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2001.10.29.
第6回信州カルヴァン・コロキウム基調講演
カルヴァンの予定論をめぐって――綱要IIIの21-24を読む前に――
渡辺信夫

 はじめに

 「予定」という言葉の取り扱いについての注意「予定」という神学用語は我々が生活の中で使う日常語ではない。日常語として「スケジュール」とか「プラン」というくらいの意味を持つ「予定」と、神学用語の「予定」(プレデスティネーション)とは、日本語単語としては文字も読み方も区別がないが、原語は別であり、意味も別である。「前決定」とでも訳せば少しは本来の意味に近付くかも知れないが、分かり難さが増して、結局、プラスにはならない。とにかく、日本語の「ヨテイ」は軽く響きすぎる。 
神学用語としての翻訳語「予定」はホントウは変更した方が良かった。しかし、「予定論」という語彙は定着しているから、変更するには無理がある。中山訳は「預定」という文字を使って、「豫定」と区別を付けようとした。しかし、「預」も「豫」も予めという意味では同じである。それでも、「預定」という文字を使えば、目に飛び込んで来た段階で、日常語の「予定」と違うという印象を与える信号を送って、注意を促すことにはなるであろう。 
「予定」という言葉を「救霊予定」と訳す人がカトリックにいる。ただの「予定」では余りにそっけないと思うらしい。確かに、「予定」という日本語は日常生活の中ではかなり軽い意味で語られる。予定を立てておくことは有益であるが、随時変更出来るのである。だが、「プラエデスティナティオ」は言葉としてもなかなか重い。スケジュールは暫定的な目安であるが、それとは違って「予定」は、変更の余地のない決定、という含みがある。だから、日常生活の中での予定でないことを示すために、「救霊」という言葉を挿入しようとした。 
しかし、救霊だけが予定されているのでなく、救われない場合も予定されているというのが予定論の内容である。救われることと救われないことが、初めに決定されるというのである。救いへと選ばれることと、滅びの中に遺棄されること、この二つが対になっている。だから、救霊予定と訳すのは失敗である。 
とにかく、予定という言葉を読んで行く時、言葉についての感覚をなおざりにしたために、内容的に別なものが横滑りして入って来ることがある。こういうことがないようにし、これが霊的な事柄についての用語であり、永遠と関わることだと十分承知して置きたい。以上が前置きである。


