誤解がないと思うが、「キリストの苦しみが、実はあれだけでは足りなかった。その足りないところを私が苦しんで補って行かなければ、あなた方の救いは実現しない」という意味ではない。キリストは全き贖いをなしとげたもうた。十字架の死に至るまでの服従の完成は救いの出発点である。我々一人一人は教会を通じて与えられるその贖いに与かって行けば良いのである。ただし、教会が教会としての機能を果たして行くためには、苦しみがなければならない。それを、我々は自らの肉体の苦しみをもって担って行くのである。すなわち、教会にある欠けは、批判し、あるいは非難するものでなく、私の苦しみによって補って行くべきものである。
さて、近年、私は日本キリスト教会の批判をあからさまに語るようになった。以前はもう少し穏やかな言い方をしていたと思う。欠陥が目に付かなかったわけではないが、人のことを批判する暇があるなら、自分自身を鍛え上げるべきだと考え、そう実行していた。今では老化が進んで、鍛えてももう伸びられなくなったので、自分を向上させることは諦めて、矛先を人に向けるようになった。そういうわけだから、自己批判をして伸びる余地のある若い人は、老人の真似をしても良いが、先ず自己を鍛えてもらいたい。
私の場合、このように変わったのは人の影響かも知れない。すなわち、私が感じるのと同じように日基の危機を感じて、現状批判をする声が以前よりは高まっている。私がその動きに乗せられ・巻き込まれた面があることは否定出来ない。徒党を組んで気勢を上げる心なき業はしないつもりだが、そう見られるかも知れない。そう見られることを恐れて、黙るということがこれまではあったが、もうそれは出来ないと思っている。大まかに言うならば、これまで声を上げていなかった若い人たちの間で、これで良いのかと叫ばれるようになった。責任ある批判は義務だと感じるようになった。
とにかく、私にしろ、私の仲間にしろ、批判することによって日基を良くして行こうと意図しているのは偽りないところである。だが、批判によって良くなるわけではないという現実も分かっている。だから、言いっぱなしでなく、祈って、緻密に考えて、日基が真に良くなって行くような言い方で批判しなければならないということも心得ている。
概括的に論評するならば、封建的な社会の中で物の言えなかった日本人が、表現能力を身につけて来たという面もあろう。また一面、日基そのものの状況が黙って見過ごすことが出来ないほど、ひどくなったという現実があることも確かである。
すなわち、近年、世界と教会、そして日基の悪化のスピードが高まって、改善が間に合わない。これまでは控え目にしていたが、もう見るに見かねるようになる。そこで、嫌がられると分かっても、叫ばずにおられない。叫んでも無駄ではないかと躊躇いつつ、それでも叫ぶのを止めないのは、ここで沈黙しては、自らが教会の主から捨てられてしまうと感じているからである。
「世界と教会、そして日基」という言い方をしたが、これらの間に連動する関係があることが大変に気になる。世は暗いが教会は光りを掲げている、とか、キリスト教全体は意気消沈しているが日基は生き生きしている、というなら、憂えることはない。しかし、この世がおかしくなる時、日基もおかしくなって行く。これは憂えるべきことでなくて何であろう。
そのように、今日、世界と教会が、したがって日本キリスト教会が、たいへんな危機に直面している状況があるが、それについては、今日の主題ではないので、語ることを省略させてもらう。たしかに、その危機が何であるかについて、深く考え、鋭く論じなければならない。だが、それを論じ始めると時間が足りないし、私の力では危機の全容を捉え尽くせないほど問題は大きい。
そこで原理的な論及の不足に不満が残るとしても、これは別の機会に掘り下げることにして、今日は当面の問題を考えて行くことにしたい。
日本キリスト教会の危機とは、我々日基が日本キリスト教会であることの意義を見失った自己喪失である。50年前、日基の中では、日基、日基と盛んに言っていた。日本キリスト教団から離脱したばかりであったから、「日基とは何か」としきりに論じ合わずにおられなかった。今ではそんな議論が殆ど聞かれず、そういう議論を持ち出す人がいたならば、座が白けるだけである。昔を知っている人の間では、この現象が一様に大きい不満また憂いなのである。しかし、その不満が訴えられても、分かろうとしない人が大部分だし、不満を語る人も、行き詰まりからの脱出口を見出すことが出来なくなっている。
