2008.05.11.

東京告白教会における春季公開講演会

 

今、この時代に教会は何と答えるか?

 

渡辺信夫


 私たちの教会では、ここ数年、一貫して「世界の、また人間の崩壊」というようなテーマを取り上げて、春と秋の公開講演会を開いてきた。そのようなテーマが一般受けするはずはないが、言うべきことは言うべき時に言って置かねばならないと考えた。そして、そのような話しで呼び寄せられた人はいないはずであったが、幾らかの人たちは聞いてくれているという手応えがあった。

 今回は同じテーマを繰り返さない。同じ言葉を語ることに飽きたからではない。世界の崩壊はもう始まってしまったのである。ことが起こった後で「言った通りではないか」と論じても、意味はないし、崩壊を回復させることにはならない。

 今日語ろうとしているのは、起こってしまったことの説明や、崩壊の責任がどこにあるかの論及、またキリスト教会自身この崩壊に責任がない訳ではないと釈明して責任を軽減しようとするのでなく、こうまで崩れてしまった世界の中で、教会は何を語るべきかという問題である。

 「世界の崩壊」と言うにはまだ早いではないか? と疑問を持つ人がいるであろう。すなわち、そのような決め付けをする前に、することがあるではないか、という意見である。この意見に私は同感して良いと思う。

 世界を見渡せば、政治が至る所の国々でおかしくなっている。ならば、それを正すべきではないか? 教育が異常になっている。それでも、真の教育をしようとの試みがあるではないか? 裁判も曲げられたものが多い。しかし、少数例であるとしても正しい判決はあるし、正しい裁判を行わせようとする運動があるではないか? 人間が毀れて、人間としてしてはならない枠がなくなったではないか? だがそれを少しでもマトモなものに戻さなければならないと苦闘している人はいる。

 人間だけでなく、動物界も植物界も含めた地球が破壊され、これまで見たこともない大災害が相次いで起こっている。だから、せめて破壊の速度を遅らせる努力をすべきである。それらのことを考えて一生懸命に運動している人もいるではないか? だから、崩壊の傷が何とか小さく収まるようにすべきではないか?――その通りで、そういう努力には意義がある。私も一市民として、憲法九条を守るためとか、正しい教育を取り戻すために教育裁判を起こしている人々を支援する仕事などに参加している。毀れて行く世界の中で傷つけられた人たちの介抱をしないで、教会の中で説教ばかりしていて良いとは言えないと思っている。

 「教会は何と答えるのか?」が問われている時、「教会の答えはこれだ!」という一点張りでそこにシガミつき、後のことを放置してはならない。少なくとも私たちの教会では、教会の中に籠り、教会の中だけで通用する言葉を語り合うことはせず、崩壊して行く世界の中で傷ついて行く隣り人たちに無関心にならず、一緒に苦しみを担う仲間であることを意識し、その人々のために何かをしようとしている。ただ、私たちは小さい教会であって、人手も少なく、財力もないから、「何かをしています」と言えるほどのことはない。

 それなら、もっと広く呼び掛けて、人集めをし、金集めをして、それだけ多くの奉仕事業をすべきではないか?という意見があるであろう。しかし、私たちはそれをしないのだ。奉仕活動そのものが目的である団体ならば、宣伝して、人を集めるのは当然であって、宣伝せず、ために活動の働き手が足りないということなら、本来の目的に怠慢なのである。

 イエス・キリストが語られた一つの寓話がある。ある旅人が道を急いで行く。道端に強盗に遭って傷を負わせられた人が倒れている。その旅人には目的があるが、それを差し置いて、とりあえず怪我人を介抱し、宿に運んで行って面倒を見る。そして翌朝、回復の目途がついたからであるが、宿の主人に幾らかの金銭を託して、怪我人の世話を頼み、自分は目的地に向けて去って行く。

 この旅人がここを通りかかる前、何人かの人がこの怪我人の倒れているのを見たのであるが、彼らは見なかったことにして、通り過ぎて行った、という話しがこの寓話にはついている。私たちは何をしなければならないかを教えられるとともに、ここを過ぎて行った人のようになってはならないと教えられている。

