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 2001.03.25.

横浜長老教会教団離脱50周年記念講演


 第三次大戦勃発の危機単なるエピソードに思われるかも知れないし、事実、教会問題というよりは教会の周辺事情であったが、私自身にとっては極めて切迫した問い掛けと思われた一つの出来事から話しを始めたい。

1950年6月、これは日基が教団離脱をした前の年であるが、教団離脱を主たる議題とする旧日基の集会が東京で行われた。私は前年、日本基督教団の検定試験を受けて補教師となり、大阪の高槻教会の主任者になっていたが、6月のその会に出席した。それ以前にも旧日基の全国的集会があったが、私として、この種の集会は最初の経験であった。名だたる牧師たちが集まり、盛んな発言が飛び交い、新参者は圧倒される思いで聞いていた。
内容は割合よく覚えており、会合の模様を語ることも無意味とは思わないが、時間の関係で今日は省略する。省略出来ないのは、この会合の期間に朝鮮戦争が勃発したことである。そのことが会の話し合いの内容に反映したというわけではない。議論には何も反映しなかった。しかし、私自身にとっては大いなる覚悟を迫る出来事であった。
自分のことを語るが、私は第二次世界大戦に従軍し、危険な海域に配置され、辛うじて生還した。今では、戦争罪責をしきりに論じているので、当時からそうだったと思われるかも知れない。正直に言って、敗戦直後から約20年、私は自分自身の戦争責任について、後年ほどにはキチンと掘り下げていなかった。ただ、あれだけの危ない場面をくぐり抜けて生き残ったのは神の御旨であるに違いない。それは私をして本当の使命を果たさせるために生き延びさせるという意味である。そう私は信じたし、今も信じている。
私が伝道者としての道を踏み出したのもそのことと関係がある。すでに別の道を歩み始めていた私が、ある人からの強い勧めがあって、伝道者として生きようと決断したのは、主の召しを確信するようになったからである。戦争で失われなかった一つしかない命を捧げ尽くすべき場所はここだと心を決めた。
もう一つ、私がしきりに考えていたのは、今度戦争が始まったなら、それは第三次世界大戦になり、核兵器による人類の絶滅になる。そうさせないことが戦争に生き残った私の義務である。福音のために命を捧げるだけでなく、戦争を止めるために命を投げ出すことを厭ってはならない。ところが、私の恐れていた第三次世界大戦が始まってしまった。
東京の会合が終わって、帰りの汽車は大阪北教会の山本五郎長老、京都の大宮教会の福島勲牧師と一緒で、ずっと離脱のことを語り続けていた。その時、福島牧師は離脱の肚を決めていたが、実現しなかった。話し合っていたことは詳細には思い出せないが、鮮やかに思い起こす場面がある。東海道線の下りの急行は、浜松と豊橋ではなかったかと思うが、米軍の軍用列車に二度も追い抜かれた。急行列車を停めて軍用列車を先に通すようなことは、第二次大戦の中でも経験しなかったはずである。米軍の横暴に憤激したが、かなり慌てているなと思った。空気はまさに戦争である。

社会が奇妙に動き始めているように感ぜられた。戦争に反対するために、私は死を恐れてはならない。職業軍人だけでなく、海軍予備学生の再召集が始まっているという噂まで流れ始めていた。再召集というのは正確でないが、そういう噂が立つだけの事実は部分的にあったのである。私は今度こそは召集拒否をしてやろうと肚を決めた。私をもう一度戦争に駆り出すための強制力の発動はついに来なかったが、命を何時捨てても良いという覚悟でその日その日を生きていた。この緊張の中で離脱を考えたのである。
自分のことを語るのは聞き苦しいし、本日の主題にそぐわないが、日基出発時の雰囲気がそういうものであったことは知って置いて頂きたい。新日基に結集した人が皆私のような意識をもっていたわけではない。しかし、それだけの意識のない人も、今日とは違ったそういう張りつめた空気を吸っていたことは確かだ。
私のことをもう一つ言わせて頂くが、私は戦争中の教会の姿勢に失望していた。だから同じ過ちを繰り返さない教会を建てねばならないと考えていた。教会の「過ち」と言ったのは、戦争反対をしなかったことではない。私自身、戦争に行って来たから、戦争反対をしなかった人を批判する資格はない。戦争反対は出来なかったとしても、信仰は守らねばならなかった。私は教会の信仰が守られていなかったと見ているのである。
かつての過ちを繰り返さない教会を建てることが伝道者としての私の使命なのだと理解した。そこで教団離脱の声が高まった時、離脱は当然だと感じた。合同の時、私は事情を何も知らなかったが、不透明な雰囲気があった。バタバタと合同させられる動きへの疑念を表明することすら教会内では抑圧された。だから、この教派合同には後ろ暗いところがあると直感した。そういうわけで、教団離脱は当然の原状回復であった。
話しを以前に戻すが、教会の姿勢に割り切れぬものを感じながら、1943年12月、徴兵延期の特権を剥奪されて私は海軍に入った。教会のことには関心があったから「福音新報」――あるいは、もう「教団新報」という名になっていたかも知れないが、これを家から送って貰って、軍隊の中でも読んでいた。そのうち、余りに詰まらないから、送って貰わなくて良いことにした。余りに詰まらないとは、時局への迎合が見え見えだったという意味である。軍隊の中にいる方がまだ考える自由、信仰の自由、迎合しなくて良い自由を保てるのではないか、と思われるほどであった。