日基、日基、教会形成、教会形成、と言い過ぎたのではないかとの反省があったことは確かである。その反省が当たっていないわけでもない。キリストの教会であるよりも、日基であることの方が大切に見られているのではないかと心配になるほど、初めの頃は、日基、日基と熱っぽく叫んでいた。そして議論の実質はお粗末であった。ハッキリ言って神学の勉強が質量ともに不足していた。だから、日基、日基と言わなくなっただけ、今ではキリストの教会であろうとの意向が強くなったかと言えば、そうではなく、キリストの教会であろうとする熱意はさらに冷え切ってしまった。
それは何故であるかと言えば、第一に、根本的なところで、キリストの主権が教会の中に透徹するようには宣べ伝えられていなかったからである。キリストの主権が宣べ伝えられておれば、キリストの主権を明確化するために、一団の告白する教会、日本キリスト教会という教派を、主に向けて熱心に建てて行かねばならないという意識がハッキリしたと思う。キリストが主でいますことが、シッカリ宣べ伝えられていたならば、主の民らはその目標に向けて励んだのである。励んでも励んでも、事態は一向に良くならず、ますます苦しくなる、ということはあったかも知れない。しかし、主の教会は、そのような苦しみが大きければ大きいほど、主の約束の言葉に寄り縋って、祈りをさらに盛んにしたのである。だが、その祈りが今や低調なのである。祈らなければならないと訴える人が余りにも少ない。
我々の欠陥を分かり易く示してくれる具体的な鏡は、戦争中の教会の在り方である。これをまともに見れば全くヒドイと感じないではおられない。しかし、それを見ないようにしておれば、自らの貧しさが分からない。末期の病状であるのに、呑気にしている患者のようなものである。
戦争中の教会が情けない有様であったことは承知している、と言う人は若干いると思う。私はその人たちが皆本当に分かっているのか、と問い返したい。左翼の人たちが戦争のことを反省するのと結局同じことしか言えないのではないか。――私自身は、左翼の言うことが間違いだとは思っていない。ただ、こういう危機の時代に、教会には教会として叫ぶべき教会固有の自己批判がある。例えば、旧約の預言者の叫びである。それが聞こえて来ないことが心配なのだ。神の民なら、神の言葉によって立っている。神の言葉に立つ者なら、今の状況の中で、それに相応しい叫びを挙げるはずではないか。
教会が神の言葉に立っていることについての自覚と反省がないのだ。このことについての神学的反省のお座なりさを先ず挙げなければならない。教会が国家の戦争体制に呑み込まれていたことの反省は一応論じられている。しかし、教会外の思想家・評論家たちもその程度の反省はしていて、彼らの方に教会の反省よりも真摯で鋭利なものがあると言えるほどである。教会の反省はむしろそれに引きずられているに過ぎない。その反省はそれなりに良いとしておいても、教会固有の考えに立つ反省はどうなのか。――これが極めて稀薄なのである。
教会の反省としては、「教会と国家」の関係の神学的把握の訓練が出来ていなかったことを直視しなければならない。したがって、戦後はその面の理論強化をすべきだった。
日基はこの面では日本で一番よくやっていると言えなくはないが、正確に言えば、そのことについて考えている人が若干日基にいるというだけであって、日基全体として統一的な強い意識を持っているということではない。
この面での反省が本格化すれば、1940年に国家権力のもとで教派合同をしたことの見直しが始まるのは当然である。ところが、日本における最大の教派である日本キリスト教団では、その点に誰も触れない。触れたなら、教団に留まる意味がなくなり、出なければならなくなるので、言わないのだ。彼らは、教団の現状に対する激越な批判をする人も含めて、合同教団の存在を前提にして物を言う。この前提が崩れると自分たちは立つ瀬がなくなる(と彼らは思っている)。
この事情をハッキリ指摘することが日基の使命だと思う。日基は初めのころは言っていた。しかし、言うと、古傷に触れられた人は激怒する。それに対抗出来るだけの原理を踏まえ知識を蓄えていないと太刀打ち出来ない。日本キリスト教会自身、あの時は屈服して合同に参加した。そのことの反省が徹底していないから、自分を越えることが出来ない人に他の人を越えることは出来ない。それで、こちらもだんだん言葉の調子を下げるようになった。使命の置き忘れである。
