日本キリスト教団東海教区教職研修ゼミナール講演
2003.11.10.

信仰告白、昨日、今日、そして明日


 I 戦争で崩壊してしまった教会

私が信仰告白について学び始めたのは、戦争から生きて帰って来て間もなくのことである。その頃、戦争責任について良く分かっていなかったが、何か非常に大きい失敗をしたという意識、また、あらゆる意味で自分が学び直さなければならないという意識、これはハッキリしていた。そして、あらゆる意味での学び直しを始めたのであるが、どこに軸足を置くかと言えば、それは信仰者としての私自身を問い直すところにあった。私が伝道者としての歩みを始めたのは1949年であって、それまではキリスト教を学問的に学んでいるだけで、伝道者として生きるという人生計画はなかった。人に道を説くどころか、自分自身を問い直して、キリスト者として出直さなければならないという思いに迫られていたのである。
 国中が飢えていた時期であるから、私も如何に生きるかを考えなければならなった。そのために或る時間労働しなければならなかったが、戦争で一度死んだはずの人間が、単なる日々の糧のための思い煩いに振り回されるようなことがあってはならないと考えて、一心に書物を読み漁っていた。これは、考えに考え、意識を高めて到達した境地というような崇高なものではなく、多くの人が死んで行くのを見て来た者には、考える以前の、心に刷り込まれ刻み込まれた傷跡である。
 私はキリスト者の家庭に生まれたが、家の宗教としてのキリスト教に対する嫌悪感を持っていた。詳しい話しは今日はしない。私は家の宗教からの脱出を試みて失敗し、ついに自分は神に従って生きるほかはないのだと思い定めるに至った。ただし、これは「献身」と言われるような殊勝なものではない。
 そのようにクリスチャンとして生きるほかないと腹を決めた私にとって、教会の現状はますます我慢ならぬものであった。特に我慢ならぬのは、教会の中にあったこの世への「おもねり」、また物に怯えた姿勢である。私自身、キリスト教のことが分かっているわけではないし、キリストの教えを実践しているわけでもないから、人を批判する資格はないのであるが、国全体が国家主義に急速に転回して行く中で、教会は周囲に迎合しながら生き延びようとしているのが気になってならない。
 「こんなことはキリスト教では言えないはずだ」と、私のような者にも分かるほどのハシタナイことを、キリスト教の指導者がぬけぬけと語っている。私はあんな人の後について行かないで、もう少しはまともなクリスチャンにならなければならない、ということをしきりに考えていた。
 そういう私が、丁度60年前、「学徒出陣」で軍隊に入ることになる。軍隊に入ることがキリスト教信仰に矛盾しないのか、という自問自答は当然あった。だが、私は自分では大いに誠実なつもりで、実際は、自分をごまかして、戦争に行くことの意味付けをして、戦争に参加した。そして、自らが偽っているのでないことを自分に納得させるために、誠実に生きたつもりであった。すなわち、友のために命を捨てる機会があれば、回避してはならないと考えていた。
 ところが敗戦は私に生き方の全てが偽りであったことを暴露した。特に、自分がクリスチャンとして偽りなき生き方をしようとしていたこと自体が偽りであったのを見せつけられた。だから、キリスト者として出直すほかないと思った。しかも、日本の教会全体がおかしなことをしていたのだから、近いところに指導者を見つけることは出来ない。指導者だと自分で思っている人を批判するだけの実力はなかったが、私自身が挫折感を抱いて戦後を生きているように、彼らも挫折感に悩みながら生きているのだと思っていた。――実際はそうでなかった。
 とにかく、私は礼拝には休まずに出ていたが、生身の人間から教えを求めることはせず、古い書物から学ぶほかないと考えた。そこで大きい位置を占めたのが、信条や信仰告白の勉強である。 なぜ信仰告白か 私は信仰告白を専門的研究の対象としたのではない。専門と言えば、私はずっとカルヴァン研究をして来た。では、信仰告白の研究はサイドワークであったか。そうではない。
 譬えて言えば、建築をする時、足場を組まなければならない。私にとってカルヴァン研究は建築であり、足場は信条研究である。建築が終わった後、足場は取り外される。人はその建築物を業績として見るのであって、足場のことは殆ど考えない。それを考えるのは実際の仕事をする職人である。しかし、専門人としての技術、仕事の段取りを考える知恵を身につけていなければ、足場は組めないし、チャンとした構造をもった建物は建たないのである。神学もそういうものである。
 では、お前は誰にも手引きされないのに、建築のほかに足場を築くという知恵をどこから身につけたのか、と問われるであろう。それは、そういう知恵が閃いたからである。つまり。外から知恵が入った。その閃きを促したのは、一つの小冊子である。その経緯については別の所で語ったから、ここでは言わない。
