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 2001.06.03.

神・魂・世界――昏迷の時代に流されずに生きる


「神・魂・世界」という三題話しを奇妙に感じた人もおいでになるかと思う。普段あまり聞く機会がない題である。しかし、今回、こういう題を選んで話そうと思い立ったのは、珍しいことを言って人の気を引くことを考えたからではない。今でこそ耳にする機会が稀になったが、この三つは昔、物を考える人の当然取り組む問題だったのである。 
哲学とは要するに、神と魂と世界を知ることだと言われていた。だから、ごくごく当たり前の、そして基本的とされたことを、今の時代でも考えようと訴えたいのである。 
今、人類の歴史の中で、かつて経験したこともない大崩壊が進んでいると感じている人は少なくないと思う。実例を挙げて説明するまでもない。自然界における生態系の崩壊の危機はかなり以前から警告されていたが、それと別に、家庭崩壊とか、学校崩壊とか、経済の崩壊とか、政治の崩壊とか、道徳の崩壊とか、端的に言って人間の崩壊とか………そういうセンセイショナルな表現が聞き飽きるほど飛び交う社会になった。しかも、それに促されて建て直しが始まるわけではなく、崩壊が食い止められたのでもなく、むしろ、そのようなセンセイショナルな言葉を聞いても動じないようになり、事態はズンズン悪くなって来たのが今日である。 
それでも、自分は何とかやっているし、世界も何とか動いているではないか。今日あるように明日もあるのではないか。――ちょうど健康を損ねたが、治療を始めないうちに病気が治ってしまう場合のように、今日の何となく閉塞感のある社会はそのうちに回復するのではないか。そう考えている人がまだ多いようである。 
しかし、「今に良くなる、今に良くなる」と言っていたのに、予想通り良くならないで、回復の期待を先送りしていることばかりではないか。先月までは出来たことが今月は出来ないというようなケースが次々あるではないか。昨日までは安心して乗っていた電車が、今日はもう安全ではないというような実例が増えているではないか。 
事故というものは以前からあったが、事件が起こる度に原因を究明して、安全対策が講じられ、未然に事故を予防する仕組みが出来ていた。チェックポイントを定めて、そこをチェックして置けば、予測を越えた自然災害が重ならぬ限り、危険を予防出来ることになっていた。ところが、最近、立て続けに起こっているように、たまたま同じ電車に乗り合わせただけの見ず知らずの人によって、大した理由もなしに殺されるという事件がある。この事故の予防のためのチェックは理論上可能かも知れないが、実際問題となるとチェックポイントが増え過ぎてお手上げである。簡単に言い過ぎるかも知れないが、要するに人間が大幅に壊れてしまったのである。 
2子供たちの道徳心が失なわれたのは、教師が偏向して、学校教育が悪くなったためであるから、教師を締め付けなければならない、と保守政治家によって叫ばれていた時代があった。今日ではその叫び声はかつてほどには聞こえないが、それは、一つには、叫んでいた本人が失脚したからである。こういうことを叫んだ人の全てとは言わないが、その大部分は汚職政治家であった。自分自身をチェックすることを知らぬ者が他人の道徳や思想をチェックしようとした。その結果、ますます事態は悪くなって行った。もう一つ、偏向教育の是正というようなことをすればするほど、教育は低下し、学力の低下が目に見えて明らかになって来たからである。 
文部省が力を入れて改革しようとすればするほど、教育の質が落ちて行くので、役人たちは自信を失った。保守政党もトーンを下げた。今度は、民間の運動で、国民に自信を持たせるような教科書を作れば、という考えが出て来た。これも実直な草の根の運動の積み上げではなく、策動家が急いで立ち上げた運動であるから、清潔感がない。この人たちによって、日本の国は間違いを犯していないと教えるお粗末な歴史教科書が出来たが、間違いだらけであって、近隣の国々の人々を深刻に心配させている。こういう教科書で教えられた子供たちは、今以上もっと物を考えられなくなって行く。人間が壊れてしまったのだから、壊れて来た過程を逆に遡って、どういうことがあったかを反省しなければならないのに、その反省が出来ない人が教育をリードして、今以上に反省出来ない日本人が作られて行くなら、この国は滅びるほかないのではないか。 
ところで、私がそのように論じて来ると、人間が壊れてしまったとの批判はそれで正しいけれども、ではどうすれば良いのか。お前自身は今日の社会の崩壊を何とかしなければならないと思わないのか、と問われるであろう。勿論、私も批判だけでなく自分に出来る限りのことをしなければならないと痛感している。それどころか、私はこのような崩壊が進んできた責任を自分も負っていて、人のせいにすることによっては、何の解決にもならないと考えるのである。 
