上田教会における神学講演

2000.11.02.「残りの者」の教会――真実の教会論を求めて――


 1
 間もなく21世紀が始まろうとしている。では、まさに閉じられようとしているこの20世紀は何だったのか。――それが問われていることを我々は胸苦しいほど感じる。「戦争に明け暮れた世紀でしかなかった」と答えるほかないのではないか。世界は二度に亙る大戦争と、殆ど間断なくどこかで行なわれる数え切れない中小の戦争を経験した。それ以外の経験をこれと並べて論じることは出来ないほど、戦争は20世紀の目印になっているのではないか。
 我々の住む国はこの世紀の後半、戦争に巻き込まれなかったことになっているが、世界のどこかでは、いつも戦火と流血が繰り返され、間接的には我々もそれに参与していた。すなわち、戦争をしている当事国の欲しがる物を作って売ることによって、戦争をしていない国々は利益を得、その国の国民は欲する・欲しないの区別なく、利益の分け前に与って、経済的に潤った。譬えるならば、戦闘の行なわれた跡にハイエナやハゲタカが集まって、戦死者の屍を貪り食うように、我々の国は他者の犠牲によって肥え太り、我々自身も肥え太って来た。自分たちの国では戦争がなくて幸いだった、と単純に喜んではならない状況であった。
 しかも、このように肥え太る国々では、世紀末が近付き始めた頃から、様々な局面における行き詰まりと崩壊が目に見えて拡がって行った。経済の停滞は多数の小企業を倒産させただけでなく、大企業も倒産させた。政治の崩壊ぶりはどうであろうか。少し前までは、政治家のうちの或る者の人間としての崩壊が話題になることはあった。しかし、今では政治そのものの崩壊を悲しまなければならなくなっている。教育の崩壊しかり。
 道徳の崩壊また然り。人間性の崩壊は日増しに進んでいる。世界的な傾向であるが、最も顕著に崩壊が進んでいるのはこの日本社会ではないかと思われる。
 1918年に第一次世界大戦が終わった時、人々は自分たちの犯した恐ろしい破壊と殺戮を見て、深刻に悩んだようである。彼らは真剣に考えた。その真剣な掘り下げによって戦争の悲劇がなくなった訳ではないが、その思索から何冊か世を揺るがすほどの書物が生み出された。ところが、第二次世界大戦終了後、大著と言えるほどの書物は書かれていない。――こういうことを言うのは、私が物知らずで、偉大な書物が書かれたのに、私が知らないだけかも知れない。あるいはまた、優れた書物は書かれているが、数が多過ぎて目に付かないだけではないのか。それでも、私は自分の専門分野と関連分野については諸外国の文献も一応知っているつもりである。第一次大戦の後では、例えば、バルトの「ローマ書」のような物が著わされたのであるが、20世紀後半には、世界を揺るがし、読む人を震え上がらせ、その感化が生涯残るほどの神学書は出版されていない。それは、人間の思索が全般的に貧困になったからではないだろうか。
 20世紀後半には、「史上最大」と銘打つ出来事や催し物が次々と生み出されたり、演出されたりした。人々はその大きさに圧倒され、感動しそうになったが、次にはもっと大きいものが出現すると予測されるから、目を楽しませることは出来たが、魂を揺り動かすほどの出会いにならなかったのである。
 20世紀後半の戦争については、先に触れた通りであるが、世紀の前半はどうであったか。日本では、それは侵略につぐ侵略の野蛮な軍事行動であった。侵略の軍を起こす口実を作るために、陰謀、言いがかり、裏切り、――真相を知ったならば、その国に属していることを恥じ入るほかないような醜悪な悪事が積み重ねられて、1945年の破局に向けて進んでいった。しかも、日本国民の大部分は真相を知らされず、知ろうともせず、軍部と政府の宣伝を真に受けて、事実と真反対の認識を持っていた。
 そのような国が55年前に潰えるべくして潰えたのであるが、それで事が終わったのではなく、少なくとも事後処理の責任が残った。その処理を日本は長い間放置したまま、何とも思わなかった。一例を挙げるならば、中国東北部に夥しく放置された毒ガス弾の処理が、55年の放置期間の後ようやく今年着手された。これは、責任処理を始めた例の一つで、まだ放置されている部門が大部分であることは言うまでもない。
 長く放っておいた間に、日本人の責任意識がますます鈍ってきたことを無視してはならない。敗戦直後の日本は、周囲の諸国の同情と寛容、あるいは日本の人的資源を利用しようとの思惑によって、責任の徹底糾弾を免れた。しかし、良心ある国民であったならば、同情されていても、自己の責任を悟って、被害者に対して然るべく補償していなければならなかったのに、それをしないで、ひたすら自らの豊かさの追求ばかりしていた。だから、90年代になって周囲国の被害者が訴え始めた。その訴えを聞く耳を持つ人が日本にはまことに少ないのである。
 日本における道徳の崩壊、人間性の崩壊について、私自身も感覚を鈍らせていた。ようやくこの世紀の終わりの30年、実情に気付き始め、及ばずながら自らを戒めるとともに、世に警告を発する行動をして来た。そういう警告をしていたから、自分の責任は免れると思っているのでは決してない。我々の主張をここで繰り返すと、戦争責任をキチンと取らないことによって、日本の道徳が根底から腐敗して崩れたのである。それが今日の崩壊であり、それが神の審判である。戦争責任を処理しないことが、戦後の罪であり、戦争責任に戦後責任が新しく加わることになった。