さらに、戦後、教会の指導者の言動に私は深い不信感を抱いた。彼らは我が世の春が来たと思っているらしい。あれだけ戦争協力的なことを言っていた人たちが、そういうことはなかったかのように、もともとの平和主義者であるかのように振る舞っていた。
この人たちを裁いてはいけないと当時は思っていた。私自身、時局に迎合的なことは言わなかったし、神道の禊ぎを受けて、良い経験をさせてもらったと感謝を表明するようなこともなかった。けれども、私は前線に立ったのである。人は殺さなかったが、自分の命を抹殺する覚悟はしたのである。生と死は神の主権に属するのであって、私が勝手に決めてはならない。死を覚悟することほど大きい戦争協力はなかった。だから、脅かされて戦争協力をした牧師たちを裁く資格はない。ただ、今度はあのような無様な態度を取るキリスト者また牧師がないようにしなければならない。また、私のこれから仕える教会は、戦争中に姿勢を全く崩してしまった教会のようなものになってはならないと考えていた。
2 決断する共同体 さて、教団離脱を敢行した新日基の第一陣の顔ぶれが51年5月の創立総会に揃った時、そこに二種類の教会があった。教会を割って教団離脱を決行したところと、そうでないものとである。多くの教会においては、異論なく、あるいは多少の異論や疑念があっても分裂に至らずに、一応纏まって教団離脱をした。個別的にその教会を退会して、教団の教会に移った例もあちこちにある。それはやはり痛みであったと言うほかないが、分裂ではない。
 纏まって離脱することが出来ないため、教団に残る群れから引き裂かれて出て来た群れの痛みは大きかった。人数も減る。会堂も失なう。教会が何であるかの信仰だけに支えられる。そのケースは、東京中会にだけあったのだが、横浜長老教会、湘南教会、少し遅れて木更津教会(後の房総君津教会)の三つである。なぜこういう分裂になったか。一つは、教会員の中に教団との太いパイプを持つ信徒がいて、牧師が熱心に推進しようとする教団離脱に強硬に反対して総会の一致した議決をさせなかったケース。もう一つは、さらに外部から離脱妨害の組織的干渉が加わったケースである。横浜長老教会の場合は後者である。
 前置きとして語った50年6月の会合には、教団離脱の気の全くない人も若干いたが、集まった人の大勢は、今にも離脱するような意気込みだった。それでも、実際は離脱出来なかった教会がかなりある。特に首都圏に多かった。教団本部のお膝下で、教団内の枢要な位置を占める日基系の人が多かったから、離脱妨害は熾烈であった。そのため、教会分裂を恐れて、離脱を断念した人も多い。組織的妨害というほどではなく、教会内の影響力の大きい長老が反対して、牧師がついにそれを押さえきれなかった例は全国的に散在している。
 「妨害工作」というような品のない表現は、教会にも神学にも馴染まないから使いたくない。私も詳しい話しはしたくないので、人の名を挙げて赤裸々に語ることはしないが、教会以前、神学以前の問題と言うほかない悪どい工作もあったことは隠さない方が良いと思っている。恨みを後々まで忘れないというのではない。キレイごとで片づけていては、真実な和解がいつまでたっても出来なくなると思うからである。