確かに、政治家がもっとシッカリ勉強して、知恵を深めてくれなければならない。教育者がもっとチャンとした教育をし、何よりも自分自身を正しく教えるようになってくれなければならない。そのような政治や教育が行われるためには、それを実践している人を支援するために、私も、市民として応分の努力をしなければならない。しかし、私自身の使命に関して考えるならば、あれこれの運動の支援に走り回るだけでなく、自分自身の本来の使命とする分野で、主体的に今日の人類の危機に対処する発言と行動を打ち立てなければならないであろう。 
ただし、私がここで今日の行き詰まりを打開する切り札を出すことが出来ると言うのではない。私が一人一人考える人間になろう、と呼び掛けても、そんなことで事態が改善されるものか、現実は甘くない、と大多数の人は笑うであろう。それでも、私は笑われても、人の責任を追及するのでなく、自分自身を俎上に置いて、自己検討から始めるのが正しいと信じているから笑われてもひるまない。 
3私は第二次世界大戦に従軍した生き残りである。死を覚悟したのに、死なないうちに戦争が終わったので、以来、生き残った者の責任ということをズッと考えさせられている。特に近年、世の中がますますオカシイと言うほかない状態になり、戦争の生き残りはドンドン減っているし、生き延びた人も老齢化につれて、発言力が著しく低下して来た。私はまだ語れるから、命の尽きるまでの間、もっと語って置かねばならないとしきりに感じるのである。人が聞いてくれなくても、いや、聞いてくれない社会だからこそますます語らねばならない、と思い詰めている。そういう立場から現代の危機についていささか語って来たつもりである。 
私はまた、しなければならないと感じたことは、困難であると見えても、実行して来たつもりなのである。そのように言うのは自分を誇るためではない。戦争でたくさんの人が死んで行くのを見て来て、自分は当然死ぬはずのところを生き残らされた以上は、しなければならない課題であると分かっていながら、取り組まずに放置しておいては、申し開きが出来ない罪であると感じているからである。つまり、1945年の8月15日以後の私の人生は、私の所有ではなく、負い目として課せられたものであり、謂わば借り物・預かり物であって、自分の物として使い込んではならない。だから、なすべきことをしなかったならば、盗み取りであって、私は呪われる。そう感じるので、あれこれの運動に関わって来たが、それについて語って、「あなた方もそうしなさい」と言うことはしない。私は戦争の当事者であるから、負い目を免れない者として生きながらえるが、若いあなたがたは私が負っている意味の負い目は負っていない。あなたがたに負い目がないと言っているわけではないが、負い目の捉え方も負い方も違うから、私のしているようなことをあなたもせよ、とは言えない。ただ、「あなたも考えなさい」と言うことは出来るであろう。 
私が今日話そうとしているのは、これからの日本をどう建て直して行こうかという構想や抱負ではない。政治的なこと、社会的運動に関する問題も大事だと理解しているが、私は政治力によってことを解決する人間ではなく、社会運動を指導する使命も持っていない。私は上から物を言うようにして教えたくないし、人に号令して働かせるのでもなく、また人間を数量化して捉えて動員するのでもなく、人間を人間として見、私自身も普通の市民の一人、隣りにいる一人として、「私と一緒に考えてくれませんか」と呼び掛けることしか出来ないと思っている。 
「考えてほしい」と私は言う。「考えるのは嫌だ」と思う人には私の訴えは届かないし、反発を買うばかりであろうから、そういう人は今日は話しの本論に入る前に退席してもらって結構である。一人一人が、自分で考えることによってしか、現在の危機は切り抜けられないと私は信じている。そういうことで、考えるとき、どう考えるべきかについて、あれこれ述べないで、神・魂・世界、これを考えようではないかと提案したいのである。 
4今日はキリスト教会の暦では「五旬節」という日である。ユダヤ人の中の少数集団であったキリストの後に従う群れが、世界宗教として展開して行く動きを始めたのがこの日である。そこで、多くのキリスト教会はこの時期に伝道集会を開く。我々の教会の今日の午後の集会も伝道会と言っている。しかし、伝道会が人々を教会に引き入れるための特別行事であるとは我々の教会は考えていない。だから「来なさい、来なさい」とは言わない。「信じなさい」とも今日は言わない。ただ「考えなさい」とだけ言う。 
