平和講演会
2003.08.14.

学徒出陣60年

 「学徒出陣60年」という題は、今年がその年に当たるからつけたのですが、60年前 を思い起こして語ることを意図しているのではありません。むしろ、この60年間に何 が起こり、私が何を考えて来たかを語る方が重要な務めではないかと思っておりま す。。
 「学徒出陣」という言葉は、当時、出陣させる側の人、時局の旗振り役を自認する 人によって声高に語られました。そして、出陣させられる側は、黙々と、せいぜい控 え目に語ることしか出来ず、言ってみれば屠殺場に引かれて行く獣のように、追い立 てられて行くだけでした。ただし、強いられるままに出て行ったと見られては、自分 が余りにも惨めであることに気付いていましたので、自分の主体性を明らかにするた め、戦争に行くことを何とか意味付けて納得しようと考えました。しかし、時間が足 りなかったから、考えることを打ち切らざるを得なかったのです。。
 戦後、かつて彼らを戦場に駆り立てた人々の大部分は、「学徒出陣」について、も はや何一つ語らなくなります。駆り立てたことを恥じ、駆り出されたまま帰ってこな かった人々についての責任を感じ、申し訳なく感じたからであると思いますが、語る べき中味がない、つまり「学徒出陣」という出来事には何もなかったから、言うこと もなかったのです。それは一場の夢のような空騒ぎに他なりませんでした。ただ、駆 り立てた側の少数の人々、すなわち、良心的な教師たちだけは責任を感じました。そ して、駆り立てられた側の、かつての若者らが、戦後になって語り出しました。。
 彼らの声は、要するに、死んで行った仲間たちの声を、代理人として受け継いで、 それを鳴り響かせることを中心としたものでした。戦没学徒の遺稿集、これが様々な グループの企画として編集され、出版された後で、「きけ、わだつみのこえ」という 標題を持つ書物に統合されて行ったことはご存じのとおりです。。
 生きて帰った者も、自分の声を「わだつみの声」に託し、それと同一化させたよう としていました。そのように、生きている者は一歩後に引いて、死人をして語らしめ る、という方法を採ったために、生きている彼らの声は、僅かしか響きませんでし た。私は今になってそういうことに気付いています。別の言い方をすれば、死者をし て語らしめようとする彼ら自身は、死者の言わんとした線で歩みを止めてしまいまし た。そのため、生き残った者の思想は、さほど発展しなかったと言うのが正しいかも しれません。多くの若者が戦線で死と向かい合う経験をしたのです。死というもの は、通常の世の中では、老人になって、いよいよ自分も備えなければならないと意識 するようになり、死の備えを始めるのが遅すぎたと気付くのですが、あの頃、若いう ちに死を見詰めることが出来ました。それなら、生きて帰った残りの生涯をかけて、 死と対峙することの意味を掘り下げることが出来たのではないかと思うのですが、そ のような思想的産物はついに生産されなかったのです。。
 とにかく、生き残った「わだつみ」世代の上げた声は、「反戦・平和」というス ローガンで集約されます。それは当然でした。戦争をくぐって生還した者としては、 纏まった形としては、それ以外の言葉を考え出せなかったのです。死んでいった人 は、まだ人間として成熟していなかったから、無念というほかに語るべき言葉を殆ど 持ちませんでした。したがって、死者の声を伝える使命を感じる人々の言葉も、単純 にならざるを得なかったのであります。。
 ただし、「わだつみ」世代の生き残りが、単純に「反戦・平和」の旗印のもとに結 集していたわけではありません。「反戦・平和」を余り叫ばない人が少なくなかった のです。なぜなら、戦後日本の政治の動向は、アメリカ追随が主流になったのです が、その主流の中の主流として、かつての出陣学徒の大多数が抱え込まれたからであ ります。つまり、当時の高等教育は、そういう階層を育てるためにあったのです。。
 戦後の経済復興を主として担ったのも、この世代だと言われます。当然、その人々 は「反戦・平和」という左翼がかったスローガンを大声では言えなかったのです。た だ、私は同世代人に対して甘いのかも知れませんが、戦争を一度くぐって来た人は、 そこでさまざまな不条理を見てしまいましたから、ごく少数の例外は別として、旧体 制に戻ろうとする人はいなかったと思います。だから、システムを変革して生産を上 げることが出来たのです。。
 この「わだつみ」世代を、さらに縮小させる要因があります。すなわち、「反戦・ 平和」ということを考える人は、天皇制についての態度決定をしなければならなく なって来ます。しかし「学徒出陣」をした人の中には、天皇を有り難く思う体質を拭 い落とせない人も少なからずいたのであります。彼らは「わだつみ」運動から脱落し て行きました。。
 もう一つの波は、「戦争責任」という考え方であります。初めのうち、出陣学徒は 殉難者として美化されました。生き残った者は、美化された位置に居続けることの居 心地良さを味わったかも知れません。しかし、70年頃から、アジアに対する加害責任 ということが取り上げられるようになってきます。避けては通れないのです。。
