kouen24「有事法案」の法制化に反対する声明   
東京告白教会では4月29日に恒例の春の修養会をしましたが、今年は去る3月21日に日本キリスト教会東京中会が決議した「「有事法案」の法制化に反対する声明」を取り上げ、先ず声明文本文の釈義をし、午後は有事の事態で、子供、障害者、在日外国人がどのように扱われるかについて考えました。私たちの得たことを分かち合うために、釈義の講演を公開します。その前に声明文を掲げます。イラク戦争が始まったのは中会の第一日でした。
   
「有事法案」の法制化に反対する声明

 
内閣総理大臣 小泉純一郎様 
防衛庁長官 石破  茂様
法務大臣 森山 真弓様
外務大臣 川口 順子様

政府は先の第154通常国会に提出した「有事法案」を継続審議とし、今国会において修正の上その成立を図ろうとしています。わたしたち日本キリスト教会東京中会は、イエス・キリストを主と信じ告白する立場から、この「有事法案」の法制化に反対であることを表明いたします。将来この「有事法案」の法制化により、イエス・キリストを主と信じ告白する自由が不当に制限されるにいたった場合には、わたしたちは人に従うよりも神に従う方を選ぶでありましょう(使徒言行録5章29節によって)。

 わたしたちはキリスト者として、この世の政府が、天にあって治めておられる主イエス・キリストのご支配の下で、地上の政治を神からゆだねられたものであり、正しい法秩序の実現に努めねばならないと認識しています(エフェソの信徒への手紙1章20-21節、ローマの信徒への手紙13章1-4節によって)。わが国においては、日本国憲法が国家の最高法規として正義と公平を保護する機能を果たしているゆえに、政府に日本国憲法に従って法秩序を維持する義務があることは言うまでもありません。ところが、現在の政権担当者は、基本的人権を保障し、戦争放棄を定め、国家緊急権を定めない日本国憲法の下で、それらの諸原則と相容れない内容を持つ「有事法案」を法制化しようとしています。これは法秩序の破壊に他なりません。それゆえ、わたしたちは政府自ら法秩序を破壊する暴挙である「有事法案」の法制化に反対いたします。

 わたしたちはキリスト者として、父なる神から一切の権威を授けられた主イエス・キストと並ぶいかなる霊的権威をも認めてはならないと教えられています(マタイによる福音書28章18節、コリントの信徒への手紙一10章21節によって)。ところが、今日における内閣総理大臣の靖国神社参拝にみられるように、現在の政権担当者は日本国憲法の政教分離の原則すら無視して自らの信条を絶対化しています。このため「有事法案」に基づく活動の犠牲者は、新たな「英霊」として祀られる恐れがあります。

 そして、国民に対して一律に「英霊」崇拝を要求するような国家神道体制の復活が深刻に憂慮されます。それゆえ、わたしたちは国家主義的偶像礼拝の推進につながる「有事法案」の法制化に反対いたします。

 わたしたちはキリスト者として、十字架の贖罪の業を成し遂げてくださった主イエス・キリストから、全世界の人々に和解の福音を宣べ伝えるつとめを委ねられています(ローマの信徒への手紙3章23-24節、マタイによる福音書28章19-20節、コリントの信徒への手紙二5章18-19節、エフェソの信徒への手紙2章14-18節によって)。それゆえ、わたしたちは特定の国々を「悪の枢軸」と断定し、武力による先制攻撃を加えるような思想は、キリスト教の福音の本質に反するものであると断ぜざるを得ません。悲しむべきことに、昨日、そのような攻撃的かつ反福音的な思想に基づいて、アメリカによるイラク攻撃が開始されました。わたしたちは、このイラク攻撃と同じような思想に基づいて、将来なされるであろう戦争に協力する用意のある「有事法案」の法制化に強く反対いたします。

2003年3月21日
日本キリスト教会東京中会第52回定期中会議長
久野真一郎
 

2003.04.29. 東京中会有事法制反対声明の釈義

渡辺信夫

  

 第52回東京中会が決議した有事法制反対声明の掘り下げがこの講演の課題である。

  声明書の釈義ということを初めて耳にして驚く方もおられると思う。私自身もこういう前例は聞いたこともなかったが、あって当然だと考えている。

 有事法制に反対するさまざまな集会がある。そこでは、有事法案とはどんなに問題のあるものか、とか、この法案が予想している有事の事態でどんな不幸なことが起こるかが説明される。私もそういう会合に出る。海員組合から送られた講師が、この有事法制で自分たち船乗りが徴用されて作戦に巻き込まれ犠牲者を生む危険が大きい、という話しをした。その後で私は発言を求めて、今、この講師の言った通りだ。私はそういう現場を見て来た生き残りなのだ、海に投げ出されて救いを求めている船員を救助しようと努力したが、救い上げられる前に沢山の人が死んだ、という話しをした。しかし、今日はそういう話しではない。有事法案が成立して、有事が招き寄せられたならどうなるかではなく、その法案に反対している文章がどうなっているかを解釈するのである。

