2001.11.11.
東京告白教会秋季伝道会
少数者にこそ出来ること

ここ数年、日本の社会に重くのしかかっている閉塞感に気付いている人は少なくない。
 「このままではいけない。何とか打開しよう」と思い立つ人は或る程度いるのであるが、その思いは現実によって押し潰されてしまい、無力感だけ残っている場合が多い。この無力感、これを別の角度から見れば、「少数者だから何も出来ない」という敗北感また諦めではないだろうか。
 「これではいけない」、あるいは「これはおかしい」と感ずるような問題が至るところにあることは誰もが知っている。ところが、その問題を取り上げて誰かと語り合おうとしても、話しかけに反応してくれる人がなかなかいない。
 ここで少しの間、老人の思い出を語らせて貰うが、昔はこれほどではなかった。例えば、41年と6ヶ月前、人々は必ずしも話し合って集まったわけではないが、若者も老人も、日米安保条約の改訂に反対してデモに集まり、行列はどんどん膨れ、大通りは人で埋め尽くされた。その人波のなかで参加者は銘々、自分は孤独ではないのだという感じに浸った。ただし、この連帯感はその場限りの感じであって、追憶の中には甦って来るとしても、それが志となり、思想となり、一人一人の生き方の変革、また社会の改革に繋がる努力にはならなかった。
 それから10年の歳月が流れ、日本社会は目を見はるほど変わって、豊かになっていた。
 もう一度日米安保条約を見直す時期になった時、反対運動の盛り上がりは「60年安保」の時と比べて余りにも低調であった。年配者も若者も、もう語り合って、自分たちの意思表明のためにプラカードを掲げて出て行くことはしなくなっていた。それでも、それ以後の時代と比べると、まだ力が残っていたと言うべきであろう。そして、この「70年安保」は殆ど不発に終わりはしたが、別の面での展開を見た。すなわち、「大学紛争」である。
 大学という名のある所どこもかしこも、と言っては確かに誇張であるが、多くの大学で、学生たちが大学当局の教育姿勢に対して異議申し立てをした。大学はものを考えることを教えるところであるから、教えられて、考えて、これはオカシイと思うようになったのは当然のことである。今、彼らがそこで何を考えていたかについては省略して、ただ、その時、人々は語り合う繋がりを持っていたということにだけ触れて置く。
 さらに20年して、湾岸戦争の時、戦争反対デモに集まる人は惨めなほど少なかった。集まるのはむしろ老人ばかりである。人々はテレビによって戦争のおぞましい場面をリアルタイムで見ていたのであるが、何とか反対意思だけでも表明したいという思いにはならなかった。
 こういう状態がずっと続いて、人々はますます孤立化して行き、また物を考えないようになり、考えたことを表明しなくなって行ったが、今から丁度2ヶ月前、状況が変わり始めたかも知れない。今反対意思を表明して置かなければ、テロと報復戦争によって世界は自滅してしまうのではないか、と考える人が増え始めた。しかし、どこまで増えるか。同一の主催者によるデモに集まる人は、回を重ねるにつれて、だんだん減っているという報告がある。
 本論と関係がないようなことを言ったが、この話しはここで留めて、人々の考えた思想内容にまでは立ち入らないことにする。ただ、全く無関係なことを語ったわけではない。今挙げたことのうちには、考えて置いて無駄でないと思われる幾つかのことがある。
 一つ、前の時代には、人々は考えて、論じ合って、行動した。しかし、今はそれがなくなり、考えて、論じ合おうとする人は少数で、相手にされず、孤立化する時代になっていることに気付く。この変化は確かに今日取り上げている主題と関係がある。
 さらに考えなければならない一つは、かつての時代に、多数者と言えないかも知れないが、少なくない人々を糾合することの出来た思想あるいは主張が、今では殆ど叫ばれていないのはどうなのか、という問題である。その思想が間違っていたから消滅したのだと決めつけたくはない。かつて反対デモをしていた若者たちが、大人になってからは自ら反対していた体制にドップリ漬かって、その体制を守るために人々を犠牲にしているという状況があるが、これは、かつて彼らを夢中にさせた思想が間違っていた証拠か。
 いや、必ずしもそうとは言えない。しかし、不十分な点があったのは確かである。その欠陥に気付いた時、人々はその思想を受け継ぎつつ欠陥を補って行くべきであった。だが、そうしようとは考えず、これを放棄してしまった。それは当人だけの問題ではなく、その思想が思想として成熟していなかったことと関係している。では、今では成熟した思想があるから人は動かないのか。そうではない、未成熟な思想すらなくなったのである。