 今、私は建築の足場という比喩を取り上げた。私と違った研究分野を持っている方もおられると思う。少しは纏まった研究を仕上げるためには、神学のどの分野であっても、足場を築かなければならないということを納得されるであろう。そして、さらに、信条研究が神学というものの全ての分野で、足場造りの作用を演じるということにも同意されることを期待する。そのように、これは基礎的な、また初歩的な作業になる 今、研究に例を取ったのであるが、それを説教に置き換えても良い。その方がもっと適切かも知れない。足場は取り払われるものであるから、仕上がった時には表に現れない。しかし、これがなければ、説教をしても、思い付きを並べ立てただけの貧しいオハナシに終わる。
 信仰告白研究とは、そのようなものである。
  教会の骨格 教会は軟体動物ではなく、骨格を備えていて、それぞれの状況に即して姿勢をとることが出来る。だから、責任を持つし、責任を問われる。責任を外から問われなくても、自らに問い詰め、自分が自分であることを明らかにして行く。教会が教会であるためには、何を信じるかを明らかにして置かなければならない。
 戦争が済んでから、私がやっと自分の戦争中の生き方を問い直し始めたと先に言ったが、「信仰、信仰」と口ずさむことは戦争の中でも行なわれていた。しかし、何を信じるべきか。もっとハッキリ、何を信じてはならないかは、曖昧なまま、あるいはわざと曖昧にしていた。教会は定点を持たないまま、どこまでも漂流し、立つべき所を忘れただけでなく、自分のいるところも分からなくなっていた。
 私は旧日基の信者の家庭で育った。旧日基は「信仰告白」ということを最もウルサク言い、ウルサク言うことを誇りとしていた気位の高い教会であった。しかし、私はその時代、信仰告白や信条について、教会では何一つ教えられた事がない。それにしては、レーマンの青年でありながら、そういう言葉をよく知っていたものだと、不思議がられるかも知れない。それは印刷物や、近隣教会との交流や、その他の環境ないし雰囲気から嗅ぎ取り、聞き覚えたものである。
 書物によって勉強を始めたという話しをしたが、本はあっても読む力は乏しいから、分からぬことだらけであった。そこで、自分は偉い神学者であると思っている先生に聞きに行く。そうすると彼は知らないのである。日頃、「信仰告白、信仰告白」と言っている人だが、信仰告白研究に関する初歩的知識もない。それでいて、偉い先生だと言われている。教会とは随分好い加減なこころだと恐くなった。
 結局、分からぬながらも一心に読み続けておれば、だんだん分かって来る。仕事の足場のようなものであるから、仕事が仕上がらないうちは足場の仕事も止めるわけには行かない。そういうことで、信仰告白の勉強を続けざるを得なかった。
 そのように、手探りで道を歩くような歩みの中から、自分で見出したのは、ごく当たり前のことではあるが、解説書に頼るのでなく、自分で本文をみっちり読むしかないということである。
 これまた当たり前のことであるが、信条や信仰告白の本文を読むことは、さほど高度なまた困難ではない。勿論、スラスラ読めたという意味ではない。構文が単純であるから、古典語に習熟していなくても、手抜きせずに調べさえすれば、初歩文法を終えた段階で、原文は読めるのである。読んだことを長年じっくり噛みしめておれば、豊かな知恵が育つ。そして、告白の精神が養われる。 起源探求 教会が最初の信仰告白を持ったのはいつであろうか。非常に古い時代、日本で言えば縄文の時代に当たる。だから、その頃の文字資料は、石に刻まれた場合でない限り、残ってはいない。そして、石に刻まれた信条テキストが今後発見されることはあるかも知れないが、今の所、何も知られていない。
 信条の起源の探求は文芸復興時代、またそれと同時代であったが、宗教改革、その時代に始まっている。16世紀である。新しい学問によって古い権威を覆そうとした人もいた時代である。「使徒信条」と呼んで貴ばれ、12使徒が一筆ずつ書いて作ったという言い伝えが、作り話であることは宗教改革の始まる少し前には主張され始めた。確かに、これは稚拙な作り話である。
 また、宗教改革には、キリスト教会が純粋であった時代の姿を復原しようという志があった。それゆえ、95箇条の提題によって紛争が起きた時、ごく初期の段階では、方向がまだ定まらなかったが、間もなく、宗教改革の推進者の間に、古代教会の研究がカトリック以上に盛んになる。そうするうちに、信条に関係ある資料が、教父の文献のなかから読み取られて来る。その情報が集積されて行くと、古代教会における信条の制定と使用の実情がだんだん見えて来る。
 歴史的・批評的に読むだけでは、信条研究は部分的にしか進まない。とはいえ、信仰をどんなに強調しても、学問的に緻密でなければ、信条研究は実を結ばない。信条の常識は昔と比べて遥かに進んでいるが、地道な研究は殆ど進んでいないのではないかと私は心配している。世界の学界で信条研究が深まらなくなったのは、行く所まで行って、もう掘り起こしても何も出て来そうにないと見られ、研究者がいなくなったという事情があるが、かなり地味な学問訓練を積まなければならない分野に携わる人材が集まらないという風潮とも関連する。――研究領域が掘り尽くされたと見られるが、まだまだ未発掘の分野がある。私自身は手を着ける力がなかったのであるが、オリエントのキリスト教の信条について、まだ分からないことが沢山ある。
