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2002.07.22.
第12回教理教育学校
歴史における神の民の教育
渡 辺 信 夫

 はじめに この世における教育の理念と教会の教育理念の違い

 与えられた主題について、皆さんと一緒にこれから考えて行こうとしているのであるが、最初にハッキリさせて置きたいのは、「教育」という言葉、概念、この問題について、我々が今考えようとしているのは、この世で普通言われている「教育」ではないということである。これをキチンと捉えて置かなければ、我々の頭が混乱する。そして、実りのない議論をすることになる。現代に生きる者として、現今の教育状況を憂えずにおられないが、我々が今日ここに集まったのは、この国における教育問題について論じるためではない。
 次に、「神の民の教育」ということを考える際に、世間で考えられているような教育概念や教育理論を今日の主題の中に持ち込まないようにすべきだということ、神の民に与えられている規範にしたがって考えるべきだということ、これを確認して置きたい。平たく言うならば、教会の事柄を論じる時に、世間の尺度に合わせて物を言っていてはいけないのである。
 教会の教育に関して、ロバート・レークスが日曜学校を始めた時に遡って教育史や教育思想史を論じることをしている人が今もある。私自身もその辺りのことを頻りに論じていたときがあるので、人のことを冷ややかに批判することは気が引けるが、今日論じようとするのはそういう問題ではない。 教会教育の歴史について論じても差し支えはないが、今日はそれよりもっと根本的なことを取り上げたい。
「教育とは何か」という問題を論じることは省略する。
 人類社会の営みを見ると、持続される社会である限り、どの集団の中でも「教育」と呼ぶことが出来る営みが行われている。人類だけではない、と言う人もあろう。例えば、象は集団で生活しているが、その集団が子供にいろいろな躾をしている。これは「教育」と言って良い。その教育を受けなければ一人前の象ではない。人間も同じで、教育されないと一人前の人間でないのではない、と見られるのではないか。それでは、「生まれ落ちただけでは人間ではない」と言うべきなのか。――確かにこの言い方は軽率である。「人間としての教育を受けていないなら、人間と看倣さない」と言うならば、教育を受ける機会を持たなかった隣人を、人間と思わないで、締め出し、見放す罪を犯すことになるであろう。
 だが、生まれたままの赤ん坊でも、「人間である」と言う理由は何なのか。能力から言えば確かに人間並みではない。だが、能力や見かけによってでなく、神がそこに与えておられる人間としての命、人間としての祝福、また人間となって行く約束、それがある故に、人間以下のものではなく、まさに人間であると看倣すのである。その約束をもつことを理解もせず、自覚もしないままに、人は受け入れている。そして、自分の子として生まれたもの、あるいは手続きによって自分の子になったものとの関係を覚えて、その約束に沿って、この子を人間として養い育て、知識と知恵を教えこみ、言葉遣いや立ち居振る舞いを躾ける。人間になることを約束されていた者は、そのような教育によって、人間になるのである。もっとも、この教育の過程の中で数々の歪みが起こっている。だが、そのことは今回は論じないで置く。ともかく、こういう経過を我々は一般社会の中に見ることが出来る。
 さて、神の民においてはどうか。一人の子が生まれる。その子が神の民の一員であると言うどのような証拠があるのか。その子が信仰を告白したならば、神の民と看倣すことは当然であるが、生まれたばかりではそれがない。だから、神の民であることの目に見える証拠はないのである。けれども、「神を愛し、神に従う者には、千代にまで及ぶ恵みを施す」との約束がある。それ故に、その子は「約束の世継ぎ」と呼ばれる。その約束を我々は受け入れ、この子を恵みの中に生まれて来たものとして認め、そのように育て、教え、約束を継がせる。その約束があることは信仰が捉えるのである。確かに、信仰をもって教え育てることが必要である。約束を信じないで、本性の成長や自発性に期待して、放置して置くならば、神の民であることの徴しはついに現われ出ないであろう。神が選んでおられるなら、放って置いても信ずるようになるはずではないか、という責任放棄の言い分は、神の選びを不信仰をもとにして理解しようと試みる誤謬である。