 そのこととの関連で、もう一つ目を向けておかなければならないのは、一世を風靡する考え方があって、多数者がその考え方に靡いた時、自分はどうしてもそうは考えられない、と言う少数者がいたという事実である。その少数者が正しかったと言うつもりはないのだが、この場合、多数者は自分の考えているのと反対のことしか考えられない少数者がいるという事情を理解しなければならなかった。
 それを理解しないとは、自分の考えを絶対視していることでないつもりであっても、違うものは顧慮されなかったのであるから、自己絶対視と結局同じになってしまう。その人の考えを理解することが出来ないから、結局それを拒絶するのである。――どこかの国のことを思い起こす。ある大臣が自分の行動について訴えられた時、「おかしな考えを持つ人もいるものだ。話しにならんね」と言ったということであるが、この人は少数者がいるという事情を認めず、その人たちの考えていることを認めず、自分以外の考えは採るに足りぬオカシナもの、国を危うくする危険思想だと信じているわけである。
 思想の自由が基本的な権利として認められるようになっているから、少数者の思想の自由は、他の人に危害を与えない限り、一応保障されるという姿勢が取られている。しかし、実情を言えば、「おかしな考えの人だが、私は優越しているから、寛容を示して、罰しないで置いてやる」という目で見下げられているようである。この問題についても今日はこれ以上突っ込まないが、我々自身の心掛けとして、多数者の側にいたとしても、少数者の考えを無視したり、裁いたり、軽蔑したりしないように慎まなければならない、ということは忘れないで置きたい。――ただし、どちらが多数者であり、どちらが少数者であるかを取り違えないようにしたい。
 例えば、キリスト教会の中に靖国神社参拝に賛成という人がいて、その人が教会の中で集中的非難を受けるとする。それは少数者の権利を侵害していることではないかと言われる場合がある。だが、これは多数者と少数者とを取り違えている。靖国神社参拝に賛成する人は少数者ではない。この国では多数者なのだ。実質は多数者の体質であるのに、少数者を装ってキリスト教会に入って来ているのだ。教会は守るべき信仰の箇条を持っているから、してはならないことがあり、そのためにこの国の中では少数者であることを余儀なくされている。その少数者の中に、多数者が紛れ込んで、あるいは割り込んで、少数者を骨抜きにすることがある。かつての時代に教会の中に軍国主義者が割り込んで、教会を軍国主義的にしたことがあるが、今もそういうことはある。こういう場合、たいていいつも多数者と少数者のすり替えが行なわれた。今、キリスト教の中から例を引いたが、キリスト教の例だけではない。何が少数者であるかの読み違えが行なわれ易いということに注意を喚起したいと思って言ったのである。
 私は長く生きて来たので、自ら失敗を犯すことも多かったし、人の過ちを見る機会も多かった。初めのうちは気が付かず、後になって間違いであったと気付くことも沢山ある。だから、私の世代の過った作為や不作為によって、次の世代以降の人々が不幸になっていることも見ているから、それについては責任を感じているし、見たこと考えたことを次の時代の人に言い残して置かなければならないという気持ちは人一倍強い。
 私は多数者に受けるような上手な言葉を語る資質はないが、無力感に陥っている少数者に向けて、なにがしかの助言の言葉を語ることなら出来ると思うので、今回このような呼び掛けをした。
 私の人生は見方によっては波瀾万丈と言えるかも知れないが、また人一倍平凡だったとも言える。私の生涯で取り上げるべきことは、戦争に行ったことと、キリスト教の牧師として働いたことの二点になる。戦争と言っても、実際に前線に立って生命を危地に曝したのは、戦争末期の僅々数カ月に過ぎない。しかし、その時までの生涯の全過程が戦争に向かわせらる準備の積み上げであったから、単純に纏めれば戦争のために生きたと言って良いであろう。それは空しいことであった。しかも、私は前線に立つまでは、その空しさを自覚していなかった。
 敗戦後、中断していた学業を仕上げて、一旦ある研究職に就いたのだが、それを辞してキリスト教の牧師になった。爾来52年、一途にこの道を歩んで来た。もう足下も覚束なくなり、物覚えも悪くなったが、果たすべき負い目を果たしていないので、力の続く限りは課せられたこの馳せ場を走らせて頂きたいと願っている。