 今日は語ろうとする主題が別のことであるから、「戦争責任・戦後責任」の問題についてはこれ以上述べないが、私は一個の人間、また一日本人、一キリスト者、そして実際に戦争に参加した旧兵士として、この問題についてズッと考え、機会ある毎に発言しているので、皆さんにも考えて頂きたく思っている。1945年8月という時点で日本が戦争責任を真剣に取り上げ始めたならば、今日見るような虚妄な日本はなかったであろう。
 戦争責任を回避し、回避出来なくなった時には解決を先送りし、誤魔化しを重ねて来た日本は、1945年8月の全面的な軍事的敗北に続いて、半世紀の後に道徳的敗戦国にならざるを得なかったのである。それが今日見る崩壊である。
 その崩壊に立ち向かうものはないのか。「ここでキリスト教の出番がある」と言うことが出来ればどんなに幸いであろう。しかし、悲しいことに、「キリスト教もまた崩壊している」と言わなければならない。エゼキエル書22章30節に記される神の言葉を思い起こす。「私は、国のために石垣を築き、私の前にあって破れ口に立ち、私にこれを滅ぼさせないようにする者を彼らのうちに尋ねたが、得られなかった」。神がエルサレムを滅ぼそうとして石垣を崩したとき、神の前に進み出て執り成しをし、石垣を築き直して、崩壊を未然に防ぐ者がいないかどうか探されたが、いなかった。神は破れ口に立つ者がいないことについて裁かれた。今もそのままなのだ。神が人間のように慨嘆しておられると考えてはならない。神は「神の民」と名乗っている者に対して怒りたもうのである。
 私がそのように語ると、怒り出す人がお集まりの方々の中にいるかも知れない。「キリスト教の話しを聞かせるという触れ込みで人を集めて置きながら、『キリスト教も駄目だ』と言うのは、無責任も甚だしい」と憤慨する人がクリスチャンの中にも、クリスチャンでない人の中にもいるであろう。特に後者が怒るのは無理もないと思う。しかし、ここで私が人を怒らせないように、ある程度納得してもらえるような上手なお喋りをすることは、しようと思えば出来なくはないが、その場限りの、尤もらしい弁舌で問題を先送りするに過ぎず、誤魔化しである。ハッキリ言って、日本のキリスト教会は、これまでそういう誤魔化しばかり重ねて来た。
 例えば、55年前の敗戦の時、「日本の復興の原動力を担うのはキリスト教だ」という意味のことを教会は社会に向けて説き、人々はこの宣伝は本当だと思い、教会堂には人が溢れた。そして、間もなく群衆は散って行った。教会はその時、「心定まらない大衆は仕様のないものだ」というような言葉を呟いて、自分の責任を考えようとはせず、去って行った方が悪いと見た。
 その言い分が全く間違っていたとは思わない。強い者に媚びる習性を養われて来た民衆は、占領地の住民に対する生殺与奪の権を持つ司令官マッカーサーが、日本をキリスト教化させたいと考えていることを知らされているので、彼に媚びて、「私はあなたの占領政策に最も忠実であろうとしています」という意思表示をするために教会に来た。そして占領状態が終わると、サッサと教会を去って行ったのである。
 しかし、そういう人ばかりではなかった。真面目に、期待をこめて教会を訪れた人もいた。真面目にものを考える人たちは、教会が責任逃ればかりしているのに愛想を尽かしたのである。心無き人も去って行ったが、心ある人も去って行った。
 だから、教会は、今日のように、外部からは信用も・期待もされないものとなり、自分自身でも何も出来ない無力感、何をしようともしない無気力に陥ったのである。にも拘わらずそのような誤魔化しを今でも繰り返して、解決を先送りして、問題を累積させているのがキリスト教の大勢のようである。だが、人を誤魔化すことは出来ても、神を誤魔化すことは出来ないことを悟らなければならない。いや、これまで誤魔化しに誤魔化しを重ねて来た罪への罰として、今日の閉塞状態があると悟らなければならない。

 2
 私がそのように論じることを聞いて、「日本のキリスト教についての批判はそれで当たっているとしておくが、人のことを批判するお前自身はどうなのか」と疑問を持つ人がいるに違いない。問われたなら答えなければならない。勿論、私だけがまともであって、後の人が間違っていると思っているわけではない。私自身も間違いを犯した人々の中に含まれている。それを私は否定しない。いや、私の方が他の人よりも悪いかも知れない。というのは、私は何も知らないままで流されて来たのでなく、チョットおかしいのではないかと気付きながら、自信も実力も勇気もなかったからであるが、その疑問を堂々と表明もせず、掘り下げもせず、自分を誤魔化して流れに逆らわぬように世に順応して来たからである。そういう罪を何回か重ねている。
 自分自身を語ることは、神学をする人間にとって憚るべき邪道であるということを私は知っている。謙遜の意味で言うのではなく、方法が違うのである。自分について語ると、文学になってしまい、神学として論述出来なくなる。それでも、私は恥じを承知の上で、自分が模索して来たことの一端をしばらく語らせて頂こうと思う。