 私自身のいた高槻教会は妨害を全く受けなかった。教団の大阪教区の教区長飯島誠太牧師は旧日基の人であって、日基系が離脱するのは辛いことであったに違いないが、全くフェアな態度で離脱手続きをしてくれた。また、高槻教会の会員の中には東京から転入した人がいて、旧日基系の教団支持派で後に副議長をした柏井光蔵牧師と特に親しかったから、柏井牧師が妨害工作をすれば出来たはずである。だが、その企てはなかった。妨害はその人の品性の問題であると言うと、ドギツイ表現になって、こちらの品性まで疑われることになるが、神学以前の問題を乗り越えることが出来なかった未熟さがあった。首都圏という土地柄も争いを過熱させる。これも神学以前の問題である。
 キレイゴトで済ませられない神学以前の問題が、それらのケースではたまたま露呈されたわけで、スンナリと離脱出来た教会も同じ未熟さを抱えており、たまたま問題が露わにならなかっただけだということも忘れないで置きたい。
 さて、横浜指路教会は分裂して、林牧師と行動を共にする人々は横浜長老教会を直ちに建設した。時の事情を実体験した存命者がまだ多数おられるので、間接的にしか事実を知らない私はここでは黙っていて良いと思う。
 この時、離脱反対の中心人物は高谷道男という長老であった。日本プロテスタント史研究の草分けのような人で、林牧師とは学生時代から親しかったということである。というのは、林牧師は神学社在学中は植村校長の許可を得てであるが、内村鑑三の集会に出席しており、そこで一橋の学生であった高谷さんと知り合っていたのである。私は43年前、開拓伝道を始めた時、生計の支えのために桜美林短大に教えに行ったのだが、高谷さんと同じ出講日であったので親しくなり、特にその晩年、かなり行き来がしげくなった。プロテスタント史研究会で講義することが何度もあった。
 当然、指路教会の分裂事件を話し合う機会はよくあった。私は離脱派支持なので、激論を避けたとしても議論は平行線を辿る。だが、彼はだんだん私の言うことに靡いて来たように私は受け取っている。というのは、私は離脱の是非という議論を戦わせるのでなく、彼が前提として持っているもの、――それは「公会主義」の実現こそ教団合同であるという仮説であるが――それを崩したからである。第一、「公会主義」なるものはなかったのである。高谷さんは歴史を知っているから、公会主義がなかったという事実の裏付けになる歴史的事実を次々上げると、良く了解してくれた。

 今日では高谷さんの弟子である岡部一興さんによって、長老派宣教師ルーミスの書簡が翻訳、紹介されている。横浜公会の無宗派主義が如何にいかがわしいものと見られていたか、それと別れて横浜第一長老公会、すなわち指路教会の前身、を建てる必然性が如何に大きいかが公けになっている。今、公会主義という言葉を説明なしで使っているので、困惑している方があろうかと思うが、時間の関係で説明は別の機会にさせて頂きたい。
 「公会主義」を担ぐ人は旧日基の時からいたが、資料を客観的に見て行けば蜃気楼のように消えてしまう幻想である。教団は長い間この夢物語を神話化して、その神話によって教団合同を正当化していた。今日ではもう顧みられなくなっている。
 高谷さんは、指路教会はルーミスの時から公会主義に反対だったのだから、教団離脱に行くのがむしろ当然だった、と言うようになった。ただし、彼がその見解を文書に認めたとは聞いていないし、離脱に反対したのは間違いであった、と公けに言ったわけでもない。――周辺的なことはそれまでにして、事柄の核心に入って行きたい。
 「教会を割るくらいなら、離脱を思い留まる」という人が圧倒的に多かった旧日基の人々の中で、ただ三教会、ごく少数の人々だけが真理問題への忠誠を証しするために分裂しても離脱した。私自身がそうであったような、痛みなしの離脱では真理の証しは立てにくかった。もし、教会の中に反対があったなら、それでも私が離脱したかどうか。
それは分からないが、私は分裂を敢えてして離脱した教会に敬意を表する。
 ところが、この決断に敬意を表する人が非常に少なかったという事実について、黙っているわけには行かない。新日基でも一般的風潮としては、割れた教会は欠陥教会であり、教会を割った牧師は欠陥牧師であると言わんばかりの評価が、表には現われないが、裏では何となくあった。初めてそのことを知ったとき、意外な、また理不尽な感じがし、現在も承服出来ない。それでも、これが旧日基から引き継いだ悪い体質である事実は認めなければならないと思っている。
 分裂させた牧師の評価が低いのは、非常に表面的な判断として、教会を纏め切れなかった指導力の不足を指摘したのではないかと思われるかも知れない。だが、私の見た範囲ではこういう意見はなかった。教会を割った牧師が指導力不足とは到底言えない。割ってまで主張を貫くその旗幟鮮明さ、その徹底性、決断性、これが好まれなかったようである。
 このような悪い体質がどのようにして作られて来たかについて、私は歴史を調べて見たことはない。多分、こうであろうと推定するところを述べるが、この体質は神学に由来する要素と、非神学的な要素、つまり日本的・因習的なものに由来するものとが、無自覚のうちに渾然と合わさって出来たものであろう。神学的な要素とは、「教会は一つである」、また「教会はキリストのものであって人間のものでない」との信仰である。この原則は正しいと言うほかない。しかし、これを実践して行く段階で蹉跌した。
その原因は原理を神学的に考え抜くことをしなかったところにある。