 また、人間としてここを見過ごしにすることが出来なかったが、自分で助けるのでなくて、助けることの意義を訴えて人を集めて来るために、町に行くということは考えられるが、この旅人はそうしなかったし、私たちもそれはしない。町に行って人を集めれば、負傷者のためにもっと良い手当が出来たかも知れない。そういうことをしてはいけない訳ではない。だが、この旅人には行くべき目標が先の方にあったから、町に行って人を連れて来るのでなく、その場で、自分に出来る範囲のことをして助けた。そして、宿に逗留して介抱をし続けることもしなかった。

 この寓話を借りたのは、私たちの立場――教会の立場と言っても良いし、キリスト者の立場と言っても良いが――その立場を説明するためである。教会は地上に置かれていて、地上にある者としての誠意ある生き方をしなければならない。それでも、ここに留まってしまうのではなく、この世を通り過ぎて行く人である。誠意ある生き方をするとは、自分の考えはこうであるというような意見を宣伝するよりも、そこで自分のなすべきことを黙々と果たすことである。自分のしていることが、どんなに立派であるかを人々に分からせるのは本来の務めではない。――「今、この時代に教会は何と答えるか?」という本論に入る前に以上のことを話して置きたいと思った。

 「今、この時代に教会は何と答えるか?」とは、いろいろな人によるいろいろな答えが期待される問いかも知れない。教会はこうこういうことをした方が良いと忠告してくれる人もいる。あるいは教会には何も期待していないと言う人があるかと思う。すなわち、教会がやっていることを見れば、期待できることは何もないではないかと思う人が多いはずである。そして、そういう意見に対して、私は反論をしようとは思わない。が、とにかく私の言うことを今は聞いて貰いたい。

 「教会は何と答えるか?」――その答えはもう分かった、もう聞かなくて良い、と思う人もいるであろう。その人の考えていることが正しいかどうかは問題にしないで、私は私の信じるところを述べる。

 「教会は何と答えるか?」それが問題になっているその教会は、この寓話に登場する、通り過ぎて行く旅人、宿り人、寄留者であるということを既に語って来た。これが基本的に重要な点である。原理である。目標地が向こうの方にある。そちらを向いている。今いるのは過ぎて行く地点である。ここに留まって行くべき目標を見失っているなら、旅行者でなく漂流者である。

 目標を目指しているということが神を信じる者にとっては極めて大事なことであって、それを基礎として身辺に日々起きることに立ち向かう。場合によっては身辺に起こることを無視するかも知れない。道草を食うことは出来ない。しかし、行く先が大事であるとはいえ、道の途中のことを全く無視すべきであるとは言えない。倒れている人がいても眼中に置かずひたすら向こうを見るというのではない。身辺のことを無視するなら、目標も見えなくなってしまう。

 目標、目標と言っているが、お題目を唱えるだけ、あるいは信仰が抽象化していて、本当の信仰の生命が涸渇している場合がある。だから、神を信じる者には「あなたの隣り人を、あなた自身を愛するのと同じだけ愛さなければならない」という戒めが神によって与えられているのである。

 原理的なことは、複雑でも、深遠でもないから、分かると思うが、この「分かる」ということが曲者である。「分かった」と思うことが必ずしも分かっていない場合が多いからである。つまり、「分かった」と感じたことはそれなりの分かり方だと言えるが、本当に分かるのはずっと先にある。一生掛けて学び、考えに考え、それでも深い理解に到達したかどうか、なお問うて行く、という実情なのだ。「知っていると思う人は知らねばならないほどのことも知らないのを弁えよ」と聖書は教える。

 少し本論を逸れたことだが、こういうことを話して置いて無駄ではないと思う。私は60年もキリスト教の伝道者としてキリスト教を求める人に接して来たので、当然のことながら「ここが分からないから、分かるように説明してくれ」と求められる機会は多い。そういう質問に対して、私は分かるように答えることにしている。「分からなくても信じなさい」というような答えは、間違いではないが、なるべくしないようにしている。「信じる」ということと、「分かる」こと「知る」こと、あるいは「理解する」ことは別のことであるが、結び付いていなければならないと私は理解している。だから、人に分からせるためには自分が分かっていなければならないから、自分自身が分かっているという境域に達するような精進を積んで来た。