 その頃になりますと、かつて学徒兵だった人も、日本社会の中ではかなりの高い位 置を占めるようになり、体制を守らなければならないと感じる立場に立ちました。戦 争責任ということは、それなりに分かるのでありますが、大声で言うことが出来ない と感じるような立場に置かれていました。いきおい、「わだつみ」運動に消極的に なって行きます。。
 ところで、さらに時が経過しますと、この「わだつみ世代」が老い衰え、少なから ぬ部分は世を去ってしまいました。――私自身は「学徒出陣」の時20歳、その世代の 中では年少者でありましたため、生き残った最後の層になっているます。60年前のこ とを語る少ない生存者の一人です。。
 もう何年も前から、「学徒出陣」と名付けられる書物の書き手は、戦争を知らない 世代の人に替わっています。現物を知らないから、不正確な知識のままで論じている 場合が少なくありません。本人自身が「学徒出陣」について語る時代はもうほぼ終 わったと見て良いでしょう。  ここで振り出しに戻って考え直したいのであるが、「学徒出陣」という出来事を大 きい事件として受け取る人と、学徒出陣という言葉は知っていても、関心を持てない 人と、二種類の人がいたのであります。私は当事者でありますから、当然、この言葉 が聞こえて来ると、注意を向けざるを得ません。しかし、この言葉に冷たい反応しか 示さない人にも同感出来ます。。
 その事情をチョットお話ししておきますが、私は海軍に入って約1年後、海軍少尉 になって前線に出、海防艦に勤務することになります。その艦の乗員の殆どは、「学 徒出陣」という出来事に意味があるとは感じていませんでした。当然のことだと思い ます。ともうしますのは、彼らの一人一人が、「学徒出陣」と言われる事柄以上の、 重い、深刻な事件を負わせられて軍隊に入って来ているからです。彼らの多くは一家 を支えるあるじであります。そういう人が軍隊に入る時の切ない思いは、私のような 独身者の場合とは比べようがありません。「学徒出陣」という言葉を使うこと自体、 いい気なもので、彼らに対して申し訳ないのです。。
 私の乗ったのは、第44号海防艦という排水量950噸の小艦艇で、起工してから一月 半で出来上がり、3ヶ月掛けて乗員を訓練し、私の赴任する約一月前に就役したばか りです、文字どおり、にわか造りの船です。造船所では通常、一つの船台で一艘の船 を造るのですが、私たちの船の場合、2隻並べて同時に工事を進めた。二つ合わせて 一人前、それほど小さい軍艦です。もう1隻の同じ型の姉妹艦、これは42号と言いま して、44号と同時に就役し、同じ護衛隊で行動しましたが、初航海で基隆に行き、帰 りに僚艦の見ているところで、一発の魚雷で瞬時に沈没し、誰一人生き残りませんで した。。
 そのように急造の艦を動かす乗組員も、急遽掻き集められた人ばかりでした。正規 の海軍軍人、つまり海軍兵学校出身者は一人もいません。予備員として養成された士 官しかいませんでした。すなわち高等商船学校の卒業生で商船に乗っていた人2人、 予備学生として速成の教育を受けた人2名、また、訓練としては同じでしたが、一般 の学校の卒業資格がないというだけの理由で、予備学生としては扱われず、予備生徒 と呼ばれ、訓練を終えても少尉でなく、少尉候補生とされた人、これが2名、士官で あるが海軍の中では「特務士官」と呼ばれて、正規の士官と区別された、下から叩き 上げた人、しかも一旦退役していたのに召集されて軍務に就いた人7名でした。。
 下士官と兵の中には、約半数の応召兵、当然この人たちは老兵です。少数の年少 兵、まだあどけない顔の特別年少兵、(これは町工場の少年工のような感じのものと 受け取ってもらえば良い)そういう人たちを混じえて、正規の徴兵または志願兵とし て海軍に入り、順当に経験を重ねて進級した中核をなす部分は多くありません。こう いう人の構成する社会の中に入ったのですが、全員が一度は世間に出て職業に就いた 人たちでした。特別年少兵でも、人手の足りない時期ですから、職業経験を持ってい ました。彼らの目から見るならば、これまで働かないで学問だけしていた人間が、徴 兵猶予の特権を停止されても、当たり前のことで、同情する余地もないのです。「学 徒出陣」と言って大騒ぎするのが滑稽に見えたでしょう。これが健全な感覚であると 私は気付きました。。
 普通、海軍では、士官は号令だけ掛けておれば良いのです。下士官がなかなか有能 でした。だから、兵隊とは余り接触しなくてもよかったのです。しかし、私の場合は 扱っている兵器が、海軍全体として未熟練の品物で、外国製の物の模造品でした。扱 う人は一応3ヶ月の訓練を受けて来たのですが、構造が分からないし、扱い方も呑み 込めないうちに3ヶ月経ったというので押し出されて赴任した人たちです。。
 私自身も分からないことだらけでしたが、とにかく6ヶ月の専門教育を受けて来た から、分からないけれども、分からないとは言っておられません。一日中、手を取っ て教えることが必要でした。そのお陰で、部下とは多面的な接触が出来たのです。。