 そのように私の生涯には、戦争と牧師の務めと、この二つしかなく、その二つは画然と区切られているのであるが、この二つを単純に悪と善、闇と光りに仕分け、戦後はまともな道を歩んだと言うことは出来ない。勿論、1945年8月15日までの日本、またその日本の中でキリスト者であると自覚を持って一生懸命に生きようとしていた私自身が、飛んでもない過ちを犯していて、気付いて以後はその過ちを犯すまいとしていることは事実である。けれども、過ちを犯すまいとしていることは偽りでないとしても、過ちをおかさなかったとは言えないし、過ちに気付いていないこともまだまだある。
 今「過ち」と言ったことの中に、刑法に触れなくても道義的には過ちであることが含まれることは確かであるが、それをいちいち数え上げても話しは進まない。「過ち」と言うのは、主として認識の上での間違いのことと取っておいて頂きたい。例えば、旧日本から引き継いだ差別意識というものがある。沖縄差別、朝鮮半島差別、部落差別、ライ差別、女性差別、……そのような差別意識が私のうちにも残っていて、気が付いた時には除去するようにして来たが、まだ気付いていない差別意識もあるはずである。
 そういう差別意識を私も持っていたが、キリスト教会も、世間一般よりは幾らかましであるとはいえ、決して責任を免れることは出来ない。また、そのような差別を取り除いて行くことにクリスチャンが他の人以上に献身的に貢献しているとは言えない。クリスチャンの中にも差別意識の濃厚な人は稀ではない。しかも、そういう人が教会の中で往々にして有力者であって、その世俗的有力者の過ちを牧師が是正出来ない場合がある。
 いま、いろいろな差別の名を上げたが、それと関連して「少数者差別」という問題を考えてみても良い。いろいろな差別は全く解決したというまでには至らないが、戦後の民主化の中でかなりのところまで解決した。しかし、この「少数者差別」は我々の身辺で殆ど解決されておらず、指摘されてもいない。これを一般の差別と同列に扱って良いかどうかも私には分かっていない。
 一般の差別意識は、歴史のある段階に、意識的に、すなわち政策的に作り上げられたものである。例えばアイヌ差別。これは近代日本の作為である。誇り高く生きていた民族が、戦争に弱かったというだけの理由で日本人に征服され、劣等民族と看倣され、保護してやるという名目で下積みにされた。またライ差別。これは旧い日本にもともとあったのではあるが、定着したのはライ予防法という法律が出来、隔離政策が遂行されたからである。だから、差別というものは政策が作りだしたものであり、政策が変わればやがてなくなって行くと考えて良いだろう。
 しかし、少数者差別は歴史のある時代に作られたものではない。非常に古くからのものである。それに、為政者によって政策的に作られ、また増幅されたと言える部分もあるが、それと無関係に人々の心の中にあり、人々の生活の中で強められている。だから、政策の変更で除去されるものではない。ただ人権教育を徹底させ、少数者こそ尊いという観念を教え込むなら克服できる。しかし、人間としての教育者自身の中に、少数であることについての差別感や偏見があるし、近代的教育システムには少数者に適合しにくい要素が少なからずあるから、教育によると言っても、学校教育でない教育によらなければならないであろう。
 さらに、少数者であることには積極的な意義があるという事実があり、その点で、少数者差別は一般の差別と同列に扱えない要素を持つのではないか。つまり、普通言われる差別は根拠のないものである。本来平等である人々の中に作為的に不平等が持ち込まれ、それを尤もらしく見せ掛けるために後から理由付けが行なわれた。だから、理由にならない理由の誤魔化しが暴き出されたならば差別は崩れさる。
 少数者の場合はそう簡単には行かない。少数者に謂れのない偏見が向けられることは解消出来るであろう。しかし、解消出来ない部分がある。少数者は少数者であることを使命とする。少数者は重荷を負い続けなければならない。それを差別だと言って忌避することは出来ないのである。少数者に意味があるのは、そういうことである。
 少数者の問題は十分説明出来ない。少なくとも私には皆さんに納得して貰えるほどには説明する力がない。しかし、この問題を掘り下げて行かなければならないと訴えることなら出来る。この問題を掘り下げて行くと、日常生活の次元と違う世界に入って行くことになる。それを「宗教の世界」と呼びたければ呼んでも良い。私はそれを宗教の世界のことと呼んでは正確でないと思うが、宗教から見たときにこの問題が一番良く見える。ただし、宗教と自称しているが、少数者の道から全く遠いところを歩む集団が極めて多いことは言って置かねばならない。