こういう状況を包み込んで来た世界的風潮がある。それは「エキュメニズム」という名で呼ぶことの出来る潮流である。第二次大戦以後の世界のキリスト教を特徴づけるものがこれであった。苦渋に満ちた長い準備期間を経て、エキュメニズムが日の目を見、神学的主流となったのであるが、その準備過程について今は省略せざるを得ない。ところが、準備の苦労を重ねて来た人たちの持っていた開拓的精神と本質的把握は、主流派的主張となったものを引き継いだ人の間では、必ずしも明確・健全ではなくなった。すなわち、エキュメニズムは、第二次大戦後の世界に強く働いた戦争回避、緊張緩和の機運と一脈通じる、ヒューマニスティックなキリスト教と類似のものにスリ変わって行った。
今日ではエキュメニズムが活力と生彩を欠いたものになったことに気づいて、見直しを始めなければならないと思う人が現れている。結論的に決めつければ、エキュメニズムは、平板で微温湯的な多元主義的キリスト教になり、しかも微温湯的なままに硬直化し、キリスト教の自己批判の原点となるだけの深みと鋭さを失った。活力回復の余地がないとは言えないが、今では気迫の欠けた単純な運動原理のようなものになり下がっている。すなわち、真理のためには命を懸ける、という気迫の抜けた、今日の合同教団の現状維持精神の受け皿に適合したような原理になり、国家による統合を理論的に批判し、実践的に対決するだけの足場の確かさも、理論の鋭さも持たない、受容力だけ持ったものになった。
日基が合同教団から分離したことは、当時、エキュメニズムという時の流れに抗している、時代遅れの愚かな業と見られた。これではジリ貧になって自滅すると評する人がいた。この辺りの事情についての日基内部の理論は、一応のことを教団に対して言うには言ったのであるが、現実の説得力や説得意欲は弱かったから、エキュメニズムからの孤立か、自己の位置を忘れてエキュメニズムにスリ寄って行くかになってしまう。最初の頃は前者が強く、60年代後半からは後者に傾く力が強くなった。日基の精神の衰えが現われたのは、日本が高度経済成長の時代に入った時である。金回りが良くなると、フッと言論が立ち消えになった。精神の貧困が早速生じたのである。
上に述べたことは、言葉を換えて言うならば、「アイデンティティーの欠如」である。
アイデンティティーの欠如とは、自分が何であるかが分からないことであり、自分が何であるかを問おうとしないことである。それがますます深まって来た。今日の日基の危機はこれであると私は思っている。日基だけがそうなのではない。他教派もおしなべてそうなのだ。他教派の場合は別として、日基はそれを問うて行くことが出来る出発をしたのに、していない。
一般的に言えば、「危機感の希薄化」である。余命僅かの重病人が病気の実態を知らないままはしゃいでいるようなものである。私の印象で言うことだから、確かでないかも知れないが、日基には危機感が特別に稀薄なのではないかと私は感じている。他教派の方が危機感を抱いているように思われるのである。他教派とは、大まかに言えば、日本キリスト教団と福音派である。そのどちらにも私は個人的に知り合いがいるのだが、危機を深刻に感じて、何とかしなければならないと思っている人はどちらにも少なくない。日基にはそれが少ない。日基は日本のキリスト教会の中でも名門だから、一番シッカリしているという妙な安心感や自尊心があるように見える。だから、自分が何であるかを問おうとする人が非常に少ないのである。
それならば、問わない人に問うことを教えれば良いではないか。問う意欲を起こさせるような説得をすれば良いのではないか。それはそうなのだ。しかし、教会が「自分は何か」と問うためには、問い方に気を付けなければならない。適切な問い方に則って問わないならば、答えが出て来ないばかりか、問う方も問われる方も壊れてしまうのだ。答えの出て来るような問い方を紡ぎ出すための洞察と知恵と学びの努力、苦しみを補うこと、それが神学であるが、その神学が日基では衰退してしまった。――何故衰えたかについて、私なりに考えていることはあり、神学の衰退を克服する実践も、苦しみの足りないところを補うこととして、自分自身には課して来た。どうすればそれが出来るかについても、公けに、そして若干攻撃的に論陣を張って来たのである。しかし、私が頑張ったところで、力が足りないためであるが、神学復興の実績は全く上がっておらず、衰退の克服は出来ていない。ただし、私はなお諦めてはいない。
とにかく、日基では、自分が何であるかを問う精神が萎縮してしまっている。だから、自分の頭で考えることが出来ないままに、人の書いた物を読んで、出来合いの理論を借りて来て、それが自分の考えであるかのように錯覚している。今の日基には物書きが少なくて、主に教団の人たちの書いた書物や論評しか読んでいないから、考え方も教団風になっている。
