上田教会における聖書講演

2000.11.03.この時代がその責任を問われるであろう――ルカによる福音書11章45-51節によって――

 イエス・キリストが律法学者と論争しておられる言葉の一端を今日は学ぼうと思う。この時に語られた御言葉は実に鋭いのだ。それは主イエスの前に立っているパリサイ派の律法学者の胸に鋭く突き刺さるだけでなく、遥か離れたところにいるはずである我々の心にさえグサリと刺さるのである。今日は50節51節の言葉を重点的に学ぼうと思っているのであるが、そこに至る導入として、47-48節に触れておこう。
 「あなたがたは禍いである。預言者たちの碑を建てるが、しかし、彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。だから、あなたがたは、自分の先祖の仕業に同意する証人なのだ。先祖らが彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから」。
 先祖が預言者を殺し、子孫がその碑を建てる時、彼らは心の中で言う、「先祖の犯した罪は大きい。我々はその罪について痛み入っている。我々はあのようなことを繰り返してはならないと承知している。繰り返さぬという誓いを籠めて、今、この碑を建てるのだ」。そのように彼らは自分のすることを意義づける。
 そのような殉教者を記念する碑は、あちこちに建っている。これは前の時代の罪の清算がつけられた徴であると普通は考えられている。しかし、イエス・キリストは殺された預言者の碑を建てる者の心を、裏まで見抜いておられた。それは偽善だということがキリストの前で明らかになる。自分は預言者を殺すような罪人ではないと見せ掛けるための偽装工作である。
 それは厳し過ぎる見方ではないかと言われるかも知れない。しかし、少しも厳し過ぎはしなかった。予告通りのことが起こったのではないか。すなわち、自分たちは先祖の罪に与しない、と言っていた律法学者自身が、このしばらく後にイエス・キリストを殺したのである。
 すでにこの前置きで我々の口は塞がれてしまう。しかし、今読んだところは序の口である。そのお方が次に言われるのである。
 「アベルの血から、祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されて来た全ての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう」。
 キリストのこのお言葉は、キリスト者の間で余り聞かれる機会のない聖句である。そう言う私自身、この言葉を勿論記憶のうちに留めてはいたが、かつてはそれほど真剣に取り上げたことはなかった。しかし、近年、この言葉が現代に迫って来る鋭さに圧倒されるのを感じている。
 「アベルの血から、ザカリヤの血に至るまで」と主イエスは言われた。アベルは歴史の初め、ザカリヤは最近のこと、つまり、歴史の全域を指しておられる。
 ザカリヤという人については全く分からない。マタイ伝にはこの人のことを「バラキヤの子ゼカリヤ」と言っている。その名は聖書の他の個所には出ていない。神の御霊によって警告の預言を語ったために、王の命により、民衆によって神殿の中で殺された「エホヤダの子祭司ザカリヤ」という人がいたことは、歴代志下24章20節に書かれているが、800年前の人であるから、それが「バラキヤの子ゼカリヤ」であるとは思われない。
 また、マタイ伝では「あなたがたが殺した」と言われているから、その殺害は最近の出来事のようである。その史実を確かめることは今のところ出来ない。礼拝を純粋なものに回復しようとして、反対者に殺された人であることは確かであろう。
 アベルのことは創世記4章によって良く知られている。アダムの二人の子のうちの一人である。彼を殺したのはその兄のカインであった。カインはアベルを殺して、土に埋め、知らぬ顔で通そうとした。歴史の殆ど発端と言ってよいほどの時期に、殺人、しかも兄弟殺しという事件が起こったのである。そして殺人の証拠を隠滅しようとする策略が、この早い時期の人類にあったのだ。
 ところで、カインはなぜアベルを殺したのか。それはアベルの正しいことが神に認められ、カインは正しくないと見られたから、後者は前者を恨んだのである。ヘブル書11章4節にはアベルは正しい故に殺された信仰者の第一号として記されている。カインがアベルを殺した時以来、人々がザカリヤを殺したまでの累積した血の責任が、この時代に負わされる、とイエス・キリストは言われた。