 教会がオカシイのではないか、問題点を自画自賛にすり替えているのではないか、という疑問を私は子供の頃から感じていた。私の父は人生の途中で信仰に入り、死に至るまで熱心に教会に仕えた信徒であったが、子供の目からすれば、家族を犠牲にして教会に奉仕している、いい気なものに見えた。後になって信ずることに打ち込む彼の生き方を見直すようになったが、幼い頃には理解出来なかった。そういう状況で、私は現実の教会を自分に対する加害者として見ていたから、オカシイと感じることが一杯あった。その習性が身についてしまったのかも知れない。だから、私が教会に問題を感じた点については誇張があると言われるかも知れない。割り引きして聞いて頂いて差し支えない。
 大人になりかかった頃、この環境に反発してキリスト教からの脱出を試みたが、失敗する。キリスト教には対立出来ても、神に敵対することは出来ないと思い知らされたからである。もしそこで砕かれることなく、そのまま突進したならば、「神は死んだ」と言って、自分で自分を破滅させたニーチェのような結末になったであろう。神が生きておられることを私に悟らせてくれたのは、ジャン・カルヴァンという神学者であった。その日から、分からぬながらも、「カルヴァンのような正しいキリスト教がある。今の日本のキリスト教はそこから逸れているのではないか」という漠然とした予感があった。
 それで、私は戦争から生きて帰って以来、ズッとカルヴァンの研究をして来た。人々はどのように聞くか知らないが、私としては、自分自身が感じたような教会の躓きを人に経験させないことが使命であると考えている。
 さて、私が戦争に出て行かなければならない日が近付く。その段階で、私は教会の時流迎合にウンザリさせられていた。自分自身も何とか理屈をつけて戦争協力をしているその矛盾については見抜けず、教会のやっていることの不甲斐なさばかりが目についた。
 私は大真面目に信仰的に生きようとしているつもりであった。それに引き換え、教会は妥協に妥協を重ねて、好い加減に生きることを奨励しているように見えた。私には教会を批判する資格がないかも知れない。しかし、当時私は教会員の末尾にいる若輩であり、指導力は何もないから、人を誤った方向に指導することはなかった。
 私は軍隊にいた間、出来る限り日曜日には教会に出席しようと努力していた。しかし、事実上消滅している教会があった。建物は建っている。看板も上がっている。しかし、礼拝の時間になっても誰も来ない。牧師もいない。玄関に鍵が掛かったままである。教会の看板で人を招き寄せておきながら、扉を閉じている。それは教会が死滅したことを象徴しているように思われた。
 「死滅とは言葉が過ぎるのではないか。一人一人の中に信仰は辛うじて生き残っていたのではないか」と言う人があるだろう。確かに、信仰者が完全にいなくなったのではない。私自身も死んだ体の死んだ肢であったのではない。しかし、二つのことを問わなければならない。
 1)個々人が信仰者として辛うじて、あるいは曲がりなりに生きていたことと、教会がそこにあったということとを混同しているのではないか。神の恵みがあるから「教会が存在する」と観念的に言うことは出来るが、そういう論じ方は宗教改革の神学ではしないのである。教会が存在すると言うためには、教会があると示す印しが必要である。務めを遂行していてこそ、「教会がある」と言えるのであって、主の日に鍵が掛かった会堂があっても、教会があると主張する根拠はないではないか。――もっとも、生きていたとは言えないとしても、教会が死滅したと断定して良いかどうかの問題は残る。が、主の民が集まる出来事が起こっていないのに、教会があったと観念的に論じる言い抜けの危険は大きい。そのような議論が許されるなら、どこにでも教会があると言って良いことになるのではないか。
 2)個々人は信仰者であったと自信をもって言って良いのか。――私は自分自身を取り上げて考察する時、ある意味で「キリスト者」であったと言えると思うが、ある意味では到底キリスト者と言えない「裏切り者」であったと確認するのである。裏切り者でないようにするためには、殉教あるいは投獄を甘受していなければならなかった。
 ところが、戦後、教会は「自分たちは死んでいた」とは言わなかった。立派に生きて来たような顔で、胸を張って世に出て来た。戦争中の情けない実情を指摘されると、已むを得ない選択であった、と開き直った。教会に対する私の失望感は戦後一段と深まった。
 その私が戦後の4年目には主から召しを受けて伝道者としての歩み始めることになった。
 まだ、日本がアメリカ軍によって占領されている時代で、キリスト教の羽ぶりは良かったが、私自身は敗残兵のような日陰者の気持ちをズッと引き摺っていた。そして、今の派手なキリスト教はオカシイのではないかという意識を持っていた。一旦死滅した教会は恵みによって生まれ変わるほかない。復興への掛け声を掛けるのではなく、悔い改めを通して死からの再生がなければならないのに、それが説かれていなかった。
 伝道者として召された当時、あらゆる意味で私は物知らずであったから、骨身を削って神学を学んだ。学べば学ぶほど、日本のキリスト教は好い加減だという気持ちが募った。しかし、どこがオカシイのか、分からないのである。自分自身も迷いの霧の中にいるからである。兎に角、カルヴァンの宗教改革に学ぼうという決意はハッキリしていたから、分からないなりに、正しいと信ずる方向に突き進んだ。その方向づけがやはり正しかったと今なら論証出来るが、長い間、十分な知識と理解を裏付けとして確信していたわけではない。ただ、こうあってはならない教会の姿に気付かせられることは始終あるから、気付くたびに、そのような教会像から遠ざかるようにして来た。