教会が健全に建て上げられるためには健全な神学の書物が生み出されなければならない。これは自明のことであるが、その常識が日基にはない。私は自分では物を書く修練を重ねると共に、人にも勧めて来たが、聞いてもらえなかった。その中で近年になって私の言うことを聞いておくべきであったと反省している人もいる。
先に、教会と国家という二極について考えることの手薄さを指摘したが、ここに目をつけるならば、日基の中の人の神学の自己意識の程度を測定することが出来るのである。
もっと端的に言うなら、靖国問題に神学的に取り組んでいるかどうかで、分類が出来るのである。ただし、神学抜きで、教会と国家の関係としての弁えなきままで、靖国問題に取り組んでいるケースと混同してはならない。
別の面から見直すならば、物を考えない現代の風潮に教会が負けてしまったのである。
社会全体が物を考えないようになったのだから、教会が物を考えさせる使命を取り戻さなければならないというのがまともな考えではないかと思うのだが、物を考えない世間におもねって、考える必要のない、軽い話しで人を引きつけることが伝道だと思っている人が教会には多い。
このようなアイデンティティーの欠如が問題の全てであるとは言わない。だが、問題のかなり大きい部分はここで捕捉されると思う。
日基が何でなければならないかを論ずることは、日基の中だけで通用する議論ではない。それは、基本的には、公同の教会が何であるかを本質的に論じることであり、他の教派においても通用するだけの理論を立てねばならない。日基の良いところと言われて来た点を次々と並べ上げ、教会の中で伝説化した物語りを得意げに飾り立てて論じることによって、なにがしかのお話しは書き上げられるとしても、「それがキリストにとってどうなのか」と問われるならば、お話しは全部が崩れ去るほかない。
教会についての学び方が日基では身に付いていない。だから、日基の人が「教会はこれである」と言っても、精神主義を理解する人に評価されることはあったとしても、それ以外の人には通じなかった。日基の精神主義の中に良いものがあるのだが、それでは通用しないから、世界に通用する学問的な方法で論じなければならない。学問としての論理性を構築して行くこと、学問訓練の方式を身につけることが必要なのである。それは、古代教会と宗教改革を学ぶことである。
ここに第二弾として打ち込まれるのは、日基が、戦争中どういうことをしたか、という追及である。詳しい議論はしないが、私がいつも言うように、戦争責任を自ら問うことは、教会の問題性を明らかにするためには、最も有効な追及の最短距離の道であると思う。だから、ハッキリ言って、この問題を真面目に考えているかどうかで、色分けが出来るほどである。
実は、上に述べたような安易なやり方で日基精神を昂揚しようという試みをする人が今も跡を絶たないし、そのような話しを喜んで聞く善良な人が多い。そういう善良さがなければ、我慢できずにキレてしまうような、月並みの談話が蔓延りすぎる。例えば、中会関係の催し物の中にこの種の傾向を示す主題講演が繰り返されるのである。こういうものは神学ではない。
しかし、戦争中の教会の実態は、経験した人には思い起こされ、また覆い隠すことの出来ない醜態であるが、見ていない人には、想像することも出来ないほど困難であろう。
その困難を乗り越えて事実を学ばなければならないが、やはり、聖書から聞いて学び始めるのが基本である。
教会が何であるべきかを聖書に聞きつつ熟考して行くならば、こうでなければならないという教会像が浮かび上がる。それをさらに絞り込めば、我々の追求すべき日基像になって行くのだ。それは、逆に言うならば、こうあってはならないような汚点を教会像の中から次々抹消して行くところに浮かび上がって来るものでもあって、勿論それを人間の感覚や好き嫌いによって遂行するのでなく、御言葉によって検討して行くのであるが、そうするならば、或る程度の線が出て来る。
今、「或る程度の線が出る」と言ったが、その言い方をするとき、そこには幅があって、徹底的に、一本に絞り込むことは出来ないという含みもあるわけである。聖書に聞きつつ探って行く時、「公同の教会はこうだ」という線は出る。だが、具体的な選択が必要な場合、選択の示唆は聖書から必ずしも直接に与えられない。だから、複数論併記というか、違いを許容し合っておく、一種のエキュメニズムに落ち着くことになるだけではないか、と考えられるかも知れない。この論法には否定しきれないものがあるが、それでは、教派における教会形成の違いは神学の議論にはならないのか。
