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2002.09.16.
アジア的視点から見た日基の教団離脱
東京告白教会長老・執事・委員研修会

渡 辺 信 夫

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 1951年に今の日本キリスト教会に属する諸教会が、日本キリスト教団を離脱した時、信仰告白を持たぬままの合同教団に留まることは出来ないとの理由が専らであった。この事柄をアジア的視点から捉えなおす取り組みは、当時、何もなされていなかった。日本の教会人の教会意識にアジア的視点が加味され始めたのは60年代で、教団では近隣諸国の教会との関係があり、しかも近隣諸国では日本の植民地支配と侵略に対して厳しい見方をしていたことが分かっていたから、それに対応しなければならなかった。日基では外国教会との関係がなかったので、さらに遅れ、70年代に入ってからその意識が始まる。
 初めの頃の事情を知らない人が今日の教会の大多数であるから、予備的知識として、50年以降の事情を語っておく必要がある。私的な思い入れを交えながら振り返っていることを認めて頂きたい。現今では、教団離脱に当たっての信仰告白の主張についてさえ、日基の多くの人は無関心になっているから、それについても論じなければならないのであるが、今日の講演では時間の制約があって、そこまで包み込んで詳しく論じるのは時間的に無理であろう。
 私は1949年に日本キリスト教団で補教師の検定試験を受け、大阪教区において補教師の准允(じゅんいん)を受けて、高槻教会の伝道師としての歩みを始めた。だから、49年以降の教会事情は知っていなければならない立場にある。1950年6月25日に朝鮮戦争が始まった時、私は旧日基グループの、離脱を含みとする教団問題の協議会のために上京していた。開戦のニュースは私にとって強烈なインパクトであった。何故なら、今度戦争が始まったなら、それは必ず核戦争となり、世界の破滅になると予想していたし、自分が第二次大戦に生き残ったのは、第三次大戦を阻止させるための神の摂理であると理解していたからである。つまり、太平洋戦争で死に切れなかった命を、今度こそ投げ出さねばならないと覚悟した。
 そのように述べると、その時、私が伝道者として最初に参加した会議に身が入っていなかったように取られるかも知れない。だが、そうではなかった。会議の議論を私は一言も聞き漏らさぬように受け止めていた。あの戦後の貧しい生活の中で、どこからも援助がないのに、全国から牧師たちが生活を切り詰めて東京に集まって来る。彼らは自分の教会で如何に伝道の成果を挙げるかというようなことでなく、日本の教会全体がどうなるべきかについて、真剣な討論をしている。それを見るだけでも、私は感動したのである。
 帰途、東海道線の下りの急行は、何回もダイヤを無視して停車させられ、軍用列車に追い抜かれた。戦時中の空気をまざまざと思い起こすのである。44年の12月、すでに軍隊の人であった私は前線に赴く前の、最後の、そして唯一の帰郷をした。その時は東海道線が地震で不通になっており、中央線で塩尻まで行き、名古屋でまた乗り換えるという困難な旅行事情で、列車は立ち詰めであった。そして軍用列車に追い抜かれて行った。あの雰囲気とそっくりであった。戦争遂行が優先し、民衆の生活は踏みにじられ、苦情も言えない。「また戦争か」とやりきれない思いであった。
 当時の私に、教会についての見識があったわけではない。協議会で、高名な先生方がこもごも立って述べる旧日基的見識を、私はただただ感心して聞くのみであった。それでも、胸のうちには、未だ形をなすに至らないが、教会についての或る思いが、マグマのように沸々とたぎっていた。――戦争の中で教会は崩れて行ったではないか。信者たちは教会から放り出されたではないか。そのように私は肚の中で感じていた。何かが間違っていたが、どこが間違いなのか自分でも指摘出来なかったし、教えてくれる人もなかった。それが年を重ねるうちに次第に見えて来て、私の思想も結晶し、私の教会論として立ち上がって行くのである。だが、もう一つ、思想のほかに、「生き方」というものがあることに気付き始めていた。すなわち、理論は理論で、身の処し方はそれと別の原則によっている人々の生き方とは、似たようなことを言っているようであっても、理論そのものからして別なのではないかと漠然と感じ始めていた。