 世には学問を重んじると信仰が衰えると言う人があり、賛成者が多いが、一見真実なような装いを持ちながら、安易な精神主義を教会の中に広める危険思想ではないかと私は思う。
 今言った未発掘の部分はともかくとして、西欧においては、17世紀にオランダのヘラルド・ヤン・フォス(1577-1649)、北アイルランドのジェイムズ・アッシャー(1581- 1656)、特に後者によって信条研究の基礎が定まり、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツの学者群によって上積みされて、資料は殆ど調べ尽くされた。
 古代信条の原型がいつ成立したかは、論者の間で、同じ資料に立っていながら諸説まちまちである。私自身は2世紀の初めに小アジアで成立したと考えるが、年代決定はそれほど大事なことではないと思う。 使徒的使信の型 成立年代はさほど重要な関心事にならないと言ったのは、信条の原型が出来る以前、すでに使徒の書が書かれた時点で「教えの型」とか、その他いろいろな名で呼ばれる信仰の規範となる「言い伝え」があったことが分かっているからである。その使徒時代の信仰規範のテキストは残っていないから、項目内容は断片をもとにした推定による他ない。今はその推定項目を論じる時間がないから、例えばC.H.ドッドの論究を思い起こして頂くことで済ませたい。
 ローマ書12:6に「信仰のアナロギア」という語がある。これまで「信仰の程度」とか、「信仰の度合い」とか訳されることが多かった。註解者の間で解釈は必ずしも一致していないが、これは「信仰規範」のことではないかと私は思う。新しいローマ書の註解書で、学問的に学問的に信頼されている、ケーゼマン、クランフィールド、ヴィルケンスなどはその解釈を取っている。この解釈の方が信仰の程度や度合いと取るよりも、ずっと分かり易い。
 使徒時代の伝道において、すでに使徒的ケーリュグマの型があったのだから、使徒が死に絶えた後の時代には、いっそう「型」が必要とされたであろう。そこで、それまでにあった以上の型が出来た。その型が信条の原初型、祖型である。だから、「信条」の成立は使徒時代の終焉の直後と見るのが妥当ではないかと考えられる。
 信条勢立の地域が、小アジア、ヨハネのサークルの中であるという説は、古くカール・.パウル・カスパリ(1814-1892)が唱えたものであるが、私はそれを踏襲する。彼自身はこの説の根拠を論じていないようで、私が推論するのであるが、小アジアにはエペソを中心として、使徒ヨハネの指導を受けている教会集団があって、教団を作っていた。このことはヨハネの黙示録から明らかであるが、この教団の言葉遣いが信条の用語として用いられているので、信条がこの地域で成立したと見るのが最も無理なく考えられる。
 特殊な言葉遣いとして持ち出すことの出来るのは、ただ一語しかないが、「我らは信ず」(古い時代に信条は多くの場合、「我信ず」でなく、「我ら信ず」であった)と言うところを、同じ動詞を使うとしても、他の言い方があるのに、ヨハネ文書の好んで使う「ピステウオメン・エイス」を使うのである。「エイス」という前置詞を使わなくても良かったはずである。 洗礼告白の成立 最初の信条が成立した時、そのテキストは散逸して知り得ないのであるが、これは洗礼に際して与えられ、受洗者によって一気に唱えられたと思われる。そういう唱え方が、少し後の時代に行なわれたことは資料があるから確かである。
 信条は一纏めの言葉であるが、三部分、あるいは四部分、あるいは五部分からなっていた。最初の三部は、父、子、聖霊で、この部分が中核である。時代的前後関係を解明することは出来ないが、この三部形式は、マタイ伝28:19に伝えられる「父と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ」の句と関連している。これは三一論の形式が整った時期と同じであろうと思われる。
 では、三一論形式が整う以前にはどうであったかというと、キリスト論的形式をもった最初期の形式があったのは確かであり、次に移行期があった。その期間が短かったか長かったかは分からない。キリスト論的形式とは、例えば、ピリピ書2:11で言う、「イエス・キリストは主である」であって、早期に成立していた。その時期にはキリストの名によって洗礼が施された。その痕跡は使徒行伝のなかに多く留められている。
 これが三一論形式に移行する時期に、「信条」と呼ばれるものの原型が成立した。信条の名はまだなかったであろう。
 四番目に来た項目は「教会を信ず」であったのではないか。そして第五項は「罪の赦し」もしくは「体のよみがえり」であったと思われる。