ここまで考えたことはそれで良いとして、もう一つの切り口から斬り込んで見ることによって、先の考え方を補えるのではないか。それは我々に信仰が伝えられた実際の経路から考えて行くことである。信仰は神によって、御言葉をとおして、与えられたものであるが、御言葉は同時に、神の立てたもうた器を通して、特定の方式にしたがって、人から人に伝えられる。これが聖書の示している神の民の間における伝達方式の基本である。信仰とは受け継ぐべきものだという重要な捉え方に注目したい。ただし、「伝えられたままに信じる」と聖書は言うが、伝えられたことを鵜呑みにするのでなく、神の言葉である聖書によって検証されなければならないというのが宗教改革でハッキリした原理である。無批判に受け入れるのではない。聖書に反することであれば、受け継ぐことは出来ない。
伝えられたことのうち、破棄しなければならない部分が少なからずあったことは確かである。しかし、聖書によって直接支持されているのではないとしても、聖書も否定しない部分がある。我々が信仰的良心に照らして恥じることがない、と信じて営んで来た具体的信仰生活は、破棄出来ない。そこに信仰の生命が掛かっているのであるから、それを破棄するならば、信仰の具体性を破棄することになり、具体性を捨て去ることは、信仰の生命の喪失になる。この場合、信仰を伝えてくれた機関の名前などは、実体的というよりは表面的であるから、否定しても、変更しても、多くの場合、致命的な喪失にはならない。けれども、守らないならば、信仰が急速に、あるいは徐々に崩壊するであろうと思われるものもある。
これを実際について言えば、教会秩序の守り方、制度がそれである。週の第一日を礼拝の日として守る慣習もそうである。安息日を他の日から分離して聖なる日としようとしたユダヤ人の守り方を主イエスは退けたもうた。しかし、我々が日曜日の礼拝を聖書的根拠なきものとして否定するならば、信仰は死んでしまう。また信仰告白を重視し、信仰的訓練を重んじるという姿勢を忘れたならば、信仰、信仰、と言っていても、その信仰がわけの分からぬものになる。
教会秩序としては、長老制という制度があって、これに基づいて我々は養われて来たのであって、これを否定するならば、信仰の具体性は徐々に消滅する恐れがある。たしかに、長老制の実際面は問題だらけである。長老制でない方が良いのではないかと思われる場合があることは事実だ。ただし、長老制が悪いのか、長老制を守る守り方が間違っているのかは区別しなければならない。長老制の何たるかを弁えないで、勝手に解釈しているのが実情である。それでも、長老制そのものが立派であるとしても、そこに数々の誤謬が入って来る事実はあるのだから、欠陥がないと言うことは出来ない。だが、欠陥があるからと言って、これを破棄しなければならないと結論して良いかどうか。守り継がれて来たものは守り継がなければならないのではないかと考えて見なければならない。
御言葉に照らして考える時、長老制が間違っているとは言えない。しかし、これと違う制度を採っている教会があって、それが間違って運営されている場合はあるとしても、制度自体が聖書に反しているとは言えないところがある。長老制も断定的に良いとか悪いとか言えない。
とするならば、原則的には、各自、召されたところ、すなわち、主の召しを受けた場所に留まり、召された召しに続く養いによって、主に向って成長して行くのである。換言すれば、母なる教会は子を生み、育て、成長させ、全うさせるまでの職務を帯びているから、母のもとに留まるのである。生むには生んでくれたが、育てることの出来ない母親があるとすれば、子はその母から引き離さなければならないであろう。そういう事態が現実には少なからずあるようであるが、そのことを取り上げていると、今日の主題は進まないから、生みの親が育ての親である正常な場合についてだけ考えて行くほかない。そうすれば、召されたところに留まるということになる。日基で召されたなら日基に留まるのである。留まれない場合は別に考えるべきであろう。
ここで一つ、日基と言っていても各個教会で余りにもバラバラではないかという深刻な問題がある。この問題を放置したままで日基を論じても、無駄ではないかと言われるかも知れない。この問題も他日取り組むことにして今は一応棚上げにして置く。