 教会論と平行して、私のうちには平和のための負い目という思いがあった。この二つの思いは、もつれ合ったまま、ハッキリ捉えられず、モヤモヤした状態にあったが、6月25日から数日のうちにスッキリして、二本の柱のような関係で結び付いた。つまり、柱の一本が揺らぐと、他の一本も揺らぐような関係である。あるいは、そのように結び付けなければならないという覚悟が固まったと言う方が正確であろう。俗な言い方をすれば、この二つ、あるいは二つの結び付きが「命がけ」の課題となった。だから私は伝道者として一層励むとともに、平和のためにも働き出した。この課題を避けるならば、私が伝道者としての使命を受けた意味も、戦争に生き残った意味もなくなるのである。それ以来、私がそういう姿勢で生きて来たことは誰も否定出来ないと思う。
 今、「命がけ」というやや品の欠けた言い方をしたが、教会の中で使うためには、品位のある言葉に差し替えた方が良いことは分かっている。それで、「キリストから与えられた絶対命令に忠実に」と言えば、もっと適切かも知れない。しかし、言い方は適切になっても、生き方そのものは「命がけ」にならないという現実もある。これではキリスト教は言葉遊びに他ならない。

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 私と同じように、あるいは私以上に、この二つの課題に「命がけ」で立ち向かおうとする伝道者が、比較的近距離の所に一人いた。大阪北教会の小川武満牧師である。伝道者としての経歴はそれほど変わらないが、年齢は10年違うし、人生経験の中味の濃度が違う。彼以外の牧師が命がけで働いていないと思った訳では必ずしもないが、彼とは共感する要素をお互い持っていた。教団離脱も一緒だったし、平和運動もその時以来ずっと一緒にやって来た。こういう人物と交わって来たから、自分の姿勢が崩れずに持続出来たのだと私は感謝している。
 平和運動については、今日の主題にとって当面必要はないと思うので、取り上げるつもりはない。ただ、少しこれに触れねばならなかったのは、小川牧師が初めから、アジア的視点を持っていたことを証言したいためである。彼は、満州生まれで、生涯の大半を中国大陸で送った。「時が来れば中国に行って医療伝道をする。今はその準備の時だ」と言い切っていた。その目は中国大陸に注がれていた。私は主から与えられた任務を、命の限り勤めるべきであって、今置かれている場所が本番に備える準備の場所であるとは全く考えなかったが、彼の志を理解しなければならないと思った。
 さらに、この牧師との接触によって、私の戦争に対する見方が変わって行った。私は戦争の本当の姿を見たつもりだが、海の上の戦争だけであって、アメリカ相手のものであったから、一局面だけで、戦争の全貌を捉えたとは言えない。この戦争が本来中国に対する侵略であって、それを見かねて米英が介入して来た事情は良く分かっていなかった。したがって、中国民衆への罪責は初めは分かっていなかった。
 平和運動に関連して、一つの挿話を語って置きたい。当時、関西で平和のことを考え、何かの行動を起こそうとしていたクリスチャンのうち、牧師は、教団を離脱する決意の若い人たちと、それに理解を示す旧日基の牧師であった。それ以外の大部分の牧師は平和に対しては冷淡であった。この事情を見て、ある人がこういう感想を漏らした。教団を擁護する体質と離脱する体質の違いがある。前者には国家体制に順応する要素があって、戦時中の教団合同がそもそもそれであったのではないか。――彼はそう気付いて、「日基は離脱に当たって、平和のために教団を出るのだという宣言をすべきではないか」と我々を焚き付けた。これは「信仰告白の事態」という私自身の生涯の課題と関係するので、私はとても面白い捉え方だと感心したが、即座にその発言に反対した。
 一つは 、信仰告白のために教団を離脱するのであって、信仰告白の事態ではあっても、平和のために教団を離脱すると考えている人はいないこと。もう一つ、平和の問題を信仰告白の問題として捉えることは出来るし、今後の課題だが、今、それを立論するだけの実力は我々のうちの誰にもない。これが理由であった。以上は挿話として語ったことであって、本論として言ったのではない。私がアジア的視点を具えることにかけて遅れていた点を語ればまだまだあるが、これ以上詳しく言う必要はない。私には戦争経験があるだけに、比較的アジアに関心があったことは事実である。特に沖縄への関心が強かったから、日本の中からだけ考える考えではなかったかも知れない。それでも、何とかしてでも出国して沖縄を訪ねようというほどの冒険的熱意はなかったし、沖縄への負い目の意識もセンチメンタルなものに過ぎなかった。