 少数者であることで肩身の狭い思いをさせられる気風が我々の身辺に濃厚に漂っている。我々自身も身に覚えのあることだが、多数者と違った意見はなるべく言わないでおこうとする。言うとしても、差し障りのない範囲内に留めて置きたがる。
 他の人と対立しないようにしているうちに、多数者に調子を合わせるようになってしまう。古い日本においては、人と違う意見を持つことは悪とされ、人と調子を合わせるのが美徳とされた。そのようにして調和を保ったのは良いことであったかも知れないが、逆の面も少なからずあった。自分の意見を言わないだけでなく、自分の意見を持てなくなってしまったし、自分が自分であること、私のアイデンティティーがなくなってしまった。さらに、人と違う意見を持つことによって圧迫を受けることがないようにする結果、違った意見を持つことを許さない社会を作り、少数者に圧迫を掛けて来た。今日でもその名残が社会の中にあり、個々人の心の中にある。
 人のことを言っているのではない。私自身もそうであったし、それに気付いて以来、何とかして自分自身を確立しなければならないと思って努力したが、今も十分拭い切れていないのではないかと思っている。
 そして日本のキリスト教会もそうである。キリスト者が少数であることは隠れもない事実である。それはそれで良いのであるが、何かにつけて、自分たちは少数者だから何も出来ないと言い訳をしている。そういうキリスト教会だから、「この世の一般の人々は駄目なのだが、キリスト教は立派なのだから、あならがたもキリスト教に入りなさい」と偉そうなことは言えない。
 日本のキリスト教がこのような性格を身につけたのは割合古いことであるが、一番初めはこうではなかった。日本に来た初期の宣教師の多くはすでにアジアの国々で伝道した経験を持っていたが、日本のキリスト教の将来に大きい期待を抱いた。それは、日本の民衆がアジアの他国と違って、宣教師の教えることを良く吸収したからである。遠くない将来に日本はキリスト教国になると彼らは本気で思ったようである。その頃、キリスト者は数の上では少数であったが、少数であることを問題だと感じる人はいなかった。
 この情勢が間もなく変化する。教会の教勢は伸びなくなる。主な理由は二つあると思うが、一つは明治政府がキリスト教の進展を嫌って、さまざまな妨害を加えて来たことである。すなわち、明治政府の推進した日本の近代化は、天皇神格化を精神的枢軸とするものであったが、この方針に最大の妨害となるのはキリスト教であると政府要人は見抜いた。この考察は当たっている。キリスト教は確かに天皇制と衝突するものであった。
 私は戦前からクリスチャンとして生きて来た者であるが、戦争を境にして前と後ではキリスト教会の環境は非常に違うことを身をもって知っている。民衆の反応としては必ずしも変わっていないが、憲法が信教の自由を保障した点の違いは大きい。
 もう一つは、キリスト教側の問題であるが、教会に集まって来る多くの人のかなりの部分は、キリスト教信仰を求めたのでなくて、宣教師が持ち込んだ西洋文明に憧れたのである。初期においては教会に行くのが西洋文明と接する手っ取り早い道であったが、やがて教会に行かなくても西洋文明に接する道は幾らでもあるということになった。そういう人には教会はもう何の魅力のない。
 この時期に日本の教会の中に、少数者のままではいけないという意識が芽生えて定着したと私は考える。少数者でいけないならどうするか。伝道によって数を拡大するのである。多数派志向になった。教会はその時期から伝道を最重要ポリシーとして取り入れた。その時までは、宣教師は伝道に熱心であったし、初期の教会には活力があって伝道に積極的であったが、ポリシーとしての伝道は唱えられていなかったように思う。
 数を増やすことが目標として掲げられると、数を減らさないための妥協は悪でなくなったようである。ポリシーとして妥協的になったとは言わないが、妥協を見逃す風潮になる。
 だいたい1890年頃から、日本の教会は伝道方策を持ち始める。それも出来るだけ外国の人と資金に頼らない、日本人による日本伝道である。この体制がおよそ百年続いた。その間、教会に活を入れ、覚醒を促すには「伝道、伝道」と呼び掛けるのが最も効果的という型が出来ていた。私自身その型の中で育てられて来たから、妥協的になったことには気付いて批判していたが、少数ではいけないという考えが問題であるとは思っていなかった。