 そういうわけで、教育という用語を使っても、一般に言われているものとは全く別な事柄を扱うのである。では、一般社会における教育と、神の民の教育、聖書の示す教育が全然無関係と言えるかどうかの議論には、今回は触れないことにする。関係があることは確かなのだが、関係があると論じ始めると、さほど意味のないことについて止めどなく論じなければならなくなる。
 イスラエルの社会は、神の民の集団であるとはいえ、一面では人類社会に属する民族集団であって、人類に共通する教育という営みが行なわれていたことを無視するわけには行かない。また一方、聖書の言葉が一般の教育思想に影響を及ぼしている場合も大いに
あるのだ。けれども、そういう観点から神の民の教育を一般教育と関係づけて論じて行くならば、人類の中の一つの民族集団あるいは理念集団における教育的営みについての考察に終わり、それはそれとして興味あるものであるかも知れないが、ただそれだけの
ことになってしまう。それは時代とともに移ろい行くのである。
 では、神の民の教育として独特なものがあったのか。それは確かにある。神の民は独特なもの、世から分かたれたものだからである。これを前提として今日の私の議論は展開される。神の民は独特なものであるという前提から出発されては随いて行けない、と言うクリスチャンもいるようである。ここにはそういう人はいないものと看倣して、話しを進めさせて頂く。そういう人は相手にしないというわけでは必ずしもない。だが、議論を始めていては今日の本論に入れない。
 神の民のモデルとして第一に示されているのは、旧約のイスラエル、アブラハムの子孫たちである。彼らは神の民として造られたのではない。神の民として分かたれたのである。アブラハムは故郷で父や親族とともに住んでいたが、神の召しによってそこを出たのである。造られたという点では他の国民と違うところはない。造られたものであることは確かであるが、神の民であることの根拠は、造られたというところにあるのではなく、神のために選び分かたれ、聖別されたというところにある。
 申命記7:6-11にこう言われる。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面の全ての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなた方を愛し、あなた方を選ばれたのは、あなた方がどの国民よりも数が多かったからではない。あなた方はよろずの民のうち、最も数の少ないものであった。ただ、主があなた方を愛し、また、あなた方の先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなた方を導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、贖い出されたのである。うんぬん」。
 レビ記11:45 ではこう言う。「私はあなた方の神となるため、あなた方をエジプトの国から導き上った主である。私は聖なる者であるから、あなた方は聖なる者とならなければならない」。
 聖なる者となることが神の民の教育の出発点であるとともに目標であると言うならば、これではトテモついて行けないと思う人もいるであろうが、今引いたレビ記の言葉から考えるなら、矢張りそう言わざるを得ないのではないか。――勿論、「聖」ということをキチンと捉えて置かねばならない。聖であるとは、「他の者から区別された」という意味である。しかし、他と区別されたというだけで聖であることの実質規定になると考えるならば、確かに不十分である。旧約でも「主に聖なるもの」と言う。この世から分かたれるだけでなく、主のために聖別されてこそ、聖であることの実質が確定する。それを新約ではさらに明確に、キリストとの関係を示す。Iコリント1:30に言う、「キリストは神に立てられて我々の知恵となり義となり聖となられた」。そして、エペソ4:15に「あらゆる点において成長し、首なるキリストに達する」と言われるが、これが神の民の教育であると言って良いのである。