 声明文というものは、釈義するまでもなく、主旨は誰にも分かっているはずではないか、と問われるかも知れない。確かに、解釈しなければ理解出来ないような声明文ならば、異言と同じであって、声明としては失格である。誰が読んでも分かり、意味の通る文章で声明を書かなければならない。したがって、外部に対して釈義は不必要である。しかし、内部では根底の確認と課題の掘り下げのために釈義作業が必要である。

 今、文章を解釈することの意義について、堅苦しい理屈を述べようとは思わない。

  釈義の意味について考えることが無意味だというわけではないが、今はその場ではない。簡単なことを考えて見たい。我々の身辺だけでも、毎日おびただしい文章が作られ、その大半は見る見る忘れられ、紙屑となって散って行く。その中に忘れてならない文章もあり得るのだが、そのことはここでは目をつぶって置く。忘れて差し支えのない文章が溢れていることは事実である。それなら、初めから読まなくても同じではないかと人に思われる。そういう文章を突きつけても、相手は読んでくれない。

 読ませる文章とは、少なくとも自分は読み返すものである。自分が読み返すから相手も読み返してくれるということには必ずしもならないが、読み返すに価することの証しを自ら立てることは最小限必要であろう。

 声明書に限らず、大事な文章は読み捨てられてはならない。それだけの重みのある言葉を話し、また書かなければならない、と言うならば、一般的な教訓になってしまうが、教会の文章がこういう一般的心得にも及ばない水準で纏められて良いとは決して言えないであろう。とにかく、骨身を削って書き上げるという打ち込みをしていない文章が多過ぎ、教会関係の文書にも多い。書いた人は読み返しをしていないから、何度書いても一律の着想しかなく、思想を練ることもない。しかも、その文章の発想が時の流行に乗った陳腐なもので、文体も「右へ習え」式の型にはまっている。

 2003年3月21日に東京中会で決議した声明文を読み返し、釈義をして掘り下げようとするのは、読み返すに価する文章であり、事柄が重要だと思われるからである。

  が、価値があるから読み返すということを今は余り言わないで置きたい。すなわち、この点を強調すると、自己吟味の姿勢が甘くなるほかに、一つの運動の展開の一局面としての宣伝になってしまい、運動のペースに引きずられる恐れが生じるからである。我々も有事法制反対の運動に連なる者であるが、これは政治の世界の事柄で、時と共に移り行く。しかし、その運動が消滅したり変容したりしてして行っても、真理の主張と探求は続くのである。今日の学びは、当面の政治状況に目を光らせつつ、政治の状況が変わった後でも考え続けなければならないことについて深め続ける志を狙いとしている。

 今回の声明は、これまで日本キリスト教会で出された声明と違った性格を持つのではないかと思われる。つまり、ここで教会の性格が問い直される。そうならないと、この声明を決議した意味がなくなるのである。だから、修養会を開いて考えを深めなければならない。だが、日本キリスト教会の性格あるいは体質をどう変えて行くかという問題は、この釈義の中では扱わない。

 さて、この声明文は聖書の言葉をもとにして構築されている。この構造に留意したい。キリスト教から発せられ、その時その時の事態に対応する文書に、聖書の言葉が引かれることは少なくない。その多くは、聖句で締め括る、あるいは聖句で落とすという文章の技巧を用いる。その形を排除する考えはないが、本声明が採用している方式の方が教会的文書に相応しいと思う。その理由は、一つ、信仰的な物の考え方の順序から言って、御言葉に落ち着くよりは御言葉から出発するほうが正しいからである。前例として、ドイツで1934年に作られた「バルメン宣言」がある。

 このような構造を持つ声明は本格的なものである。かつて、日本キリスト教会では、教会と国家についての指針という文書を制定した。この文書に問題がないわけではないが、著しい間違いはないし、この指針を可決させまいとする動きが教会内にある時、やはり可決すべきだと我々は判断した。その文書は、神学的構造がシッカリしていないので、教会の姿勢を整え、思想と行動を前進させるためには殆ど役立たなかった。また、指針を発表して以後、その路線を継続的に深めて行く営みは何もない。その過ちを繰り返さないようにしたいので、声明について継続的に考えようとする。