勿論、「考えよ」と言いっ放しにするのではない。考えるに価するだけの内容を十分責任をもって語りたいと準備している。そして今日、私が語り掛けることが皆さんのうちにさらに問いを呼び起こし、その問いが投げ返されて来たならば、それに対しては私も考えて答えたい。とにかく、余りにも物を考えなくなっているこの時代の中で、流れに流されない人間になって行くためには、我々一人一人が自分を取り戻して、考える人間にならなければならない。そうなるためのお手伝いをしたいのである。 
キリスト教が物を考えない宗教になってしまったことを私は憂えている。これは世間一般が物を考えなくなった風潮に同調したのだと私は思う。考えるよりも信じる方が大事だということを私も知っている。考えまた論じるだけで、信じもしないし、愛することも、骨折ることも、修練もしない宗教になるなら、それはキリスト教の生命の喪失である。だから、「信ずる」ことを強調しなければならない。 
だが、本当に信じている心があるなら、考えるという営みが、その心の働きとして湧いて来るはずである。信仰を持って生きて行く時、ただ一本調子に「信仰、信仰」と叫ぶだけでは空回りであるから、新しく起こる予期しなかった事態をシッカリ捉えて、考えて、間違いなく対応しなければならない。 
「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ」と叫んで、人々の熱心を掻き立てようとする人の中には、本当は信じていないのに、信じていると思い込まされているだけの人、また、自らもそう思い込む人がいるのではないかと私は思う。その人の信仰が一生涯続くかどうかを見れば、その信仰が彼を救いに至らせる本物の信仰であるかどうかが分かるのである。 
さらに、現代の危機の中で危機感を抱いて真剣に考えようとする人がいるのに、その人の考える芽を摘んでしまうようなことをキリスト教がしているのではないかと不安になる時が事実ある。そういうキリスト教なら、人間の崩壊を促進するばかりであるから拡げない方が良いのではないか、と私は考えずにおられない。 
このように過激なことを論じるのは、私が戦前からクリスチャンで、戦争中の教会の実態を見ており、戦後4年でキリスト教の伝道者となり、それから52年仕えて、戦後の教会もズッと見ているからである。私自身、戦争中、考えねばならなかったことを考えないで誤魔化していた。戦後になってからそれに気づき、心の呵責を覚え、今度は誤魔化しのない信仰者にならねばならないぞ、と自分に言い聞かせながらひたむきに歩いて来た。そういうわけで、戦争中のキリスト教会がどんなに誤魔化しをしたかを知っている。さらに、そのことについての反省を、戦後のキリスト教がズッと誤魔化して避けていることも知っている。だから、昔以上に考えないキリスト教になった。しかし、教会の問題は今日の話題にはしないでおく。 
6今の人間が考えなくなったと言ったが、必ずしもそうでないのではないか、と言われるかも知れない。現代人は或る面ではなかなか考える。百年前の人には考え及ばなかった物を作り出している。それが必ずしも人類に禍いを齎らそうという考えでなかったことも確かである。しかし、人類に幸福を来たらせるつもりで考えたのに、結果が裏目に出ている実例は数え切れないほどである。 
終わりが悪いのは、初めが悪かったからであると言うなら、それは乱暴な決めつけかも知れない。善意で考えたことが悪い結末に終わる場合は稀ではないのだ。それでも、善を求めて始めたことだから、善であると評価されなければならない、と主張するなら、それは間違った思い上がりだと自覚すべきであろう。考えるべきことは無数にある。それらを漫然と眺めて考えていても、取り留めもない結果に終わる。特に何を考えねばならないか、どのような道筋を踏んで考えねばならないのかが重要なのではないか。 
身近な譬えを借りるならば、夜の星空を眺める人、その人は漫然と眺め、あるいはその美しさに陶酔するのでなく、先ず北極星を捜して、それを確定してから全天を観測するし、自分自身の位置の確認をするであろう。そのように、考えるべきことは天の星のように数多くあるから、基準になることを先ずシッカリ押さえて置かないならば、視点も定まらない考えになるのではないか。 
そういうわけで、永遠で絶対である神から始めなければならない、と論じれば、分かったと言って貰えるかも知れない。ところが、実は、神を知り、神を考えることが人間に果たして出来るのかという、さらに困難な問題がある。人間の歴史の中で、「有限は無限を把握出来るのか」という命題について延々と議論されて来たのである。 