 どういうことであろうか。今回は、ここで三つの点について考察したいと思う。第一は、過去の時代の責任が後の時代に負わせられるという問題である。第二に、特にこの時代、今の時代、すなわちイエス・キリストが地上におられた時代について、イエス・キリストが厳しい預言をしておられる点を読み取りたい。第三に、この時代が責任を負わせられることの本当の意味が何かを問いたい。三つとも難しい問題である。
 第一点であるが、すでに非常に難しい問題である。これを過去の責任が「運命」として現代にまわって来るということで了解すれば簡単であるが、「神が生きておられる」と信ずる我々には、運命という考えは受け入れられない。
 他の人の罪を負うということは不合理ではないか、と人々は「個」に目覚めて以来ズッと考えて来た。人は自分自身の罪について裁かれるのであって、他の人の罪を負わされることはない。エゼキエル書18章に「父が酸い葡萄を食べたので子供の歯が浮く」という諺が否定される。全ての魂は神に属するから、罪を犯した当人が裁かれるのである。
 「義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰す」と神は言われる。
 旧約聖書でも否定されたことを、イエス・キリストはどうしてまた持ち出されたのであろうか。そのことは聖書を学ぶ人たちの間で昔から繰り返し問題にされた。しかし、今日の人はかつての時代の人よりは、キリストのこの御言葉に躓くことが比較的少ないのではないか。現代は、ある意味では、かつての時代の責任を取らせられている時代ではないかと思われるからである。
 若い方々には申し訳ないことであるが、近年続々と世を去った世代、また現在老い衰えて死を待っている世代、つまり私がその世代の人間なのであるが、その世代がかつて犯した戦争の罪責の故に、また戦争の後の時代に戦争の責任をキチンと果たして来なかった故に、今の世代と今後の世代が負い目を負わなければならなくなっている。周囲の国々から、日本の過去の責任について始終言われるのである。日本人が十分納得して聞いているとは言えないが、責任追及されている事実は否定出来ない。罪を犯した当人は死んでしまい、別の人が罪を負わせられているという現実がある。
 数年前から、私は日本支配の時代の韓国で、神社参拝を拒絶したために逮捕され、投獄されたキリスト者たちのことを調べているが、中には拷問で殺された人もいる。その調査に携わって行く中で、「今の時代が責任を問われる」とのイエス・キリストの言葉が、今私のしていることに光りを当てるような新鮮さで受け取られるようになった。
 私は、自ら戦争に関与した者であるから、戦争責任という問題を50年余りズッと意識し続けて来ている。それとともに、戦争責任を糾明し、研究し、また自らも担って行こうとする運動、アジア民衆法廷とか、韓国・朝鮮人元BC級戦争犯罪人の補償請求とか、元従軍慰安婦の人権回復などの運動に連なって来た。その運動を一緒にやっている人の大部分は、私よりズッと若く、戦争を知らない。私は戦争体験があるから、己れの責任を考えざるを得なくて、この運動に関わるのであるが、彼らは責任を問われる行為をしていない。にも拘わらず、生まれる前に終わった戦争の後始末の責任が今の世代に問われている現実を、不条理だとして黙殺するのでなく、よく分からぬままに感じ取り、これに打ち込むことの意義を掴んでいる。
 また、私の場合、戦争罪責を意識させる主たる要因は私自身のキリスト教信仰である。
 前線に出て、連日、死と隣り合せの生活が続いた。船団護衛が仕事であったから、戦争犯罪に当たることはしていない。しかし、戦争に加わったこと自体の責任は回避出来ない。また自分の意志で軍隊に入ったのではなく、所謂「学徒出陣」で軍隊に入らざるを得なかったから責任は軽いと言ってくれる人がいる。それでも、私はキリスト者として、祖国のために潔く死ぬのは義務なのだと本気で考えた。それは神に対する不誠実であり、自分を誤魔化す不誠実であり、結果として私の戦争協力体制が戦争終結を遅らせ、犠牲者の数を増やす原因の一端にもなっていることに気付いている。
 そのように、私はキリスト教信仰なしでは考えられなかった考え方に従って、戦争責任を担うのであるが、クリスチャンでない人たちは当然、私と思想的基盤が違う。しかし、その中にも、私の話しを首肯きながら聞いてくれる人は結構いる。だから、「この時代が責任を問われる」という言葉を、なにがしか理解してくれる若い人、またクリスチャンでない人が少なくないということに気付かせられている。