 「一つ」ということ、これだけを取り上げても、タップリ一日かけて話す内容だが、そこをキチンと考えないままに、ルーズに捉えたものを、信仰の事柄、告白の事柄として濫用したのではないか。自分の意見に利用できる時にだけ「一つ」ということが強調され、自分と反対の意見に対しては、一つなる教会への反逆、不信仰と決めつける。決めつけられる側に立って考えればかなり違ったものになるのに、そこまでは考えようとしない。
 さらに、「一つ」ということをしきりに主張する人は、多くの場合、本当の一つでなく、「一つに近いもの」を「一つ」と看倣して置くというスリ替えをしているように思われる。0.6以上を1と見て差し支えない場合があるが、そう見てはならない場合もあるということを弁えてもらいたい。
 「教会が一つでなければならない」と言う人の実際の努力が「51%以上の獲得」という多数派工作になってしまった場合が多い。そう看倣すことが全く許されぬ誤謬であるとは言い切れないと思うが、ホントウの一つとは別物だということを知らなければならない。そこには少数意見の黙殺という誤謬が含まれている。少数意見の排除と黙殺は違う。排除にも間違った場合は少なくないが、名を挙げて排除する場合、事柄が何であるかは一応語られる。排除した責任は確認される。黙殺の場合は責任を残さない。
 次に、「教会がキリストのものであって人間のものではない」という主張であるが、これは日基の中にはかなり強く生きており、他教派と比較すれば顕著な特色である。この主張で大事なことは、キリストの所有、キリストの支配ということであるが、その点までキッチリと捉えられているであろうか。そうでないのではないか。「出る杭は打たれる」という日本的秩序意識が横滑りして教会に入り込んだり、個性的なものが押し殺されているだけではないのか。
 個性的であることに人間の価値があると見るのが現代の風潮である。私はこの考えを正しいとは思わない。まして、教会には個性のない人しか集まっていないという世間の風評を意に介しない。ただ、教会の主は、一つ一つの人格を回復し、それを用いて、み業を行ないたもうのであるから、我々が一個の人間であり、一個の人格であり、自分のアイデンティティーを持ち、信ずるところ、志すところを貫く、思想のある人間、自分の言葉を持ち、自分の言葉に責任を負う人間であること、これは必要ではないか。ところが、教会的であることを大切にしようという主張が、往々にして、自分の意見をハッキリ言わず、また意見も思想も持たぬ、存在感の稀薄な人を増やしてしまうのである。
人間不在を教会的であると錯覚するのである。自分の意見がないのだから。反対があると、考え直すわけでもなしに、主張を引っ込め、萎縮し、黙ってしまう。要するに人間の貧困なのである。

 人のことを批判するのは躊躇われるが、教団離脱の実行の困難さに辟易して、決断を撤回し、考え方まで変えた人、あるいは、志は変わっていないと弁解しながら、当分の間「洞が峠」に退いて様子を見ようとし、そのまま腰を据えた人たちに少し触れる。主張を貫くために教会を割った側では、今日を記念して、50年が何であったかを問い直しているが、分裂を避けて教団に留まった人たちは、この50年が何であったかを問い直しているだろうか。分裂事件はそのように自分自身への問い直しの手がかりになる。
 私は日基の方が断然優位にあると言うつもりはない。日基でも問い直しをしていない場合が多いし、問い直しをする時、我々は惨めな思いにならざるを得ないからである。
私は日基の現状に非常に悲観的であり、日基は教団化し、地盤沈下どころか、もう崩壊が始まっていると感じている。それでも、日基には問い直しの手がかりになる歴史的事件としての離脱がある。だから、自らを問おうとすれば問うことが出来る。言い抜けが許されないものを我々は持ったのである。
 そこで、教団を支持した人、盛り立てはしなかったが、教団を出ることが出来ない言い訳をしきりに繰り返していた人に私は問いたい。「あなたがたはこの50年間何を自らに問うて来たか」。――もっとも、そういう人はもう在世しないから、言った言葉の責任を取れと要求するのも無理な話しである。
 この50年間に、教団側の論調は目まぐるしく変化した。変化していないのは一貫して言い抜けばかりしている点ではないだろうか。教団側と言っても、合同の意義を積極的に主張する人と、そうでない人がある。あの頃は世界の教会で「エキュメニズム」が上げ潮であったから、離脱派は偏狭で時代遅れのグループだという見解が教団の大勢を占めていた。例えば、私は39年昔「教会論入門」という書物を書いたが、この本の中に「低迷するエキュメニズム」という章がある。当時、この章に対しては非難があった。しかし、この本はその後も版を重ねて読まれているし、「低迷するエキュメニズム」とはまさにその通りだと言われるようになった。