 また、当時の私の環境では、アジア的視野を持つよう刺激を受ける機会はあった。大学の学生控え室の貼り紙には、戦後間もない頃から、その種の研究会への誘いが結構あった。私は専門領域で勉強しなければならないことが沢山あるし、アジア関係のグループは中国共産党系で、物を考える人間として立つためには、距離を置きたかったから、関心を持つだけで接近を差し控え、顔見知りにならないようにした。それでも、戦争の敗北がアメリカによるだけでなく、中国共産党によるものであることが、貼り紙を通じてジワジワと分かって来ていた。
 キリスト教の中に限って言うが、平和運動が始まったのは前述のように50年で、その段階では、平和を考える人の中にもアジア的視点はなく、内心で考えている人も言葉にして提唱することはまずなかった。つまり、欧米が規準になっていた。若い人たちの間にアジアへの開眼が始まったのは60年安保の後である。60年安保の時は、米ソの対立の中でアジアがどうなるかは当然問題の中心部にあったのだが、アジア的視点を具えた発言になったのは、70年安保に至ってからである。
 60年安保の後、東京神学大学の卒業生二人が相次いで韓国と台湾の神学校に留学して、その地で働きだした。その人たちと以前から知り合っていたから、私のうちには衝撃が走った。彼らの志を理解することは出来たが、彼らと同じ道を行こうとは思わなかった。一つには、私が年を取り過ぎていると思っていたからであり、もう一つ侵略戦争に参加した者は、アジアの人々との交わりの資格がないと思い込んでいたからであった。
 こういう尻込みの姿勢が砕かれたのは74年である。この同じ年に、韓国と台湾から別々に、神学校の講義に招かれた。自らに資格がないことを理由に尻込みしていた愚かさを思い知らされた。資格とか適格性などを問題にすること自体、間違いであって、先ず行って見るべきだった。それが負い目に対処する第一歩であった。しかし、私は自分の生きる道を変更して、外国に移り住むことは出来ない。東京告白教会を建設するという渾身の力を傾けなければならない課題があり、さらに神学校で教える使命が増えていた。だから、立っている場所はそのままで、考えの中味を入れ替えたのである。すなわち、日本にいながらアジア的視点を具えた人間にならなければならない。こういう洞察の持てる人間になることが必要な修練であった。日本から出て行って、アジアで見たこと・考えたことを日本に向けて発信する人も重要だが、日本にいてそれを受信し、共鳴し、日本という場で考え、考えたことを日本で実践し、そのことを日本からの応答として発信する人がいなければならない。そういう使命が日基にあり、東京告白教会にあり、私にあるのではないかとの考えが浮かび始めた。
 しかし、その考えがハ ッキリしたのは80年代後半になってからである。一つの教会に責任を持つ者としては度を過ごしてアジアの問題に身を入れ過ぎると見られたようだが、それくらい身を入れなければ告白教会の使命そのものを明らかにすることも出来なかったと思う。しかし、初めから確信があったわけではない。危険を冒しているのかも知れないという恐れがあった。ただ、戦争をして来た私には危険を冒すことを躊躇ってはならなかった。アジアのことを考えながら、東京告白教会のことと、神学教育をやって行く。それを二股あるいは三股かけた、間口を拡げ過ぎたやり方だと思っている人が今もいるようである。私はその人とは争わない。言っても無駄だと思うから言わない。ただ、その人が真面目に教会のことを考え、日本の罪責を考える人ならば、そのうちに私がこのような生き方をせざるを得なかったことを理解してくれると思っている。