 彼らが持っている感覚については理解できました。その感覚を久々ぶりに思い起こ させられることが2-3年前にあった。話しが随分飛ぶことになって恐縮ですが、沖縄 で普天間の基地を返還する代わりに、実は返還の名義のもとに、もっと有利な場所を 取ろうとしている、辺野古という所があります。そこは美しい海岸で、ジュゴンが棲 んでいる唯一の場所です。その海岸を埋め立てて、普天間飛行場よりもっと大きい物 を作れ、と米軍は日本政府をけしかけています。当然、反対運動が起きます。地元か ら幾組も反対運動が立ち上がりました。その一つに、辺野古の自然を守ることに重点 を置くグループがあって、そのリーダーをしているのは、賀陽さんという、もと海軍 の下士官だった、今クリスチャンになっている老人です。。
 彼と話している間に、私が海軍にいたことに触れた時、賀陽さんは「ああ、予備学 生ですね。少尉さんですね。少尉といえば、私らからは神さまみたいなもんじゃっ た」と言いました。つまり、別世界の人間という含みであります。。
 彼の口から「学校出」という海軍内部の言葉を久しぶりに聞きました。高等教育を 受けた者が庶民を飛び越えて上の階級に進んで行く不快感をこめた用語であると思い ます。要するに、別世界人という意味です。「学徒出陣」という言葉は、当事者や関 係者の間では意味深い出来事を表わすものとして今も使われていますが、そこには錯 覚が混じっている、ということを私は言いたいと思います。。
 日本人の感覚には、高貴な生まれの人が非業の死を遂げるというテーマを悲劇とし たがる傾向があります。それが悲劇の一つのタイプであることは確かですが、別のタ イプの悲劇もあり、むしろ、その方に現代人の感性は傾いていると私は思います。す なわち、生まれた時から、踏んだり蹴ったりされ続けて死んだ人の生活の方が、悲劇 の美しさには欠けるとしても、人々に物を考えさせるのです。「学徒出陣」を意味あ るテーマとして取り上げようとする人の中には、貴族趣味に近いものがあるのではな いでしょうか。エリート教育を受けて来た人が殺されたことは事実なのですから、無 視するわけには行きません。また、そういう状況設定のもとで問題がよく見えて来る という場合もありますから、それが取り上げられるのは当然でありましょう。。
 特攻隊で死んで行った人のことを語る際、人格高潔、知能優秀、眉目秀麗の学徒兵 として描き上げることがしばしばありました。そういう状況設定によって、人命をム ザムザと抹殺して、国体というか、天皇制制度を守ろうとした考えの理不尽さがよく 分かるように示されたわけです。しかし、高貴な精神を持った人の死ということが問 題の眼目なのではないのです。優秀でなくても、人間の命がそのような無意味なこと のために失われる点が許せないという点に中心があるのです。優秀な人間を生き残ら せなければならない、価値なき人間は抹殺されねなならない、というナチス的な優生 学の考えは悪魔的でありますが、優秀な人が犠牲になる場合だけを特別に取り上げる のも、ナチス的な考えを裏返したものに過ぎません。。
 率直に申しますが、「学徒出陣」世代の中に、自己陶酔としてこの経験を振り返る 人が少なくありませんでした。これが学徒出陣の経験を意味あるものとして後世に残 すことを不可能にした原因だと思います。。
 「学徒出陣」という言葉を今日の話しの題に使いましたが、この言葉は、括弧に 入っているものとして読んでいただきたい。もし括弧を使わないなら、「学徒出陣の 虚妄」、あるいは「学徒出陣の幻想」と言えば良いでしょう。しかし、戦争そのもの がまるごと虚妄であったのですから、学徒出陣だけが虚妄であったと見ることに私は 反対です。この虚妄に乗せられて命を落とした人の死が虚妄の一部だと言うことは慎 みたいと思います。それを将来の平和のために転化することは出来るのです。  さて、初めに戻って話しを続けますが、「学徒出陣」が遠い昔のことになってか ら、老人が古い材料を持ち出しても、出し遅れの証文を持ち出すような格好悪さを感 じる人が多いでしょう。当たっている面がありますが、私が今夜の話しの題にこれを 持ち出さずにおられなかったことについては理解して頂きたいのです。二つの理由が あります。第一は、この年、学徒出陣60年の年、2003年、この年に、第二の「学徒出 陣」の用意が進められていると私が感じている事実です。この年、日本政府は平和国 家たらんとする志を放棄しました。。
 最近の情勢の変化の中で私が痛ましく感じますのは、こういう国是の変換をやって のける政治家たちが、戦争を知らない人ばかりであるという事実であります。「わだ つみ」世代が政治力を持っていた間は、保守派であっても、「反戦・平和」を叫ばな い人であっても、このようにヤスヤスと、かつ無謀に、戦争体制に逆戻りして行くこ とはできなかったのです。――ということは、60年前の出来事についての証言が、長 い間こだまのように鳴り響いてはいましたが、力ある叫びにはならず、実質は残ら ず、叫ぶ人が死んでいった後は、受け継がれなかったということでもあります。継承 の失敗なのです。今から叫んでも遅すぎます。それでも、言わなければなりません。。