 かつて合同が正義で、離脱は悪であるという図式化が教団の論調にあった。だから我々は悪人と見られた。私はかなり突っ張って、教団批判をし、それだけ竹篦返しを受けていたのであるが、風向きは70年代に変わった。合同は摂理だったと言い抜けて、国家権力への屈従であると認めない姿勢に、教団内の体制批判派が反発した。その頃から風向きが変わる。しかも、体制批判派は、教会を建てる神学というものに全く無頓着であったため、問題提起のしっぱなしで、教団の秩序は荒廃するばかりだったので、日基に対する教団の優越感は消えて行った。――もっとも、その分日基の立場が強化されたかと言うと、そうではない。日基自身の弱体化がその時期に始まったからである。
 さて、教団内に留まった旧日基志向の人たちには、「エキュメニズム」礼賛は流石になかった。彼らの意見は、「教団は内部矛盾によって早晩崩壊する。その時、自分たちは纏まって教団を離脱し、新日基と合同する」という目論見を論じていた。その立場を代表した神学者、熊野義孝から私は「割れても末に合はんとぞ思ふ」というザレ歌を聞かされた。神学者らしからぬセンスだが、合う日はついに来ないままに人々は世を去った。
 教団内日基には、新日基と自分たちは近いのだという意識があった。日基内でも熊野義孝門下の人にはその考えが強いが、私は違うと感じていた。もとが一つであることは確かなのだが、教団離脱の後、向かう方向が別々になり、生きる姿勢も違って来た。このことは決断する教会ということで後に触れる。違いは靖国闘争以後いっそうハッキリした。
 教団が内部矛盾を抱えていることは教団内日基の人々の指摘する通りである。では、教団は解体するのか。私はここで林牧師の卓越した見解を引いて来たい。林牧師は「教団は決して解体しない。解体するだけの精神的エネルギーを失っているからである」と言われた。くつろいだ座談の中で出たものであるが、聞いていてギクリとした。私は教団批判を論じ、崩壊を予想していたからである。この時、私よりも林牧師のほうが正しいと感じたので、自分の考えを変えた。林牧師の預言通り教団は解体しなかった。だが、向こう側の霊的な力を論じるとは、同じ刃を日基自身に向けることでもある。日基の霊的エネルギーはどうなのかをいよいよ問われる。
 教団内部のことはこれくらいにして、離脱した日基の人たちの間の教会の一致についての見解はどうであるかを検討しよう。一致ということをキチンと考えない点で、日基の大勢は内容的に教団と変わらない。
 後で話すように、私は信仰問答草案作成の作業で林牧師と一緒に仕事をするようになり、親しく談話を聞く機会をしばしば持ったが、ある時、新日基の仲間うちで自分が批判的に見られている悔しさを聞かされた。「ボクは牧師と言われるより伝道者と呼ばれたいなあ」と彼は言った。
 ここに旧日基の体質が新日基に受け継がれたと気付いたことを先に語った。牧師は教会を預かっているのだから、これを損ねたり分裂させたりしてはならないという姿勢は、教会の主に対する忠実の表れのようでもある。しかし、真理そのものへの忠実に反してまで教会の一致を守るとすれば、教会的と言うよりは封建道徳の名残りかも知れないと感ぜられる。
 私はかつて福岡城南教会で藤田治芽牧師の記念講演をした時「決断する教会の教会論」と題をつけた。この講演は「今、教会を考える」という書物に再録されている。この講演の一つの狙いは、ちょうどその時期に考えていた問題であるが、教団が「決断」という要素を排除して教会論を考えていることの批判である。しかし、決断を排除して教会論を考える傾向は日基にもある。
 城南教会の初めは、福岡教会、後の渡辺通教会からの分裂であった。この分裂のことは「福岡城南教会五十年史」にも書かれていない。躓きを起こすことを恐れたらしいのであるが、私はむしろ分裂したところに意義があるように解釈している。そういう痛みを経てこそ、教会が教会であることを捉えた教会論が立ち上がって来るのであって、「何となく教会である」という意識では、思想としての教会論は育たないのである。
 日本の教会が「我は教会を信ず」との告白を踏まえて自覚的教会論を持つようになったのは、自覚的分裂を経験してからである。高倉徳太郎の影響下における富士見町教会の分裂、藤田治芽による福岡教会の分裂、鈴木伝助による松山教会の分裂、これらには個人的要素があるが、とにかく日基の教会論を立ち上げる契機となった。宗教改革も現象としては教会分裂だったのだから、分裂が分からないと宗教改革の教会論は分からない。
 ただし、林牧師は高倉の系譜を引いたのではない。植村の系譜に属する意識は明確であって、高倉とは距離を置き、明治学院神学部関係者とも距離を置いていた。ただし、植村に傾倒しているとは大声では言わなかった。植村系であることを声高に言うのは教団に残った人たちである。
 横浜長老教会の皆さんに考えて頂きたいのは、分裂を潜り抜けての教会教会形成の証しを立てることである。日基50年の歴史は、日基のこの面での意識の不足に由来する問題を露呈した。日本キリスト教会が自覚的教会論を持つ教会として立って行くためには、分裂を経験したこの教会の使命はまだまだ残っている。離脱の精神的遺産を受け継ぐだけでなく完成して貰いたい。今では日基そのものが著しく教団化して、教団離脱の意味が薄れてしまった。
3 信仰問答草案作成 私は初め近畿中会にいたし、教団離脱第一陣の中では最も若かったのに、世代の隔たりの大きい元老格の林三喜雄牧師と割合親しい関係を持ち得たのは、神学的に近かったからであるが、近いということを知ったのは、信仰問答草案作成委員会で共同作業をする機会があったからである。
 新日基が信仰告白を制定したのは第三回大会においてであった。それまでは旧日基の信仰告白を暫定的に掲げ、信仰告白草案作成委員が新しい信仰告白の草案を起草した。
委員はお歴々であった。起草中の段階で委員が所属中会に持ち帰り、中間報告をし、意見を求めた。こういうことが二度あったと記憶する。私は近畿中会の模様しか知らないが、私たちが出した意見がかなり取り入れられている。