 さて、アジアとの関わりを遅れて始めたのであるが、私は「特権的」と言うほかないほどの恵まれた条件で問題に接近することが出来た。すなわち、「外国から招かれた先生」という立場であった。こういうルートで入って行かなかったなら、出会いが起こるまでに長い時間を費やしたであろうと思われる人々と、いきなり出会うことが出来た。つまり、私が講演をした時、私の見解に共鳴する人たちがそこに来ており、直ぐに寄って来てくれたのである。その人たちを通じて質の高い情報を得ることが出来た。そういう人々のお陰で、私はその国について後で訂正する必要のない正確な理解を得た。私はその特権を私自身のために用いてはならないと思い、恵みとして得たものであるから、一人でも多くの教会人と分かち合おうとして、時間と労力を注いだ。しかし、精力を注いだ割に成果は少なかったと言うべきであろう。多くの人は物好きな人という目で私を見ていたように思う。ただし、私は自分のやり方を悔いてはいない。
 アジアのことに関わりを持つ数年前から、日基の靖国闘争が始まっていて、そのお陰で日本が良く見え、アジアが見え始めていた。靖国闘争とアジア的視点とは一つのものである。私は戦争の生き残りであるから、靖国闘争には最初から積極的に関わったが、一つの運動を企画し指導するという立場には立たなかった。戦争をやって来た人間として、闘争の状況に応じてどういう戦術をとるべきかの判断は若干身についているが、もう号令を掛ける立場に立つまいとの覚悟があった。だから、号令に服して行動するが、自分では号令を掛けるまいとした。さらに、行動することよりも、行動の中で考えることが自分の使命だと意識していた。そして、考えたことを文章にする機会が次々与えられた。靖国闘争の中で考えたことは何かと問われれば、一言で「教会と国家」についての神学だと答える。そして、そのことがアジアとの関わりを考える際の核心部分であると思っている。

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 靖国闘争が日基において持つ意味は非常に大きく、出発点である教団離脱に匹敵する重要性を持つ。あるいは、靖国闘争のうちに教団離脱の実質化が用意されていたと言うべきである。したがって、靖国闘争を真剣に戦わないところには、教団離脱の目標の喪失があり、そこから日基の頽落が露わになって来るのである。さらに言えば、靖国闘争の捉え方如何で、日基の中にさまざまな不一致が生まれたのである。ただし、靖国闘争の捉え方の違いは、理論面では必ずしも明確に打ち出されていないから、論争にならない。理論をハッキリさせようとする人たちは、全て闘争の意義を認めている人たちで、闘争に消極的な人たちの中からは、消極性の正しさを立証する理論は生まれていない。だから、論争にならず、分裂は明確になっていない。しかし、靖国闘争撤退論が生み出される素地は出来つつある。
 概ね明白だと言えることは、教団離脱、告白的教会の建設、という日基の当初の主張を貫こうとする人たちは、初期には靖国闘争に違和感を持ったとしても、この闘争の告白的意味を次第に理解して深入りした。一方、日基であろうとする志を追究しない人には「信仰告白の戦い」としての靖国闘争を疎んじているという現実がある。そういう人にはましてアジア的視点で日本キリスト教会を考えるという発想はない。
 「信仰告白の戦いとしての靖国闘争」と言ったが、「信仰告白の戦いでない靖国闘争」という捉え方もある。平和を守る市民運動の一環としての靖国闘争、という捉え方である。その捉え方はそれなりに通用する。しかし、そこには、何故教会がこの闘争を担わなければならないかの根拠はない。敢えて根拠づけるならば、今は緊急事態だから、教会も本来の使命だけでなく、街頭に出て行かなければならない、という程度の理論であろうか。それは一応受け入れられるであろうが、常時「緊急事態、緊急事態」と叫んでいなければならないとすると、効き目はなくなるのである。市民運動は権力と関係のない市民が担う。教会は市民の集まりのように外から見られるが、市民社会の単なる一部ではないという自己確認がある。教会が市民運動に関与してはならないという原則はないが、告白共同体として立つ教会は、単に市民社会の一部を占めているのではなく、独自な根拠を持つことを自覚している。だから、教会が行動するのは、世間との連動でなく、告白的行為としてである。
 教会はキリストから託された使命を持って地の上に立っている。教会は託されたものを守るために、教会固有の戦いをしなければならない。教会の主であるイエス・キリストは「私の国はこの世のものではない」と言われたのであるから、教会はこの世の中に解体してしまわない固有なものを持つのである。こういう線を守って戦っているのは日本では日基だけである、と言うと、言い過ぎであるが、これを目指す人たちが日基の靖国の戦いを担っていると言ってほぼ間違いないと思う。こういう線を目指すべきだということを知ってもいない人が多すぎる。我々は殊更に人との違いを語ろうとしないので、平和のために社会的・政治的努力しているクリスチャンと同じことをしているように見られているが、依って立つ原理は同じではない。この理論については今日は述べない。