 しかし、百年してこの体制は行き詰まる。1990年頃から日本のキリスト教は冬の時代に入る。「伝道、伝道」と呼び掛けても、教会内に活性化が起こらなくなった。何故か、とみんなは考える。工夫が足りないからではないかと思う人たちは、あれこれ工夫して新しい手段で人集めを試みる。しかし、そういうことによっても態勢は挽回出来ず、教会はますます衰微して行く。
 百年して行き詰まったと言ったが、その行き詰まりには二つの面がある。一つは、世間の人が教会に近寄らなくなったことである。以前なら、ポスターを貼れば人が来た。ポスターが多ければ多いほど人も集まった。だから、力を入れれば入れるほど伝道の成果が上がると見えた。しかし、高度成長と呼ばれる時代が来ると、人々は呼び掛けても集まらなくなった。では、バブルがはじけて不況になると人はまた永遠なものを求めて教会の門を叩くようになったか。そうではなかった。人々はますます救いに無関心になった。
 もう一つの面は教会内部のの自信喪失である。自信喪失は良いことと言うべきであろうが、自信を失なっていない間はやれた伝道が、恥ずかしくて、しにくくなった。どうしてかというと、教会の犯して来た数々の過ちが明らかになったからである。私自身のことを語れば手っ取り早いと思うが、私は敗戦後スグの頃、クリスチャンとして大いに反省すべき点があると感じていたが、自分自身の関わったことが分かっているだけで、人々のしたことは大部分隠されていて、知らなかった。また、自分のしたことも、その時うすうすヘンだと思いながらも、どこが間違っているか突き詰めなかった。
 時が経って、ボツボツ外国の情報が入って来た。例えばドイツで、私が戦前敬意をもって学んでいた神学者の多くは、ナチによって強制収容所に放り込まれていたのである。
 つまり、私が正しいと思っていた神学は、もし、まともに学んでおれば、刑務所に入るのが当然だった。ところが私にはそのような意識は全くなかった。
 さらに、ドイツで刑務所に入れられていた人たちが、敗戦で刑務所から解放されて間もなく、自分たちは今回のドイツの悲劇に責任があるという「罪責宣言」をした。日本では教会の戦争責任を表明すべきではないかという声が一時はあったそうだが、それよりは今は伝道が大切だという声に押しまくられてしまった。
 もっと深刻な衝撃は、韓国で神社参拝を拒否して投獄され、また殺されたキリスト者がいることを知った時に起こった。状況は日本内地と本質的に同じである。政府の方から、神社参拝は国民の義務としての儀式なのだから、これを行なったとしても、キリスト教信仰に抵触することはない、と言って来た時、日本の教会からは何の反論もなかったが、韓国では命を賭けた抵抗があった。どちらが本物の信仰なのかは考えて見るまでもない。
 我々がキリスト教と言っていたものは、外国から書物を取り寄せて学んでいて、キチンと把握しているつもりであったが、一番大事なところが抜けていたのではないか。今挙げた例は氷山の一角に過ぎない。
 キリスト教の恥部を隠して、宣伝し、「このキリスト教によってこそ日本は建て直されなければならない」などと恥知らずなことは、伝道者であるが、私には言えなくなった。だから私はキリスト教は優れたものだから、こちらにいらっしゃい、とは言えなくなった。私に言えるのは「キリスト教は多くの罪を犯して来ました。私もキリスト教の道をねじ曲げるような過ちを犯しました。それでも、私は悔い改めてイエス・キリストによる救いを信じます。私と一緒にキリストを信じましょう」ということである。こういうことを語っていては、人はなかなか集まらない。無理に人々を教会に招き入れて、好い加減な信者の数を増やすよりは、キリスト教の犯した間違いを知っている未信者を作る方がまだキリストのためではないかと思うのである。
 この事情について、私もいろいろと考えているが、今日の主題から離れるので、詳しくは述べないで置く。私はキリスト教の伝道者という使命を受け、戦争で生き残った命はこの使命のために捧げるのだと思って励んで来たので、伝道のことは真剣に考えたのである。その結果、「少数ではいけない」と考えていたことが間違いだったのだと思い当たるに至った。少数者がいけないのでなく、少数者であることこそ本来なのである。
 私がこのような考えに導かれた要因は幾つかある。一つは、聖書の中に「少数者」ということをことさらに意識させる言葉が、そこかしこにちりばめられ、普段は無視していても、何かにつけて思い浮かぶのである。