 今般の声明の意図は正しいと言うほかないが、聖書から議論を導き出すに当たっては、聖書テキストへの深い洞察と聴従、そこから成り立つ忠実な釈義が必要とされる。御言葉は鋭利な諸刃の剣であって、相手を斬るだけでなく、自分も斬られるのである。声明書の中で釈義を綿密に行う必要はないが、声明の前提としての聖書釈義に関しては十分なされたかどうかが非常に気になる。

 引用されている聖書の言葉が全て新約からのものであることは、旧約軽視を意味するのではないと思うが、我々の側の問題を露呈したと見るべきではないかと感じさせられる。靖国の祈祷会の奨励で多く用いられるのは旧約であるが、それが声明文では出て来ない。具体的に言えば、現実と歴史を洞察し、それにコミットして行く預言者的精神がバックボーンとして弱いのではないか。

 さらに、今回の声明文が新共同訳の聖書本文を用いている点に私は疑義を感じる。

  この疑義は主観的な見解、あるいは感情論と言うべきものでも、翻訳技術を問題にしたものでもない。また口語訳の方が全面的に優れているという訳でもない。私が疑義を感じるのは、1つは思考法の問題であって、聖書から始めるという本声明文の思考形式と合わないからである。すなわち、それを打ち消し、弱体化しようとする要素を新共同訳が持っているからである。それは、「聖書のみ」を主張する宗教改革において排除された要素であるが、新共同訳はこの排除の原理を拒否している。そして問題を感じないで多数派に流される気分で新共同訳が採用されている。

 第2に、原典の扱い方、聖書正典の考え方について、新共同訳は反宗教改革的なものを受容している点である。この点をクリアして置かないと、将来破綻の糸口になることが必ず起こる、と預言して置く。

 この声明の方式が教会的文書として相応しいと述べたことの第二の理由は、御言葉を先ず立てることに伴い、告白的姿勢が初めに明確になり、自由人の発言に相応しくなるからである。この点については、次の項で述べる。

 声明の姿勢としては良いと思うが、声明としての文章に迫力があるか、という点については危惧がある。声明は表に出た文章であるが、表に出ないものに裏打ちされていなければ、作文としてはソツなく出来ていても、机上の作品であって、底が透けて見え、力がない。声明の主体である日本キリスト教会東京中会のこの面での戦いの痛みがないのではないかとの憂慮を禁じ得ない。

 この声明文は、4つの部分から成っており、それぞれのパラグラフごとに有事法制反対を表明しているが、序文的な意味を持つ最初の6行の態度表明に始まる。

 これは反対意見の端的で総括的な表明である。論理でこちらの言い分を認めさせる以前の、声明を発する側の人間として生きる態度・姿勢の表明が織り込まれている。

  そして、その姿勢を基礎付け、また支えるのが御言葉であることが表明される。

 声明の論法としてこの言い方しかないとは言わない。しかし、最初にこういう言葉を打ち出すことによって、態度をハッキリさせる利点があることを見て置きたい。これは弁明の書ではなく、声明書なのである。劣勢に立つ者の恥じらいを含む弁解じみた自己主張でなく、堂々たる主張となる。

 我々の身辺では、柔軟な論法が好まれる。これは一つの時代風潮である。柔軟であることが必ずしも柔弱と結び付かず、却って強靭である場合もある。硬直した論理が意外に脆い場合は多い。だから、硬いか柔らかいかで実体を判別することは余り意味がない。ただ、この文章が柔軟さを好む時代におもねっていない点は重んじたい。

 たしかに、説得の場合、柔軟な方が聞き入れられ易いかも知れないということはある。しかし、反対声明は説得ではない。説得は、こちらの考え方に相手を引き入れる息の長い歩みを歩みきらなければ、目的を遂げることはできない。

 ここに引用される使徒行伝5:29(4:19)の聖句は、ペテロとヨハネがユダヤの政治的権威の前に引き出された時の答弁で、キリスト教会の反対声明としては最初のものであり、謂わば原点のような意味を持つ文言であることは周知の通りである。宗教改革の最初の信仰告白である「アウクスブルク信仰告白」第16条もこの聖句を引いていて、宗教改革の信仰告白のこの点での前例となった。

 その時代においてこの問題を最も整った形で論じているのは、カルヴァンの「キリスト教綱要」の最後の巻の最後の章の最後の節である。

 この聖句について二つのことを考えなければならない。

 1)使徒が語ったこの言葉を、常識レヴェルで理解し、立派なものと評価することは出来るが、常識に引き下げるのでなく、聖書による理解が肝心である。神はつねに人に優先したもう。だから、人に従うよりは神に従うべきであるということは公理として通用する。しかし、それだけではない。