 第二の理由は、すでに第一の理由に関連して挙げた「継承の失敗」の中で幾分語ら れたことと重なりますが、60年前の「学徒出陣」の出陣者自身による総括が出来てい ないことに気付いて、恐ろしさを感じるのであります。その総括をこの一回の講演で やってのけようとは思いません。が、総括する志、そうする義務感が生き残った私に はある、ということを表明して置きたいと思います。恐らく、私自身は生きているう ちにはその総括を成しきれないでしょう。しかし、これをしなければならないと思っ ていると語って置けば、引き継いでくれる人が出て来るかも知れません。。
 先に見ましたように、生き残った「わだつみ」世代は、「反戦・平和」を叫ぶこと に急で、自分自身の思想と言葉を鍛え上げ、豊かに成熟させる努力は余り出来なかっ たのです。そのことについて、弁解の材料はいくらでもあります。けれども、その材 料が全部真実であったとしても、戦場から生きて還った者らが、その後の歩みの中で ハードルを乗り越え乗り越えて前進し、獲得したものを次の世代に語り伝えなければ ならななかったのに、十分出来なかったことは動かせません。。
 そのことを果たせなかった無念さ、それが60年を締め括るに際して、何度も何度も 私の胸に湧いて来るのです。「無念さを語るだけでは余り意味がないではないか」と いわれるならば、全くその通りです。だから、若い方々に言いたいのですが、あなた 方は、過去を振り返って無念さしか語れなかった老人たちの轍を踏まないようにして 頂きたいのです。  かつてイギリスの大学町オックスフォードに行った時、幾つかのカレッジで、在学 中、あるいは卒業後に戦場に行って斃れた人々の名前が刻まれている壁がありまし た。それを見た時、日本で戦没学徒を特別な思いで持ち上げるのは、こういう風習に 由来するのかも知れないと感じたのです。その感じは間違っていないとますます確信 するようになりました。そのことを暫くお話しします。。
 もともと、ヨーロッパの大学は、国王とも教会の権力とも関係なく、学問の探求を 志す人たちが自発的に集まった共同体です。したがって、大学は国王や国家の起こす 戦争と関わりを持たなかったのです。それが次第に国家の中に取り込まれて行って、 戦争協力機関になりました。大学は戦争に必要な人材を提供するものになります。ま た、戦争に出て行く学生や卒業生を精神的に支援する役割を大学が担うようになりま した。したがってまた、国家の始める戦争を意味づける理論を作り出す機能が大学に 期待されるようになります。そして、大学も戦死者を記念し、彼らに栄誉を与える機 関になったのです。後で改めて取り上げようと思いますが、宗教、ヨーロッパにおい てはキリスト教会ですが、これがやはり戦争協力機構になりました。それが、ヨー ロッパから始まって日本にも輸入されています。キリスト教がこういうものになった のは19世紀初め頃からであると思います。。
 (今日の話しでは踏み込まないで置くつもりですが、大学と軍との緊密な繋がりが 第二次大戦後、特にアメリカで進み、日本でもそれに倣ったやり方が相当に進んでい ます。そういうことは戦前にもありました。そのことの指摘と反省が戦後、多少は行 なわれたのですが、中途半端なままで終わります。大学の任務である真理探究と、大 学の構造自体についての反省がなかったからであると思います。)  研究室と軍隊との関係は、どちらにも同じ人間が関わるという事情がありますか ら、当然はじまるのですが、軍人が一時的に研究室に入る、また学生層が軍務に服す るという形で、現実化しました。研究を使命とする人が一時期、パートタイムで研究 以外のことに携わる実例は、今日ヴォランティア活動に見られるのですが、同じヴォ ランティアでも軍の仕事をするのは義勇兵と訳されます。学生が義勇兵になって祖国 に奉仕するというケースは珍しいものではなくなっていました。彼らは場合によって は生きて帰らない。パートタイムの奉仕ではなくなるのです。これを認めていては学 問の蓄積が成り立たなくなります。だから、大学関係者は、(学生も含めてですが) これを深刻な問題として考えました。その深刻さを深刻でないように和らげる議論や 気風が作られるようになると、関係者の気持は軽くなります。人間形成にとって学問 だけに価値があるのでない、という風潮が一般化しますと学問を離れることが容易に なります。。
 さらに、死という問題がありますが、祖国のために命を捨てるのは崇高なことなの だ、という宣伝が行き渡ると、死ぬかも知れない所に出て行くことは軽率でないと考 えられるようになります。そこで、実は「祖国」というものが何か、それだけ価値あ るものか、ということについての証明は省略されています。ハッキリ言うなら、それ は幻想に過ぎないものでした。。
 一般的なことを申しますと、戦争のために戦闘力となる若者を集める必要は昔から ありました。昔は金を払って兵卒を雇いました。国家が強大なものになってからは、 「徴兵」という制度を作りだし、国民の義務として若者を軍隊に引っ張られて行くよ うになります。こういう制度化だけでは兵卒の士気を高めることが出来ないのを知っ た支配者は、一方では国家というものが、そのために命を捨てるに価する荘厳なもの であるという理論を作らせます。つまり、国家の神話化です。そして一方、戦争への 献身の見返りとして、犠牲者に栄誉を与えることを思い付きました。。