 二つの候補が挙がるのは、後の時代のモデルは分かるが、問題になっている段階のものが残っていないからである。いずれにせよ、第五項以下は各地の教会でまちまちの歩みをすることになる。
 こうして信条が作られて行く流れの中で出来て行ったのは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条として出来上がったものである。これが最もエキュメニカルな広がりの中で成立した信条である。「使徒信条」は西方教会でのみ知られ、内容的にはエキュメニカルと言えるのであるが、成立過程について見れば、地方的なものであった。 信条の素材 三一論形式の柱が定まり、三つの柱にそれぞれの項目の文言が並ぶことになる。そこに並び、また結び付いたぶ語彙について見る時、それが殆ど新約聖書的語彙であることに我々は気付く。
 後世、マルチン・ルターが「聖書」と「信条」の関係を譬えて、蜜蜂が花園から花の蜜を集めて来るように、聖書という花園から、蜜を集めたものが信条であると論じた。これは巧みな比喩であるが、厳密に見るならば事実認識は多分違っている。
 ルターは聖書がすでに出来ていて、それをもとにして信条が作られたと捉えているのであるが、事実を言えば、聖書が聖書として纏まる以前に信条の初めの形が成り立ったと理解すべきであろう。
 勿論、個々の書はすでに書かれて、それぞれのアイデンティティーは認められていたが、「聖書」として纏められて、教会の内にその地位を持ったのは、もう少し後である。しかし、新約聖書成立の時代についてここで論じる必要はない。聖書的語句が、教会の中で聖書的語句として語り伝えられ、またそのようなものとして機能していたことを見ておけば良い。
 それぞれの柱ごとにそれらの語句を吸着したのであろう。だから、聖書と信条とは素材の点でも一致する。
 今言ったことの確認作業は、ギリシャ語コンコーダンスがあれば、全くの素人にも容易に出来る。そのやり方を活用すれば、信条の中に凝縮されていたものを、聖書の世界に繰り広げることが出来るということになる。
 これが信条釈義の切り口となるのである。不適切な譬えであるが、乾燥食品を水に戻してフックラさせるように、無味乾燥と貶められることの多い信条のテキストを聖書に戻して、みずみずしい味わいを取り戻すことが出来るし、意味の広がりと深みを復原しなければならない。
 このような信条釈義を勤勉に繰り返していないと、信条の語句は唱えているだけでは、どんどんひからびて、歯の立たない物になる。唱えることすら知らないならば、私自身にとってかつてそうであったように、信条は命のない化石になる。
 教会は「神の民」として、古い時代からの命を受け継いで行き、それゆえにこそ変遷を重ねるこの世の中で、新しい命を示すことが出来る。
 信条は釈義されなければならない。これは古代の信条についても、この後に述べる宗教改革の信仰告白についても同じく強調されなければならない注意事項である。その釈義について、私は乾燥食品を水で戻すという所帯じみた比喩を使ってしまったが、聖書を使って復原するということを言いたかった。単なる文書の解読ではない。文学鑑賞として読むのでもない。 信条の作られる時代 古代教会の信条形成の重要な時期は2世紀であると私は思う。その世紀の初期から作業はずっと続いて、次の世紀には下火になる。この世紀の間にどんな神学活動が行なわれたかを思い出しながら聞いておられる方が当然あるのだが、私はそれについては今回は触れることを断念する。時間がないからである。それらの神学活動と信条が教会の中に確立して行くこととが織りなされているので、大事なところなのだという指摘をするに留めて置く。
 信条制定の営みが再び盛んになるのが4世紀だということは広く知られると思う。この世紀に関しても前記と同じ理由によって今回は触れない。
 ところで、信条を作ることを止めていた時代は空白期か。私はそうは思わない。教会が休みなしに信条を作り出していては、財産が増え過ぎる。作るのを止めて、維持だけにする時代も必要だと思う。
 財産が増え過ぎるから休むという譬えは、不謹慎と非難されるかも知れない。しかし、神の摂理に服して、或る時は作るが、或る時は作らないという慎みも大切であると言えないだろうか。
 新しく作ることはしないけれども、古いものを保つ、生き生きしたものとして受け継ぎ、この時代の中で守り、次の世代に伝える、そのことは、新しく作るのと優劣を比較することの出来ない大事なことであると承知したい。
 今は作られる時代なのか、守る時代なのか。これは私にも答えられない、苦しい問題である。新しく作るべきではないか、という議論は比較的容易に出て来るし、また受け入れられる。ところが、作ろうとしてもすでにある物と代わりばえしないものしか出来ないという苦衷を味わわなければならない。
 私は信条や信仰告白には作られる時期があると思わずにおられなくされている。その時代とは、一つは上記の古代である。第二は宗教改革期である。私はそれしか知らない。


2003.11.11.