その問題が面倒だから逃げるというのではないが、今日の話しの中では、どのようにして人は神について考えることが出来るかの問題には深入りせずにおく。慣れていない人には問題が大き過ぎる。ちょうど肉眼で太陽を直視するなら、目が潰れてしまうようなものである。そこで、望遠鏡を太陽に向ける時には、その前にしなければならない処置がある。そのように、神について考えるためには、その前に整理して置かねばならないいろいろのことがある。その問題が難し過ぎるというわけではないが、時間を取り過ぎるのである。ただ、逃げているのではないかと言われないために身の証しを立てて置きたい。私自身は神について考えており、神を第一に立てて考えてこそ、道に迷わないで来たし、その他の事柄についての考えも空しくならないようにすることが出来たという実績を持っている。絶対者から始めるのであるから、万事がキチンとするのである。 
7神から始めなければならないと言いながら、神について考えることを余りに簡略に論じてしまったので、不満を感じる人もあろうが、次の「魂」については簡単に済ませようとは思っていない。勿論、限られた時間の中で話しを纏めなければならないから、ところどころ言葉足らずになることがあるが、足りないところは後で補うようにするほかない。この一回の話しで全てを語り尽くすことが出来ないのは当然である。 
先ず、「魂」というものの説明から始めることが必要であろう。昔の人は、東洋でも西洋でも、人間は肉体と魂から成っていると考えた。そして魂が人間の生命のもとであって、魂が肉体を離れれば、死んだ体が残るだけで、その肉体は早速腐敗し始める。たしかに肉体は朽ち行くもので、魂こそ貴い。肉体は死に、朽ち果てて行くけれども、魂は死なないで、神のもとに行くと考えられていた。 
体と魂は区別され、魂に優位があり、肉体は劣るとされたのである。魂はなすべきこととなすべからざることを区別し、善を選び取らせ、悪を破棄させる。だから魂の指し示す道に行かねばならない。例えば、我々の魂がしてはならないと承知している悪事があるが、それを実行せよ、実行しなければお前の肉体を殺す、と脅迫される場合がある。 
この場合、命令だから従うほかないと自分で理由づけて、理不尽だと承知しながら従ってしまう場合が多かった。これを責めるわけには行かない、と長い間、見逃されて来た。だが、今日では別の考えが強くなった。だから、ナチス・ドイツの行なった大量虐殺を命令によって実行した軍人は、「職務命令だから服するほかなかった」と釈明しても、無罪の証明とは認められないようになっている。ドイツではこの罪が裁かれたのである。日本では、南京大虐殺のような犯罪も裁かれてはいないが、いずれ裁かれるようになる。人権について考える水準が少しずつ上がって来ているからである。 
最近の裁判で、ハンセン病患者を隔離し・差別して来た政策が罪であると判定された。 
政府と国会の中にはこの判決に不服で、控訴しようという空気が強かったが、控訴すれば政府の人気が失墜するという打算があったため、政府は自らの非を認めて謝罪せざるを得なかった。かつては政策実行者は病者の人権を蹂躙して悪いと感じなかった。しかし、今では人権を考える基準が高くなった。人権思想が国民の多くに定着したから、かつては罪でなかったことが罪とされるようになった。同じように、これまで政府の関与した悪で、罪とされなかったこと、旧植民地人への戦後補償の不作為、侵略に伴う残虐行為、これらは遅すぎたけれども、いずれ裁かれずにはおられない。 
間違った命令には抵抗することが正しいという理論は古代からあったが、理論として成り立つと認められただけで、現実の力はないものとされていた。だが、この理論を強化しなければ、人類の不幸が膨張するのを食い止めることは出来ない、と人々は20世紀後半になってやっと悟った。 
8イエス・キリストは「体を殺しても魂を殺し得ない者を恐れるな」と言われた。このお言葉は良く分かるのではないか。 
しかし、魂という実物を取り出して考察することは出来ない。さらに昔は実験によって確かめるという研究方法を全然受け付けなかったから、魂について論じる人は、ごく表面的に生命現象を論じ、魂そのものについては論者がそれぞれ自分の内をひたすら考察することによって心の働きを論述したのである。その議論は面白いと言えば面白い。しかし、論じる人が自分で納得しただけの論述であるから、他の人には納得出来ないところもある。魂の領域や機能がどこまでかはハッキリしていない。 
現代人はそもそも魂があるということに疑いを持っている。実証出来ないからである。 