 ところが、生きている人に栄典や賞与を与えることは古くから行なわれ、容易に出 来るのですが、死者に栄典を与えることは国家には馴染まない仕事でした。そこで、 宗教の力を借りて、栄典と励ましを与えるようになりました。こういうことは近世の 主権国家が成立した後に始まります。昔の国家はそこまで思い付きませんでした。や や滑稽な話しですが、フランス革命によって造られた共和国は、宗教を否定します。 ところが、革命政府は戦死者を慰めるためには、自ら否定していた宗教を利用しまし た。こういうことのためには、カトリックが有り難がるマリヤが最も役立ったのであ ります。。
 日本政府が靖国神社という装置を思い付くよりズッと早く、ヨーロッパ列強は戦死 者を名誉ある名で飾り立て、また宗教を用いて戦没者の家族に慰めを与えようとしま した。ヨーロッパの宗教と日本の宗教を同日に扱うことは出来ませんが、宗教の国家 利用、戦争利用が進んだのです。キリスト教もこういう動向に乗って、姿勢を変えま した。今、その辺りの事情について詳しい話しをするだけの知識の蓄積がないのです が、大学にある記念の壁も戦場に斃れた学生、また戦場で犠牲にされるべく駆り出さ れて行く学生を、精神的に励まし、彼らの犠牲を意義づける工夫の一つだということ を見落とさないようにしたいと思います。これは宗教の戦争責任として論じなければ ならない問題です。学徒出陣に当たってキリスト教会の演じた役割は、信者の学生に 対してはなかなか大きいものがありました。しかし、関係者が殆ど死んでいるので、 論じる人がおりません。教会のこの面の戦争責任を取り上げるべきだと思いますが、 それは別の機会に纏めて話す方が良いでしょう。。
 死んだ場合に栄誉があるなら、先取りすれば、死地に赴くことがすでに栄誉になり ます。この栄誉の宣伝を大学が半ば強いられて、半ば自発的にしたのです。これが 「学徒出陣」と呼ばれる出来事の大事な一面です。。
 この宣伝活動について、責任を取ることがなかったのです。戦勝国においては、従 来通り、戦死者の名を美しく記念すれば、生き残った者と送り出した者の責任が果た せたことになると思われました。しかし、敗戦国では、名前を掲げるだけでは、非業 の死を遂げた人の人権回復にはなりません。唯一考えられることは、先にも言った通 り、死者の名において、今後の戦争を阻止することでありました。それが、「きけ、 わだつみのこえ」を出版し、読ませることでありました。しかし、日本が敗戦国では ありながら、経済発展において戦勝国を凌駕するようになり、わだつみ世代の意識層 は薄くなり、戦争をまたやろうとする勢力を阻止する力を失ったのです。  人類が歴史を編纂するようになって以来の大部分の時代、戦争は全ての人にとって 禍いでありますが、多くの人にとっては外から降りかかって来る災難であり、主体的 に関わるのでないもの、アクシデントとして受け取られていました。ところが、近代 国家では、戦争が国の総力を上げて担うべき崇高な課題と考えるようになり、国家は 目的を追求するために存在し、その目的のために戦争をするのだと教えられるように なりました。こうして、これまで戦争と関係がないと見られていた人々を戦争に取り 込むようになり、その人たちは積極的に戦争に関与するようになりました。。
 戦争当時、何度か笑い話しとして聞かせられたことですが、日露戦争の時、ある研 究者は自分の使命とする研究に没頭していたので、戦争が始まったことも、終わった ことも知りませんでした。私が学生であった頃、こういう態度は、学問をする本当の 姿勢ではないのだと思っていました。いや、思わせられていたと言うべきですが、私 を含めて、当時の学生の殆どは、自分たちの思想が操られていることに気付かず、か つての時代の研究者の誤りを我々は乗り越えて行かなければならない、そのために は、現実に参加して行かねばならない、それこそが本当の学問である、と考えようと したのです。。
 私自身は戦後、その誤りに漸く気付いたのです。所謂「現実」は、「架空」とまで は言わないとしても、事実の一部だけを取り出したものに過ぎません。そのことは戦 争の中で、特に前線まで行った時に、悟りました。その前に、「学徒出陣」で軍隊に 入った早々、私たちは戦争の実情を初めて知らされて愕然としたものです。軍隊が苦 戦していることは分かっていました。しかし、実態は苦戦などと言えるものでなく、 崩壊です。軍隊は末端から順次壊滅していました。その前線から辛うじて生きて帰っ た軍人が、後に続く者の教育に携わっていて、その接触の中でこぼれ話のように、生 き残ったすさまじい経過を話してくれます。私が軍隊に入った1943年12月は、降伏の 1年8ヶ月前でありましたが、その時点ですでに帝国海軍の連合艦隊は大半失なわれ、 反撃能力はなくなり、艦隊としては機能しなくなっていました。どうせ降伏するな ら、あの時に降伏すれば良かったのです。権力者にとって都合の悪い真実は隠されま した。知らせられるのは、勝利の期待が持てるという幻想でした。その幻想を現実で あるかのように語る教官は人気がありました。その教官自身は自らの酔った幻想に殉 じて戦死しましたが、クリスチャンでした。。