 それで約9年の伝道生活の後、既成教会から脱却して、無一物から教会をやり直すことの必要を感じて、開拓伝道を始めた。今日私の仕えている教会が始まったのである。
 今日はカルヴァンについて触れるつもりはないが、カルヴァン自身は、如何にして神の言葉に聞き従うかを考え抜き、かつ実行した人である。したがって、聖書を如何に読み解くかが彼の中心的課題であり、それ故にまたカルヴァン研究者である私自身も、如何に聖書の真の意味を読み取ってそれを自分自身に適用するかを中心的課題としなければならない。
 50年余り説教をし続け、それと平行してカルヴァンの学びをして来た。これは二股かけるということではなかったと思う。カルヴァンも聖書に忠実な説教をし、そしてキリストの教会を建て上げる労苦を重ねながら、神学の著作をしている。私も聖書から本当のメッセージを読み取り、それによってキリストの教会を建て上げる務めをしながら、カルヴァンの著作の研究をする。そこには矛盾はなかった。むしろ、カルヴァンと同じような生き方を目指しているだけに、単純な研究生活をする場合よりは、カルヴァンの内実に肉薄出来たと思っている。
 真の教会がどういうものであるかを考え続け、語り続け、教会についての書物を何冊も書いて来た。霧が晴れるようにして、私にも少しずつ教会についての本質的なことが見えて来たが、特に大きく目を開かれたのは、日本キリスト教会の一員として靖国闘争に参与したことが契機になっている。この時のことを私は「テイク・オフ」という譬えでしばしば語る。飛行機が地球の引力に打ち勝って空に舞い上がるように、教会が日本帝国の引力を引きほどいて、教会としてのアイデンティティーを獲得した。それでもまだ、分からない点が沢山残っていた。
 ようやく近年になって、教会に関する事柄がかなりハッキリ見えるようになった。それはカルヴァンの言っていたことと必ずしも合致するものではないが、御言葉に聞いて教会を建て上げるという点では食い違っていない。

3
 どのようなことが見えて来たのか。それはこの講演の題になっている。言ってしまえば簡単なのだが、従来、「福音は前進しなければならない」、「教会は成長しなければウソである」と思い込まされていた既成観念、これが必ずしも聖書の教えにかなったものではなく、時代的な偏りによって歪められており、そこから自由にならなければならない、ということが見えて来たのである。
 今私の言った言葉に疑問を感じる方があったであろう。多くのキリスト者は教えられたまま、辛子種がもろもろの野菜よりも大きくなるのと同じように、教会が大きく成長するのは自明のことであり、信者は教会を大きくするために奉仕すべきであると思い込んでいるからである。彼らは教会が大きくなると喜び、教勢ガ停滞すると祝福が失われたように感じて落ち込んでしまう。大きいか小さいかが教会の真偽を判定する尺度だと思っている。しかし、歴史をよく見なおす必要がある。
 1)先ず単純に観察される面から始めるが、キリスト教が大いに伸びて今日地の果てまで枝を張る大樹となるに至ったことは事実であるが、常時伸び続けていたわけではない。
 伸びない時期や、減っていた時期があった事実を伏せて置くわけには行かない。それを無視して、教会の成長が当然だと論じることは出来ないはずである。実際、そういう議論が教会の歴史のあらゆる時代に行なわれていたわけではない。
 伸びて行くのが本当であるという考えが支配的になったのは、近代ヨーロッパにおいてであって、それが当時のキリスト教国の覇権主義、拡張主義と無意識のうちに連動していることを見逃すわけには行かない。人々は数字というものを大きく評価し始めた。そして、資本主義が際限なしに利益を追求して、事業を拡大して行くのと同じ考えを教会に適用するようになった。
 キリスト教会では、いつの時代にも伝道の戦いがなされていた。中世の教会がヨーロッパの中に閉じ込められていた時にも、西域の沙漠を越えて中国まで来た修道士がいるように、異教徒への伝道は試みられていた。ただし、近代ヨーロッパのキリスト教の伝道理解とは異なる理解のもとにそれが実践されていた。その時点では、アジアの方がヨーロッパよりも技術文明と富の集積においては進んでいた。したがって、ヨーロッパからアジアに来た人の姿勢はその後の時代とは異なっていたのである。
 16世紀の後期からカトリックが始め、18世紀にはプロテスタントも大々的に始めた海外伝道、この時の海外伝道の精神の鼓吹には、ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカの支配や文化的侵略の観念が無造作に読み込まれている。――ただし、こう言っても、私はヨーロッパのキリスト教が始めた世界宣教を断罪しているのではない。海外宣教による他文化との出会いによって、キリスト教が自己発見をしたという点は重要であり、これを受け継がなければならない、と思っている。