II 信条と信仰告白

 宗教改革の「信仰告白」は、古代の「信条」を継続したものである。ただし、宗教改革の教会は、新しい信仰告白を立てることによって、古い信条を廃棄処分にしたのでなく、むしろ、古いものを新しいものとともに掲げた。それによって、宗教改革の運動が使徒的教会を継承するものであることを言い表わすとともに、古代の信条では表明しきれなかった自らの信仰を、もっと厳密に言い表わそうとした。
 前回の話しでも、今回も、「信条」という呼び名と「信仰告白」という呼び名を区別し、また特定の意味を帯びたものとして使っているが、本質において同じと言って良いものを、専門用語としては区別すべきであると考えるのである。「信条」(シンボルム)は古代教会が生み出した「信仰告白」の呼び名である。「信仰告白」を意味する聖書語彙として「ホモロギア」というギリシャ語があり、これは使徒時代には用いられたが、そののち一般的用語としては定着しなかった。代わりに、経緯がハッキリしているとは言えない「シンボルム」が定着した。この語が教会内で用いられる時は、この名を持つ文書を、文体や性格を全部籠めて指している。だから、別の場合に使われる「シンボル」という語と混同することは、理解の混乱を起こすのみである。
 「信仰告白」、「コンフェッシオ・フィデイ」も一般的な意味を持つが、ここでは一定の文章の名称として使うことにする。言うまでもなく、「信仰告白」という言葉から、多くの意味を引き出すことが出来、その多様性は重要なのである。しかし、ここでは、「教会が教会法に基づいて確認している信仰規準ないし教理規準で、一定の文章形式を持つ文書」というふうに限定して論を進めなければならない。
 「信条」という文書は、すでに述べた通り、比較的単純な語彙を組み合わせて作られている。そのように、「文書」であると言って支障ないが、非常に長い間、というより、原則としては文書化されず、口頭で伝えられ、「信条伝授」という儀式で授けられ、記憶に留められ、生涯、反復して称えられた。たまたま書き留められたものがあったから、記録が残ったのである。その構成要素は「単語」である。単語一つがあるかないかで意、味が変わる。例えば、ニカイア信条は「ホモウシオス」という一語で難問を解決しようとした。それも、「ホモイオス」ではいけない、「ホモウシオス」だと主張された。
 細かいことにこだわって、空しい言い争いをしたと非難されるかも知れないが、当事者たちはその一語に、他の語に置き換えることの出来ない意味が籠められていると見たのである。――ここで少し目先を変えて、17字で纏まった意味を表わす俳句では、1音が違うと、全体が台無しになるのと似ていることを思い出して貰えれば良い。
 日本ではこのような17音、あるいは31音の詩があって、1音といえどもゆるがせには出来ないという慣例があったので、文章を短く纏め、小さい語句にこだわり、場合によっては、2つも3つもの意味を兼ねさせ、したがって両義性のある、曖昧な語彙が割合よく使われる。話しが横道にそれているが、日本では、俳句的文章感覚で信仰告白を短く纏めようとする傾向があるように思う。
 1890年、それまでの一致教会が、旧日本基督教会になる時、何を信仰告白とするかで激論があった。一致教会時代の信仰告白を踏襲することを主張する人、すなわち、ハイデルベルク教理問答、ドルトレヒト規定、ウェストミンスター小教理問答でなければならないとする人と、使徒信条だけがあれば良いという人との確執があって、会議は行き詰まってしまった。その時、窮余の策として、使徒信条に「前文」をつけた簡単信条を宣教師インブリーが起草し、それで両者の衝突が回避されたという話しがある。この時の簡単信条を多少言い換えたものを、日本キリスト教団は信仰告白としているし、日本キリスト教団の中には1890年の信仰告白でなければならないと主張する人々もおられる由である。先にも若干触れたところであるが、信仰告白は教会法的位置づけが必要であるから、その二つの信仰告白がどのように教会法的に位置付けられるのか、私には良く分からない。教会法によって位置付けられなければ、内容が良くても私的文書なのである。
 52年前に、信仰告白の問題で教団を離脱した現在の日本キリスト教会も、旧日基の信仰告白に多少の語句を加えたものを用いている。だから、1890年の信仰告白は、日本の教会において、信仰告白をまるで考えないグループは別として、ルーツとしての地位を持っていると言える。
 この話しをもっと続けたいが、時間がない。こういう表明では、宗教改革の信仰告白の精神はなかなか伝わらないという話しに移りたい。宗教改革は古代教会が採用したような短い信条によって信仰の言い表わしをするという形式では、福音的信仰の本質を把握出来ないことに気付いていた。だから、表明すべき項目を増やすだけでなく、論理性のある文体で信仰を表明しなければならない。 単語から命題へ  「信条」では一つ一つの単語が意味を担っていた。それに対して、「信仰告白」では、多数の単語を連ねて、文法と論理とによる文章として構築された「命題」センテンスの集合体になる。信条の場合は聖書に用いられる「語彙」が信条用語としても用いられるが、信仰告白では聖書語彙がそのまま用いられなくても良い。その代わり、聖書の与える「教理」が、聖書の中から抽出される。
 ここに「概念化」というプロセスが入って、聖書のパッセージ、あるいはもっと長い文章の言っていることを、神学的に同じ意味の言葉に置き換える作業が行なわれる。
