、と言われている。だから、神を知る知識が世界に満ちて、地の上あまねく、神のみこころが行なわれるようになることを目指すべきであるという方向が読み取れる。そういうわけで、一人でも多くの信者を獲得するのがキリスト教の使命だと言っている人は多い。これが間違いだとは言えないものがある。
だが、聖書からもう一つ、「少数者を目指せ」という声が、耳を澄ませば、かなりハッキリ聞こえて来るのである。「狭き門から入れ」というイエス・キリストの教えがあることは、キリスト教と縁遠い生活を送る人も、常識として知っているのではないだろうか。マタイ伝7章13-14節で言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に到る門は狭く、その道は狭い。そして、それを見出す者が少ない」。このお言葉を突き付けられている以上、我々はこれを聞かないで逃げ出してはならず、良く噛みしめ、これに服従しなければならない。
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だが、狭い道であれば、必ず真実であると言えるのか。「そうではない」ということにも我々は気付いている。誰にも相手にされないことを言い続けている人がいて、その語る事が真理である場合がある。だが、常にそうであるとは限らない。少数者が言い続け、多数者が無視していたことが、正しかったと後で明らかになることもあるが、少数者の独りよがりに過ぎなかった場合も沢山ある。
「少数者」ということをマイナスのイメージとして捉えるなら、これは多数者の仲間に入れて貰えなかった落ちこぼれのことであるが、「少数者」の意味を積極的に捉えようとするならば、少数者が少数者である意味や条件がある。そこで、その本当の意味や条件は何であるかという問題になって行く。
少数者が外部からの忠告を聞き入れず破滅への道を突っ走って行く実例が多い。「人民寺院」という小さいカルトが集団自殺をして世界を震え上がらせたのは1978年ではなかったかと思うが、彼らは彼らの信ずるところが自らの死によって証明されると信じて、死を選んだ。しかし、大人が自暴自棄の破局に向けて子供たちを道連れにしただけの犯罪行為である。しかも、このような確信犯的小集団が次々と起こっている時代である。
その少数者は確かに間違っているのである。我々も間違ったことを正しいと確信する少数者になってはならない。
多数者が自分の正しいと信ずることこそ正しいと信じて疑わない傲慢がある一方、少数者の傲慢というものもある。自分が本当だと思っていること、それが本当であるかどうか吟味しなければならないのであるが、多数者はその吟味を不必要であると信じている。多数者が良しと言っていること自体が正しいことの証明であって、吟味の余地なし、と決めつけるのである。その姿勢に問題があるのだが、少数者が本当と思っていることも、本当かどうか吟味しなければならないであろう。
この際、少数者ならば、自己を吟味しようとすれば、吟味出来る。ところが、多数者には自己吟味が出来ないという致命的欠陥がある。多数者が自己吟味を始めると、多数者であることが保てなくなって、解体してしまう。そういう意味で、少数者の方に断然強みがあると言うことが出来る。
小さいボートならば、舵を切ると直ぐに向きを変えることが出来るが、大型船になるとそうは行かない。舵を切っても、しばらく経たなければ舳先は回らないし、回り始めたときには舵を中央に戻して置かないと、回り過ぎになる。――この簡単な譬えで納得するには事情は余りにも複雑なのであるが、一応、小さいことの強みもあることは理解してもらえるかと思う。
今言ったことを逆に見るならば、自己吟味をしない少数者は、たとい数的に少なくても、「少数者」という本来の意味を持っておらず、体質的には少数者ではなくて、多数者である。多数者を目指し、多数者に憧れ、多数者原理に立ったまま、多数者になることが出来なくて、現在のところ失意のうちに、少数者であることに忍従しているが、あわよくば多数者を獲得しようとしているだけだということもある。自己吟味をさせない力が、集団が小さいだけに有効に働いて全体を締めつけるのである。このような自己反省を拒否する小集団は、強烈な個性を持つ指導者に引き摺られている。不安定な時代には強烈な個性は魅力的で、人々は無批判にこれについて行く。この集団は謂わば舵の効かない、エンジンの止まらない船のようで、反省が出来ないままに、破局まで突進する。
こういう実例が夥しく出現する時代になったことは我々の知る通りである。我々はそのような集団になってはならない。
そこで我々は、数が少ないというだけで自己満足することなく、少数者の実質を獲得しなければならない。それは自己を検討する力と方法とを獲得することである。この力と方法とを身に着けることなく、あなた任せにしているならば、何となく漂流を続けるか、少数者であることの緊張感を一時的に味わうだけで疲れ切ってしまうか、カリスマ的指導者に身を任せて、やがて破局を迎えるかしかない。
自己吟味のためには、いろいろな観点からの考えが自由に持ち出されて討議されなければならないと言う人たちがいる。一見本当らしく聞こえるかも知れぬが、私はここには欺瞞が忍び込み易いと思う。すなわち、さまざまの考えと言っていると、多数派原理を反省の資料として持ち込むことになって、少数者にとっては自己崩壊にしかならず、意味がない。反省を成り立たなくさせるものを持ち込むのは、反省にならない。