我々のうちには、日基において主の召しを受けた人だけでなく、転会という手続きによって日基に入って来た人もいる。転会の時には日基の信仰告白を唱えて、すなわち、それを自分のものとした上で日基に入って来る。洗礼のやり直しではないが、信仰告白は新しく受け入れて唱えるのである。告白共同体に入ることの確認はしなければならない。この告白式によって、もともと日基だった人と同格になる。転会という手続きは、手軽に当分の籍を置くことくらいに受け取る風潮が盛んであるが、それは信仰者の生涯に亘って母としての使命を果たすべき告白共同体としての教会という捉え方とは異質なものでないかどうか考える必要がある。告白共同体はやどり人の群れであるとはいえ、流れ者の仮の一時的な宿営ではなく、「天国の門」としての実質を持つべきもの、我々の命をそこに託すことが出来るほどのものである。だからこそ「我は教会を信ず」と告白出来るのである。
以上に述べて来たことは、不十分ながら、我々が日基に属しているのは、絶対的に固定的なものではないけれども、一時的な関わりでないことを言うためである。そういう関わりがあるから、我々は日基の使命に関与している。
教会は世間のニーヅに答えるためのコンヴィニエンスストアーのようなものではなく、教会の主から使命を授かって建てられたものであるから、使命があって立ち、教会の肢には、教会と生命的に連なる限り使命がある。
日基のこの使命が全うされていないから、我々は今日、それを如何に補って行くべきかを学ぼうとしているのである。「日基の使命を補う者」という主題を掲げたが、補う者とは誰かと問われるならば、それはどこかほかの所にいるのを連れて来ることでなく、我々がそれなのである。ただし、私は、我々が全員それだと言って皆さんに奮起を促すアッピールをしようとは考えていない。全員そうであって良いのであるが、焚き付けるような言い方に伴う不健全な結果を考えるから、それを避けたいのである。
使命は主が本人一人一人に授けたもう。我々には或る程度そういう使命が負わせられていると思っている。ただし、自分の判断でそう決めて良いと言うのではない。我々には主の道を備えることが命じられているとしても、自分の使命を自分で決める権限はない。それでは、日基の使命についてどのように考えて行くべきかを論じたい。
教会が信仰者の母であるという先にも述べた比喩がしばしば用いられる。比喩というものは説明のために借りて来たものであって、それ以上のものではない。その説明は前述のように、教会が生み、育て、全うさせるという機能に関することに限られている。教会が母のような存在であると考えるのは行き過ぎである。
教会とは「聖徒の交わり」だという定義があるが、これは比喩ではなく、比喩よりもっと大きい意義を持つ定義である。聖徒とは、神が御自身のために選び別かちたもうたもののことで、それは過去から将来に至るまでの全歴史を覆っている。現在、我々が目にしているだけの群れが教会なのではない。
と同時に、この選び別かたれた聖徒の中に、私が入っている事実の確認を忘れてはならない。他の人が教会の中に真に位置付けられているのかどうかを問うことは、無意味で危険な問いであるが、自分が教会の中にいるという確認は不可欠である。
また、教会が母として我々の上にあることは或る面では言えるとしても、それだけでなく、我々も教会の一部をなしているとの把握が必要である。したがって、我々も一人一人教会の使命を分担して生きている。それは総括的に言うならば、キリストの体たる教会を建てる使命である。今、総括的に言ったことを、実際には我々が細部において担うのである。つまり、人体を構成するのは個々の肢であるが、我々一人一人は教会の肢であると言われている。一つの肢は局部的な使命を果たすことによって、全体の使命を建て上げるのである。
一つ一つの肢には、それぞれの使命が授けられている。目立たないかも知れないが、首なるキリストに繋がっている限り、体の内に無意味なまた無駄な器官は何もない。自分で気づいていない場合はあるが、気づいていなくても、その肢の存在意義は主によって与えられている。それに気づかないよりは気づいた方が良いであろう。
初めに掲げたコロサイ書に「苦しみの足りないところ」という言葉があったが、足りないところが「苦しみ」として捉えられる。体の中に病いがあるならば、本来のあり方としては、肢々が苦しみを担うことによって癒して行くのである。病んでいる局部に薬液を注入して癒すという癒し方が考えられるかも知れない。そして、自分がその薬液を注入する役目にあると思う人が出て来る場合もあろう。そういうことはあるかも知れない。しかし、体にたとえられている教会においては、苦しみを担うことによって癒すという道があると先ず考えなければならない。