 私は夏の教理教育学校で、例年、教理の一項目について、歴史の面から語る役割をして来た。そして、歴史としては殆ど毎回、宗教改革においてその教理条項がどういうふうに確立したかを述べた。そういう扱い方で大過なく課題を果たしたと思っている。すなわち、宗教改革においてキリストの教会は「教理」によって「立ちもし倒れもする」自己の発見と確認をなし遂げたからである。
 今回も「歴史における神の民の教育」という題を与えられている。この課題をこれまでと同じように扱うのも一つの考えである。だが、そうしない方が良いのではないかと考えた。なぜなら、「教育」という事柄は教理の一条項ではないからである。教育の形はさまざまに変わって行くが、神の民の歴史の中では常に行われていたのである。だから、「歴史」として取り上げようとすれば、全ての時代に亘って論述しなければならない。そして、それは一日の講義では到底果たせない膨大な量になる。
 そういうわけで、私の今回の講義は、個別的な歴史的事実にあまり触れないで、総論的な話しになる。

 
 1 約束の成就の日を目指して

 神の民の教育は神の民として全うされることを目標とする。それは、初めに、永遠の御旨によって選びたまい、次に、時いたって召したもうたお方の、初めからの意図である。始めた方は始めたことを完成したもう。それは「選び」と「召し」にまで遡って把握しなければならない信仰の基礎である。
 今、時間を費やすわけに行かないから、「選び」と「召し」について聖書に即して、また教会の歴史をたどって詳しく論じることは省略するほかないが、教育はそこから始まることの確認だけはシッカリさせて置きたい。そして、「選び」も、「召し」も、それが「キリストにあって」行なわれたと聖書の言うところに十分留意して置こう(エペソ1:4)。つまり、神の民の教育はキリストにおける神の営みなのである。神の営みであるというだけでなく、キリストにおける神の業として捉えなければ正確でなくなる。
 神は御自身の民を全うするこの営みを、御自身の見守っておられるもとで、人間の手に委ねておられる。手ずからなさるのではない。人間の介入を排除して、じきじきに教育されることは原則としてはない。しかし、委ねたもうたとはいえ、人間の恣意に任せておられるのではない。御言葉を与えて、これによって行なうよう命じたもうのである。どういう人がこれを神から委託されるかは後ほど考察する。 この委託を受けた者には責任がある。神が教えたもうということは重要であるが、人間がしなくて良いという意味にすり替えてはならない。
 さて、神の民として全うされるとは、二重の観点から見ることが出来るであろう。そのうちの一つは、個々の信仰者において見られることであって、彼が信仰の生涯を初めから終わりまでやり抜かねばならないということである。そしてもう一つ、神の民は、群れとして、集団として、歴史の中で一貫して立ち続け、戦い続け、ついに終末に達するのである。
 ところで、個々の信仰者の成人することについても二つの点が見られる。第一段階においては、神の民として歩むことが出来るようになるまで、初歩的な手引きをされることである。それを「全うされた」状態と言っては問題なのだが、エペソ4:14に「私たちはもはや子供ではない」と言う通り、子供から大人になって、一人前の判断を持つキリスト者なのだ。同じように、エペソ2:19に「あなた方は、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族である」と言われるように、先にはイスラエルの国籍がなかったが、今は、神の家族になっている。ここに至る教育は具体的に言えば、信仰告白に至らせるまでのカテキズム教育である。
 第二に、地上の歩みを終えて神の国に入ること、キリストの来臨、あるいは神の国の到来まで信仰が持続されて、そこに受け入れられること、これが神の民として全うされることである。したがって、教育は神の民が地上にいる最後の日まで終わらない。百里を行く者が九十九里まで行ったところで挫折したなら、行程の殆ど全部を歩いたにも拘わらず、何もなかったのと同じなのである。救いの道では「繰り上げ」や「四捨五入」はない。これは特に宗教改革とその次の時代に、教会が重要性を確認した遺産である。