 聖書による理解とは、この場合、マタイ伝10章17-20節、また、ほぼ同じ言葉で述べられているマルコ伝13章9-11節に基づいて理解することである。マルコ伝で読んでみる。「あなた方は自分で気を付けていなさい。あなた方は私のために衆議所に引き渡され。会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対して証しをさせられるであろう。こうして、福音は先ず全ての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなた方を連れて行って引き渡す時、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなた方自身ではなくて、聖霊である」。

 必要な答弁を、聖霊が、必要な時に、与えて下さるという約束が先ずあって、その約束の実現が使徒行伝のペテロとヨハネの証言に見られたのである。ペテロたちが咄嗟の機転で、後世に残る名言を吐いたと感心することは殆ど意味を持たない。ここには聖霊による開示がある。

 恵みに与った者が、その恵みを語り広めるのは当然であり、自然である。例えば、不治の病を癒された者はその事を語り広めた。それを福音伝播のモデルと見るのが通例であって、これに異を唱えるには当たらない。しかし、主イエスが先のマルコ13章で「こうして、福音が宣べ伝えられる」と言っておられる場合には、常識的に分かることとは別次元の事情を見なければならない。その事情の一端については上に触れたが、聖霊の開示ということがある。しかし、それだけではない。

 福音の伝播が日当たりの良い所で起こるとは言われていない。順風満帆の状態で伝道が伸展し、人がどんどん増えて行くのは偽りだとまでは言わないが、脅迫のもとに置かれ、命を危険に曝さなければ証言にならないという事態の中で、福音は拡がって行く、と主は教えられるのである。そのところでこそ、福音の光りが福音らしく冴えて輝く。

 もう一つ、ここで注意を惹かれるのは、ペテロたちの語った場がどこであったかである。彼らは衆議所、議会に引いて行かれた。これはユダヤにおいては公権力の場である。ペテロたちは公権力によって告発された者として、法廷での陳述を強いられる。こうして語られるのは私的な言葉ではない。実際にはこの言葉は聖書の中にしか書き留められなかったのであるが、訴訟記録として永代に残るべき言葉であった。

 公けの場、特に法廷で語らせられることによって、発言は公的な言葉になる。福音はこうして権力と向かい合ったのである。その後の時代においても、福音は権力の中に取り込まれない姿勢を維持する。

 2)使徒行伝のこの箇所の引用は、信仰告白の歴史から見るならば、「抵抗権」の表明である。それが、この声明書の歴史的意義である。抵抗権という言葉が使われているわけではないが、内容的にそうであることは明瞭であり、日本におけるこの種の文書の中で画期的である。ただし、画期的な声明書を担う担い手が、それだけの重大さを認識して決議したかどうかという問題は別である。その問題には今は触れないで置く。

 抵抗権は、靖国闘争の初期、1970年代の初め、在来の教会に馴染まないこの闘争を如何にして教会の中に位置付けるかで、日本キリスト教会の心ある人々によって懸命に学ばれ、主張されたものである。靖国闘争がこの種の戦いの最初のケースではなく、戦前の日本キリスト教会による宗教法案反対闘争が前例としてある。この戦いは一度は勝利したと言えなくないが、後年、もっと危険な宗教団体法案が上程された時、日本キリスト教会の中にはもはや抵抗は起こらなかった。教会はこの戦いから何一つ学ばなかったから、靖国闘争に受け継がれ行くべき神学的遺産はなかった。

 靖国闘争は何もない所から神学的な戦いを立ち上げなければならなかった。その神学作業は、その後の大中会靖国委員の中に必ずしも伝承されず、まして理論的発展を見ることもないままに、靖国闘争は風化しながら表面的には定着し、日常化し、ほどほどにお茶を濁す程度のマンネリ化が起こっている。それでも、日本の諸教派の中で日本キリスト教会はいちばんマシな方であって、教会としての靖国闘争から手を引いて行く教派が出始めている。

 日本キリスト教会の中で一旦火を消されたかに見えた抵抗権思想が、この危機的状況の中で、すでに遅すぎたかの感はあるが、それでも再浮上して来たことは、30年前の老兵にとっては感慨深い。新しい担い手は第三世代である。

 抵抗権の理論は単純で地味なものである。政府批判、権力批判は華々しいものであって、今日、殆ど流行と言えるほど盛んである。我々も例外なく今日の政府に対して批判的である。だが、政府批判の風潮は抵抗権思想と一見似た面はあるとしても、別物である。状況が変われば、対立関係が露わになるかも知れない。