 こういう作業は、古代教会においても神学者が試みていた。先には触れなかったのであるが、信条形成の時代に、やや遅れるがほぼ並行して、神学者によって、「信仰規範」(レーグラ・フィデイ)と呼ばれる文書が作られている。それは単独の文書でなく、著書の中味の一部として入っている。内容的には信条と同じであるが、成立過程は全然別であり、出来上がった文書の文学的性格も別である。
 「概念化」という言葉に嫌悪感を持つ人がいるかも知れない。その事情は理解できなくはない。抽象化され、抽象化されっぱなしになる危険がある。概念化されたものを捉えて、本当は分かっていないのに、それで分かったつもりになる人も多い。だから、概念化は、実体化、あるいは再実体化としての、生き方、生きる姿勢、実践、証し、というものと組み合わさって対にならなければ、本当の理解にならない。
 また、本来我々に与えられるのは「概念」でなく、「神の言葉」であるから、言葉を言葉に置き換えることは本質的に困難とも言えない。
 古代教会が信仰を短い言葉で表明した内実は、時を経ても喪われない真実であるが、短い言葉で信仰を言い表わすと、その短さを補うために、いろいろなものが加わり、その機会に本来の信仰でないものが混入することを教会は体験する。そこで、信仰をもっと厳密に規定しなければならなくなる。それが宗教改革であったと言って間違いではない。
 教理(ドクトリナ)という語は昔からある。それが大事な言葉であることを教会は知っていた。しかし、その表わし方、用い方、さらには教える順序について、宗教改革以前の教会は厳密に考えていなかった。この「ドクトリナ」が宗教改革において大事な意味を取り戻す。「信条」もドクトリナであったが、信仰告白はもっと優った意味で教理である。内容的には「教理条項」と同じである。 信仰告白の初期形態 宗教改革はルターの「95箇条提題」の提示に始まる。これはルターが個人の責任において公けにした公開討論会の要請のための命題発表で、少なくともその時の動機としては、神学研究の一つの手続きであり、声明文でなく、宣言文ですらなかった。これを或る意味で「信仰告白」と呼ぶことは可能であるが、先に言ったような信仰告白の定義に照らせば、殆どその条件は満たしていないと言っても誇張ではない。では、宗教改革の信仰告白が成立するまでにどういうことがあるか。
 ルターの望んだ公開討論会は実現しなかった。すなわち、期限内に反対討論を申し出る人がいなかった。それは、反対者側の学力不足、地理的条件による通信の制約、反対者側の問題無視などによる。
 しかし、ルターの問題提起を理解したかどうかは別として、その共鳴者はどんどん増えて行き、社会問題になり、ローマ教皇庁としても対応せざるを得なくなる。こうして、ルター攻撃が始まり、ルター陣営からの反撃も行なわれる。その論戦のなかで、初めは「贖宥」や「悔悛」の問題についてのみであった論争が、教理体系の違いであることを明確化するに至る。また、宗教改革的神学の思考原理が定まって来る。それでもまだ、「信仰告白」を掲げなければならないという意識には達していない。
 プロテスタント教会の正式の信仰告白の最初は1530年の「アウクスブルク信仰告白」であり、同じ年のブーツァーによる改革派の「四都市信仰告白」、またツヴィングリによる「フィデイラティオ」であるが、ドイツ帝国の国会の求めによって至急書かれたものである。だが、すでに書く準備が出来ていたから、準備不足のままに出されたものではない。
 その準備過程は1520年代後半に、様々な形態で各地で始まっている。その形態を類別すれば、以下のようになる。
 1)都市牧師団の共同討議から生まれた条項。例えば、チューリッヒ、ニュールンベルク、エムデンなどのものがある。ルターの始めた宗教改革に最も真っ当に反応したのが都市牧師団である。これが信仰告白成立史の中で中心的な場所を占めると私は主張している。
 ドイツ帝国の中には自治権を認められた都市が増えていた。そこには経済力もあり、学問も盛んで、学問好きな牧師が比較的多く、同じ志の者が近距離の所にいるから頻繁に集まることが出来た。彼らは宗教改革の機運をいち早く受け止めて、その方向で討議を深める条件があった。もっとも、全ての都市が宗教改革を志向したのではない。志向したのはむしろ少数である。けれども、領主によって支配される領邦と比べれば、条件は遥かに良く整っていた。牧師たちは、自らに課せられている課題が何であるかを問い、説教こそが課題であることを確認し、では、どれだけのことを教えるべきかについて検討し、こうして教理条項を確定する。
 しかし、教理の条項だけでなく、教会秩序や礼拝形式の条項も考慮されている。
 2)カテキズムの発展。ドイツの宗教改革が「カテキズム」を知ったのは1520年代後半である。こういう形式による年少者の教理教育は、ボヘミアのフス派が採り入れており、さらに遡って言えば、フス派は宗教改革前から同志的交流をしていたアルプス山中のヴァルドー派の「問答書」を翻訳して使っていた。初めはチェッコ語のものしかなかったが、ハプスブルク家の支配下であったため、ドイツ語訳が現れ、それがドイツに広まり、ドイツの改革者は大きい刺激を受けて、盛んに問答体の基礎教理指導書を作る。ルターもそれを作った者の一人である。