意義と機能を持つそれぞれの肢に、主は必要な賜物を与えたもう。主が必要としたもうことと、私が必要を感じることとが一致するのが望ましいから、我々は主の御旨をよく知ることが出来るように御言葉を学ぶのである。こうして我々の一人一人が教会の使命と自分自身の使命を弁える者に成長して行きたい。
さて、日基の使命とは何か。それは教会がその置かれた場所において主の栄光を顕すことである。そのためにこそ主は教会をこの国の中に建てたもうた。この使命を見落として、単に隣人に対する愛の業にいそしもうと言うだけでは、愛という目的の達成すら出来なくなってしまう。すなわち、愛、愛、といっていても、我々の内には真の愛を無にし、偽りの愛に変えてしまうような罪があるから、愛のつもりが、自己愛や自己満足に変じてしまうからである。
次に、主の栄光を顕すということは、我々の心ばえの中にだけあるのでなく、主の栄光を汚しているこの世と自分自身の現実との具体的な戦いにおいて現実化する。その戦いは総括的に言うならば、この時代の中に、この国において、主の教会と言われるに相応しいものを建て上げて行くことである。そういうものになって行くのを阻もうとする力が実際にあるのであるから、その力と戦わなければならない。
そのためにはどうすべきか。先ず、主が教会を如何にして建てようとし、また建てたもうかを知らなければならない。主は天国の鍵である福音を教会に授けて、御言葉によって教会を建てたもうのである。したがって、我々は、主の言葉がよく響き渡るように、そして何よりも、私自身がその御言葉をよく聞いて服従することに努めなければならない。
御言葉が相応しく宣べ伝えられ、また服従されているかと問われるならば、明らかにそうなっていない現実がある。かつて宗教改革の時代には御言葉が改革された全教会で正しく説かれていたが、今日ではそうでない。だから、内にも外にも、戦いを展開しなければならない。それだけの能力は我々にはないから、賜物を加えて下さるように祈らなければならない。主のことを本当に思っているならば、このような戦いの拡がりを捉えるだけの感覚が我々にはあるはずである。
この戦いには共通部分と個別部分がある。共通部分とは日本の国における公同の教会を建て上げることである。それが日基の存在意義である。これは信仰告白を掲げ、その信仰告白を教会の中に実質化して行くことである。信仰告白の実質化が稀薄になって行くならば、教会は崩壊して行く。希薄化させないための戦いが必要である。
個別面で、自分自身がこの戦いの中で何を受け持つのかを問わなければならない。務めは種々ある。これは一人一人違うのである。人のしていることを真似ていては、船の片側に人が集まり過ぎて船がひっくり返るようなもので、何も実りはない。自らの為すべきことが何であるかは、各自が祈って主に問うべきである。
この個別面では考慮すべきことが多岐にわたる。多様性に対応出来るように広い知恵を鍛えて置かねばならない。また、自分のしている以外のことだけでなく、人の務めも理解出来るようにしなければならない。そうした方がよくまた賢く戦えるのである。教会は一つの体であるから、肢々の相互理解が必要なのだ。人の受け持っている務めについて無理解であるということは、要するに自分のことしか考えていないことではないか。
教会が体全体として、また個別の肢々においてよく機能するためには、互いに知り、理解し合い、知らせ合う、ことが大事だと思う。比喩を借りるならば、病気の治療の際、医者は医者だけに分かっている薬を与えたり、処置をしたりするだけでなく、情報を患者にも伝えることが治療に有効だと言われるようになった。その通りであると我々は納得している。戦争をする場合でも、指揮官は兵士に、今この局面で何をするかだけでなく、周辺事情がどうなっているかを分からせた方が、個々人の判断がより良く働いて戦闘を有利に展開することが出来るのである。一人一人がタコツボに入ってヤミクモに戦っていてはまずいのである。
この点で日基の現状はまことに拙い。情報不足というよりは情報を与えない方針なのではないかと感じられる。教会の中では真実の情報ならぬキレイゴトが報告になるから、裏情報が別に必要になり、報告といわれるもにについても信頼がなくなっている。個人の名誉に関わることで、黙っていなければならない部分があるのは確かだが、それを口実として秘密主義を教会内に跋扈させてはならない。