 こうして信仰告白が制定されたので、続いて信仰告白草案作成委員が上げられた。第一回の委員選考は投票によった。若い人を選べという掛け声があり、私は初めから、草案を大会に上程するまで、引き続いてこの委員を務めた。
 信仰問答委員会の初期のことはごく簡単に述べさせてもらう。投票で選ばれた中で私の得票が一番多かったし、その頃、若い人を立てねばならないという雰囲気があったので、私に委員長をやれということになり、異例のことであるが私は引き受けた。私は信仰告白と信仰問答について、関心というよりは使命感をもって学んでいたからである。
 第一回の大会の時に遡るが、日曜学校教案をどうするか。これを毎月発行するのはとても無理ではないかという話しになりかけた。その時、近畿中会で引き受けるという声が出て議場が驚いた。実は大会前に近畿中会の若手の教職が、この仕事を買って出ても良いという相談をしていた。その若手というのは稲田春子(後の永井春子)、今村正夫、そして私であった。今村先生は29歳だったと思う。私は27であった。ただし、その年齢から当時の私の意識を推し量ることは問題であろう。肉体の上では若かったけれども、私は戦争に生き残った余生をキリストに捧げるという意識であった。
 稲田牧師が編集の采配を振るい、今村牧師は「創世記から出エジプト記にいたる救済史の展開」という教案を書いた。私は「ジュネーヴ教会信仰問答釈義」を書いた。この教案は謄写版刷りであったが、内容はなかなかの評判であった。信仰問答草案の委員に私が選ばれたのはこの実績を買われたのであろうと思う。
 脇道に逸れたことを語ったのは、当時、力量があろうとなかろうと、日基を建て上げて行くためには、無理な仕事であっても引き受けて行かねばならないという、意気込みというか、悲壮感が日基全体に漲っていたことを汲み取って貰いたかったからである。
 それで信仰問答草案の作業に入れというわけだが、数年間は構想を温めることに費やすほかないと私は考えた。私が悠長に構えていることに対してかなりの圧迫と陰口があった。私は信仰問答と信仰告白の研究では当時既に専門家のつもりであったから、拙速によって汚名を残すのを慎もうと固い決意を持っていた。
 結局、日基の信仰告白では明確になっていると言えない改革教会の信仰の系譜を、信仰問答は明確に継承するという方針を確認し、盛り込まれる教理条項が何であるかを詰めて行き、その後問答体に書き下すという段取りを作ったが、そこで任期切れになった。