 この段階でアルトハーマーという人によって、「カテキズム」という名称が作られる。これは昔からあった言葉でなく、この時代の造語である。ただし、造った人はこういうものが昔あったはずだと思っていた。
 最も古くからの教会用語として、「カテーケオー」という動詞をもとにした、「カテクメン」、「カテケーシス」という一連の用語がある。洗礼を志願して準備教育を受けているのがカテクメンで、その指導をするのがカテーケオー、その教育がカテケーシスである。そこで、「カテキスモス」というものがあったはずだと考えられた。その構成要素は、十戒、使徒信条、主の祈りの三つとしてアルトハーマーの時から確定した。
 この文書は年少者教育用の教科書として普及し、カトリックでもこの方法を用いた。日本のカトリックが「公教要理」と言うのがそれである。
 3)「信仰告白」そのものの試作。確定的な告白文書が必要であることはすでに全ての改革者が考えていたもので、例えば、ルターは「キリスト教的信仰告白」というものを、使徒信条の順序にしたがって起草している。これは信仰告白成立史において重要な位置を占める。こういう試作文書が触発し合って構想が整って行った。 信仰告白文書の発展  プロテスタント教会はルター派と改革派に分岐したが、初めから別々の方向を向いていたと見ることは出来ない。むしろ、初めの頃は共通の歩みをしていた。ルター派の中でアウクスブルク信仰告白の改訂作業が行なわれた時、カルヴァンがシュトラスブルク教会を代表してレーゲンスブルク会議に出て、これに署名している。もっとも、その後、ルター派が反動的になって、アウクスブルク信仰告白改訂版を破棄し、旧版に戻ったので、関係は切れた。しかし、改訂版破棄にどういう神学的必然があったのかを問うと、根拠はかなり薄弱となる。とにかく、改訂版を改革派が受け入れた事実には、見落としてならない意義がある。政治権力の関与の中で分裂が複雑化したのである。
 ルター派と改革派では信仰告白成立史と信仰告白保有史に若干の違いがある。信仰告白の神学的位置づけも違う。今回は触れない。
 1)ルター派では、全ルター派教会が統一的な信仰告白文書群(コンコルディエンブーフ、「一致信条書」)だけを教会の信仰告白として掲げる。改革派は国ごとにそれぞれ別の信仰告白を作る場合が多い。したがって改革派信仰告白文書の集積は膨大な分量になり、専門家でないと扱えないが、それらを統一体とはせず、「ハルモニア」と捉え、改革派系列内の他教会の信仰告白を相互に承認しあう。こうして、教会がナショナルであるとともにインターナショナルであるという在り方を保とうとした。
 2)ルター派では教理の不一致が起きることを恐れて、すでに1580年代に信仰告白文書の発展を閉じ、新しい信仰告白を造らないことに決めたが、改革派ではもっと柔軟であった。したがって、宗教改革的信仰告白の作成が後の時代、17世紀まで続く。すなわち、「ドルトレヒト規定」と、「ウェストミンスター規準」である。この2書は量的に大きく、論理が詳し過ぎ、硬直化しているのではないかと批判されることがある。
 17世紀に成立した信仰告白と、16世紀の信仰告白とが、同質か異質かという議論が近年英語圏の神学者の間で論じられているが、この論争にはそれほどの意義はない。ただ、スコットランド教会がウェストミンスター規準を採用する際、スコットランド信仰告白を廃棄したのは正しい処置でなかったと考える。 16世紀からの宿題 16世紀の宗教改革では確定した原理とされるに至らなかったが、信仰告白との関連で「信仰告白的事態」(スタートゥス・コンフェッシオーニス)という神学概念を展開させた。素晴らしい発想であると評価する人もあろうし、聖書ですでに言われていた当然のことに過ぎないと見ることもできる。
 事情について簡単に説明したい。宗教改革における「自由論」はルターに対する攻撃への反論として、比較的早い時期に確立した。その自由が、かなり間違って理解されることがこの日本では多いのだが、何をしても良いというような主旨では全然ない。
 簡単に自由論の骨子を言うならば、神の言葉によって規定されたことには従わなければならないが、そうでない規定の場合は、従っても従わなくても良い。すなわち、「アディアフォラで」ある、という。こうして、神の言葉によらない教会法の規定には、従っても従わなくても良い自由があるということを宗教改革は明らかにした。
 しかし、ルターは「キリスト者の自由」の中で、してもしなくても良い自由にも制限があることを明らかにする。もし、躓きを引き起こすならば、その場合は自由を制限しなければならない。これは、Iコリント8章が示す通り、すでに使徒時代から教会内に確定していた原理である。
 ルターのこの原則を、さらに一歩前進させたのは、ルター派の神学者フラティウスであった。ドイツ帝国が国内の宗教統一をはかるために「インテリム」と呼ばれる仮信条によってプロテスタントとカトリックの対立を暫定的に凍結し、礼拝形式はカトリックのものを用いさせようと強制した。その時、メランヒトンを代表者とする妥協派は、礼拝形式はアディアフォラであるから受け入れても良いと考えた。それに対して、ルター派の立場を守ろうとするフラティウスは、アディアフォラは「躓きの事態」と「信仰告白の事態」においては通用しないと論じた。
 この理論はさらに「抵抗権」理論とも結び付き、アウクスブルク信仰告白の中で言われていた、「人に従うよりは神に従うべきである」の原理を理論的に強化することになる。ただし、抵抗権の思想はルター派の中ではそれ以上発展せず、フランス改革派に受け継がれて、そちらで発展を続けるようになる。