 「教会成長」の実例として報告されるものは、多くの場合、長い時間を掛けない近視眼的観察だけであって、誇大宣伝の傾向がないとは言えず、著しい成長の次の時期には低落が来ることまでは伝えていない。この日本の国においてさえ、あと幾許もしないうちにこの国がキリスト教化される、と言われた時期が2度ほどある。台湾の山地民の間の伝道が第二次世界大戦後急激に伸びて、世界の伝道学者を喜ばせたが、その伸びは止まり、山地民社会は同時に押し寄せた近代化の波に翻弄されている。50年代半ば以後の韓国の教会成長は世界の模範であると言われたが、90年代になってから成長は衰退に転じた。
 その衰退を批判的に見る必要は何もない。批判すべきは、衰退の時期が来る予想を受け入れることが出来ないで、成長路線だけを報告していた一面性である。衰退しても教会は教会であると確信をもって言えない固定観念が問題である。
 2)「大きいことは良いことだ」という考えは、そのまま裏返して、「小さいことは悪いこと、恥ずべきことだ」ということになる。この恥ずべき状態を脱けきろうとして、大きくなる努力が傾けられ、成功した場合はそれが美談化された。意図通りにならなかった場合もあるのだが、その場合の努力と苦難は無視され、何もなかったかのように葬り去られ、何一つ学ぶことがなかったように扱われている。努力する機会を与えられたことについて感謝するのは良いが、そこに不純な物が混じり込む恐れがある。また小ささを脱却した者の達成感は自己満足に転じやすいのではないか。
 小さいことが恥ずべきことで、脱却しなければならない状況だという考えは、もっと小さくなることを恐れる焦りや、術策や、妥協を生む。それとともに、そのまま、小さい教会に対する侮蔑感、ないしは善意の場合でも憐愍の感じになる。つまり、ここに功績とか価値という考えが入り込み、人間の業の功績化が起こり、そこに働いている主の業が見えなくなる。
 より大きく、より大きく、を志向するために、その志向が自己目的化し、自己目的の設定や、達成のための作為的手段が案出されるのではないか。ハッキリ言って、アメリカの福音派の中でもてはやされ、日本の福音派も一時盛んに追随した「教会成長」はこれである。
 大きくなるところにだけ光りを当てて、そこだけに意義を認めるということは、小さい群れの中に働く神の御業が無視される。少数者が存在意義を持っているという主旨の教えが聖書のうちに少なからず見られるが、これが見落とされ、忘れられる。
 要するに、聖書が教会について教えることがさまざまな点で歪んで来る。教会論が神の言葉に即して考えるという姿勢を失い、世俗的経営戦術になる。
 3)一つの組織が小さいうちは良く結束しており、純粋であるが、大きくなると気の緩みが生じ、伸びが止まるということは昔から世間のあらゆる所で言われており、教会もそれと同じ経過を辿ることはしばしば指摘されている。
 そこで、大きくならない方が本当なのだと割り切る人も出て来るし、大きくなっても沈滞しない教会管理を追及すべきである、という政策論議もなされる。古い暖簾を誇り高く守って高品質のお菓子を店の規模に合っただけ作って事業を拡げないお菓子屋、これをモデルにすべきだと考える教会があり、大々的な宣伝と事業拡張によって生存競争に生き残ろうとするお菓子屋をモデルにする教会もある。どちらも問題であると思う。というのは、それらは教会的な考えではなく、この世の論理に乗っているからである。
 教会の関わっている問題は精神性の高いものであるから、没個性的な後者のような事業拡張主義になじまない。前者のように、大きくならなくて良いから、思想性の高い、品位ある集団として教会が形成されなければならない、という議論はもっともらしく思われはするが、キリストの教会とは別なものになるのではないか。
 大きくなっても、組織の末端に至るまで生き生きと活動するような教会像を理想として追及する人たちは、アメリカや韓国の巨大教会にみられるような、組織の管理・運営に力を入れる。組織が大きくなると、管理をうまくしなければならないのは当然であるが、その管理と、御言葉によって肢々が生かされることとは必ずしも同じではない。そのような管理・運営はカルト集団の方が上手にやっている。我々はその真似をしなくて良い。
 4)最も根本的なところには、「神の民」を見て行く観点の喪失という問題があるのではないかと重う。「教会成長」を「神の事業」と見る見方はどうにか保たれたとしても、そこでは教会が「神の民」であり、したがって、神の民としての使命を担うことの自覚は後退している。しかも、「成長」が表向きは神讃美の口実にされるが、実際は人間の事業として捉えられているから、裏では人間の自己讃美になっているのが通例ではないか。
 「神の民」が選ばれ、召され、使命を授けられ、その使命を担って行く、という捉え方は、旧約でも新約でも、聖書には顕著にあるが、世界宗教となって以後の歴代のキリスト教会の中では稀薄になり、「教会成長」が唱えられるところではこの基本的姿勢は消滅に近い状態になる。
 「主を知る知識が地に満ちる」という最終成果を望み見なければならないのは当然であるが、それに至る過程で、誰が使命を担って行くかが見えなくなる。すなわち、伝道論の中で「神の民」と「神の事業」の混同が起こった。
 5)旧約聖書に「神の民」ということがしきりに説かれているが、この「神の民」を引き継いでいるのがキリスト教会であるというのが、使徒的教会の明確な把握であった。ところが、その後の教会で必ずしも明確な意識になっていない。これは旧約と新約の関係についての聖書理解の歪みを惹き起こし、ユダヤ人差別の理由付けを作り出すことになった。