 イエス・キリストは言われた、「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門が狭く、その道は細い。そしてそれを見出す者は少ない」。註釈をつける必要がないほど主旨は明瞭である。
 「少数者であっては、いけないから、門戸を拡げて人をたくさん入れなければならない」という主張は、伝道に熱心であって、人々に親切であるかも知れない。しかし、キリストの意図に本当に添っているのであろうか。
 神の恵みに与る人は多くなければならないという意味の言葉が聖書に多いことは確かである。しかし、聖書の中にしばしば出て来る「残りの者」という言葉がある。そのうちの一つを取り上げると、イザヤ書10章に「あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」という言葉がある。
 イスラエルの先祖アブラハムには海の砂のように子孫が殖え拡がるという神の約束がある。これが一般に信じられている。しかし、神の言葉の真理は、「残りの者だけが帰って来る」というところにあるのではないか。
 もう一つ私の考えを導いたのは、日本のキリスト教会の中に1960年代の終わり頃から行なわれて来た「靖国闘争」である。自民党が党の方針として靖国神社を国営化する法案を成立させようとした。これにキリスト教会が抵抗したのが靖国闘争である。今年、小泉首相が総理大臣として8月15日に靖国神社に参拝に行くと言い出したところ、反対が大きくて、8月15日にはとても参拝に行けない状況であったし、神社の儀礼にしたがったやり方で参拝することも出来なかったのは記憶に新しい。現在はそれだけ反対の声が大きくなっているが、60年代の終わりには反対の声は微々たるものであった。労働組合などには反対する意義を認める人はいても、反対のために時間を犠牲にし、反対のために動員を掛けようと言う人はいなかった。少数者であるクリスチャンがこの運動を担った。
 私自身が、少数者ということについて、いろいろと考えさせられたのは、特にこの靖国闘争の中においてであったと思っている。そして日本のキリスト教が持っていた古い体質、すなわち、戦争体制の中で自分自身をどんどん失なって行ったあの体質を捨てきらなければ、本当のキリスト教にならないということに気付いた。私は先に述べたように、戦後間もなくキリスト教の伝道者として生涯を捧げる歩みに入ったのであるが、自分自身がその中で育てられて来たキリスト教のどこかに間違いがある、と漠然と感じていながら、その間違いが何であるかは掴めていなかった。靖国闘争の中でそれが見えて来た。それが見えて来たのは、見る準備が敗戦後二十年以上の時間を掛けて積み上げられていたからだと言えるが、そのことは今回は触れない。
 靖国闘争の初期、私は惨めな思いを味わっていた。とても勝ち目はなかったのである。
 多勢に無勢、数の多い方がやりたいことをする。しかし、今ここで敗北したなら、悔いを残すし、後々の世代の人に自分がかつて嘗めたような苦渋を嘗めさせることになると思って、悲壮感に満ちて闘った。具体的には、与野党の国会議員を一人一人訪問して、野党議員は励まし、与党に対してはこれを成立させないようにしてくれと請願し議論する辛い作業をするほかなかった。結局、靖国法案は成立しなかった。では、こちらが勝ったということなのか。私には勝ったという意識は到底持てなかった。むしろ、敗北感という方が偽らぬ実感である。我々は負けたが何かが勝ったのである。
 靖国闘争については今日はこれ以上は立ち入らないで、先に進む。しかし、皆さんが僅々30数年前に行なわれたこの闘争の持つ意義を掘り起こして下さる機会があれば幸いだと思っている。
 この靖国闘争の中で少数者の惨めさを味わったことを語ったが、この経験の中で自分たちの考えの間違いにも気付かせられた。我々は少数者だから負けたと言うほかない。しかし、我々は負けても、我々でない何かが勝利した。本当はまだ勝利したというような表現は使ってはならないのだが、とにかく靖国神社の国営は多数者の力をもってしても出来なかった。
 そこで我々の反省であるが、我々が負けても何かが勝つ、ということを私は十分考えていなかった、その思慮の浅さを反省しなければならない。では、「負けて勝つ」という古い諺があるように、簡単に負けておけば、それが勝利になるのか。そうではない。我々が簡単にギブアップしたならば、本当の敗北になって、取り返しのつかない総崩れの事態になったに違いない。少数者が孤立無援の中で、負けたように見えながら、負けないで闘い続けたことに意味があったのだ。