 軍隊に入って1年後、号令を掛ける側の人間になります。そこで8ヶ月に亘って体験 したことは、戦争の空しさ、無意味さ、さらに言うならば無意味なものを意味ありげ にデッチ上げている偽りでありました。しかし、その偽りについて、もっと掘り下げ て考えることが出来なくさせられているという私自身の内のもう一つの現実があった のです。すなわち、死が日夜容赦なく迫って来ます。24時間体制で警戒していなけれ ばなりません。物思いに耽っている間に、自分一身だけでなく、一艦あるいは一船団 が壊滅するかも知れないのです。考えることが出来ませんでした。。
 とにかく、戦争について語られていることはフィクションに過ぎないのに、その 「現実」に参加して行こうという意欲を学生の中に起こさせる工作が「学徒出陣」に 先立って行なわれていました。最も手っ取り早い方法は、外国から実例を引いて来る ことです。実際の影響がどれほどであったかは調査出来ていませんが、第一次世界大 戦時のドイツ戦没学生の手紙を訳した岩波新書は、学生に広く読まれ、「学徒出陣」 の有力な精神支柱になりました。私自身、少なからぬ感化を蒙りました。というの は、その本の中に文章を残した学生は、戦いの日々の中で、ドイツ文化を愛し、思想 を愛し、生活条件の極めて劣悪な塹壕の中で、人間性豊かな生活を送り、思索を書き 残したからであります。。
 これは、冷ややかに言いますと、当時の学生好みの文章です。学生たちが岩波文庫 の赤帯(外国文学)と青帯(思想・歴史)を特に有り難がって読んでいた時代を思い 浮かべて下さい。ドイツの戦没学生の手記が爆発的に売れたという社会現象は、時代 の傾向を表していて、今の時代には最早考えられないことです。。
 私自身、ドイツ戦没学生の手紙から影響を受けたと言いましたが、その本を生涯の 座右の書としたという意味ではありません。まだ幼稚でありましたから、どのような 感化にも染まったでしょうが、自分が学んでいる学問や教養と、国が起こしている戦 争、特に軍国主義とは、相容れぬものであるという考えは、ハッキリしていました。 したがって、自分がいずれ軍隊に取られるとき、自分が自分であり続けることが出来 るかどうか、という心配が大きかったのです。。
 ところが、ドイツの戦没学生の手紙には、全然軍国主義の臭いがないのです。そし て、彼らは軍隊と戦争、また戦争で死ぬことを受け入れて行きました。軍国主義にな らなくても戦争に行くことは出来る、という道が見えたように感じました。  「学徒出陣」と言って騒いでいたのは日本人のうちの極く一部に過ぎなかったこと は先に見た通りです。これを大々的に宣伝材料に使って、国民の意思を戦争遂行に結 集させようと画策した人がいます。有効に国民の心を決戦に向けて凝縮させておい て、秘かに国体護持の終戦工作を行なうことには成功したでしょう。だが、当時とし ては宣伝への利用価値があると思われたとしても、それだけのものに過ぎません。時 が過ぎれば、忘れられて、何も残らなかったのです。。
 しかし、「学徒出陣」そのものに何の意味もなかったとしても、いやマイナスで あったとしても、そのマイナスをマイナスとしてキッチリ受け止める人がいれば、そ のような精神によって、マイナスがプラスに転じさせられるということは、あり得た のではないでしょうか。――それが出来るかも知れない、と私自身は考え、戦後、長 い間、あきらめないで努力したつもりであります。マイナスをプラスに転じるとは、 マイナス化の徹底、すなわち「悔い改め」の徹底です。だが、天皇は悔い改めを拒 み、国民の大多数も責任について考えることを避け、出陣学徒の多数者も国民的反省 の中核となって思想構築を担おうとしなかったので、マイナスからプラスのものを生 み出すことは出来ませんでした。。
 「学徒出陣」世代の一番若かった層が老化し、思索力も日々に衰えて、その人が 「もう何も出て来ない」と言うのですから、私の言うことはかなり信憑性が高いはず です。要するに、1943年の学徒出陣は空しく終わったのです。60年待っても実りがあ りませんでした。そして、今では次の学徒出陣の用意が始まっています。。
 そのような諦めを言うのは怪しからん、と私を非難する方がここにもおられるで しょう。私は非難されても釈明をしませんし、むしろ私の言うことを非難するのが正 論であって、非難する人に私は感謝したいほどです。――実際、このまま、日本がア メリカの尻馬に乗ってイラクに派兵し、イラクでゲリラ襲撃を受けてドンドン日本兵 が殺され、日本兵もイラクの市民をどんどん殺す。それをキッカケに世界中に殺し合 いが拡がる。そういう事態になっても、日本人がそういうことをしたがる政府を選ん だのだから、何とも出来ないではないか、と言っておられるでしょうか。身から出た 錆だから、日本人はもう一度痛い目に会い、あるいは、国を失うことになっても、私 は知らないぞ、と平然と言うことが出来るでしょうか。………たしかに、そんなこと を言ってはならないはずです。。