 なぜこういうことになるのであろうか。今日与えられている聖書の言葉と直接には関係ないかも知れないが、現代のナマの問題なので私の考えを述べておく。正義が損なわれた時には、その社会の中で失われた正義を回復する自浄作用を行なわなければ、人類の社会は維持出来ないのである。犯罪があったなら、裁判が行なわれ、処罰がある。処罰で正義が本当に回復するのかと問題にする余地は十分あるのだが、犯罪を放置して置けば、社会はますます悪くなる。
 第二次世界大戦の戦争犯罪の場合、連合国は極東裁判を開いた。しかし、裁判の名に価しない裁判であった。戦争の最高責任者は裁判に掛けられなかった。正義以外の要素が入っているからである。また責任者全体に関して、その責任の重さに見合う公平な刑罰があったわけではない。責任の重い者が逃げて、より軽い人が逃亡した上官の責任を負って死刑になるという場合が多かった。裁判を行なった側は、謂わば腹癒せに処刑したのであって、当該者でないのに処刑された例が少なくない。しかも、この裁判によっては実際に著しく被害を受けたアジアの隣人の人権回復は何もなされなかった。勝利者による報復はある程度行なわれたが、正義の回復はなかった。
 その回復が次の時代に持ち越されたから、次の世代の人であっても、この社会に属する以上は、正義を回復しなければならない。次の世代に持ち越されたのに、この世代がそれを果たさなかったとすれば、その責任が問われる。こうして、正義が回復するまで責任追及は続くのである。
 イエス・キリストの言われたこの言葉を、過去の未清算の負債の累積による破産、というふうに解釈するのは、乱暴だと言われかねないことは承知している。だが、議論は抜きにして、「この時代が責任を問われる」という言葉を今日の世界に当て嵌めるのは当然ではないか。確かに、日本の過去の世代の罪について、今の世代が責任を追及されるという現実があるのだ。例えば、かつて日本軍の侵略した地に日本の若者が行くとする。彼はその地の民衆の冷たい視線を感じないではおられない。「自分は戦争の後で生まれたのだから、恨みを受けるのは筋違いだ」と言ったとしても、新しい言い争いを起こすだけであろう。自分の身に覚えがないとしても、過去の罪を負っている、不条理であるとしても、この冷厳な事実を認めなければならない。
 現今の日本の厳しい状況、これは過去の罪について日本がキチンと清算しなかったその責任を、今、見えない力によって問われていることなのだ。日本は自らの罪を認めないことによって、負債をますます増やしている。その責任が問われ始めているのが今日であり、その負債には時とともにますます利子が増えて来た。国際的にも日本不信、日本侮蔑という道徳的負債のツケが日々増えて行く。
 21世紀に生きる皆さんは、日々に累積して行く赤字を担う者として生きなければならない。私は、過去の世代に属する老人なので、これからの人々に我々の世代のうちに解決出来なかった、あるいは新しく殖やした負債を残すことを申し訳なく思っている。しかし、恐縮したところで、何の解決にもならないから、若い人々がこの重荷を積極的に担って下さることをお願いするほかない。積極的に担うとは、負わされた負債の由来とそれを負う意義を理解して担い、この国を新しい負債を作らない国に変えることである。
 さて、戦争責任の問題はここでしばらく措くとして、今日、次の世代はもっと別の面でさらに厳しい重荷を負わなければならないと言われている。国庫の財政赤字が累積して行くのである。これまでの与党の政治家たちの補助金バラ撒きの放漫な政策によって赤字国債が増え、ツケが次の時代に廻される。生まれた時にすでに1人当たり何百万円かの負債を負わされている。
 まだほかにある。高度成長に有頂天になっていた世代の放漫な浪費によって、個人の消費生活が混乱し、企業体の経営が弱体化したとともに、限りあるエネルギー資源はドンドン減って行った。次の時代の人々は、余程つましい生活をしなければ、生存出来ないであろう。
 それだけではないのである。地球はズンズン汚染され、汚染が蓄積され、環境は日増しに破壊されて行き、その汚染された地球が次の世代に受け継がれる。次の世代の人々は、さらに劣悪な環境のもとに生きなければならない。彼らは、今の我々より遥かに深刻な思いをもって、「この時代がその責任を問われるであろう」というイエス・キリストの言葉を噛みしめなければならないのではないだろうか。
 ただし、イエス・キリストがここで教えておられることは、どの時代にも当て嵌まる原則ではない。また、一つの時代が犯罪行為をしていなくても、過去の時代の犯罪の責任を問われる、と原則論を言われるのでもない。この教えは、「この時代」に関する警告である。イエス・キリストのおられた時代に対する発言である。もっと分かりやすく言えば、イエス・キリスト自身が、まさに殺されようとしている時代について語られていた。彼の時代が終わり切らぬうちに、ユダヤ人への裁きが下って、エルサレムは破壊され、ユダヤが滅亡することの予告であり、警告である。これが今日考察すべき第二点である。