 そのようなことから、私の場合、「少数者の意味」ということを考えずにおられなくなった。もっと正確に言うならば、聖書の中で教えられて来て、一応頭に入っているが、重要視していなかった言葉が真理として思い起こされたのである。
 少数者であることをマイナスと見ていた考えを逆転させて、それは実はプラスなのだと発想を転換するならば、大いに元気が出て来るのである。
 多数者にならなければ何も出来ないという考えに囚われていたのは間違いであった。少数者には使命がある。日本の国の中で少数者であることを余儀なくされている我々は、少数者の悲哀をかこつのでなく、むしろ少数者こそが持ちうる勇気、希望、洞察、忍耐を喜びとしなければならない。
 この逆転の発想の提案に同意して下さる方があるだろうが、尤もらしく聞こえたとしても、虚を衝いた発想転換というだけで、不用意に受け入れるのは危険かも知れない。冷静に考えなければならない。どんな少数者でも真理に適っているとは限らない。一時的に有頂天になっているだけの少数者もあれば、持続出来ないものもある。
 ここまで語って来たことは理解して頂けたと思う。信仰の問題だから、信仰のない者には分からない、と言う人があるかも知れないが、これは信仰の問題として語ったのではない。信仰のない人でも、考えて見れば、或る程度までは必ず分かるはずである。だから、自分は少数者で、少数者だから何も出来ないと諦めている人は、考えを変えて、勇気を持って貰いたい。少数者であることはマイナスばかりではなく、利点とする事が出来るのである。そういう確信を持って生きている集団が実際にあることを知るだけでも意味があるのではないか。
 「お前の言うことは分かった。それでは、その勇気の源泉になるものを教えてくれ」と求められるかと思う。
 その求めに答えて、「勇気の源泉は信仰なのだ。さあ、信じなさい」と答えるのも一つの道である。しかし、私は今日、こちらから答えを与えようとは考えていない。答えはめいめい掘り当てて掴み取る、そういう話しをして来た。だから、もう少し、一緒に考えて貰いたい。さらに、私は今日、のっけから信仰の話しをすることはすまいとしている。信仰の話しをすることが間違いだというのではない。そういう話しは教会でいつもされている。だが、信仰の話しでは取り付く島もない、と感じる人がいるから、信仰を前提とするのでなく、信仰の押し売りをするのでもなしに、キリスト教に関わる話しを聞いて貰おうとしてこのような集会が計画されたのである。
 「少数者でないと出来ないことがある」と聞いて、或る程度納得して貰えたと思うが、まだ得心が行かぬ人があれば、歴史の中から事実を学んで欲しい。新しく事を起こしたのは、必ず少数者もしくは単独者だったのである。すでにあったものをもっと良くして行くのは多数者にも出来る。しかし、新しい地平を切り開くことは多数者には出来ない。少数者には見えるけれども、多数者には多数者である限り新しい地平は見えないのである。
 多数者とは、人の見ていることしか見えない人である。少数者には、多数者に見えないものが見える。これを天才だと言うのは正しくない。天才でなくても、人の言わないことを先駈けて言った人はいる。地味な持続性は必要であろう。例えば、公害問題。今では公害は多数者が語る話題であるが、3-40年前にはこれを指摘する人は変人、徒に紛糾を起こす問題児として扱われ、その生命さえ脅かされた。しかし、多数者に見えないことがその人には見えたから、黙っているわけに行かなかった。
 「見える」という言葉を広い意味で使っているが、或る意味で「見えている」ことが少数者の少数者たる条件であると私は思う。ちょっとした思いつきでは見えたことにはならない。ただの思いつきを、さも大切なことのように主張するのは、自惚れや自己顕示に過ぎないかも知れない。思いつきが全て悪いというつもりはないが、思いつくことがあったなら、それがありありと見えて来て、黙ってはおられないほどの事実として迫って来るまで、見詰め続けなければならない。そこで少数者にならざるを得なくなる。
 多数者にとっては見詰め続けることは要らない。見詰めて確かめなくても、そこにあることは自明だとされていて、何も問題はないからである。少数者は人に見えないことを「見える」と言い張るのであるから、妄想でなく現実であることを確認していなければならない。「そんなものはないではないか」と批判されて引き下がるのは、多数者なのである。人に見えないことが見えるのは特別な賜物があるからだと言われると思うが、賜物があって見えていても、黙っているならば、少数者ではない。