ところで、教会内に蔓延っている秘密主義の主要な原因は、牧師の自信のなさにあると私は思う。自信がないから、裸になれず無内容な権威主義を身に纏うのである。自分の無知が明るみに出ては恥ずかしいから、信徒を自分以上の物知らずの状態に閉じ込めて置こうとする。知識欲があって学びたがる信徒がいると、迷惑がって、陰に陽に学びを妨げる。その結果、ますます信用を失墜している。
勿論、浅薄な知識をひけらかして、躓きを来たらせるケースはある。だから、むやみに知りたがる人、また僅かばかり知ったことを、知ったか振りに吹聴する人に歯止めを掛けることは必要である。しかし、その歯止めは、禁止という形でなく、本人が本当の知識はどういうものであるかを悟って、慎ましくするような模範を示す方が有効である。
教会は小さい社会であるから、人格的関係の中でその無意味さを悟らせることが出来る。巨大な社会では問題が別だと思うが、知ったか振りが通用しない社会では、知ったか振りは一時的に現われるとしても、間もなく消滅するのである。
自信のなさという所に戻るが、これが教会内の道徳に悪影響を及ぼすだけでなく、最も大切な説教を弱体化していることを指摘しなければならない。福音は「大胆に語られる」べきものであるが、その大胆さがなくなった。一応誤りはないと見てもらえる程度のことが語られるに過ぎないのではないか。また、そのような説教が説教として認められ、誰もそれを問題にしないことも問題なのだ。
日基の病弊一つに、国内に閉じこもって世界が見えなくなる閉鎖的性格がある。これは日基が独立を重んじて、外国に追随しようとしなかったことが裏目に出たものと思われる。独立が悪いとは言わないが、半面に欠陥があったことを見落としてはならない。特に、志を失って先人の標語をただ墨守するだけになると、欠陥ばかりが顕わになる。
内に籠るとはいえ、全く閉じこもっては風評を悪くするから、適当に窓を開いて海外の知識も採り入れる。あるいは、採り入れるフリをする。が、有力な外国には窓を開くが、諸国に等級をつけて、等級の劣る国には顧慮を払わない。欧米先進国の情報は知りたがるが、途上国やアジアに学ぶというようなことを言っても、全く理解出来ない体質がある。アジアの痛みが分かっていない。そこに建てられている教会の持つ意味が見えない。
この閉鎖性を打破するために、信徒の貢献し得る領域が大きいのだが、こういう面での信徒の開拓的貢献は日基では殆ど受け入れられていない。第三世界に行っている信徒は多少いるのだが、その器を教会の中で生かし切れない。こういう面が牧師でないと切り開けないわけではないが、信徒が切り開こうとしても、黙殺され、葬り去られるから、牧師が開拓的な仕事をする必要はあった。
日基では何事もホドホドにし、深入りせず偏らないことが貴いとされる。東洋的な中庸の徳を重んじているらしいが、徳の修練とは全く異質な安易さではないか。打ち込んだ仕事をして成果を挙げた場合は利用するが、打ち込むことを妨げる空気があるから、人が育たない。
2001年9月11日以後、欧米諸国と、欧米によっこれまで軽侮されていた諸国との激突がかなり露わになった。アメリカのブッシュ大統領は、従来の姿勢を変えないまま、テロを起こす人々を抹殺することによって平和を維持しようと考えているが、これでは問題を深刻化するばかりである。世界は崩壊に近づいた。日本政府は考えることのないままに、アメリカの言う正義の側に立とうとしているので、精神的崩壊を拡大するほかないであろうと見られる。世界と日本の生き延びる道は第三世界との共存であり、日本の教会もそのようにして生きるほかないと思う。そういう時に、日基がこの道を進まなければならないと主張する声は余り聞かれない。
声が聞こえないとは、声になっていないだけのことで、今後、声にして立ち上げることは出来るし、共鳴する人は十分いるはずだし、また声にしなくても黙って実行を始めることは出来る。諺に言う「縁の下の力持ち」である。我々の教会はすでにある程度この実行を始め、部分的には軌道に乗っている。しかし、苦難の足りない部門はまだまだ多いのである。
このようなことを考えて来ると、人手が足りないではないか。働き人がもっと欲しい、ということになるかも知れない。しかし、働き人を起こすことは主のなさる業であって、我々はそれを祈ることは出来るが、自らの努力で作為的に働き人を起こそうとしても、空しい業になる。数を獲得しなければ何も出来ないと言う考えが間違いなのであるから、これを捨てなければならない。むしろ、少数者だからこそ、少数者が担って行くべき使命が良く見えるという真実を大事にすべきだ。
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