 今、二つの面から神の民の教育を捉えたが、一般に、第一のことが「教育」であると考えられやすい。教会の教育も年少者を対象とするものを指している場合が多いのではないかと思う。しかし、それだけで終わるものでないことは、少し考えて見れば分かるはずである。一般の教育においても、生涯に亘る教育が必要だという考えは昔からあったし、現今ではさらに盛んになっている。一般社会が年少の間だけの教育を考えていた昔、教えることが量的に少なかったからかも知れないが、比較的低年齢で一人前に扱われ、労働が課せられ、自立を求められた。12歳になれば大人の仲間に入れられた。今日では、自立する年齢はもっと高いと考えられている。すなわち、自立させる年齢とは、決まっていない。
 神の民の教育においては、この点でかなり違うのであって、前述したように、基本の教育を終われば、既に成人しているという面があるとともに、最後まで未熟だという面があるのである。だから、生涯に亘って教育が必要であるということは、非常にハッキリしている。
この生涯に亘る教育は、先にも触れたところであるが、当然、二つの形態を取る。すなわち、個別的な教育の形と、集団教育の形である。個別教育は本来は対話による個別指導や牧会、また自分で自分を教育する力をつけさせる形になる場合が多い。集団教育としては、教育という形態を取らないで、礼拝の説教で行なわれる場合もあり、教育の形を取るものとしては、カテキズム授業あるいはカテキズム説教という形、また説教でない教育プログラムによることもある。
 神の民として生き始めても、終わりを全うすることがないかも知れない。そういうことにならないように、地上の歩みを神の国に繋げなければならない。それは必ずしも「教育的」と意識される働きでなくても良いと思う。通常の教会生活、すなわち、主の日の礼拝を中心と
する生活において、またその他あらゆる機会に、神の言葉によって養い育てられ、首なるキリストに達せしめられて、ついに御国に入るのである。
 しかし、通常の教会生活の指導に際して、指導する者には、信仰の終わりを全うさせようとする意図は十分明確かつ堅固でなければならない。また、そのような健全な通常の教会生活を営ませるための休みない心遣いが必要である。この点、今日の教会は一般的に言って、教育的に欠落した面がある。終わりまで持続していないケースが多過ぎるし、それを意に介してもいない。そのように、個々のキリスト者の信仰の生涯の終わりを全うさせることが不可欠であるが、それだけでは済まない。信仰の生命を次の世代に受け継がせるための教育もしなければならない。世代間の継承が必要なのは、終わりの日が来ないうちに一つのジェネレーションが終わって、約束への期待を次の世代に繋げなければならないからである。その約束が変わらぬものであることも重要な点である。

 
 2 一つのジェネレーションの中での生涯教育

 上に述べた通りで、信仰は生涯持続してこそ意味あるものである。にもかかわらず、往々にして終わりまで持続しない場合がある。旧約においては、神の民が神自身によって滅ぼされたり、外敵によって滅ぼされたり、自分自身によって腐敗して消滅する幾多の例がある。これは福音書と使徒書簡では、「実を結ばぬ」とか、「試みに負ける」とか、「躓く」とかいう表現で警告されているものである。これが不可抗力によると言うほかない場合もあり、終局的には見えざる永遠の選びのありなしに帰せられるものである。引いては、人間の責任を不問にする方向で処理されることが多いと思う。
 しかし、見えざる選びは、隠されていて見えないのであるから、自明の事柄であるかのように責任放棄の根拠に利用することは、許されない過ちである。躓かせる者の責任が問われることを主イエスは教えておられる。そういうわけで、信仰の中途消滅を如何に克服すべきかは、教会にとって終始実践的な課題であった。
 理論としても重要であることを教会は意識しているので、「忍耐」とか「堅忍」という項目の教理、また勧告は、最も古い時代から重要視されて来た。しかし、勿論、何に立って忍耐するかが先決であって、意味のないことについてやみくもに忍耐を強いられては、破滅に行くほかないであろう。だから、忍耐の根拠となる神の確かさが先ず教えられなければならない。