 1

神学する基本姿勢の修練としての予定論予定論はカルヴァンの教理体系の中で最も特色ある項目であると多くの人は言う。この通俗的理解を間違いとは思わないが、正確な把握であるとは必ずしも言えない。予定論は新しい議論ではない。多くの神学者がすでにこれを論じていた。カルヴァンよりも明快にまたもっと強く予定論を主張した神学者は以前にも幾らもいるからである。 
カルヴァンが教理を系統的に述べる時、すなわち、纏められた形で教理の全体を叙述する時、予定の項目を収める場合と、そうでない場合があることに気付いている人は少なからずいる。それを根拠にして、カルヴァンにとって予定は必須の最重要項目ではなかったのだと論じる人もいる。 
この議論は一部当たっていると言えるが、もし、カルヴァンにとって、予定は重要度の一段落ちた第二級の教理であったという意味でそう論じるならば、的外れである。カルヴァンにとって、予定はむしろ「超一級」の教理であると私は思う。これを除外してカルヴァンを理解しようとすれば、その真髄を見落としてしまう。 
比喩であるから、深刻に受け取られると誤解のもとになるが、病気の診断に際して、血液の中の或る抗体の反応を試薬を使って調べれば、感染の有無が分かるという検査方法がある。直接に病状を示すものではないが、間接的には示す。そのように、予定論に対する反応はその人の神学の診断方法として非常に有用である。なぜかというと、思考の基本線がカルヴァンと同じであるかどうかが、この反応によって明らかになるからである。例えば、ヒューマニスティックな思考の人でも、実存主義的な思考の人でも、カルヴァンにかなり深く共鳴する要素を持っている。しかし、共鳴部分があるから同じだと言うならば大変な間違いである。――もっとも、その逆に、予定論という試薬に良好に反応したから大丈夫と考えると、これまた危険である。これについては後で触れることにする。 
さて、それほど大事な条項が洩れたまま体系化をした場合があるのは、カルヴァンのミスではないのか。そう見ても良いが、私はその手落ちを強く批判しようとは思わない。 
すなわち、予定についての条項を掲げず、予定という語彙すら使わない場合でも、体系の全体、また教理を取り扱う根本姿勢、神学的思考の方法が、カルヴァンの場合、予定論によって性格付けられ、また修練されたものである。それは単純化して言えば、神への畏れ、敬虔を軸として神学を考えているかどうかの問題である。神学的な表現としては不適切・不謹慎の謗りを免れないが、予定論によって謂わば「味付け」されなければ、あるいは予定という「重石」で押さえられなければ、カルヴァン神学の精神はない。 
予定の条項を持たない場合も、魂の最も深いところで予定を刻印された姿勢があり、また予定を重要視する考え方が言葉の端はしに窺える、これがカルヴァンの神学の全体を貫いている特徴なのである。だから正確な論述にはならないが、「超一級」なのである。一級という言い方では表わすことが出来ないほど重い意味を持っている。 
では、予定の箇条はあるのが正しいのか、ないのが正しいのか。あるいは、なくても許せるのか。私はある方が正しいと思う。これは教えられねば、自分で考えただけでは確認にならない項目である。だから、体系の中にこの項目を欠く場合があったのは、カルヴァンの落ち度であると言える。ただし、私がその落ち度を余り喧しく糾弾しようとは思わない事情は前述の通りである。そして、教えねばならないと言うのは、単に予定という神の御業についての知識の注入でなく、神への真の畏れの修練をしなければならないという意味である。その場合、神を意志的存在として把握している点が重要である。 
そういうわけで、この項目はやはり原則的には必須である。予定について語られないなら、教理の最も大事な眼目は必ずしも伝わらなくなるという危険があるからである。宗教改革当時、カトリック陣営では「自由意志論」の擁護が盛んであった。この事情を今は時間の関係で説明出来ないのであるが、「自由意志論」を叩かないと、宗教改革が危うくされる情勢であった。だから、「自由意志論」に対決する「予定論」を語らねばならなかった。語られなくても、言外の意味を汲み取るべきだという言い分は、人間の言葉が不完全である限り、どこまでも付き纏う原理である。しかし、論理化すべきことは論理化しなければならないのが神学的思考であり、しかも時代の問題と関わりなしに神学的思考をすべきではないから、「言外の含み」というようなことは、初めから持ち出すべき正規の論法にならないと思う。 
しかし、予定、ないし予定論という語彙が使われていさえすれば、教理の健全さを査定する際、合格点を付けて良いという意味にはならない。予定をどんなに肯定的に主張していても、公式論を提示するだけで、予定を本当には、すなわち、深い意味では信じておらず、神を畏れていない場合がある。 
公式論を言うとは、心にもないことを口先だけで唱えるという意味ではない。この公式を原理主義者のように徹底して主張するが、固執のための固執をするだけで、固執されるその一点によって自らの思想と生活の全体が照射され、問い直され、それによって再確認される、ということにならず、公式が生きたものとなっていない場合がある。 
公式論でないとはどういうことであるかが、ここで見え始める。予定論という一つの教理の条項が教理の全項目に活力を与えるものとして把握されなければならない。そのような把握がなければ公式論を越えられないのである。