それで、魂というようなものはない、と割り切る人が多い。しかし、一方、かなり安易に、魂が死後天国で安らうという、謂わばお伽話の世界をどこかに残して置かなければ窮屈過ぎると考えるのが多数者である。だから、魂というものがないことになっている世界と、あることになっている世界と、二つの世界を適当に、自分の都合に合うように使い分けて、これで良いのだと思うことにしている。しかし、これでは両者の位置と関係はつねに不安定ではないか。人格分裂になるのではないか。そこで、魂がないとしている世界には、それがないことについて、それ以上には突っ込んで議論はしない。また、魂があるということにして置くお伽話の世界でも、魂があることについてそれ以上には論じない。それ以上掘り下げて考えると、わけが分からなくなってしまうから、考えることを凍結させて、お伽話のままに固定しているのである。 
人々が考えなくなったことが問題だと言って来たが、考えるべきことを考えなくなって、考える領域をだんだん狭めて来たこと、もっとハッキリ言うならば、考えるべき第一義的な点、魂については考えなくなったことが理由なのではないか。 
魂が死後天国に行くという言い方は今では一般化しているが、私の経験では昔はそうでなかった。天国という語彙はキリスト教のもので、他ではキザなものと見て使わなかった。また魂という言葉は今では死者の専用語であるが、昔は日常でも割合使っていたように思う。魂とか精神とかいう言葉が戦争中やたらに用いられた反動であろうと思うが、その語彙は生活用語の中から追い払われた。それと軌を一にするのだと思うが、大手を振って使われるようになったのは、肉とか肉体という言葉である。「肉体の文学」というようなものが礼賛されるようになった。精神主義への反動であって、その意味は分かるが、肉体について考えるのでなく、肉欲をただ肯定するというだけの、物を考えない風潮を作り上げたのである。その歴史は検討し直されて良いのではないか。 
さて、魂ということをどう考えれば良いか。人の説でなく、私の意見を言うが、魂とは神の前に立つ私自身である。神の前でこそ「私が私であること」が、曖昧にする余地がないほどに明らかにされるのである。だが、神と向かい合っていない以上、魂についても分からないのではないか。それはそうなのである。しかもまた一方、自分の魂について良く分かっていないなら、神についてもなかなか分からないという事実がある。魂と神とは一対として捉えなければ的確に把握出来ない。 
それならば、どちらから始めても頭打ちになって、結局、捉え所がないのではないか。 
そう見えるのであるが、見えることが全てではない。神を知ることと私の魂を知ることとの間に無限にグルグル巡る輪があるが、その輪の中に私が取り込まれる時が来る。あるいは切り口が示される時が来る。 
9アウグスティヌスという思想家の名前をご存じの方は多いであろう。高校の教科書にも載っているほどの有名人であるが、ヨーロッパの思想に最も大きい感化を与えた人である。この人がクリスチャンになろうとして、一冬カシキアクムという所の山荘に籠って精神的な準備をした間に書いた小さい書物が幾つかある。その一つに「ソリロキア」という書がある。 
この書物の日本語訳が出版されたのは59年前だが、日本は世界を相手に勝ち目のない戦争に突入していた。若者であった私は軍隊に入れられ、前線に送られ、そこで死ななければならない日が近付いているのを感じていた。だから、死ぬ前に自分の信仰と思想を確立して置かねば、死ぬにも死ねない思いで、読むべき重要な本と思われる書物は、溺れる者が藁にも縋る気持ちで読んでいた。アウグスティヌスの「ソリロキア」もその頃、書店の棚に並ぶと、早速買って読んだ思い出多い書である。ソリロキアとは独り言という意味であるが、内容は自分自身との対話である。その冒頭にこう書いてある。 
  「何を知りたいのか?」 ――「神と魂と」  「それ以外には?」 ――「ほかには何も」そこで悟りがパッと開けたわけではない。しかし、「神と魂、そのほかは何も」という言葉は心に刻みつけられた。自分が模索していたのがこういう方向に見出されるものだったと思わずにおられなかった。 
死の時が近付いているというのは思い込みに過ぎなかったのではないか、と言われるかも知れない。現にお前は戦争から生きて帰ったではないか。なるほど、私は生きて帰って来たのだから、死を覚悟したのは思い過ごしで、無駄であったと見えるかも知れない。しかし、実際に経験したところでも、死ぬ確率が相当高かったのであるから、そのように考えたことは間違いでも誇張でもなかったと思う。 
死を覚悟した状況が幸いであったと言ってはいけないと思っているが、それが人生の空白の時期であったと見ることも出来ない。思い起こすのも苦痛である日々であったが、そこで得たものは私の精神の形成の糧にしなければならない。「神と魂、そのほかは何も」。これは私が不幸な青春時代から持ち帰った土産物である。死ぬ前に知りたいこと、経験したいことは沢山あったが、私はそれを断念した。その断念を悔いることはない。神と魂、それだけを知りたいと求めた。 