 終わりまでの持続を積極面で推進しようとするのが教育である。試みや躓きに先回りして、これを乗り越えるように備えさせる教育が、たゆみなくなされなければならない。このことは信仰入門の段階におけるカテキズム教育において遂行されるのであるが、それ以後は教育という特別なプログラムを必ずしも持たないで、また、「持続」の教理条項の確認だけでなく、普段の生活の中の御言葉とサクラメントに養われて、キリスト者の徳性として身につけさせる。生涯教育として教理教育の反復をすることは意義あることであるが、意図的に教えるのでなく、自然に身に付くように、通常の説教の中にこの要素を盛り込んで置けば良いとされている。
 先にも論じたように、信仰の持続は宗教改革の教会がその重要性を新しく認識したものであるが、実際問題として起こっている危険は、この要素への顧慮を弁えない説教が現代ではかなり横行していることである。説教を聞く側では説教の要素が満たされているかどうかの判定は通常しないし、出来ない。しかし、説教をする側では考えて置かねばならない。にもかかわらず、それだけの視野を持たない説教者が多いという事実がある。
 それは終わりまでの道程を走り抜くのでなければ信仰と言えないという基本を忘れ、教会に課せられた使命をそこまで指導すべきものとは捉えず、現世の中で、あるいは刹那的に完結する生き甲斐感、満足感を与えることを目標にしている説教姿勢である。刹那的な充実感や安心感を与えることしか考えていないから、充実感の喪失や希薄化が起こって来た時には、ネタを取り替えることによってしか対応出来ない。そして種が尽きると、満たされない人を放り出す、あるいは説教そのものを放り出す。こういう事態を予防するために、キリスト教信仰の根本的建て直しをしなければならない。説教者自身が救いの確かさを把握し、救いの発端から完成に至るまでの全行程に対するパースペクティヴを具えた認識を持つようにすべきである。すなわち、それだけの教理項目を把握していなければならない。説教者の神学教育の問題である。

 
 3 次のジェネレーションへの伝達

 キリストが速やかに来られて、万物の終わりが来ると信じられているところでは、次のジェネレーションという考えは成り立たない。そういう状況でも教育は行なわれる。そこでは前項で述べたような教育が行なわれる。子供に対しても世継ぎとして教育するのではない。キリストの再臨を迎えるのが次世代あるいはそれ以後の世代であると意識する時に世継ぎを教育するという意識が成り立つ。砕いて言うならば、自分の死後、自分に代わってキリストの来臨を迎える者を育てる。もし、その教育に失敗したならば、神の民は途絶えるのである。
 この意識が明確になった時、その世代の神の民は自分を教えるのでなく、自分に代わる者を教育し始める。その意識を持つのは、第一に親たる者である。親として第一に肉の親があることは言うまでもないが、肉の親でなくても親はある。通常は法的な縁組みという手続きを経て親になる。このようにして親に特別の教育権があると自然法は認めるが、神の法も第五戒においてその権威を認める。これが第一義的な教育担当者である。
 「父母を敬え」とは「あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」と説明される。「長く生きる」とは、単に地上的祝福を言うのではなく、神から賜る地を所有し、それを終わりの日まで継承して、来たるべきお方に返すという意味までを含むのである。教育権は肉の両親についで、両親の同世代人またその先の世代にもある程度与えられる。したがって、年長者に対する敬意が命じられる。「白髪の人の前では起立しなければならない」(レビ19:32)。ただし、両親の権威ほどハッキリしたものではない。共同体の中で教育の職務を持つ者に尊敬が帰されたことは当然であるが、そのような教育職の身分保障という意味で権威が与えられるものではなかったと思う。
 すなわち、権威が保証されているから教えることが出来るというのではなく、教えられる御言葉そのものに権威があるから、付随的に教える者も尊敬される、ということであった。世における権威付けという意味ではないが、御言葉を語るべく命じられる任職は、教育権の基礎である。牧師、教師たるものはこれに基づいて教育を行なう。
 現世代が次世代に語り伝えることの大切さはかなり意識されている。しかし、そのまま肯定し、強調していては危険である。すなわち、一般に人間の共同体では、自然に、あるいは人為的にこういう教育をして、共同体内の同質化をはかっているのであって、教会の教育は、ただそれだけのものに終わってはならないのである。