 抵抗権は基礎を持つ思想であり、単純なその基礎についての信念である。良心的抵抗と言われる態度決定が行なわれることは稀でなく、それらを抵抗と呼ぶことに我々は反対しないが、抵抗権思想に基づく行為でなく、権力に対する反射的な反逆であったり、権力対権力の闘争に過ぎない場合がある。抵抗権が抵抗権であるのは、抵抗が正当性を持つ根拠を確認し、それだけの思想を持つ場合である。人に従うよりは神に従うべきである、と言う場合、神の法に立っている。

 抵抗権の権は正当性であり、正当性を主張するだけの根拠を確認している者の自信がある。権力側から見れば確信犯的主張である。

 この世には権力が立てられており、それが原則的には肯定されるという法秩序を前提として抵抗権は成立する。無政府主義とは全く違う。権力は必要に応じて強制を加える。この権力の強制がなければ、混乱に陥ってしまうと一般には考えられている。

  ところが、一般的には理解出来ても、その強制に従えない場合がある。すなわち強制の行使が間違っていると思われる場合である。その場合、抵抗になる。権力が神によって立てられたことを知る者は、権力行使の目的や限界をも知っていて、権力の間違いについては、権力以上に良く知っており、抵抗が義務になる場合を知っている。

 根拠を提示出来ない抵抗もある。例えば、我侭、自分勝手によって人の蒙る迷惑が増しても顧みない。この場合は処罰される。もっとも、根拠の提示が出来ないが、根拠がないわけではなく、あるにはあるが、学問的解明が遅れているため提示出来ない場合はある。この場合、単なる我侭と看倣されてしまう。そういうことがあるから、不服従を悪と決めつけることは非常に難しい。

 抵抗の根拠として認められるようになっているのは、宗教と良心である。ペテロとヨハネは、イエスの名によって語ることを、世間を騒がせることになるとの理由で禁じられた。一応の理由ではある。しかし、御言葉を宣べ伝えよ、との命令が主から与えられている。この命令の方が上であることを良心は知っているから、彼らは議会の命令に抵抗した。

 神の戒めは「殺すなかれ」と命じる。それ故、神の言葉に従おうとする人は義務づけられた兵役を拒否せざるを得ない。それは国家から厳しい罰を受けた。しかし、第一次世界大戦の時から、処罰をしない扱いを始める国が現われた。第二次世界大戦ではそういう国は増えた。そうなるまでに、ヨーロッパでは抵抗権の思想の長い歴史があった。日本にも兵役拒否をした前例はある。しかし、それを思想として取り上げる人がいなかったので、思想としての歴史はない。ヨーロッパでそういう思想が続いたのは、キリスト教の力である。日本ではキリスト教が無力であったから思想にならなかった。

 では、キリスト教の歴史の長い国では、この思想は根付いているか。最近、興味ある事件があった。米英軍のイラク侵攻を食い止めるために、「人間の盾」というアイデアが提唱され、何百人もの志願者がイラク入りした。その中にはガンで後2ヶ月しかないと言われて、自暴自棄になってイラクに来てたが、盾志願者仲間で協調して生きることが出来ず、周囲に当たり散らして、結局去って行ったような人もいるから玉石混淆である。その盾志願者の中に米英人は殆どいない、あるいは、盾として来たけれども、帰ったという事実がある。

 これは米英に良心的な平和主義者がいない証拠になるとは思わない。また、人間の盾という発想が、歴史の吟味を経ていない解決手段であることもほぼ確かである。しかし、時代が進んだからそれだけ良心的な平和主義者が増えたということにはなっていない証拠にもなろう。

 イラクに行った米英の兵士たちは、命令だから実行する、と判で押したような返事をするということも聞いている。彼らは命令だけれども従えない場合があることに思い及ばない。そういうことを考える思想があって、少しずつ深められて来ているという事情を知らせるまいとする力、その力に容易に順応して行く良識がある。

 日本でも、自衛隊員からそれとほぼ同じ返答があるらしい。アメリカから軍隊教育のノウハウを採り入れたのかも知れない。昔の日本の軍隊は、不服従が絶対に出来ない仕組みになっていた。すなわち、軍隊は天皇のためのものであり、軍隊の組織において上官は天皇の代理人と思わなければならなかった。その時代に培われた土壌をそのまま用いて、アメリカの言うことを聞く日本兵が作られつつある。

 軍隊以外の組織においても、考え方としては同じである。私が知っているのは学校教師である。日の丸・君が代問題で折衝してみると、業務命令だから拒否できないと答える教師ばかりである。

 抵抗権というものがあるという話しをしても、聞く耳を持たない。無理もない、抵抗の支えとなる神も、神の言葉も、良心の証言も彼らはもっていないから、長いものには巻かれるのである。その考えが最近やや揺らいで来た。企業の内部告発が合法化される機運がある。公共団体や国家もこの面では企業と同じであるのに、企業と違うと考えたい人が多くて内部告発は罪悪視されている。