 「信仰告白的事態」においては、アディアフォラはない、という理念は十分支持を受けることが出来ると思う。これが単なるアッピールのスローガンでないことも分かる。しかし、これを神学的にどう定義づけて、教会内にどう定着させることが出来るかという問題になるとかなり難しい。
 久しく忘れられていた「信仰告白の事態」という神学用語が甦ってきたのは、1930年代のドイツである。「今や信仰告白の事態である」との意識は、所謂「バルメン宣言」に代表される一群の信仰告白文書(「デュッセルドルフ提題」1933年5月、「第1バルメン宣言」34年1月、「第2バルメン宣言」34年7月)を生み出した。しかし、それが信仰告白文書として、通常の、つまり緊急でない事態の中にある教会で、定着し、消化され、継承されているかというと、心許ないのである。
 日本の教会で1930年代末期から40年代冒頭にかけて信仰告白の事態について考えることが当然起こるべきであった。しかし、その事実があったかどうか分からない。ウスウス感じた人はいるに違いないが、議論にはならなかったというのが実情であろう。
 その後、1970年代に現日本キリスト教会の中で。靖国問題を信仰告白的事態として捉えることが行なわれ、今日も継続されている。ただし、ここでも理論が深められる営みは成功していない。 信仰告白の明日 今、名を挙げた「バルメン宣言」、これは信仰告白の歴史に新しい地平を開いたものであると私は考える。単純に言うなら、在来の信仰告白を掲げているだけでは、教会が教会であることを守り切れなかった危機の時代に、新しい型の信仰告白が教会のアイデンティティーを救ったのである。
 第二次大戦後の世界で「バルメン宣言」が高く評価されていることについては説明するまでもない。この文書はドイツの教会で戦後改めて確認されたし、他国の教会においても信仰告白として受け入れられた。その新しい型に則った信仰告白が後に続かなかったのは、いろいろな事情によるのであろうと思う。1933-34年のドイツのような危機的状況がなかった、あるいは、それだけの危機感を受け止める神学的意識がなかったからである。しかし、2001年9月11日以後の世界危機は、バルメンに集まった人たちの見た危機よりも深刻である。これまでの信仰告白がこの危機の前で悉く色褪せたとは言わないが、新しい信仰告白が必要であることはいよいよ痛感されられる。ここで新しい信仰告白が生まれなかったならば、キリスト教はもう浮上できないまま沈没してしまう。
 それでは、信仰告白の新しい型は、従来の型とどう違うのか。一つの違いとして、項目の付加があると思う。すなわち、国家とか、主権とか、統治という問題を神の言葉によって照射し、キリストの王国、主権、統治のもとで読み直さなければならない。これは新約聖書の幾つかの箇所においては明快なのだが、古代の信条においても、宗教改革の信仰告白においても、必ずしも十分であったとは言えない。
 この点で幾らかの前進を試みたものに、例えば、日本キリスト教会が1950年代に作った「信仰問答草案」がある。この草案は大会で三分の二の賛成を得るに至らず、したがって信仰告白的文書としては成立しなかったものであるが、再び日の目を見る時が来るであろうと私は信じている。国家の問題、権威への服従の限界の問題を終末論の光りのもとで扱っている。
 第二次大戦以後、さらに21世紀に入って以来、国家主権は肥大化し、無軌道な歩みをするようになり、良識をもっては抑えきれなくなっている。国家はまた教会の霊的領域の中に、憚ることなく侵入している。キリストの民がこの事態の中で毅然として立って行くためには、在来の信仰告白は十分機能しなくなっている。
 そのように項目を付け加えるだけで、かなり違って来ると思うが、それだけで解決がつくとは思われない。抜本的に新しい型の信仰告白が確立し、それが古代の信条、宗教改革の信仰告白の上にさらに加わったものを保持する教会が出現しなければ、近代国家の肥大化し悪魔化したはてに自滅して行こうとしている世界の中で、教会も自滅して行くほかないと私は考えている。
 その新しいタイプの信仰告白としてどういうものを構想しているかと問われるならば、私には具体的説明が出来ない。それが教会の生き残りを賭けた戦いと組み合わさったものであろうという予想が出来るだけである。
 想像力を飛躍させねばならない領域のことではあるが、飛躍より遥かに平凡な領域の中でしておかなければならないことがある。バルメン宣言の告白文書群が新しい時期の到来を告げる鶏鳴の働きをしたと私は思うのであるが、この一連の告白会議の先駆となったのは、改革派のデュッセルドルフ会議であった。その会議の条項の第一条に掲げられたのは、非常に古い言葉である。「キリストこそがその唯一の首でいます聖なるキリスト教会は神の言葉から生まれたものであって、そこにのみ留まり、外部の者の声に耳を傾けることをしない」。
 この言葉は400年前の文書の再利用である。「ベルン条項」と言われる1532年の告白文書の第一条が引かれた。同じ柳の下に泥鰌がまたいるとは言えないのであるが、これは古い言葉が新しく生きた一つの例証である。古い物だけに頼っていて良いということにはならないが、古い物をシッカリと息づかせる知恵が、教会に必要だということは確かだと私は確信している。