 律法のもとに置かれた神の民イスラエルは、福音の到来による大転換が起こった時、頑なであったために、当然排除されて、神の民でない集団、単なるユダヤ民族になった。
 これがパウロの説くキリスト教であるというふうに考えている人はかなり多い。しかし、この解釈が間違いであることは、パウロの「ローマ書」11章を読めば容易に証明できる。神の約束と召しは変わらないのである。だから、アブラハムへの約束はなくなっていない。アブラハムの子が地を嗣ぐのである。ただし、アブラハムの子と言っても、単に肉的な血統を嗣ぐに過ぎず、アブラハムの信仰を嗣いでいない者は子の中から排除される。
 名目だけ「神の民」であっても、信仰的にそうでない者は真の意味での神の民ではないから、排除されることになるという原理は、パウロにおいて新しく唱えられたものではなく、旧約以来のものである。「神の民」と呼ばれた者が「民でない」とされるということがホセア書に書かれているではないか。また旧約の多くの個所には「残りの民」の教えがあった。
 6)「神の民」はイスラエル民族を指す場合もあるが、厳密には区別されなければならない。「残りの者」だけが本物の「神の民」である。「あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」とイザヤ書10章22節は言う。
 海の砂のように多くの者が帰って来るのでなく、残りの者だけが帰って来るというのが終わりの日のイメージである。
 「残りの者」という語彙は、旧約には預言者の語った言葉のうちに特に沢山出て来る。
 ただし、その実態は明瞭に描き出されているとは言えない。すなわち、旧約のもとにあった人々は「残りの者」を現実態としては見ておらず、来たるべき日のこととして語るのであるから、不分明であるのは当然である。
 ハッキリしないだけに、これを不用意に強調し過ぎる人がいるかも知れないが、それは危険がある。例えば、「適者生存」という仮説がこの世では信奉されているが、この考えが不用意に「残りの者」の信仰に紛れ込んでいないとは言えない。状況の変化に適応出来る強者が生き残るのであって、弱者は消えて行っても仕方がないという強者の論理は、日本では明治の時期に天皇の権力を盛り立てようとする人々の中で唱えられ、この主張を正当化するものとしてダーウィニズムが採用され、ダーウィニズムを利用することによってキリスト教を貶めるという企てがなされた。こういう考えが今も生き残り、キリスト者のうちにもある程度根強くあるので、その原理が「残りの者」を理解する時に読み込まれる危険がある。
 「残りの者」は言うまでもなく、それ自身の適性によって試練に生き残る者というのではない。主がその真実と憐れみの故に残されるのである。預言者イザヤは言う、「もし万軍の主が我々に少しの生存者を残されなかったなら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう」(1:9)。
 どういう人々が生き残るかについて、我々には確かなことは殆ど分からない。ミカ書4章7節には「足の萎えた者を残れる民とする」という言葉があるが、これは人間の評価が逆転させられるという意味はあるが、残りの者の資格を言うのではない。ただ、神が宜としたもう者が残るのは確かである。
 「神が宜としたもう者」という時、我々に直ちに思い起こされるのは、「神の選び」ではないだろうか。神は御自らが宜としたもう者を救いに選びたもうたのである。神の選びは確かであるから、救いも確かである。ただ、誰が選ばれているか、誰が選ばれていないかは、我々の目には隠されている。我々に分かるのは、救われる当人、信仰者自身には私の救いが御言葉によって教えられ、御霊によって確認させられているということである。

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 「選び」と「残り」とは一本の線の両端である。「選びの民」と「残りの民」は合致する。これが「教会」なのである。世の初めに選ばれていた者が世の終わりの残りの者となる。これが教会の歴史の発端と結末である。従来、教会を神の選びに基礎づけて理解しようとする人は我々の間には多かったと思う。カルヴァンが選びを基礎として「教会を信ず」ということを把握した伝統が我々のうちにあるからである。しかし、選びに対応する「残りの民」、これが教会を論じる際に強調されることは少なかったと言わねばならない。「残りの民としての教会」ということをもっと語らねばならない。そういうことに私は気付いたのである。
 「残りの者」というモチーフは預言者に顕著に現われることを先に述べたが、それ以後の時代にいよいよハッキリして来ているように思われる。すなわち、旧約と新約の中間期であるが、これについて、最近は研究が著しく進んでいる。私にはこの領域についての知識が不十分なので、控え目な発言しか出来ない。
 イスラエルは民族国家としては立ち行けず、民族共同体も拡散し、部分的には消滅して行く中で、民族としてよりも、残りの者として、約束への信仰にすがって生き延びようとする。こういうことは聖書正典に記されていない事情であるから、正典外の文書にたよって新約の教会との関連を大きく持ち上げ過ぎることは危険である。それでも、旧約から新約へと神の民の歴史は切れ目なく続いているのであるから、この期間のことを無視したり、過小評価してはならないであろう。