 声明文の次の10行が本文の第一パラグラフである。根拠として掲げられる聖句はエペソ書1章20-21節とローマ書13章1-4節である。

 エペソ書では、キリストこそが主であり、その主が天において支配したもうと言う。そのもとにおいて、地上の肉なるものの支配は地上の権威に委ねられている。これがローマ書13章で言うことである。そこで、キリスト者は正しい秩序の実現に努めねばならない。そして地上の秩序は、法によって整えられる。地上の法の最高法規は憲法であるから、憲法を重んじることは基本的に大事である。ところが、日本政府は、日本国憲法を守るべきであるにも拘わらず、それに反する有事法案を法制化しようとしているとこの声明は論じる。

 今述べたことは、聖書的根拠は別として、世間の有識者も言うことである。そして教会はこういうことを余り言わないで来た。世俗のことだから、余り言うまいという考えであろうか。それは違う。世俗のことにも教会はかなり発言しているし、暗黙の受容をしている。政治的なこと、時の権力に楯突くことは言わない。言わないことによって、権力に都合の良い情勢が強化されて行く。

 教会内に広く行き渡っている見解として、教会には色々な人がいるのだから一つの旗を立ててはならない、というものがある。これが良識だとされているが、真理から外れた誤魔化しである。教会内では信仰の条項に反しない限りどんな立場でも取れるのか。

 この声明は政府に対して「憲法に反する言動はしてはならない」と明言する。これは日本の教会としては新しい動向である。中会で採決する時、異論は出なかったが、教会内でクリアされているとは言いがたいから、反対勢力からの巻き返しに備えて、十分な説得力を養って置かねばならない。議論は次の二つの面から深められねばならない。

 1)神の支配のもとでは「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべて誉れあること」(ピリピ4:8)が立てられねばならない。平和憲法はその「およそまことなるもの」に該当する。

 2)Iコリント8章にある「躓きの事態」の適用について教会内に合意を作って行く必要がある。許されていることであっても、弱い人の躓きになるなら、自制すべきである、と教えられている。ここでは問題は相対的なものとして扱われる。偶像に供えられた肉を買って来て食べるのが良いか悪いかというような問いは、今日では問題としては消え失せている。それでも、躓きは装いを変えて蔓延っている。だから、何が躓きであるかを見抜かねばならない。何でも躓きになり得るのである。「躓きだ、躓きだ」と叫ぶ人がいてその声が勝てば、それが躓きとして認定されると思っている人が多い。しかし、聖書は弱い兄弟を躓かせるなと命じる。強い人を躓かせるのを恐れるのでなく、弱い人を躓かせるのがいけない。

 しかし、何が弱い人なのか。自分で弱い、弱い、と言いながら、自分の思いを遂げる技術を持つ人は弱い人ではないかも知れない。この問題は必ずしも困難ではない。

  洞察があれば見抜けることである。

 具体的な政治問題が持ち出されると、「それは躓きになる」と抑え込むことがこれまでは多かった。靖国闘争が始まった頃にも、これで躓く人がいるから、教会内では持ち出せない、と言っている人がいた。そういう声は今では余り聞かない。しかし、躓きが起こるのではないかと恐れる臆病さは全然治っていないのであるから、再発の予防をしなければならない。

 日本国憲法、特にその平和条項を信仰的立場から支持した教会の文書は割合少ないのではないか。そのようになっているのは、非武装・平和主義と近代の人道主義的理想主義との関連を憚ったためではないかと私は思う。私の世代の者は、若い日、危機神学の影響によって、人道主義的理想主義への不信感・警戒感を植え付けられた。そのお陰で迷わずにここまで来たのであるが、その後遺症がまだある。軍国主義は簡単に脱皮出来たが、かつて流行した反近代主義は容易には抜けきれない。平和主義は核兵器の出現以後、理想主義から現実主義に転換したことを頭では理解しているのであるが、心の深層ではまだついて行けないでいる。その蟠りを越える歩みは若い世代に期待するほかないのだが、実際、若い世代によって始まった。

 日本国憲法を、全体的に見て、神の賜物と理解する人はクリスチャンの中に多いと思う。しかし、その見解は確乎たる確信にはなっていないし、余り論理化もされていない。単純にこの憲法を神から贈与されたと信じることは出来ると思うが、論理化するためには幾つもの障害物を乗り越えなければならない。

 第一に、神がシナイでモーセに律法を授けたもうたような授与は、日本国憲法に関しては起こっていない。神が口ずから律法を授けたもうた場合は、モーセを通しての場合に限られる。