 共同体内部では、次世代を同化することに教育の最大の目的を置いていると思う。言語、風習、価値観、美意識、それらが先の世代と同じにならなければならないと考えられている。だから、これらの点で次世代が同じものにならなかった時には、教育は失敗したと言われ、先の世代には喪失感がある。これが今日の日本社会の中に見られる深刻な現象である。
 かつては、古い世代のものを押し付けることが教育の主たる内容であると考えられていた。日本では、それが1945年に崩壊したので、旧世代は自分のものを与える自信を失なった。その自信喪失を「次世代への期待」と言い換えて格好をつけて来たが、信念はな
かったから、教育の無気力化、無責任化、荒廃、そして崩壊となった。日本における教育、これが失敗であったのか、なかったのか、失敗だったとすれば原因は何だったかについて論じることの意義は大いにあるが、今日はそれだけの時間がないので扱わない。
 とにかく、一般社会の教育では、教育は、これをする者とされる者の二要素から成ると見られている。第三者的なものはない。かつては第三者的なものとして、架空の権威を教育者の都合に合わせて持ち出すことはあったが、その権威は教育の実質に関してはマイナスになる以外の何の意味もなかった。かつて皇室が権威であり、今では産業界が権威であると思われている。教育環境という第三者的なものがあると言われるが、環境は第三者ではない。教育環境を作り出すことは教育する者の責任の中にあるものと捉えるべきであろう。そのように、第三者を排除して、教育する者と教育を受ける者とが向かい合わなければ、本当の教育にならない。本当の教育とは向かい合いなのだと言って過言ではない。
 ところが、神の民の教育においては、教育する者、教育される者だけでなく、その上に、教育において最も重要な存在である他者、これは第三者と言うよりはむしろ教育の主体というべきお方がおられる。これが人間共同体の中での教育と決定的に違う点である。(先に触れたように、第三者として、教育を妨げるものを挙げることが出来るが、妨げるものについて論じても余り実りはないことを我々は知っている。だから、そういうものがあるという以上は論じないで置く。)
 これは人間の間の「教育する者」と「教育される者」との関係の上に神がおられるということであると解釈すべきではない。基本的には神と人との関係だけがあって、語りたもう神と、聞く民とが向かい合っている。この関係の中で教育という課題が課せられ、それが遂行されると見た方が分かり易いであろう。
 神と人とのこの関係、これはアブラハム以来「契約」という概念で捉えられて来た。そこで、神の民の教育は契約の民としての教育と言うべきである。だから、神との契約そのものについて教え、そのような契約関係にあるに相応しく整えられるための教育であると考えなければならない。
 「契約」という関係について、しばらく考えて見ることにする。契約関係は程度の差がありはするが、イスラエル以外の民族にも見られ、殆ど人類に普遍的にある法思想に基く事柄である。そのような経験的な事例を比喩として借りたのではないか、という疑問がある。
たしかに、神と我々の関係が契約であると聞くとき、人々は先ず人間間にある契約という関係を考え、それに基づいて神との関係がそのようなものであると理解するであろう。その理解が全てであるとは言えず、それは単に初歩的理解に過ぎず、本質的理解はその後に深められる。
 さらに、神と人との質的な無限の隔たりを考えるならば、相互に対等に義務づけされることを前提とする契約関係は成立不可能である。この隔たりを完全にカヴァーする機能を有する「仲保者」が立てられない限り、そして旧約のもとにあってはそのような仲保者は象徴として示されただけで、明確な形では提示されていないのであるから、契約というのは比喩ではなかったかということになる。
 しかし、その旧約に見られる限りで考えても、神と民との関係を言い表わすものとしては「契約」という事象以上の、的確また適切なものはないのではないか。また、契約という言葉を使うことによって何か不都合が生じるかというと、確かに契約としては特殊であるが、契約と呼んではならないケースではない。