 「残りの民」と言う以前に、まだ呼び起こされていない「選びの民」を呼び出すことが必要ではないか、と問われるならば、その意見が正しいのを私は認める。呼び出す際に、その人が残る人なのかどうかを考える余地なく呼び掛けるほかない局面はあっても、その他の局面では「残りの民」を考えていなくてはならない。「残る」という言葉は最後の有り様を言うのではあるが、別の観点から言えば、残りの者が集められるのでもある。残りの者が残されていて、それが集められる。
 戦争中、教会の指導者は「教会を守るため」という口実によって妥協を重ねた。教会のためを思ったその努力と配慮を高く評価すべきではないかと言う人は多い。彼らが真剣に考え、自己一身を守ろうとしてではなく、教会を守ろうと苦心したと認めて良いと思う。「実は彼らには保身ということしか頭になかったのだ」と言う方が正しい場合はあるかも知れない。しかし、今問題にしているのはそういうことではない。彼らが一人残らず自分の身の安全を顧みず、教会のことだけを純粋に考えていたとしても、彼らの心に「神はその民を残したもう」という思いが確立していなかったことは事実であり、私はそのことを問題にするのである。
 教会を守った努力が評価されるところでは、神が残したもうという線は消えて、人間が教会を残さねばならない、という考えが全面に出ている。もともと、教会についての確たる信仰がなかったからであろう。
 「教会を守る」と言われた「教会」があったかどうかを問題にすることは要らない。「守れた」のかどうかを問うことにも意味はないであろう。教会が悩みの中で雄々しくあることが出来るよう御言葉によって勧めがされていてこそ、「教会があった」と言うだけの意味がある。教会を守るのは、御言葉を語ることによってのみである。
 神が残りの民を残し、それを集めたもうというのは、終わりの日の事態ではないか。それを歴史の中間に持ち出すことは混乱ではないか、という疑問があると思う。重々尤もだと思うが、1)今上げたような戦時中の例に見られる通り、神が残したもうという確信があって、その確信によって行動するならば、その行動は歴史の中で起こるのであって、歴史の外に位置づけられるのではない。
 2)残りの民の現実は歴史の中にしばしば生起する。例えば、ヨハネ伝6章によると、主イエスの奇跡によって養われた5000人はその翌日には去って行き、12人しか残らなかった。その時主イエスはまだ去って行く者がいると言われた。こういう少数化はかなり頻繁に起こる。教会はそのことを知っていなければならない。
 イザヤ書8章16-18節には、「私は証しを一つに纏め、教えをわが弟子たちのうちに封じておこう。主はいまヤコブの家に御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる。見よ、私と主の私に賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルの徴であり、前触れである」とのイザヤの言葉がある。
 預言者イザヤは民衆の中で孤立してしまった。人々は預言者を通じて語られる神の言葉を断乎として拒絶する。その時、預言者が腹を立てて、「もう人々を相手にしない。私の弟子にだけ語る」と言ったのではない。神がイザヤを捕えて、「この民の道に歩まないように」と諭されたのである。
 預言者は神の民全体に神の言葉を伝えるために立てられた。ところが、人々は聴かない。それでもなお語らねばならない時があるのではないか。それはある。例えば、エレミヤ書にあるが、エレミヤが語っても語っても、人々の物笑いにされるばかりである。もうこれ以上主の名によっては語るまい、と心を決めても、主の言葉は沈黙を許さない。
 そこで語る。するとますます迫害を受ける。こういう場合もある。が、それだけしかないのではない。イザヤの場合もまた真実である。すべては神から示される道であるから、預言者のそれぞれの判断ではない。我々がその一つを好みによって選ぶということではない。
 イザヤの場合は彼の言葉を主の言葉として聞く弟子の群れがあった。それは小さい群れであるが、神の言葉を神の言葉として受け入れるのであるから、これはまさしく神の民である。残りの者の姿である。これ以外は神の民でなかった、と断定することは今はすべきでない。いたかいなかったかは問題にしても意味がない。
 弟子の他にイザヤの子たちもいたと思われる。「主の私に賜わった子たち」というのは弟子を含むと見ることは出来なくないが、8章1節にあった「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」や、7章3節にある「シャル・ヤシュブ」、7章14節にある「インマヌエル」は「万軍の主から与えられたイスラエルの徴、前触れ」としてより適当ではないか。
 子供が残りの者の中に含まれるとは、子供も入れなければ数が揃わないからではなく、子供を抱え込んで、子供との繋がりにおいてこそ「残りの民」が成立するからである。
 残りの者は単なる少数者、個人単位の少数ではない。少数であっても使命と志の継承が成り立つ集団である。
 大事なのは、「万軍の主によって立てられたイスラエルの徴、また前触れ」の役目を果たすのはこの少数者だけであった、ということである。