 国々の法が神の御旨に沿っているという考えは、ローマ書13章からも読み取れるが、広く世界に行き渡っている自然法の考えがそれである。この理論はカトリックの中で強化され、かつて中世に盛んであった。自然法という言葉は教会内で聞く機会は殆どないが、聖書と無関係ではない。ローマ書2章14-15節に、「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行なうなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心に記されていることを現わし、そのことを彼らの良心も証しし、うんぬん」と書かれている。これはハッキリした自然法理論である。

 自然の法が神から生まれながらに授けられ、それをもとにして実定法が人間によって作られたという考えである。この説を今日はこれ以上は論じないでおくが、価値のない理論だからではなく、教会の中での問題としては、次に挙げるものの方が大きい位置を占めているからである。

 もう一つ、ローマ書13章の「上なる権威」は神からのものである、という聖書の主張である。ローマ書13章の言うのは、権威を担う人物についてであって、法そのものではないではないかとの問いが出ると思うが、人物に権威を負わせるのが昔の表現であった。この考えが時代とともに法が治めるという捉え方に移って来た。

 もう一つ、カルヴァンの説とされ、一般に受け入れられている考えは、神が人類に普遍的な恵みを与えたもうたという考えである。一般恩寵論と呼ばれる。この捉え方がカルヴァンに由来すると言われるが、もっと精密に言えば、19世紀に強化された考え方である。

 カルヴァンの説を正確に言えば、神は法制定の才能と熟練を人間に与えたもうた。

  その才能があり、それを錬磨する熟練さえあれば、法を制定することが出来るかというと、そうではなく、法制定の必要を感じる状況と機会、また法を制定しようとの志が神から与えられて、法が成立する。

 自国の法が神から与えられたものであると信じている信仰者はそれぞれの国で必ずしも少なくないが、その法の内容が統一されているとは言えない。神から書き取りのようにして法が一律に授けられたと考える人はいないであろう。軍備抛棄を制定している法があり、他の国では武装を規定した法を持つ。では、その国でだけしか認められないものであろうか。

 国によって価値観が違うとすれば確かに問題である。しかし、価値の違いを国と国との間で争うことになれば戦争であるから、それを避けるために、国と国との間では内政干渉をしないことを暗黙のうちに約束している。「ならず者国家」というような評価は肚の内では考えるとしても、一国を代表する人が公けの場でそういうことを言ってはならないことに今ではなっている。

 以前は考え方の違いが、強い国から弱い国を攻撃する理由になった。イギリスが中国を侵略した阿片戦争はそのような戦争であった。その戦争の結果、中国は港を開いてキリスト教伝道を許可することになり、それ故にあの戦争は良い戦争であったと言う人がいるが、こういう考えがまだ払拭されていないことはキリスト教にとって恥ずべきことである。

 自分の国にとって邪魔になるからやっつけるのが本音なのだが、相手の国の人民を解放してやるために出兵すると言う例は、最近のアメリカだけでなく、少し前の日本がしていた。もっと古く、17世紀にドイツでプロテスタント国とカトリック国とが争っていた時、スウェーデンからグスタフ・アドルフという王が軍隊を率いてドイツのプロテスタントを解放するために攻めて来て、30年に亘ってドイツ国内を荒廃させた。また、当時は暴君を抑制するために隣の国の王が侵入する場合があるのではないかとも考えられていた。しかし、その考えは失敗だと人々は気付いた。だから、ヒットラーが随分悪いことをしていると分かっていてもヨーロッパ列強は見て見ぬ振りをした。それも拙かったのではないか、ということになっている。しかし、介入はやはりいけないというのが今日の常識である。

 地域に警察が必要なように、世界にも悪いことをする国を取り締まる警察が必要だということは確かである。しかし、一つの国が警察になって他国を抑制することがないように、国際的な警察活動は厳重な法的規制を受け、国連の権威のもとにおいてでなけでば出来ないことになっている。これを蹂躙したのであるから、アメリカのイラク侵略が無法であることは言うまでもない。

 しかし、フセインの無法な支配は認められるのか。勿論、許されないが、問題は国々が他から干渉されることが出来ないほど自国の権威によって価値観を作ってしまったところにあるのだと私は思う。これは私が考えるというより、現在、物を考えている人、特に人権ということを考えている人たちはみな、国家というものの在り方を変えなければならないと考えるようになっている。

 そのように人々の考えが経験の蓄積によって変わって来ているのも一般恩寵であるから、一般恩寵という考えはかなり人間の都合のよいように左右されるのではないか。そうかも知れない。一般恩寵論が濫用されないために、シッカリ歯止めを考えて置こう。