それでは、知らねばならない最も大事なものを掴んだのか。――その時は掴み切れなかったし、今でもまだ掴み切れていない。だから、生き残ったのは、それを続行せよとの神の意志であると私は受け取って、残りの人生を生きて来た。 
10神と魂と、その二つだけを知ろうと追い求めれば十分だと言うのではない。今日はもう一つ「世界」を知るという課題に触れなければならない。が、その前にもう一つ考えて置かなければならないことがある。 
アウグスティヌスが世界の人々の思想に最も大きい影響を与えた思想家であると言ったが、彼以前にやはり大きい影響を残した人類の教師として、ソクラテスがいることはご存じの通りである。ソクラテスは青年に与える影響が大き過ぎるというので、裁判に掛けられて、有罪判決を受け、それに服し、毒をあおいで死んだ。彼の言いたかったのは「汝自身を知れ」ということであった。 
「神と魂を知る」ということとの比較をここで考えないではおられない。「汝自身を知れ」という言葉が今日も大きい意味を持っていることは論じるまでもない。己れ自身を知ることなく、ただただ知識を積み上げるだけで、その知識に振り回されて自分自身を失なったり、知識の用い方を間違って人に不幸を齎らしたり、結局、知識の空しさの中に追い込まれる。そういう行き詰まりに直面している現代人は、「自分自身を知る」ということを考えて見れば、よほど生き方が変わって来ると思う。 
そのことでもっと詳しく論じて良いし、論じるだけでなく、自分を知ることを訓練する時間を設けるべきであるが、自分自身を知ることの大切さが説かれておりながら、それを実行することが出来る人が余りにも少ないのはどうしてか、という問題に移って行かざるを得ない。 
人間には、自分を知る自分と、自分によって知られる自分と、この二つの側面が二つの部位がある。だから「自分自身を知る」ことが成り立つ。我々が何かの物体について知ることは出来るし、その物体が我々よりも遥かに大きいことはあるが、その物体は自分自身を知らない。宇宙の中で、自分を知ることが出来るのは、人間だけである。人間はチッポケで、これを潰すためには全宇宙が武装するに及ばない。蒸気の一吹きで十分である。それでも、そのチッポケな人間は、自分を一吹きで抹殺することの出来る宇宙よりも偉大な存在である。すなわち、自分自身が如何に小さいかを知っているからである。 
ところで、一人の人間の価値は宇宙よりも偉大だ、というような文言は広く知れ渡って使われるのだが、人間がその価値と尊厳に相応しく尊重されているかというと、全然そうでない。毎日毎日、何万という人が無造作に殺され、人間が生ゴミのように捨てられて行く。その残虐行為が行なわれている事実を知りながら、その事実が眼前になく、殺されている人が自分の知らない人であるという理由によって、多くの人は、何ごともないかのように、平然と自分の利益だけを追い求めている。 
人間は自分自身を知ることが出来るから価値を持つのであるが、そういう理論が教えられて来たことを知っていながら、その人自身、この知識を持っている自分自身を知ろうとはしないから、人間の価値とか尊厳ということについて知識を持っていても、知識は頭に入っているとはいえ身に付いていない。 
どうしてこういうことになるかというと、人間を理解する場合、絶対的基準がないから、自分が絶対的基準になって、したがって自分の好き勝手に基準を動かしてしまうからである。北極星のような不動の一点を見失ってしまった。そうなると、漂流するほかない。実際、漂流しているのではないか。動かない一点を見詰めておれば、どれだけ流されているかが分かるが、不動の一点を持たないと、漂流していることすら分からない。 
「不動の一点」と言ったものを「神」と言い換えればよい。神を知れば、自分が流されていることが分かるのである。 
もっとも、神は単に北極星がそうであるような不動の一点であるばかりではない。北極星は向こうにあって、捜せば見つかり、基準点にすることは出来るが、それが我々の内面に働きかけることをしない。だが、神は我々に語りかけ、神の言葉は我々を追い掛けて、我々の内面にどこまでも突き入って来る。 
「己れ自身を知れ」と言ったソクラテスの言葉を否定する必要はないが、己れ自身を本当に知るためには、神を知っていなければならないのである。では、神を知るためにはどうすべきか。それには、己れの魂を知ることと対にして、神を知るようにしなければならない。 
我々は知識をどんどん吸収し、それを忘れないようにしておれば、知識を増やすことが出来る。しかし、それはコンピューターに覚えさせる代わりに頭で覚えるというだけのことであって、「知識はあなた方に自由を得させる」と言われ、信じられているようなそういう自由はどこからも出て来ない。コンピューターによっては代行出来ない知り方、すなわち、魂によって、あるいは魂の深みから知る、という知り方で、神に接近しなければならない。 