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 さて、「アジア的視点」と言うからには、「アジア」とは何かということを考えて見なければならない。しかし、考えても、考えても、なかなか分からない。近隣の一つの国を取り上げて考察すれば、その国のことは分かって来る。その国がアジアだということも分かる。しかし、アジアに属する国が分かることと、アジアが分かることとは別である。
 そもそも「アジア」には「アジア的視点」を構築するだけの中味があるか。これは極めて深刻な疑問である。ヨーロッパには今日の統合体の形を取るまでもなく、統一的なキリスト教文化とキリスト教的思想・道徳があるが、それに対応するものはアジアにない。今後統合の核心となり得る要素も見当たらない。したがって、「アジア、アジア」と叫ぶことが、現時点でなら、ジャーナリスティックな新鮮さを感じさせるとしても、その新鮮さを失った時、アジア的という名称を掲げる意味がなくなる。
 アジアという名称自体、かつてローマ帝国の中で作られた呼び方の便宜的転用に過ぎない。それはヨーロッパから見て東にあるというだけの意味で使われた。ヨーロッパにはこのほかに東の地方を示す「オリエント」という語があり、「ファーイースト」(極東)という言葉もあって、使い分けがされている。すなわち、ヨーロッパで名が作られ、ヨーロッパで言葉の内容が規定されたものを、アジアが貰って使っているという奇妙な事情がある。これに対して怒るということも考えられなくないが、では代わりにどう呼ぶか、となると、こちらの代案がないから、このまま使うほかない。
 今のところ「アジア的」という規定の内実は掴めていないのだと正直にまた謙虚に言わなければならない。ただ、アジア、アジアと言っていることが中味のない単なる地理上の呼び方でないことを我々は知っている。今、我々が押さえているのは二点である。一つは、日本の反アジア的犯罪性の反省原理としてのアジア理解である。日本が蔑視し侵略した反省の対象として見えて来るもの、それがアジアである。現在、アジア、アジア、と言っている人たちの言おうとすることは、ほぼこの辺りにある。しかし、日本のアジア蹂躙の罪がだんだん償われて行き、侵略が過去になって行くと、侵略されたアジアの実態は見えなくなって来る。そこで、さらに深い意味のアジアを求めなければならなくなる。
 そういうわけで、第二に、近代日本に圧倒的影響を与えた近世ヨーロッパ思想、領土的にも思想的にも大きい力を持ったこの思想の再吟味の足がかりとしてのアジアが浮かび上がる。日本にとってアジアは距離的に近いし、歴史的な長い交流による馴染みがあるから、アジアを考えることには現実性がある。アジアはヨーロッパの対抗原理にはなれないが、余りにも無視されていたから「再発見」されるだけの価値はあるし、それを要求するだけの意義がある。それも、アジア人によって再発見されなければならない。
 もう少し詳しく見よう。
 1) 戦争罪責の対象としてのアジア像をいつまで抱き続けることが出来るか。これは疑問である。例えば、モンゴル帝国の軍隊がアジア一帯を軍事的に席巻したことの罪責を今も問うということは殆どナンセンスであろう。時間が経過しぎている。あの時の戦争責任の主体としてのモンゴル国家は消滅してしまった。債務を客観的に指摘出来なければ、罪責を論じても実りはない。ただし、日本のアジア侵略に関しては、現実問題として客観的債務が歴然として残っているのであるから、抽象論に走ることなく、直ちに罪責の償いに入ることが出来、またそれの実行を困難にして来た事情が何であったかを解明すべきである。この解明の過程で、アジア的視点を持つか持たないかが、己れ自身を真実に問い直すことが出来るかどうかの分岐点となっている事情が分かり、アジア的視点の実際面での効用を悟るに至る。