 そのように、やって見たけれども駄目だった、と言う私を、非難するのは正当なこ となのですが、私がやって来た以上のことをしてもらわなければ、その非難の意味は ないのです。だから、私のしたことを踏襲して貰わなくて結構ですが、それを、質に おいても量においても凌駕してもらわなければなりません。。
 「それでは、お前は何をして来たか」と問われるかと思います。しかし、今日は自 分のやって来たことを並べ立てるつもりはないので、具体的な話しはしません。そう 決めたことについては、今日のところ、このままご了解いただきたいのです。私は戦 争で相当に危ない所を渡って来た者ですから、よくぞ生かされたという実感を抱いて ズッと生きて来ました。だから、威張って言うのではありませんが、自分が生かされ ているのは、神に生かされたのであり、自分のためではなく、神のため、隣人のた め、よき目的のためだと信じ、それを裏切らないように生きて来たつもりです。です から、戦後は、富や名声のためでなく、また骨身惜しまずやって来ました。。
 先に触れましたように、現実と関わりを持たないまま学んでいる人が昔はいたので す。それが非難される時代に私は青春期を迎え、現実に参与することによって自分自 身の思想を建て上げようと考えました。そして躊躇わず・厭わずに戦争に参加したわ けですが、その中で「現実」と言われていたものが殆ど虚妄であったと気付きまし た。。
 そこで、「現実参加」という考えが間違っていたと考えるのが一つの選択肢であり ます。だが、私はそれを採らなかったのです。私の場合、現実でないものを現実と見 誤ったのですが、誤りなく現実と言えるものに参与することはあり得るでしょう。そ れが出来れば、現実参加は間違いでないということになります。。
 私はこの問題について深く考えて見たいと願いましたが、機会がなかったのです。 戦後、次から次から、私に現実参加を促す事件が起こるのです。死んだはずの人間だ から骨惜しみは出来ません。だから、考えている暇がないという感じでした。他の人 が現実には関わらないで、専ら永遠から、本質的なことから、考えるとしても、それ が絶対に間違いであるとは言ってはなりません。しかし、人はともかく私自身は、現 実に参加して行こうと考えて来ました。かつて失敗した道を、今度は失敗しないでや り直す責任があるではないかという考えがあったのです。。
 戦後、かなり時間が掛かった後、海外の知識人が戦時中どういう生き方をしたかが 分かって来ました。実例をいちいち挙げるのは省略しますが、現実に参加することに よって自分の思想を築き上げた人が多くいます。そういう思想家の言う言葉の方が納 得出来るという確認もありました。だから、一層励ましを受けました。。
 今では偽りの現実に惑わされていないつもりです。どうしてそう言えるのか。かつ て私は、上の方から言われることに靡いたつもりではなかったけれども、意識しな かっただけで、実際は長い物に卷かれ、権威に屈していました。今では、権力と逆の 側から、下積みの人々の側から見れば、現実が良く見えるということを悟っていま す。。
 ここまでは、共感をもって聞いて下さる方が多いと思うのですが、もう一つのこと を付け加えさせてください。それは私の信仰の証しです。だから、信仰の話しなど聞 いてはおられない、という人がいるかも知れません。。
 ここは私がどういう道を歩いて考えて来たかということですが、上に立つ者をさら にその上から見おろす方がおられる、という確信なのです。聖書では、「上にある者 は神が立てて権威を与えたものであるから、従え」と教えますが、同時に、「人に従 うよりは神に従うべきである」と教えます。これはキリスト教にとって最も基本的な 教えなのですが、基本的であることを忘れられ勝ちでした。。
 日本のキリスト教は戦争中そうでした。戦後、キリスト教会の牧師となった私は、 かつてと同じ過ちを犯すようなキリスト教なら、ない方が良いとの信念をもって伝道 しています。キリスト教はかなり間違った道にそれてしまいました。先にも少し触れ ましたが、本来のキリスト教はそうでなかったのに、国家の起こす戦争を支持するよ うなことを教会はしたのです。では、どうしてこういう間違いが起こったのか。調べ て見れば分かると思いました。実際、或る程度分かって来ました。。
 このことについても今日は話しをしません。専門的な講義になってしまうからで す。  ここで少し、現実的な話しをしたいと思います。私は海軍予備学生になったのだ が、予備学生制度はどういうものだったかを、今般、話しを準備する機会に考えて見 ました。そして、これはご存じない方には語って置かねばならないと気付いたので す。。
 私が「学徒出陣」で予備学生になったことを話すと、人はそれを戦争中の緊急措置 として聞くでしょう。ここに落とし穴があります。私が体験した予備学生の実際は戦 争中のものですが、制度としての予備学生そのものは、むしろ平時のものなのです。。