反省の原理を明らかにして行く営みをしつつ、少数者であることの意味を深めなければならない。反省の原理として我々には聖書がある。聖書、聖書、とお題目を唱えるのでなく、聖書が本当に深く読み取れるような学びをして行かねばならない。深く読み取るとは、趣味にあわせて聖書を味わい読むということではない。そのようなレヴェルの読み方では自分の好みに合った読み方をし、自分の言いたいことの裏付けを聖書にさせるだけなのだ。聖書を非常に熱心に読むけれども、自分勝手な読み方をするキリスト教系のカルト集団は沢山ある。
これでは聖書でなくても、任意の文書であれば良い。自分の言いたいことをその書物に言わせるのであるから、どんな書物を持って来ても同じなのである。
我々の場合、聖書から神の言葉を聞くべく読むのである。自分に都合の良いことをこれに語らせようとするならば、大きい書物であっていろいろなことが書かれているから、成程、いろいろなことをここから引き出せるのである。しかし、我々はそういう読み方はしない。聖書の言葉の解釈にある幅があることは認めるが、幅があっても、それは神の言葉として私に語りかけられ、我々に反省を迫って来る点では動かない。
こういう動かないものがあるからこそ、少数者は少数者の意味を掘り下げることが出来、その意味を発揮することが出来る。もうここでは人数が多いか少ないかは殆ど問題にならない。神の言葉に服従することだけが眼目なのだ。神の言葉に服従する者が沢山いるのは望ましいことである。ただし、イエス・キリストが言われたように、結果的には、神の言葉に従う者は少ないのである。
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次に、少数者は、真実な少数者たらんがためには、自分たちのほかにもいる少数者のことを考えるゆとりを持たねばならない。小さいカルト集団が急激に増えている今日の不安で混濁した社会情勢については先程来触れているが、これらの小集団に共通するのは、自分たちの主張だけは強硬に貫くが、それによって無視される人々に対する配慮がまるでない点である。「人民寺院」においては、大人たちの自己満足のために子供を道連れにして全員自殺した。オウム真理教は自分たちは死なないで、確信をもって他の人を大量に殺した。我々は他の人を大量殺戮することは勿論考えないが、自分の手で殺すことはなくても、殺される人がいることに気付こうとしないならば、見殺しであって、殺人に手を貸したことになるのではないだろうか。
「他者の人権を考えることが出来るかどうか」。これは多数者に対する問い掛けとして有効であるのみならず、少数者であることを自任する者らが、本物であるかどうかを明らかにする試金石の機能を果たすものであると思う。
少数者を尊重せよという主張には大事なものがあるが、少数者の甘えやエゴイズムや特権意識を助長することに意義があると考えてはならないであろう。少数者が少数者として存在意義を持つのは、「少数者であろうとする」ことの中に、「劣勢」とか「権利放棄」を自発的に選択するという含みがある。
劣勢や権利放棄や自己犠牲は、少数者の多数者に対する譲歩ではなく、他の少数者のための犠牲ではないだろうか。
他の少数者のために犠牲になる、というならば、他の少数者に対して開かれた目、澄んだ眼差し、広い視野を持たなければならない。自分のことだけで頭が一杯ということではいけないのである。では、どのようにして他者への開かれた目を持つのか。
我々の見るべき領域が広い。私が独り世界の中にいるのではない、ということを知らなければならない。それはどのようなことか。我々の置かれている場所が狭くなく、他の人もいることを知らねばならないのである。端的に言うならば、万物の造り主がおられて、その神によって、私も他の人々も造られたということを知らなければならないのである。見たい物だけを見ていてはいけない。事実があるならば見ることが出来るのである。見えることならば、見るに価しない場合はともかく、我々の義務に関わって来るようなことならば、目を開いて、必要な場合は覆いを取り除けて、現実に起こっていることを見なければならない。
そういうことはなかなか見えないものだ、と言う人があろう。そうかも知れない。本当に見なければならないものは隠され、それを忘れさせる力が強力に働くのがつねである。その力に抗して、見えにくい物を見るためには、特別な調査とか、学問が必要なのではないか。そういうものも必要であると思う。しかし、調査のデータが目の前にあっても見ようとしない人には見えないではないか。場合によってはそのデータを隠してしまって、事実を埋没されることもなされる。
我々は専門的な調査に携わるだけの力も時間もないが、見るべきことならば見えて来るように神に祈ることを知っている。祈っておれば、見えて来る。これが少数者の務めの一部であり、これによって正しい意味の少数者であることを維持出来ると我々は思うのである。
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さらに、最後にこういうことを見ておきたい。我々は他の少数者の事を考えておれば良いのではなく、我々と反対の立場にいる「多数者」のことも考えなければならない。万物の造り主との関連で他の少数者が見えて来るなら、その神との関係において「多数者」のこと、彼らの救いも見えて来るのである。すなわち、神は少数者を用いて多数者を再建しようとされるのである。