 2

神の存在の把握どうして、予定という項目に関しては、他の項目とは違って、以上のようなことになるか、という理論的説明が求められるならば、理論化は容易でない。しかし、説明不可能であって、ただ鵜呑みにするほかないと言ってしまうのは神学からの逃避になる。理論化が難しい時には、或る程度「比喩」の手段を用いて理解に達することが許されよう。 
(もっとも、理論化がそんなに難しいわけではない。ただ、理論化によって分かったと感じることが、本当の理解から遠ざけることになりかねないからである。)予定論の含むところが、教理の全項目に亘っての精髄であり、あるいは各項目の認識を検証する謂わば「試金石」に当たるからであると言うことが出来る。やや表現を変えて言うならば、各条項を生きたものたらしめる要素が予定論に凝集している。 
また別の言い方をすれば、教理条項という形では必ずしも表明されなくても、信仰にとって根本的に大事な事項がここに籠められている。すなわち、「絶対者なる神」という概念として神を把握し、それを論理的に整えるのでなく、生ける神と「心を尽くし・力を尽くして」関わるべきことについて、予定論は我々に本源に立ち返るよう促してやまないのである。 
「在って在る者」という神の自己確認の宣言の意味は、教理の組織化の中には出し切れていない。人間の持っている論理では、神がある、というところまでしか行けない。そのため、一般的存在と同列に引き下ろされる危険がつねにある。神の行為も時間の中で人間の営む行為と同列に引き下げられ、類推によって理解される危険がある。この危険に対して、予定論はかなり確実な予防策になり得るのではないだろうか。神は超越者であって、当然、人間による概念化を越えておられるから、概念によっては整理出来ないものが残るのである。 
また、神は「同一者」であられると言われる。キリストは「昨日も今日も、とこしえまでも同一者である」とへブル書13:8は言う。ここは、普通「変わりたもうことがない」という意味に訳され、その訳を間違いと言うことは出来ないと思うが、意味が十分伝えられるとは言えない。同一者だから変わらないのであって、常に彼が彼であることこそが肝心の点である。こういうことは教理の理解に当たって、かなり重要な事項であるが、通常の教理教育ではそこまで掘り下げることが出来ないままで済ませ勝ちである。それらのことがホントウに分かっているかどうかが、予定論の学びの中で明らかになる。 
人間の把握についても同様である。神の偉大さと全く対称的な人間の小ささ、それが納得出来たからといって、人間が良く分かったことにはならない。分かったと感じることと分かることとは別である。このことを根底まで掘り下げるのに有効なのが予定論である。無限を持ち出すことによって答えを出すような計算とは違うのである。その場合、答えは正しいとしても、人間を捨象した計算が出来ていて、その計算を人間に適用することによって理解するというだけで、それは本当の理解ではない。本当の理解に至る修練を最も有効に果たすのは予定についての瞑想である。 
くどくど言って来たが、結論を絞り込んで言うならば、聖書は神が「キリストのうちに選びたもうた」と言う(エペソ1:4)。ここに解決が含まれているのである。これは機械的に確定する単なる絶対的決定ではない。 
人間はキリストにあって本来あるべき自己同一性を回復するのである。選ばれた者は選ばれた者でしかない。選ばれた者ということに一応なっているが将来どうなるか分からないということなら、信仰のアイデンティティーは消滅寸前である。信仰のアイデンティティー消滅に対して最も良く戦うことが出来るのが予定の信仰であるということに異論は挟めない。


 3 

神の時間予定論の特異性についてもう少し続ける。神の時間を人間の時間の類推として捉えてはならないということも予定論が示唆する重要な点である。 
「予定」は言葉の意味としては世の初めの先に行われた神の決定である。したがって、それは過去のものであり、完了していると見られる。予定との関連においてその後に行われる神の一連の行為は、関連は濃厚にあるが、予定とは区別されると考えるのが普通である。建築になぞらえて言うならば、設計図を書くこと、材料を揃えること、基礎を打つこと、柱を立てること、その他の工程は順序に従わなければならないが、別々の業と見て良い。設計図に忠実であれば、全然別の人が携わって良い。 
ところが、予定に関連する神のみ業を、一つ一つ独立したものと見ることは出来ない。 
それに続く業と切り離して予定という行為を扱うならば、予定自体は真理であるけれども、論理的必然や論理的整合性から真理であると主張され・理解されるというだけで、筋は通っていても意味はなくなり、それを唱える神学的姿勢は本来のものから大幅に変わってしまう恐れがある。 
人は、建築の設計図と現実の建築物、あるいは建築家の頭の中にある建築のアイデアと、実物として建て上げられた建物とを区別することが出来るが、そういった比喩を、予定から救いの完成にいたる過程に当てはめたならば、予定が分かるように感じるかも知れぬとしても、全然分かっていないのである。すなわち、神の前では過去・現在・未来の三つの時の区分はないからである。神の前では現在だけがある。神においては可能性と現実性の区別もない。全ては現実なのである。 
イエス・キリストは、復活はないと主張するサドカイ人から論争を挑まれた時、「あなたがたは聖書も神の力も知らないからそういうことを言うのだ」と反論された。そして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは、アブラハムの神「であった」者という意味ではないから、アブラハムは神の前に現在であり、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言われた。このような時間把握をもとにして予定を理解しなければならない。 