 第二期の委員に林牧師が入り、ご本人にもやる気十分であったが、みんなして彼を委員長に選んだ。委員たちは相当勤勉であったが、この委員長が強力に牽引しなければ草案は出来上がらなかったであろう。
 信仰問答草案の作業について詳しく語ることが出来ない。参加してその実態を知っている存命者は小川武満先生と、私だけになってしまったから、私には語り残す義務があるし、言い残すだけの意味のある思い出がある。だが、それは他日に譲る。その記憶を辿って文章にする機会が来ると思う。今日は、委員会における交わりを通じて私が林三喜雄という一個の牧師を観察し、学ぶべきことを汲み取った経過に主眼を置いて語りたい。
 憚らずに語って置くが、はじめの頃、日基の牧師の神学的素養の貧困の実情を知って悩んでいた。先にも触れたように、私は初めからの牧師ではなく、学問をする路線を歩んでいた。伝道者としての召しを受けた時、研究者の道を捨てた。しかし、学者として身を立てることを放棄しただけで、学問することは教会に仕える身にとって必要だとは心得ていた。だから、学者として評価されるような勉強はしないが、教会を建て上げるために役立つ学問をして行こうと願っていた。
 牧師たちの神学的貧困に悩んだとは、自分がそれまでやって来たことと比べて、みすぼらしく見えたという意味ではない。スピリットがあれば良い。私の接する範囲の若い牧師たちはシッカリ勉強していた。しかし、日基全体として見ると、生産的な神学作業をやって行ける教会ではないではないかという不安があった。実際、教団の人からはそのように批判されていた。だが、私の本当の心配はそれでもなかった。
 一番気になったのは、牧師間で「知ったか振り」が通用することであった。全員が一様にそうであったわけではないが、特にヒドイ人が近畿中会にいた。それをたしなめる人が教会にいない。だから、威張る。例えば、その人が説教の中でラテン語のフレーズを引用したことがある。私はそれが間違っていると忠告したが、彼はこれで正しいと思うと言い返した。彼は私が学識をひけらかしてその訳語に文句をつけたと思ったのであるが、私はもっと単純に、彼の引くラテン語そのものが間違っていると注意したのである。説教の中にラテン語を引用する必要は全然ないのに、それをすれば有り難がられると思ったらしい。実際、有り難く思った人はいたかも知れない。しかし、恥を末代にまで残すことになった。こういうセンスが耐えられなかった。
 林牧師にはそういう知ったか振りがなかった。しかも、見かけでは分からなかったが、なかなか神学に詳しかった。それは私の齧っている20世紀のものではなく、また生涯かけて掘り下げようとしている16世紀のものではなく、19世紀のイギリスとスコットランドの古風な神学であるが、生齧りでなく、キチッと読んでいたし、神学のスピリットを掴んでいた。私はそれで満足だったし、安心したし、尊敬した。
 草案の草稿は章単位で割り当てられた。委員長がなかなか強引だと言いながら、委員たちは委員長について行った。次に、委員会を召集してその初稿を検討した。相当に厳しい作業である。しかし、私にとっては楽しい学びであった。当時は泊まり込みの委員会を開く会場も少なかった。大山の中腹にある先達の小屋をよく使った。
 終末論の章の草稿を書いたのは小川牧師である。こういう章を設けること自体、疑問を感じる委員が少なくなかったが、そこは押し切った。その本文決定に際しての論戦は全作業のうちの白眉であった。小川先生はこの章を執筆することに使命を感じて打ち込んだ。それは学生時代に熊野義孝の「終末論と歴史哲学」に傾倒しながら、ある疑問を感じ、その疑問がますます増大して行く中で、日基の教団離脱を機に終末論を明確化し、その光りのもとで教会と国家の問題を解明しなければならないとの確信があったのである。私は小川牧師の比較的近いところにいたから知っているが、彼はこの章を書く数カ月、布団を敷いて寝ることなく、机に向かったまま僅かに睡眠を取るという生活を続けていた。
 他の章においても大体そうであったが、草稿を書いた人は、語りたいことが多く、力を込めて書くから長くなる。それが削られると、ムキになる。その戦いが最も激烈だったのは、先に白眉と言った「終わりの日」の章である。林・小川の一騎打ちとか、龍虎相打つという表現はたしかに相応しくないのだが、或意味ではこの二人の戦いが中心にあった。この章の審理をしているうちに夜が更けて、12時を過ぎた。委員長は委員たちの疲労に同情し、他の委員は休ませて、小川先生と二人で4時頃まで議論を続けるということもあった。
 林・小川の論戦と言うと、二人の神学的な食い違いがあると言っているように取られるかも知れない。しかし、本質的な食い違いではなかった。読んだ人なら十分分かっていると思うが、草案として確定したものは妥協の産物ではない。妥協の産物なら、あれだけのことは言えない。委員会の作ったものであるから、個人の作品ではないが、関わった個人はこれに責任を持つことが出来るのである。私は率直に言うが、林先生があそこまで小川案を受け入れるとは予想しなかったので尊敬の念をあつくした。
 この「終わりの日」の章は草稿を作った人から見れば、無惨にも骨抜きになったのであるが、それでも起草者は削除を承知したのであって、初志は貫かれていると言うほかない。私はそばにいて、その場の勢いに呑まれた者であり、作成過程をほぼ全部にわたって知っている者であるから、客観的に評価する資格がないと見られるであろう。そう見られても私は反論するつもりはない。

 私が証言したいのは、信仰問答のこの章があったからこそ、我々は靖国を戦うことが出来たのだということである。言い過ぎであるかどうかは実際に読んで確かめて貰いたい。
 さて、このようにして作られた信仰問答草案を日基の大会は採決しなかった。林先生は心血を注いで作ったものが認知されない悔しさを心に抱いたまま世を去られた。なぜこの草案がこのように忌避されるのか。私には分からない。分からないことは他にも色々あるが、これは特に分からない。この信仰問答は出来が悪いと言う人がいる。私は信仰問答については、その批評をする人よりはズッと深く系統的に勉強していて、それは認められているはずだが、歴史の中に置いてそれほど恥ずかしくないものだと思っている。
 解釈の一つの手がかりになるのは、先ほど言った靖国闘争との関係である。靖国闘争が実際に始まったのはもっと後だが、この信仰問答を採択すると、大きい闘争に入って抜き差しならなくなるとの不安を予測した人たちが、採択を躊躇ったのではないかと私は推測している。あるいは採決の決断を避けたかったのこも知れない。信仰問答草案の不採択が日基の頽落の大きい一歩であった。その問題を私は困ったものと思ったが、大きい危機に繋がることは見抜けなかった。林牧師はこれを危機として捉えていた。私がもう少しマシな人間であったなら、誘いに乗り、語り合って、戦いを組んだのである。
4 日基とは何か 離脱当初、旧い日基を知る老人たちは、日基が再建されたと言って感激していた。一方、若い者は再建するに価するほどの立派な旧日基なるものを経験していない。もう少しハッキリ言うなら、そういうものはなかったのではないかという気がしていた。旧日基がシッカリしていなかったからこそ、教団合同になだれ込んで崩れたのではないか。
だから、昔のものの再建でなく、まだ見ていない教会像を模索しつつ、前に向かって走ろうとした。
 しかし、教団離脱に大義名分がなかったとか、単なる後ろ向きの無思想の行動であったと見てはならない。「教会は信仰告白によって立つのであるから、信仰告白を持とうとしない教団に留まることは出来ない」という主張は我々が教団にいる間から掲げられていた。したがって、教団離脱は「告白教会」の形成のためであるという旗が立てられた。その旗手は一群の人々であるが、その頭目は林牧師であった。この旗印に対する反論はなかったから、これが一応日基の公式見解と言って良い。しかし、この主張には徹底を欠くという弱みがあった。だからスローガンに終わって、スローガンを実質化する神学研究が伴わず、したがって志が持続せず、次世代に継承されず、今日ではかつてそのような旗印を掲げていたことも忘れられてしまった。