聖書には多数者への恵みの拡がりの教えがむしろ前面に出ているように見えると語って来た。それと少数者とはどういう関係にあるのであろうか。相反する二つの原理が聖書の中にあって、これも大事、あれも大事ということであろうかと、私の話しを聞きながら考えた方があろうが、二つの原理があるのではない。一元的であり、一本になっている。それが聖書の示す救いの歴史の基本線であると私は思う。
それはどういうことであるかと言えば、神は少数者を用いて多数者を救いたもうのである。少数者と多数者が対立し、多数者は少数者を迫害するけれども、最終的には少数者が勝利し、多数者は報復を受けて破滅する、というふうには歴史は進まない。
聖書を読むならば、もっとも、聖書を通して読まなければならないのであるが、少数者は傷めつけられ、殆ど殺されるほどであるが、彼らを殺した人々が彼らのよって祝福されるのである。それでは割が合わないと思われるかも知れないが、聖書が教えるのはこういうことなのである。
イエス・キリストは十字架につけられて殺される時、「父よ、彼らを赦したまえ」と自分を殺す人のために祈られた。素晴らしい愛と寛容の模範だと思われるかも知れないが、単なる美徳の模範として見るのでは、正しい理解ではなくなる。
キリスト教の最初の殉教者はステパノという人であるが、彼は石を投げ付けられて殺されたのであるが、彼もまた自分を殺す人のために祈りながら死んでいった。これも寛容の美徳の現われと見ては正しくない。これは少数者を用いて神が計画を行いたもうことを示すのである。
旧約聖書のイザヤ書42章にこういう言葉が記されている。
「私の支持する我が僕、私の喜ぶ我が選び人を見よ。
私は我が霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道を示す。
彼は叫ぶことなく、声を挙げることなく、その声を巷に聞こえさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教えを待ち望む」。
ここに描かれている「僕」というのが誰であるかについて語らねばならないのであるが、私はそれについては今日は黙っていようと思う。誰を指しているかを、考えて貰えれば幸いである。それが誰であるか、分かれば、結論が出ているのと同じであるが、今は結論の一歩前で葦を留める。
それはそれとして、この僕が少数者の姿を描いていることもまた確かである。
少数者であるとは、時に利あらず、少数者になるということではなく、絶対的な意志を持つお方によって少数者と定められたことであり、使命がある。多数者のことを考えるのは少数者の使命なのである。少数者は多数者の救いを使命として担うのである。
縷々語って来たが、纏めをつけるために聖書の一つの章を朗読したい。解説はつけない。解説すれば時間をとるというのが一つの理由であるが、解説抜きで、言葉の力を味わって貰いたいという気持ちが私にあるからである。朗読個所は旧約聖書イザヤ書53章である。解説抜きで聖書の言葉だけを押しだすのであるから、読むテキストは解説的な要素の少ない昔の文語訳にする。
「我らが宣ぶるところを信ぜし者は誰たれぞや、ヱホバの手は誰に現われしや。
彼は主の前に芽生えのごとく、燥かわきたる土よりいづる樹株こかぶのごとく育ちたり。我らが見るべき麗しき容すがたなく、美しき貌かたちなく、我らが慕うべきみばえなし。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人にして病患なやみを知れり。
また顔を被いて避くることをせらるる者のごとく侮られたり。
我らも彼を貴まざりき。
まことに、彼は我らの病患なやみを負い、我らの悲しみを担えり。
然るに、我ら思えらく、彼は責められ、神に打たれ、苦しめらるるなりと。
彼は我らのとがのために傷つけられ、我らの不義のために砕かれ、自ら懲らしめを受けて、我らに平安やすきを与う。
その打たれし傷によりて我らは癒されたり。
我らはみな羊のごとく迷いて、おのおの己が道に向かい行けり。
然るに、ヱホバは我らすべての者の不義を彼の上に置きたまえり。
彼は苦しめらるれども、自らへりくだりて口を開かず、屠り場に引かるる小羊の如く、毛を剪る者の前に默す羊の如く、その口を開かざりき。
彼は虐しえたげと審判さばきとによりて取り去られたり。
その代の人のうち誰か彼が活ける者の地より絶たれしことを思いたりしや。
彼は我が民のとがのために打たれしなり。
その墓は悪しき者とともに設けられたれど、死ぬる時は富める者と共になれり。
彼は暴あらびを行なわず、その口には偽りなかりき。
されど、ヱホバは彼を砕くことを喜びて、之を悩ましたまえり。
斯くて、彼の魂、とがの供え物をなすに至らば、彼、その末を見るを得、その日は永からん。
かつ、ヱホバの悦びたもうことは、彼の手によりて栄ゆべし。
彼は己が魂の煩労いたづきを見て、心たらわん。
我が義しき僕は、その知識によりて多くの人を義とし、また彼らの不義を負わん。
この故に、我、彼をして大いなるものと共に物を分かち取らしめん。
彼は強き者と共に、掠物えものを分かち取るべし。
彼は己が魂をかたぶけて死に至らしめ、とがある者と共に数えられたればなり。
彼は多くの人の罪を負い、とがある者のために執り成しをなせり。
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