 キリストの警告はその通り実現した。エルサレムの滅亡については彼は福音書のそこかしこで予告しておられる。彼が最後にエルサレム入りをされる時のことが、こう書かれている。「いよいよ都の近くに来て、それが見えた時、そのために泣いて言われた、『もしお前も、この日に、平和を齎す道を知ってさえいたら、……。しかし、それは今お前の目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫り、お前とその内にいる子らとを地に打ち倒し、場内の一つの石も他の石の上に残しておかない日が来るであろう。それは、お前が神の訪れの時を知らないでいたからである』」。これはローマ軍によるエルサレム攻城戦の有り様を述べたものであるが、その通りになったのである。
 彼が十字架を負わせられて、死刑執行の場ゴルゴタに向かって行く時、大勢の民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れが従って行った。イエスは女たちの方に振り向いて言われた、「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くが良い。不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは幸いだ、と言う日が今に来る」。――これも明らかにエルサレムの滅亡の悲劇を予告された言葉である。
 「この時代」という一語が非常に重い調子を帯びているように聞きとれるのである。イエス・キリストは今始まる新しい時代に光りを点じたもうたように見られている。それは間違いではないが、これまでは闇の時代で、ここから喜びの時代が始まったと単純に言わない方が良いであろう。
 彼はここで、その時代に対して警告と審判の言葉を語っておられるのである。したがって、彼に従って生きる者も、その時代に対する鋭い洞察と厳しい姿勢を取って警告を語らなければならないのではないか、と考えさせられる。時代と仲良くしようとして擦り寄って行ってはならない。
 「全ての預言者の血について、この時代が責任を問われる」。……先ず、イエス・キリストは「全ての預言者は血を流させられたのだ」とハッキリ言われた。これはキリストの教えの特色の一つである。彼はそれだけでなく、彼の教えに従う者も全てこの列に加わると言われるのである。マタイ伝5章11節、「私のために人々があなたがたを罵り、また迫害し、あなたがたに対して様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。
 喜び、悦べ。天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。つまり、真実を語った預言者が皆、次々に殺された。
 そして、預言者の血を流したツケが今の時代にまわって来る、と言われるのである。彼自身は予告通り殺されたし、実際、言われた通りにエルサレムはこの時代、紀元70年に滅亡し、ユダヤ人は亡国の民となった。
 聖書のこの箇所が強調されなくなった一つの要因は、キリスト教にある反ユダヤ主義、ユダヤ人差別、これと無関係とは言えないナチスのユダヤ人絶滅政策、その反省からキリスト教内部で、20世紀後半、新約聖書の反ユダヤ的要素を自己規制するようになったことである。しかし、本来のイエスの御言葉は、今言った通り具体的事件についての預言であり、かなり重要な言葉であり、また、そういう意味に取らないなら、預言者から伝統を引き継いで語った精神が無視されるのである。
 今見たような事情から、この聖句そのものが忘れられ、教会で取り上げられる機会がなくなり、引いては「今の時代」を考えることも、それに対して警告を発することも鈍くなったのではないかと思うが、そのような読み方を見直さねばならない。
 イエス・キリストが「今の時代が責任を問われる」と言われたのは、先に述べた通り、エルサレムの滅亡の予告である。だが、私はこの言葉の中にそれ以上の深い意味を読み取るべきだと思っている。これが今日の学びの第三点である。
 すなわち、「この時代が責任を問われる。私はこの時代の中に立っている。それ故、この時代が負わねばならない刑罰を私が負う」。そうキリストが言われたという読み方をするのである。だから、彼は十字架につけられて、全ての時代の罪を担って死なれた。