 人にはそれぞれ趣味・嗜好というものがある。人から見て飛んでもないと言われるものを趣味としている人がいる。趣味に関しては人々は差異に比較的寛容である。原則として趣味は完全にプライヴェートなことで、人に作用を及ぼさないからであろう。そして仲間のいない趣味であっても、少数者という言い方はしない。
 我々が「少数者」と言うとき、その言い方には「使命」というものが結び付いている。
 使命感なしの好き勝手な言動は、今取り上げている少数者のことではない。だから、人の言わないことを言うというのでなく、使命のあることを言わなければならない。
 「使命」というと、また信仰の話しになるのではないかと思われるであろう。確かに、思いつきで、自分にはこういう使命があるような気がするという程度のあやふやなものは、苦難や挫折に遭うと忽ち消え失せるのであるから、使命などという言葉は使わない方が良い。確かなものに支えなければ、使命の意識は吹き飛んでしまうのである。そして、確かなものを語るならば、信仰について、神について語らなければならなくなるのだ。しかし、私はここでも、信仰とか神ということを持ち出して決着を着けることはしない。もう少し考えて貰いたいのである。
 「少数者には責任がある」ということを考えてほしい。多数者には責任がないのか。そうではない。多数者にも責任があるから、多数者の中に紛れ込んで責任を逃れられると思ってはならない。ただ、多数者は自分の責任を感じる時、少数者となって感じている。
 例えば、過去の戦争において残虐行為を働いた兵士は多数いる。その事実は広く知られているが、ことを行なった当人の大部分は事実を語らない。「自分はこういうことをやった」と名乗り出た人は少数だ。その人は確かに、多数者でない少数者である。責任があっても、自らその責任を問題にするのは常に少数者なのである。
 そのように、少数者に成りきらなければ、自らの責任を明らかにすることは出来ない。
 「戦争責任」という言葉は今では多くの人の口に上るようになったが、嘘とは言わぬまでも、かなり浅薄な響きを伴ってしか語られない場合がある。自分では真剣に語っているつもりであっても、罪責告白を聞かされる人の側からみれば、嘘っぽく聞こえるのである。日本の戦争罪責の告白が、アジアの人々から薄っぺらなものに見られている実例がある。これは好い加減な謝罪では被害者を満足させることが出来ないという問題ではない。告白する者は少数者にならなければ、言葉がホントウの言葉にならないということなのだ。
 そのようにして、少数者は責任を取るのであるが、誰に対してか。――勿論、多くの人に対してである。過去の時代に対しても、未来の世代に対しても、遥か向こう、目の届かぬ地にいる人にも責任を感じなければ嘘になる。そんなに広く見渡すことが出来ないと言われるかも知れないが、神の前に立てば、非常に遠くまで見えるとは言わないが、非常に遠くに及ぶ自分の責任が見える。それが見えないようでは、神の前に立っていると言うのは嘘になる。しかし、ここでも、私は神を持ち出すことはしないでおこう。後で皆さんが考えて、やはりここで神に解決を求めねばならないと思った時に神を求めれば良い。今、神を持ち出して、それでスッキリするよりも、自分で模索する方がためになる。
 神のことは今は論じないが、少数者が誰に対する責任を覚えるかという問題では、「多数者に対して」と言えば良いのではないか。往々にして多数者は少数者に対しては迫害者である。その迫害者に対して、迫害される側が責任を負うとは、おかしな話しと思われるかも知れないが、そうであってこそ本物の少数者であることの証しが立つのではないか。
 今、責任を負うということを述べて来たが、ここで「愛する」という言葉に置き換えた方が分かり易いかも知れない。
 聖書の言葉を一つ読んで置く、「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなた方に言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。
 そして、このように教えた方は、生涯の終わりの時、少数者も少数者、むしろ孤絶と言うべき状況に立たされた。彼の一番弟子も「その人を知らず」と言う。弟子はみんな逃げた。人々は彼を捕らえて十字架につけた。その彼が息を引き取る前に祈って言われた、「父よ、彼らを赦したまえ」。これが少数者の窮極の姿である。

 終わり

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