4 


予定論の定まらない位置カルヴァンは綱要の体系の中で、予定論を不安定な位置に置いた。全体の構造を見渡すと、第3篇の終わりに、これまでのスッキリした論法に似合わないものが入って来ている。これを全体系の冒頭に持って来れば、収まりが良いのではないかと彼の後継者は考えた。「永遠の聖定」を最初に確認した方が議論がスッキリするように見えるのである。 
カルヴァンにもそれが分からない訳ではなかった。しかし、揺れ動いたあげく、そのように配列することを綱要最終版では避けたのである。キリストによって救いの恵みが来た。それを我々のものとする御霊の力がある。そう論じて来て、しかもなお救われない人がいる、という問題を無視して通るわけには行かない。何故こうなるのか。神の予定があるからということに落ち着かざるを得ない。だから、救いを論じた巻の最後のところで、(正確に言えば最後の一つ前で)、予定を論じないままに済ませるわけに行かないと言う。 
一つには、予定論が丁寧に扱う時にはかなりの分量になり、それを端折って論じることは問題を残すことになるので、体系の初めに長々と掲げるわけに行かないとの実際的判断があったのであろう。第二に、救いが主内容となるべき教理体系において、救われない場合を初めに取り扱うのは建徳的ではないのである。第三に、「予定」と「摂理」の区別を考えたのではないかと思われる。綱要の初期の版では、予定と摂理が一括して扱われているが、最終版では二つを分けられたのである。神の決定としては同じに思われるのであるが、被造物全体に関わる一般的決定としての摂理と、救済の全過程に関わり、人間にだけ関わる予定とは分けた方が良いのである。この区別は後のカルヴィニズムの歴史の中では、カルヴァンがしたように画然と分けない人が多い。 
予定論の位置が不安定であることを難点と見る人がいるが、私は積極的な意味で認めることが出来ると言いたい。初めに置かれて、安定してしまうと、スッキリするであろうが、より深い次元の論理に参入する切り口が見出しにくくなるのではないか。 


5 

遺棄された者の場合救いへの選びが世の初めに行なわれたことについて反論する人は、クリスチャンの中には比較的少ない。だが、「遺棄」に関しては反対論が多い。そういう表現が聖書にあることは否定出来ないが、教理の条項にするほどのことではないのではないか。救われない者のいることの原因を神に帰するのは根本的な間違いではないか。カルヴァンは予定論を救いへの選びで留めて置くべきではなかったか、と考える人は「二重予定」を信ずる人より多く、また、それこそが「穏健なカルヴィニズム」であるとされ、この線を越えるのは狂信あるいは原理主義に近付く危険を冒すことであると、日本のプロテスタント主流派では考えられているようである。そういう傾向はカルヴァンの時代から現代までこの傾向は一貫している。 
救いへの選びも一方的な行為であり、それを否定する考えがあるが、その考えは基本的な線から全く逸脱しているから、今回は扱わない。救いが恵みによるということは、キリスト教信仰の最大公約数であると我々は思う。(実は、それをはみ出すものがキリスト教と言われている実情があるが、今回はそれに関わってはおられない)。 
初めから遺棄があったという捉え方が真面目な人々のうちに困惑を引き起こす事情は、我々にも分かる。そういうことは全く考えられない人と、考えられなくないが、そこまで言ってはならないのではないかと思う人とに分かれる。この二種類の人々の間の違いは大きいようにも見られるが、カルヴァンは小さいと見る。どちらも危険なのである。 
選ばれていたにも拘わらず、落ちて行く場合があるという理論も事実も容認することは確かに出来ない。人間の拒否が神の尊厳と力を相対化したり、引き下ろしたりしてはならないからである。神の救う力が絶対であるからこそ、信仰者は試練の中で確信を持ち続けるのである。だから、堕落の可能性を人間の自由意志の中に見ようとすることは出来ない。 
遺棄を語ることはカルヴァンにとっては不可欠であり、このことでワザワザ一つの章を起こしたほどである。そこで論じられることを今紹介するのは省略し、後で一緒に読むことにするが、読者の理解を助ける若干のことを付け加える。 