 神についての知識を教えるという言い方は、間違いではないと思う。しかし、神についての知識が、対象として捉える捉え方で終わってはいけない。神との関係、契約関係が教えられなければならない。神の絶対性と、契約の相関性は矛盾すると指摘されるのは尤もな面があるが、絶対者である神が御自身を敢えて相対化したもうというところにこそ聖書の言う「契約」の深い意味がある。だから、「契約」という表現が誤りではないかと恐れる必要はないと思う。
 さて、そのように契約を教えることが教育の重要な点ではあるが、教育を通して契約に入るのではない。契約の中にいる事実に教育によって目覚めさせ、自覚に伴って契約の中にあるに相応しく整えさせるのである。ここで教え導く者は「教育者」というよりは「教育助手」と言うべきであろう。助手は真の意味の教育主体たる神の意向につねに従わなければならない。
 実際問題として最大の危険は、教育助手が助手である己れの分際を忘れて、自分が主体になり、教育を通じて次世代人を自分に同化させてしまうことである。これは意図通りに行った場合、成功のように見られるだけに危険である。失敗した方が良いと安易に言うべきではないが、十分気を付けたい。つまり、我々はキリスト教社会の担い手を育て、キリスト教社会を持続させようとしているのでなく、神の民が結集されて建て上げられるために仕えるのである。人間の集団が出来ることを目的にするならば、それは教会の危機である。
 この危険は、教育の業に携わる者が十分な弁えを持っていたならば防ぐことが出来るのではないかと思う。では、弁えるべき点は何か。幾つかの点に纏めて見よう。
 i)神の民の教育は神からの委託である。
  人間の自発性、内発性によるのではない。そのような要素を極力なくさなければ、人間集団の営みと同じものになってしまう。
 ii)教育の務めに立てられる者は任命によって立つ。
  任命されるのは第一に両親である。人類社会においては両親の持つ教育的使命また教育権は自明の自然権として扱われている  が、その理論の安易な転用は危険である。契約は自然発生ではない。
 iii)基本的な事項としての契約条項を教える。
  これは聖書を教えると言って良い。聖書とは教会の中で古くから呼び慣わしている通り、旧き契約と新しき契約である。聖書を教え  る時、契約に入れられている者に相応しく立つための教えであることを弁えていなければならない。契約とは要するに神の真実と人  間の真実の結び付きである。神の真実は言葉の真実によって示され、それに答えるのは人間の真実の言葉である。それは信仰の  告白と言い換えても良い。信仰とは神の真実に対する応答であり、その応答は神の真実に依存してこそ成り立つ。
 iv)言葉を教える時、言葉を命ある言葉として伝達する。
  キリスト教は言葉の宗教であるが、言葉は真実でなければならないにも拘わらず、偽りの言葉になる場合もある。一つは、言葉その  ものとして間違う場合、すなわち誤謬の教えである。これを排除し、誤った教えを捨てて正しい教えに立ち返らせることが必要なのは  言うまでもない。第二に、言葉としては定式通り間違いなく語られているけれども、真実には語られていない場合がある。言葉を語る  ことが演技になっている。それでも、演技は演技としての意義を持つのではないか。なるほど、芝居の中の科白が我々を感動させる  ことはある。しかし、信じる者の言葉を、信じない者が信じる者に成り代わって語ることが許されるかどうか。演技であるということが  分かっている場合は、聞く人は語られている言葉を演技者の人格から引き離して、言葉そのものとして聞くから、欺かれることはな  いかも知れない。しかし、信仰の言葉は信じて語るべきものである。信じないで信仰を演技するならば欺きである。言葉は証しを伴う  のであるが、真実でない言葉は証しを持たない。その証しは内と外とにあるが、一言でこれを命と言うことが出来るかと思う。それの  ない言葉が教えられても、命を継がせることは出来ない。

 
 4 前のジェネレーションからの継承

 次世代に伝えるという姿勢は、受けた姿勢を反転したものではなく、先の世代から受け入れた姿勢そのものである。「私が最も大事なこととしてあなた方に伝えたのは、私自身も受けたことであった」とIコリント15:3に言われる通り、先の者から後の者への一貫性が必要なのである。伝える内容が同じであるだけでなく、伝える姿勢も同じなのである。