 「告白教会」とは、「信条教会」ではないのだ。「告白しつつある教会」なのだという主張も当時は日基の支配的な論調であって、その見解に対する反論もなかった。では、その後、日基の見解は更に洗練され、強化されて、さらに展開したかというと、その逆であった。今日では告白的教会の形成という掛け声すら聞かなくなっている。
 どうしてこういう退行現象が起こったのか。私の分析によると二つの要因がある。一つは靖国闘争の神学的掘り下げの不徹底である。これを積極的に受け止めた人たちは、靖国闘争こそ、告白的教会であるか・ないかの目印になると捉え、その方向に努力した。そして、靖国闘争に熱心でない人たちは、告白的であることにも不熱心になって行った。靖国闘争の看板は下ろさないが、やることがお座なりになっている。靖国闘争を積極的に捉えることが出来ないとは、政治判断の弱さでなく、「教会を信ず」という信仰の弱さである。その基本的な弱さを克服し切れないうちに靖国闘争が始まったという悲劇なのだ。
 第二に、告白教会が信条教会でないのは確かであるが、告白的であり続けるためには、地道な信条研究が必要である。だが、そのことが強調されなかった。一部の人々は研究を続けたが、日基全体としては信条研究への関心が冷めて行った。そのために、告白的であることの実質が稀薄になった。第一点と共に、我々は大事なことを叫び続けなければならなかったのに手を抜いた。叫ぶべきことならば、聞かれなくても、愚直に叫び続けなければならない。持続にこそ意味がある。だが、私はそれを怠った。気が付いた時は遅すぎた。慚愧に堪えない。
 では、50年の回り道の果てに、もとに戻ったのか。そう決めつけるのは性急に過ぎる。教会と国家という意識が進んだことは歴然としている。信仰告白について考えていた我々は、靖国闘争以来「信仰告白の事態」というものについて考えるようになっている。「信仰告白の事態」とは、直接に信仰告白の内容ではないが、無視すると信仰内容がホネ抜きになってしまうというそういう事態である。こういう言葉が使われるようになったのは16世紀の宗教改革の時期であったが、教会の分裂を再統合しようとするドイツ皇帝は、礼拝形式だけでもカトリックと統一させようと強制した。
 プロテスタントの中の協調的な人たちは形式は内実ではなく、どちらでも良いものであるから、信仰に抵触しない、と言って、これを受け入れようとした。しかし、これは信仰告白の事態であるから譲歩してはならない、という意見が勝った。ちょうど、食物について我々は自由であるが、パウロがコリント前書8章で、兄弟を躓かせるならば、肉を食べないと言ったように、どちらでも良いものではなくなる。「躓きの事態」には例外になる。同じように、外面的なこと、この世の政治の事柄であっても、「信仰告白の事態」なら教会外のことと見てはならない。
 宗教改革のこの遺産を日基はようやく意識し始めた。例えば、20年前になるが、沖縄で一人の日基の牧師が基地反対の行動を始めた。沖縄の人々の置かれている現実の中で、基地を容認していては福音が福音でないものになってしまう、と彼は感じ取った。彼にとっては基地は告白の事態である。そして、彼と同じ信仰告白を掲げる者にとって彼の戦いに連帯しないことは、教会を信ずという告白を空文化するものでしかないから、ここにも信仰告白の事態がある。
 この問題は確かに簡単ではない。あらゆるものを信仰告白の事態に属すると看倣さねばならない面もあるし、そう言い切れるとしても、現実にあらゆる問題に対応することは不可能である。しかし、戦前の我々が過ちを犯したのは信仰告白の事態になっていることを見ようとしなかったからである。
 時間がもう尽きた。50年を回顧し、私自身にはもはや活動の余地を幾らも残されないのであるが、愚直に徹することを恥じず、残魂余魄を傾けて、し残した仕事をし続けなければならないとの思いを新たにされていることを申し上げて、この記念講演を終わる。
 

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