 この時は異常事態であったと見て良い。すなわち、「主は今ヤコブの家に御顔を隠しておられる」。主は原則としてはイスラエルに顔を向けたもうし、御言葉を与えたもう。
 しかし、時には御顔を隠したもう。祈っても祈っても応答がない場合がある。旧約の信仰者はそういう場合、神が私に顔を隠されたと感じた。それでも希望を捨てないで祈り続けて恵みのうちに回復された。こういう例証が詩篇に多く見られる。イザヤ書8章に見られるこの場合はそれよりも大規模で深刻な事態である。個人にではなく、イスラエルに顔を隠された。
 神が顔を隠される状況について詳しく論じることはここでは避けておきたい。我々が思いつきで釈明のために「今は神が顔を隠された時期だ」と解釈するのは、差し控えるべきである。しかし、その時代全体に対して、主の教会が「徴となり、前触れとなる」場合はあるし、前触れである態勢を取らなければならない時はある。その時に教会が徴としての態勢をとれないで終わることがあるのではないか。例えば、教会が殉教の教会という姿勢を取ることによって時代に対する徴となるべきであったのに、なろうとしなかったことがあるのではないか。
 「殉教」ということについて私は多くを論じることが出来ないから、殉教出来る覚悟をしている教会でなくては、真実の教会ではないという議論を今はしようとは思わない。
 それにしても、我々が「殉教」という問題を考えないように逃げていたのは事実である。殉教について考うまいとすることによって、恵みの機会を逃したのではないかという思いに私はときどき駆られる。
 60年前、日本でも韓国でもキリスト者に神社参拝が強制された。日本と韓国では状況は非常に違うが、本質的には同じであった。韓国でも殆どのクリスチャンが神社参拝を已むを得ぬこととして受け入れたが、しかし、どうしても受け入れられないという少数者がいた。彼らは死を覚悟した。日本においてもせめて一人位、死を覚悟する人がいても良かったであろう。その一人がいたなら、日本の教会は生きていたという証しが立ったのであるが、そうならなかった。
 また自分自身について語るのであるが、戦時中、「殉教」ということについて考えたことがある。具体的に私の殉教を予想したわけではないが、何かを予感していた時期である。直接キッカケになったのは、本が本屋の書棚から消えて行き、岩波文庫の青帯で残っているのはレオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」くらいしかなく、それを読んだことである。いろいろ考えさせられた。結論として、カトリック教会による殉教の奨励、殉教の功徳の評価に反発を覚えた。その後で、あるクリスチャンの学者が「殉教論」を同人雑誌に書いた。それを読んで、これでは駄目だと感じた。この著者は殉教が国家権力との対決の中で起こったことを踏まえながら、日本においては天皇に帰一するのであるから、殉教はあり得ないと論じた。これには、カトリックの殉教奨励論よりもっと反発を感じた。しかし、問題を掘り下げる時間がなかった。私の出陣の日が近付いていて、殉教でなく、殉国の用意を促されていたからである。
 戦後もズッと気になっていながら、改めて殉教のことを考える機会はなかった。時々資料を覗いて見ることはあったが、基本的には昔読み取ったものと異ならなかった。結局、殉教についてジックリ考えることはしていないのだが、考えることによって明らかになる問題ではないのだと思っている。考えても考えなくても結論は同じである。私は神社参拝を拒否した唯一の生き残りである趙寿玉さんと親しくなって、詳しく聞き取ったのであるが、考えて結論に達するものではないと承知している。
 だから、殉教するかしないか、自分に出来るか出来ないかを前もって考えることはしないで、正しく生きて行くうちに、主の定めておられることが起こり、それに従うようになると心を決めて置けば良い。
 ただ、長年に亙って考えるともなく思いめぐらしをしている間に、教会の指導者や牧師が真っ先に殉教するのが順序だということが分かって来ている。迫害者は全体を切り崩すに最も有効な目標に攻撃を絞って来る。すなわち、教会の代表者である。ローマ帝国はアンテオケ司教イグナティオスを初めとして、司教たちを殺し、あるいは司教を襲って聖書を取り上げた。日本帝国は全キリスト者を代表する日本基督教団の統理に伊勢神宮を参拝させたのである。各個教会においては牧師が攻撃目標になるであろう。
 その目標とされた人が誠実に戦うことが先ず必要である。日本ではこの原則が確立していなかった。指導者の修練もなかった。過ちを繰り返さないためには、この点をハッキリさせるべきである。
 代表者に殉教の覚悟が順序として先ず求められる意味は、道徳的なことでも、模範を示すためでもない。これはキリストに従う教会の教会論にかなったことだと思う。すなわち、教会は十字架を負う教会でなければならないのであるが、「十字架を負う」とは、そういうことがスローガンとして叫ばれていることと同じではない。そのように教えたもうたキリストが、先ず自ら十字架を負うて先頭を行きたもうたから、この言葉は真実である。この言葉を伝える人も、人に教え、人に十字架を負わせるよりも先に、先ず自ら十字架を負う備えをしつつ、これを宣べ伝えるのである。
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