11先ほど、アウグスティヌスの言った、「神と魂、そのほかは何も」という言葉を聞いた。そこでは、世界のことは知らなくても良いかのようであった。しかし、アウグスティヌスが世界を知ろうとしなかったわけではない。前人未到の「歴史哲学」という領域が彼によって開拓された。聖書の冒頭に、「初めに神は、天と地を造りたもうた」と書かれている。その後の方に神が人間を造られたことが書かれているが、人間が造られたことは天と地が造られることの一部であると言っても良いだろう。ただし、天と地の創造の完成として人間が造られたのである。それでも、天地の一部として人間がある。この天地を世界と言い換えることが出来る。 
人間が集まって世界が出来るというふうに考えている人がいるが、それは正しくない。 
もしそうなら、人間を知ることによって世界を知ることが出来るのであるが、人間をどれほど知っても、世界を知ることにはならない。 
「神と魂、そのほかは何も」という姿勢は、キリスト教の中にある一つの傾向と結び付くかも知れない。人間にとって魂こそが一番大事だという考えのもとで、魂以外のことは考えなくなる傾向である。例えば、目の前の人がひもじい思いをしていても、ひもじいだけでは人間は滅びない、と言って自分の食べ物を分けて上げようとはしない。確かに、人は一日二日断食しても死ぬことはない。大事なことのために食事を忘れて打ち込むこともある。だが、自分のことで食事を忘れても良いが、人も食事を忘れるべきであると言っては他者の生存権の侵害である。もっと大事な物があるということを理由に、人間を全体として捉えることを怠って必要な物を認めないなら間違いである。自分の権利を自分で制限することは出来るが、人にその権利を制限させるのは犯罪になる。このことを知るのも世界を知ることの一環である。 
私自身についての恥ずかしい思い出をここでもまた語らなければならない。私は子供の時から神を信じており、青年期に自覚を持つようになると、本当のクリスチャンになろうとしていた。その私が大人になった時、戦争で日本はドンドン敗北し、それまで学問を続けることを認められていたのだが、その特権を取り上げられて、戦争に投げ込まれた。その時、私は戦争の中味についてやや疑わしいものがあることは感じていたのであるが、自分が他の人の犠牲になることには意味があると信じて、疑うことなく死を覚悟して前線に向かった。 
しかし、最前線で実際に見た戦争は、意味付けのしようもない空しいものであった。戦争を遂行している人が、戦争と関係のない安全な所で、机の上で、戦争の意味と戦争の犠牲になることの意味について作文をし、その作文を全国民に流して、信じさせていただけだったのだ。私もそれに乗せられて、自分のしていることには意義があると自分で自分に言い聞かせていた。それでいて私は自分はクリスチャンであり、クリスチャンであればこそ犠牲になるのだと思っていた。 
なるほど、私はキリストを信じていることを言い表わすのを恥じていなかった。そのことによる迫害や不利益は殆どなかったから、続けられたのが実情であって、もし迫害があってもなお信仰の表明を貫いたかどうかは分からないから、そのことは論じない。とにかく、私は神を信じているつもりであったが、謂わば神を信じたままで流されていた。全く不信仰であったとは言わない。しかし、自分と自分の周囲の世界のいかがわしい部分を見ないことにしていたクリスチャンであった。 
その時でも、神と魂のことをひたむきに考えていたことは考えていたのであり、そう言えば、自分自身を実際よりはかなり立派に描き過ぎる。だが、立派ではなかった。その状況の中で、神と魂だけ、と言っている人の陥りやすい落とし穴に私が落ちていたことは確かなのだ。では、どうすれば良かったのか。簡単に言えば、世界を考えることを怠らぬようにすべきだったのである。世界のことに全く目隠しされていたわけではない。 
世界を知り、世界について考えれば、私の携わっている戦争は弁護の余地のない無道であった。それを見ようとしなかったのである。 
それでは、戦争の無意味さに気付いたからには、以後それを叫び出したか。………それはしなかった。周りの全ての人に逆らって叫ぶ勇気がなかったということもあるにはあるが、負け戦の前線に投入されたならば、周囲は見えない敵に取り巻かれているのであるから、物を考える余裕なしに全神経を緊張させて見張っていなければならない。そうしないと、こちらが抹殺されてしまうのである。考える余裕がないとは情けないではないかと言われるであろうが、確かに仰る通り情けない状態であった。だから、それ以後は、あのような情けない無様な人間になるまいとしたし、私がそうであったような間違ったクリスチャンになるなら、クリスチャンにならない方が良い、と機会あるごとに言っているのである。 