 2) 近代のヨーロッパの問い直し、再吟味は、何ら目新しい試みではなく、むしろ一種の流行と言えるほど、多くの人がやっている。その場合、何を足がかりとするかで、アプローチはかなり違って来る。例えば、アフリカを踏まえてヨーロッパを問い直す試みがある。これはヨーロッパがアフリカを植民地化し、アフリカを奴隷の供給源としか認めず、アフリカの固有の文化を認めなかった落ち度に対する反発であり、その主張には充分な正当性がある。しかし、アフリカが被害者であった点については共感と同情が得られるとしても、ヨーロッパの本質を衝く議論の足場にはなりきれない。
 近時、にわかに注目を浴びているが、イスラムからの問い直しがなされている。イスラムを自爆テロの集団としてしか捉えない人もいるが、それは別として、イスラムのヨーロッパ文明批判はかなり緻密な理論を具えている。それでも、まだ有効な批判になっていないように思う。 日本からのヨーロッパ批判も一時期盛んであったことに触れておいて無駄ではない。戦争中、日本によるアジア解放戦争を意味づけるために、一部の哲学者たちが「近代の超克」という主張を展開した。ヨーロッパ近代の行き詰まり、あるいはその頽落を乗り越えようとする要素は20世紀のヨーロッパ思想の中にかなりハッキリ打ち出されていた。バルトを代表者とするプロテスタント神学がそうだった。だから私は「近代の超克」に魅了されたのである。
 私は今では「近代の超克」の理論は、行き過ぎさえしなければ良かったというふうには考えない。行き過ぎを生み出す危険な要素を本質的に抱えているから、手直しではなく、根本的に否定しなければならない。また、かつてなるほどと思われたことも根の浅い思い付きでしかなたっか。そういう危険なものに対する警戒が今日の日本人には余りになさ過ぎることを憂える。しかも、近代の超克の理論をどう克服するかの答えが私の中からも出てこない。
 この理論の間違いを全部網羅することは出来ないが、少なくとも二つの欠陥があることに気付くのはそう難しいことではないであろう。一つは、アジアの解放と言っていながら、実質はアジア無視、アジアを見ていなかったこと。アジアを見ているかのようであっても、全然抽象的にしか論じていないことである。もう一つは、思い付きの寄せ集めであって、思想というほどの骨組みを持っていないことである。

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 「アジア的視点」ということが、思い付きだけの、中味の稀薄な、センセイショナルな単なる歌い文句であったのでは、一時の流行に終わる。我々が追求して行くべき課題は、そのようなところにはないであろう。アジア的ということの中味を積極的に提示することが出来ない言い訳かも知れないが、私は「アジア的」とは、中味の実質に関してのこととしてよりも、置かれている場所に関することとして考えたいと思っている。
 「アジア的なもの」としてどういう特性があるかは、今幾らか列挙することが出来なくはないが、それを言っても意味はない。ただ、少なくとも歴史の反省の上に立っているから、近代ヨーロッパが犯した過ちはすべきでない、と言うことは出来る。我々がアジアに置かれていることを十分弁えることがアジア的視点を具える第一歩である。
 我々の犯した過ちの中心的なところは「植民地主義」という一言で纏められるものではないかと思う。しかし、植民地主義の形を取っていないつもりでも、新しい形の植民地主義が行なわれているかも知れない。そして、旧植民地主義下において、キリスト教は良心的分子の役割を演じたかのように考えられているが、反面、植民地化を推進する一翼をになったことは否定できない。
 植民地主義は今では悪いことと見るのが常識であるが、昔は必ずしもそうでなかった。発達した文明、高い道徳を未開の国に及ぼすのだ、今なお古い因習の中に置かれている後進国の民衆に解放を齎らす善行なのだ、と確信していた人がかつて幾らもいたのである。こういう考え方が尾を引いているから、反省が深まらないのである。良い面があったとの主張は必ずしも偽りでない、と考える人は今も多い。しかし、良い面があったとしても、それを打ち消す悪い面があって、良い面は悪い面と表裏一体になっており、実際には悪い面が作用し、良い面はそれを誤魔化すために使われたのだ。その良い面だけが本体であるかのように誇張されているのは誤魔化しではないか。良い面を大きく打ち出すことは悪い面を結局は肯定するのではないか。構造全体として問題であると言わなければならない。