 神は人間に法を制定する能力を与えたもうたが、それを主に遂行するのは理性である。だから、法は理に適った物でなければならない。しかし、理に適っただけでは過ちを犯す恐れがあるから、監視役をつけておかれた。それが良心である。良心が律法なき者に律法の代わりに神から与えられていることはローマ書2章14-15節に書かれている。

 神は法を定める能力だけでなく、数々の有益な能力を与えたもうたが、歴史編集の能力も見て置くべきである。人類は歴史を鏡として、それによって過ちを繰り返さぬ努力をするように導いておられる。

 世界の法思想にキリスト教の影響が大きいことは誰もが認めるところである。人権思想、人間の平等の思想はキリスト教思想が一般化し、非宗教化して、非キリスト教国家にも浸透するに至ったと考えられる。まだ十分世界に入り込んでいないキリスト教的なものとして、「いと小さきもの」と「己れの如く汝の隣りを愛すべし」があると思う。これは、信仰の世界の外では法的なものと認められていないが、これを一般の法に採り入れるならば、世界は大きく変わる。

 次の8行のパラグラフは、日本国家の宗教化・偶像宗教への接近、また宗教への介入、靖国参拝に対する警告である。引かれる聖句は、先ずマタイ28章18節、キリストが天においても地においても一切の権威を授けられたもうたとの宣言である。ここから出発して、議論を立ち上げる。次に、Iコリント10章21節である。「主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことは出来ない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時に与ることは出来ない」。これは偶像礼拝を避けなければならないという文脈の中で語られているのであるから、天においても地においても一切の権威を持ちたもうキリストのもとにあって、一切の偶像的なものを忌避しなければならないという主旨である。これはキリストの主権のもとにある信仰者の純潔を指示するものとしては適切であるが、現代日本の状況を非難する言葉としては必ずしも適合していない。

 それにしても、総理大臣が靖国参拝を恥じらいなく行ない、国民がそれを止めさせることが出来ない状況を国家神道復活に傾斜した宗教的・政治的状況であり、それと有事法案が結び付くと判断しているのは正しい。

 有事法案は軍事紛争の犠牲者を生み出し、それを英霊とすることによって、靖国神社の新しい祭神作りを作るものであると断定する点は適切である。

 政教分離の原則の無視の問題もこのパラグラフの中で扱われている。政教分離原則の侵害の戦いは長く続けられて来たが、こちら側の態勢は弱体化の一途を辿っていると言う他ないと私は感じている。私は政教分離関係の二つの裁判に現在関係しているが、こちら側の人数は減って行く。老人ばかりだからである。小泉首相が靖国参拝をするのはいけないという意見の人は少なくないが、それを阻止する熱意が枯渇しているようである。老人たちは戦争経験があるため、間違いを繰り返してはならないとムキになるが、戦争経験を持たない人たちは、敢えて戦うだけの理由を持たないのであろう。

 私の言いたいのは戦争経験を支えにして戦うようなことでは駄目だということである。戦争経験に代わる支えを作り出さなければならない。何が出来ているか。何も出来ていない。誰の責任か。教会の責任ではないのか。

 政教分離の理論を日本の教会は受け身で受け取って来たから、それを深めることもしていない。ただ、憲法に書いてあることを守らないのは怪しからん、と言うだけだ。それならば、現憲法が改悪されて、政教分離条項が撤廃されたなら、靖国参拝にも反対しないということにならないだろうか。

 政教分離の思想の聖書的理解の掘り下げが非常に不足している。一般に、政教分離の思想は世俗主義のものだと言われており、教会内にもその説を鵜呑みにしている人が多い。しかし、事実を調べて見れば、政教分離を実現するために血を流したのは信仰者であったことが分かる。

 最後の9行のパラグラフは、キリストの死によって確立した和解の福音の立場から、敵視政策、先制攻撃の発想を却けるとともに、有事を想定する戦争協力体制作りのための準備としての有事法案に反対する。引証される聖句はローマ書3章23-24節、マタイ28章19-20節、IIコリント5章18-19節、エペソ2章14-18節である。

 論旨としては間違っていないが、キリストの成し遂げて下さった神との和解が、人と人、国と国との間の和解に転化される論法は無造作である。引用される聖句は罪の赦しの福音に関するものに偏っているのではないか。もっと綿密な聖書研究が必要であろう。

 この声明はイラク侵攻の第2日の日付になっていて、その戦争のことに一言触れている。議場からそのことをつけ加えよとの要望があって、戦争の生々しさを封じ込めたような文章になった。イラクで同時進行で流血の惨事が行われていることを思いつつこういう声明文を審議したのは思い出に残ることだが、この声明をした以上はイラク戦争の違法性を明らかにし、この不幸を繰り返さないようにする作業が続行されなければならない。