12「世界を知る」という言い方はいろいろなニュアンスで使われている。世間を知るという意味で言われる場合もある。「お前は世間知らずだから困る」などと言われて、なぜ世間を知らなければならないのかと疑問に思った経験を持つ人もいるであろう。低俗な意味で世知に長けるということになってしまう場合もある。だから、それに反発して、たとい不利であっても、この世を知らないで生きる方が純粋で貴いと思う人も出て来る。世界を知るということがどういう意味を持つかについてもっと考えなければならない。 
信仰に熱心な人の中から、この世を軽蔑する傾向の人が出て来る場合がある。日本にキリスト教が初めて齎らされた時、それは16世紀末のカトリックの伝来であったが、かなり早い時期に日本で訳され、出版され、広く読まれ、文章の美しさの故にカトリックに入信させる力を発揮した書物に「こんてむすむんぢ」というものがある。この標題は原書の第一章のラテン語をそのままひらがな書きにしたものだが、意味はこの世を軽んじるべきことである。 
この書物はその後も今日に至るまで何十種類も日本語訳が造られているキリスト教の古典であるが、「イミタティオ・クリスティ」とか、「キリストに倣いて」という名の方が通りが良い。この書物をここで取り上げたのは、これを貶すつもりではない。私もこの書物の価値を認めている。世界を軽蔑する思想がキリスト教にあることを言うために引いただけである。 
この書物が世界との関わりを軽蔑しているとは必ずしも言えないのだが、「こんてむすむんぢ」という言葉があるから、そのように解釈してしまう人がいないとは限らない。 
「キリストに倣いて」という題にしておれば、キリストはこの世に来られたのであり、「私に随いて来なさい」と言われたのであるから、キリストの後に従ってこの世を歩むことになる。この世離れをするることにはならない。 
ところで、この世を軽んじることは決して間違っていないのではないか。つまり、この世がそれ自身として価値を持つと考えてはいけないのである。この世の価値は魅惑的であるとしても一時的であるに過ぎないし、それに溺れるならば魂にとって破滅である。 
一方、この世に無関心になってはならない。イエス・キリストは「あなた方は世の光りである」と言われた。世の光りとは、世にあって世を照らす務めがあるという意味であろう。 
世界は我々の前に価値として置かれているのではなく、我々が課題を果たす場として与えられている。 
先に私自身の失敗を語ったが、私は自分では真剣な信仰者であろうと願いながら、信仰者として足を踏まえる「場」を失っていた。だから流されたし、流されていることに気付きもしなかった。それでは、信仰があったとは言えないのではないかと問われる。「なかったとは言えない」と私は答えた。しかし、これは甘い答えである。信仰が失せないように守られていたから、今も信じ続けているし、あの時、謂わば「死の影の谷」を辿るような有様であったが、どうにか信仰に繋がる道を踏んでいたと言える。もし神の腕が私を捉えていなかったのでなければ、私は闇から抜け出せなかったし、信仰者であると独り合点していたに過ぎないと気付いた時、信じていると思うことも馬鹿らしくなって捨ててしまったかも知れない。迷ったままで終わらなかったと主張する根拠は乏しい。 
ところで信仰の「場」とは何か。これはなかなか興味深い問いである。我々信仰者が信仰を持ちつつ考える時、考えることの大部分は「場」についてである。考えるということを軽んじる人には、場は問題にならない。しかし、今日は「場」について論じることをしないで、もっと実際的な面から考えて語ることにしたい。戦争中、教会では、キリスト者は犠牲となることを厭ってはならない、今の国家の危急に際して、キリスト者こそ国のための犠牲になるべきだという意味のことが叫ばれていた。私はそうだと思った。その理屈は今でも正しいと言えなくはない。しかし、今、あれは偽りであったと私は思っている。もっともらしい言葉合わせをしていただけで、そのように言う人の本心あるいは存在自体は時流への迎合そのものだった。 
世界には我々の隣人が神によって配置されている。つまり、世界とは隣人の立っているところなのだ。世界が見えないと隣人が見えないのである。では、どうすれば隣人が見えるのか。詳しいことを語る時間は尽きたようである。今日は短く、神が隣人に対する私の目を開いて下さらないならば、隣人がそこにいても見えないということだけ言って、この話しを終わる。 
 
 
 

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