 日本国は軍隊を持たないことになっていますから、現在、大いなる違法行為が行な われています。そのことを先ず問題にしなければならないのですが、この問題は十分 お分かりのこととして、次の段階に話しを進めます。現在の自衛隊も、すでに予備員 制度を設けています。昔の予備学生はこの予備員制度の一環です。予備員は戦時の人 員消耗に備えて、平時から準備して置くものです。すでにレールは敷かれました。気 がついた時にはそこを列車が走っているということになりかねません。。
 戦争で兵力の消耗が生じると、それを出来るだけ速やかに補充しなければなりませ ん。そこで、近代的軍隊は必ず「予備員」制度を設け、足りなくなった人員を予備員 の中から召集して前線に送り込みます。このような予備員は泥縄でなく、普段から訓 練して置くものです。下級兵士は比較的短時日で養成できますが、将校は簡単には育 成できませんから、将校の養成は普段からやっておかねばなりません。。
 予備員制度として最も本来的、また便利なのは、現役の服役を終えて「予備役」に 編入されていた軍人を召集することです。もう一つの予備員は、軍隊内で一定の機能 を演じるように、軍人でない者を予め訓練して、予備員にして置くことです。旧日本 海軍では、船舶と飛行機の操縦技術を持つ者が、予備員にされました。船舶の操縦、 これは高等商船学校で教えますから、その卒業生は予備士官になります。飛行科の予 備員は一般の学校の卒業生を取りました。。
 かつてはこれで十分だと思われていましたが、飛行科以外の分野でも予備学生が必 要となり、飛行科に10年遅れて一般兵科予備学生という制度が出来ます。1943年12月 に出陣した学徒兵は、飛行科なら14期、一般兵科なら4期の予備学生になりました。。
 初めの6ヶ月間一般的訓練があって、後の半年は専攻別に別れて訓練を受けます。 訓練が終了すると予備少尉になります。そして即刻召集を受けて配置が決まるので す。私の場合は第4海上護衛隊司令部、兼沖縄根拠地隊司令部付に任ぜられ、その日 の夜、沖縄に向かいました。だから私は一時は沖縄の司令部にいたわけです。。
 ここから沖縄の話しを始めますと、終わらなくなりますから、今夜は黙って置きま す。ほどなく私は司令部付という身分のまま、その司令部の麾下にある第44号海防艦 に派遣され、沖縄の司令部が山川港に移転した機会に、海防艦乗組員という身分にな りました。。
 脇道に逸れる話しですが、言おうとするのは、予備員制度のことです。日本では陸 軍も海軍も、軍本体は職業軍人で固めるという方針を堅持しました。予備学生は海軍 だけのように思われていますが、陸軍に行った学徒兵は予備士官学校に入っていま す。これは士官学校とは別で、予備員養成の士官学校です。必要に応じて召集される 予備員は軍の中枢に決してなれません。これを差別だと言う人がいますが、職業軍人 にならないことを望むから、一般の学校に行ったわけです。私たちは職業軍人でない ことを誇りにしていました。。
 予備員制度のことをくどくど言ったのは、現在の自衛隊にすでに予備員制度があ り、この制度は余り人目に立たないけれども、拡張が容易だということ、また予備員 制度を梃子にして軍の制度全体を拡張することが容易だということ、この制度の中 に、いつか人々を取り込もうという企画がなされているに違いないことを指摘して置 きたいからであります。正規の軍隊の補助くらいに考えられておられるかも知れませ んが、戦争末期に軍隊を担ったのは予備員たちでした。  最後に、つけ加えさせて頂きたいことがあります。昨年までこの平和講演会の講師 を勤めて下さった小川武満先生が、老齢ゆえに講演を継続することが出来なくなりま した。しかし、私たちの教会は予備員制度を用意していました。そこで、予備員で あった私が召集されて戦いを受け継ぐこととなったのです。。
 小川先生と私との間には10歳のひらきがありますから、単純に計算すれば、―― もっとも、健康に恵まれたと仮定してですが、後10年、私が勤めることになります。 かなり無理な、楽観的な予想だと思いますが、願いとしてはそうなのです。。
 この講演会は、東京告白教会の事業として実施されていますから、東京告白教会が 潰される時には開けなくなるかも知れません。それでも、何らかの形でこの志を持ち 続けるつもりであります。。
 一つの危惧があります。小川先生も私も、死線をくぐって生き残った経験者です。 しかし、私が講師として立てなくなった日に、勿論、講演会を廃止するようなことは ないでしょうが、戦争の経験のない者が立って語ります。その時、戦争のリアリ ティーを踏まえて語ることが出来るかという危惧があるのです。言葉を換えて言いま すならば、経験がなくても、それを補うだけの実質のある思想を、ここ10年以内に構 築しなければならないのであります。。
 お集まりの皆さんにお願いしたいのは、私たちの志と希望を共有して頂きたいとい うことであります。ご清聴を感謝します。

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