1)厳密に物を言う時、肯定の形で言うだけでなく、否定の形でも言わなければ確認にならない、という考え方が人類一般にあるが、西欧の論理においては伝統的に根強い。これに馴染んでいない人には、徒に煩瑣に思われるかも知れない。欧米人でも、時代を下れば下るほど、煩瑣に感じられていることは同じであるが、神学の論法では、例えば信仰告白の論法においては、ポジティヴな言い表しに重ねて、ネガティヴに言う表現を加える。すなわち、「告白条項」に伴う「呪詛条項」である。今日でも、入念に確認する場合、肯定的に言った後に否定形を付け加える。例えば、「バルメン神学宣言」(1935)がそうであって、呪詛条項としての排除条項がついている。したがって、遺棄の規定を呪われた考え方と取るのは誤解である。 

2)このような厳密な言い表しを要求するのが何故であるか。それは単に論理の確かさを求めるだけでなく、さらに救いの確かさへの魂の欲求があるからである。 
縫った糸の端を結んで置かなければ、そこから縫い目がほどけて来るようなもので、確認した救いは「確認した」と言うだけでなく、逆の場合の確認も取って置かねばならないのである。 
信仰と呼ばれているものが、実は情緒に過ぎない場合が割合多い。その実情を見ている者は、自分自身の信仰が本当に確かなのかという不安に駆られるのである。この不安を経験していない人には予定論の有難味が分からないかも知れない。確かさを探求する人は、その確かさの確定する二重予定でやっと安定感を獲得するのである。 


6 

神学する思考の緻密さ予定論において見られるカルヴァンの神学の特色は、緻密さ、あるいはさらに適切に言うならば慎重さである。予定に関する論議の与える第一の印象は冗長さかも知れない。 
カルヴァンは常々「教えは簡潔な方が良い」と言うのであるが、予定論についてはそうではなかった。その緻密さが論理の緻密さと同じでないことには十分留意しなければならない。予定論の緻密さは躓きを予防する緻密さである。 
簡単に片付けてしまうと、積み残しが出来、誤解を生じ、それが増殖して躓きの本になると彼は考える。それで、論述が長くなるだけでなく、幾つも章を起こさなければならなくなる。 
問題として残るのは、

1)それで誤解も躓きもなくなったかというと、そうではないことである。すなわち、彼が議論を起こす時、その議論の必要が理解出来ない人は、これを徒に煩瑣な議論を構えたものとしか受け取らない。そういう考えはいつの時代にも起こるのである。この種の反論に対しては、議論をもって答えるのは困難である。かなり深い所での食い違いがあるからである。 
見方によっては、反予定論に対する敵意ないし猜疑心を虱潰しに撃破して行こうとする「攻撃心」が窺えるかも知れない。そして、それが予定論に対する新たな不信感を呼び起こしているのかも知れない。 
しかし、予定論の強化は反対の可能性を潰して行くことでだけはなく、むしろ根本的には発想の転換であり、カルヴァンがホントウに言いたいのはそのところであったと私は考える。 

2)反論が論理学ないし弁論術の範囲の反論に留まっては、反論が反論を生むだけである。その点についてカルヴァンがかなり気を遣っていることが見落とされているように私は思う。論理形式を取りはするが、この論理を駆動している動機は神への敬虔な思い、讃美である。ただし、この要素は反対陣営の人たちには反知性的な情緒的要素として一笑に付される場合が殆どである。したがって、愚かと見られても恥じないで、信ずるところを貫く確信が必要である。これはパウロがコリント人への手紙で言っている「十字架の愚か」、それを「恥としない」と言う事情である。予定論の愚直さに目を向けなければならない。 

3)パウロが前述の言葉の中で「神の愚かは人の知恵よりも賢い」と言っている点をさらに考えなければならない。神の愚かさの持つホントウの賢さの優位を、人間の自認する賢さに対して論証して行く使命が信仰者にはあるという理解が西欧のキリスト教の主流にはある。その特色が最も良く現われているのが予定論においてである。ここには利点と弱点がある。弱点とは、神の賢さを示そうとする結果が自分を賢く示すことになるという弱点である。その弱点ゆえの攻撃を回避するために、論理の全部を放棄してしまう向きが多い。だが、それでは恵みによる救いの全面的否定ではないものの、恵みのみの基本姿勢を一つ一つ切り崩すことになる。 

利点を利用するなら、弱点も受け入れなければならない。そして、その弱点を良く知って、これが神の栄光を傷つけることにならないように制御する知恵が必要である。 

終わり 

 
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