 ――そういうふうに読み取る時、我々が今の時代の中で、時代の罪を負って行く積極的意義が見出される。
 キリストは「人もし我に従い来たらんと思わば、己れを捨て、己が十字架を負いて我に従え」と言われた。この御方を見上げているから、我々も今のこの世で十字架を負う。
 それがキリスト教であると私は信じている。
 今私が論じていることは、クリスチャンでない方の多くには謎のようにしか聞こえないのではないかと思う。クリスチャンである人の中にも、聖書のそんな読み方は教えられたこともない、そんな厳しい読み方はご免蒙る、と言う人が多いに違いない。だが、私は確信をもって言うが、クリスチャンであろうとなかろうと、またこの話しが分かろうと分かるまいと、誰もがここに真実があることを、少なくとも幾分かは感じることが出来るはずである。
 もっと大事な問題が残っている。いったい、今の時代が責任を問われるのはどこからか。過去の世代から負債を受け継がざるを得ないのは、運命だと納得している人が多いかも知れない。そう考えて諦めるのが人生知とされて来た。しかし、先ほど言った積極的に現代の重荷を担う生き方は、運命という考えからは生まれて来ない。キリストの十字架の死も運命への屈服ではなかった。我々の場合も、時代の中の諸矛盾に甘んじて屈従することではない。
 今の時代の責任を問うのは、神である。この状況を論じ尽くすことは限られた時間の中では無理だが、その一端を感じ取ることなら出来るであろう。また自分を語ることになるが、私は戦争に参加した者として、同世代人によって戦争中に犯された残虐行為に責任を感じ、実態だけでも掴みたく、かつて日本軍が占領した地に行くごとに、占領中の様子を聞き出している。例えば、西パプアのミエイという町を訪ねたことがあるが、戦争中ここでは、アンボン人がアンボン人であるというだけの理由で全員斬り殺された。
 日本軍はアンボン人は古くからオランダ化し、オランダ贔屓で、したがって反日であるはずだから、全員殺すという方針を立てていた。初めて聞く事実であった。その話しを聞きながら思い起こしたのは、聖書の創世記にある一つの物語りである。
 人類の最初の殺人は兄弟殺しであった。先ほどアベルの血以来、という言葉が出たが、アベルは兄カインに野で殺され、土に埋められた。犯罪の証拠はこれで完全に隠滅されたとカインは考えた。しかし神はカインに問いたもう。「お前の弟アベルはどこにいるのか」。カインは「知りません。私が弟の番人でしょうか」と答える。神はさらに問いたもう、「お前の弟の血が土の中から私を呼ぶ」。カインはもうそれ以上は詐ることが出来なくなった。この言葉を思い起こした時、私の立っている土地の下から、殺された人の叫びが神に届いているのに、「私が弟の番人でしょうか」と開き直って良いだろうかと考えないではおられなかった。
 「この時代が責任を問われる」。この時代に血の負債の精算が迫られる。この言葉は十分厳しく受け止めるべきである。それでは、この時代で終わりになって、もう先がないのか。希望がないのか。そうではない。希望がある。将来がある。なぜそうなのか。それは主イエスの言葉自体から聞き取れる。
 「これまでの時代に流された血について、この時代が責任を問われる」と言われたことの一つの意味、隠された意味、いや、その究極の意味、本当の意味は、「この時代の中に立つ私がそれらの全ての罪を罪人に代わって一身に負う」ということなのだ。この宣言の意味は信じない者には全く難解であろう。しかし、今日は分からなくても、私が何とかしてこれを受け止めて貰おうとしていることは汲み取って頂きたい。
 イエス・キリストが十字架につけられた意味はそこにある。そのキリストが「全て私に従おうと思う者は、己れを捨て、自分の十字架を負うて、私について来なさい」と言われる。私が私の十字架を負うて、キリストに従っても、それは何の価値もないことである。しかし、キリストはそのようにして随いて行く私を受け入れて、ご自身にある一切の祝福に私をも与らせて下さる。だから、将来があり、希望がある。
 今日、最後に聞くのは将来についての言葉である。「私があなたがたに対して抱いている計画は私が知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。エレミヤ書29章11節の言葉である。
 過去を清算して下さるお方が、将来を開いて下さる。その将来へと、我々は今呼び込まれているのである。
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