 大雑把に言えば、キリストから使徒へ、使徒からその後継者に、その後継者からさらにその後継者へと、同じものが手渡され、こうしてキリストが再来される時、伝えられた通りの彼に、迷うことなく出会うのである。このような首尾一貫性を守ることの重要性を認めるべきであろう。
 ところが、このような伝承理解をこのまま受け入れていては問題である。すなわち、伝えられる間にだんだん増えたり減ったりして違って来て、しかもその違いに気付かないで、「これは主から伝えられた尊ぶべき言い伝えである」という権威付けが独り歩きすることがある。そのような主張が弊害を生み出していても訂正が出来ない。この過ちに気付いて、これを改めたのが宗教改革である。
 ここには二つの主張があったことが読み取れる。                                                                                                                 
 第一は御言葉を口頭で伝承された形においてでなく、書かれた形においてこそ聞き取ることである。これが、伝統でなく聖書、という主張になっている。伝統の末流を汲み取るのでなく、源泉から汲むのである。すなわち、後の時代の人も聖書から直接に汲み取るのである。
 第二は、伝えられて行く時、一次、二次、三次、というふうに伝承され、したがって次第にオリジナルなものから遠い、間接の間接の伝承として薄められて行くことにならないで、遥か後の世代においても、一次的な伝達と同等な直接の伝統が約束されていることが確認された。つまり、聖書解釈における御霊の働きの理解である。
 こういう解釈は伝統の軽視を生んでいると言われる。プロテスタントの中に先の世代から受け継いだ本質的なものを軽んじる人が比較的多いことは事実である。しかし、それが宗教改革の精神なのではない。宗教改革も伝統をある意味では重んじているが、カトリックの考える伝統主義を一部分、不徹底な形で受け入れているというふうには理解すべきでない。宗教改革の持つ伝統の精神は「公同の教会を信ずる」ことの中にある。公同の教会、すなわち一時代の教会でなく、全ての時代を貫いている教会を信じ、その中に自分が置かれていることを信じるのであるから、当然、既往の時代から生命を受け継いでいるという意識がある。

 
 終わりに 神の言葉による神の民の共同体の形成

 ここまで、神の民の教育における時間的な繋がりの側面に重点を置いて論じてきた。これが当然第一に重んじられなければならない。しかし、第二の事項ではあるが、神の民には世界を包む交わりの広がりがある。世界的な広がりの中にあることを忘れると、神
の民は自分たちの属する真の国籍を忘れて、地上の国民国家の中に吸収されてしまう恐れがある。旧約の時代には神の民は一国民であったから、他民族にまで視野を拡げることはそれほど必要とは感じられなかった。しかし、新約の民は幾つもの国や国語にまたがっているのであるから、国境線の向こうにいる神の民を覚えなければならない。この点を忘れないための教育が不可欠である。
 にも拘わらず、新約の民の間では、世界に広がる神の民について教えることを怠ったから、教会はそれの置かれている国の視座で世界を見ることになってしまった。日本の国では、戦争罪責を手がかりとして、教会にこの点の反省が多少あるようであるが、徹底していないために、地上の国を越えたキリストの民という意識の形成は未だに殆どなされていない。日本の教会だけではない。
我々が「我は公同の教会を信ず」という告白を本当に行なっているなら、実質「日本の教会しか信じない」というのと同じになってしまうような教会の捉え方を乗り越える教育を始めなければならない。実際問題となると、さまざまの困難を乗り越えなければならない。            しかし、その困難に直面して初めて、教会が教会であるためにクリアしなければならない項目を棚上げしていたことに気付くであろう。
このことを付け加えて、私の講演を終わる。

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