 こういうことはヨーロッパ・アメリカのキリスト教国がしていたことであって、日本国もヨーロッパ列強に倣って植民地主義を追求し、日本のキリスト教は日本国が植民地の宗主国となるための内的な協力を果たしていたのである。このことの反省はまだ殆どなされていない。例えば、1945年に滅んだ旧日本帝国において、植民地研究の第一人者はクリスチャンであった。その人は最も良心的な日本人であったから、非難することは難しい。けれども、最も良心的な日本人が関わっていたから、その関わりはあれで良かったということにしてはならない。それを宜しとしていたキリスト教を根本的に問い直す必要はないのであろうか。
 古い植民地主義は形の上では清算されたかも知れないが、新しい植民地主義と言うことが出来るものが始まっているのではないか。私自身、その新しい植民地主義というものををシッカリ捉えるに至っていないのだが、南北問題、あるいは環境問題の苦渋を南の人々が負い、北は快適な生活を追い求めて公害の排出ばかりしている事情、これが形を変えた植民地主義ではないか。そのように、新しい植民地主義下においても、キリスト教が、悪意はないつもりで、間違いを犯すことは起こっているのではないか。そういう状況に知らず知らず引き込まれて行かないための見識が必要である。
 古い植民地主義が行なわれていた時、日本は「脱亞入欧」という政策を採り、キリスト教はこの政策を全面的に支持した。教会こそ脱亞入欧の模範生であった。日本は植民地化されてしかるべきアジアではなく、地域的にはアジアにあってもアジア以上のものだという意識があった。今でもクリスチャンの中には欧米人とは親しんでもアジア人を蔑視する風習があるではないか。我々がアジア的視点を具えるとは、我々はアジアでないとは言わないで、アジアなのだと言うことだと思う。
 そこでいよいよ、「アジア的視点で教団離脱を考える」という本論に取りかかるのであるが、これはなかなか難しい問題である。むしろ、これは間違いではないかと言われるかも知れない。実際問題として、今日、アジアの教会との関わりを日本で最も良くやっているのは、公平に見て、日本キリスト教団ではないか。日基は遥かに遅れている。だから、日基であることはアジアとの関わりにおいてマイナスでしかないのではないかと思われるほどである。
 こういう反省は無駄ではない。日基がアジアとの関わりに積極的にならないのは、二つの要因からである。どちらも、本質的でない要素であって、一つは「純粋」とか、「本質的なもの」とか、「教会的」とかに集中しようとするポーズである。アジアについて考えることは本質的なことに入らないと思われている。もっとも、日基の純粋志向のポーズも今では怪しくなっているが、そのことには今回は触れない。一方、教団には何でもあり、何でも受け入れるという気風がある。だから、自由にわだかまりなく行動できる。アジア問題に積極的な人も当然いる。もう一方、アジア的な考え方をぶち壊す人もいる。
 教団が成立した時、これが教会の国家統制、あるいは教会を国家機構に組み入れることに他ならなかったのは明らかである。現在の教団では国家統制への対応を考えている人はいない。しかし、昔の統制の復活のようなものがないであろうか。戦争責任の徹底的反省を欠いているから、危険がある。教団内部で非常に批判的分子も、合同という大前提を動かそうとしない。それはキリストにあって一つ、という線に従っているということになっているが、むしろ日本的な大同団結、挙国一致が実体ではないか。我々が憂えねばならないのは、先に触れたように、良い面と悪い面を兼ね備えた構造が、結局、相補って悪い働きをするという問題だ。悪い面だけでは自存出来ず、作用も出来ないので、いろいろな要素を取り込んで構造を作って行く。言葉を換えて言えば、多数派を作って行く。
 多数派では、様々な傾向を受け入れて行かねばならないから、真理のための戦いにならない。少数者になってこそ神の栄光にかなう真実を貫くことが出来るとともに、全ての人のために戦うことが出来る。ここで言う少数者とは、あれもこれもでないこと、この線でなければ生きられないという覚悟を持っていることである。すなわち、日本キリスト教会が告白的教会でないなら、多数派を擁していろいろなことが出来るし、悪いことも出来る。しかし、教会としては生きられない、とハッキリしたものを掴むことによって、国家の枠を越えた教会の建設をするのである。

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