 そこで言うのであるが、「分かる」ということを安易に受け取っている人が多い。説明して、それで分かって貰えて嬉しいということはあるが、「分かった!」というところまで行くと、それ限りで真理を求めて行くことを卒業し、信仰を求めなくなってしまう人が多いのだ。また信仰はなくさないけれど、求めて行く姿勢を失って、熱心ではあるが、信仰とは型に嵌ることに終わってしまっているケースがある。明快な答えを与えることは、その人にとってかえって妨げだったかも知れない。

 面倒な話しをしているように聞こえたかも知れない。信仰はもっと単純なものでなければならないのではないか、と思っている人がいるであろう。確かに、信仰は単純でなければならない。しかし、信仰が単純であることは、信仰の理解が単純であって良いということと必ずしも同じではない。

 今日、世界的に問題を起こしているものに「原理主義」がある。イスラム原理主義の若者が、単純な信仰で殉教を志し、自分の体に爆弾を結び付けて人だかりの町を行き、自爆テロを敢行する。自己犠牲のつもりであるが、これは明らかに無差別な犠牲者を生む犯罪行為である。これを実行する人を純粋であると讃美するのは犯罪幇助という犯罪である。褒める人たちは危険のないところにいて、褒めることによっては自分は何も傷つかない。死んで行くのは若者だけである。

 こういう自爆テロが、少なくとも動機としては純粋であるから非難できない、と感じる人が多い。これを美談化する雰囲気を作り上げている仕組みが原理主義だと私は思う。当事者だけでなく、周囲の人々も巻き込んで、美談化に反対出来ない風潮を作ってしまう。日本では身近なところに「特攻隊」という実例がある。私自身戦争末期の軍隊にいて、特攻隊要員に一番近いところにいたから、良く見えているはずでありながら、良く見ていなかったという経験がある。

 身近な者が死んで行く。それを批判することは出来ない。しかし、良く見れば、美談化のための作為が見えてくる。最も分かり易いのは、死んで行くのは必ず若者であって、奨励するのは必ず年配者である。年輩者は必ず「俺も後から行く」と励ます。しかし実行はしない。こういうパターンが作られる。日本では無条件降伏に至らされて、美談化の悪夢はなくなったが、未だに特攻隊の美談化の悪夢が靖国神社という宗教施設をもとにして生み出されている。思慮の浅い者はこれに乗せられる。

 「原理主義」、「ファンダメンタリズム」という名は、キリスト教の中で、アメリカのプロテスタントの中で、20世紀の初めに作られた言葉である。キリスト教の中にリベラルな考えが盛んになったのを憂える真面目な人たちが、「ファンダメンタル」なもの、すなわちキリスト教にとって基本的な条項、これをシッカリ信じようと言い出し、その呼び掛けに応じる人がだんだん増えた。やがてこれが政治勢力を持つ運動になった。もっと純粋な宗教的要素を取り戻そうとする人もいて、権力追求から脱皮する人はいるが、他方でますます伸びて行き、キリスト教はその装いだけで、実際は力を獲得する運動で、力の獲得のために宗教が利用されているのである。

 どうしてこういうことになったのか、基本的条項をシッカリ信ぜよとは、悪い主張ではない。が、実際には、その条項だけを信じれば良いということであり、信じるというのも謂わばお題目として、頑固に守るだけで、深く考えることはしなくなって行く。深く考えないから、一面だけを支持し、これがアメリカのイラク戦争を支える勢力になっていることは広く知られている。

 別の言い方をすれば、「考えないキリスト教」、いや「考えさせないキリスト教」という別の種類のキリスト教が作り出された。この原理主義はキリスト教やイスラムにあるだけでなく、全ての宗教に広がっている。それが宗教戦争を起こす。そういう宗教が力を持ち、数を増やす。おとなしい宗教は伸びない。そこで、原理主義の要素を採り入れて、もっと盛んな宗教にならなければならないと思わせる誘惑がますます跋扈している。要するに、考えない人間を作り出す。こういう動向が現代では宗教のなかに強まっている。そのような宗教は宗教の本質を失ったもので、人類の崩壊に拍車を掛けるであろう。

 では原理主義と無関係になるのが正しいのか? 私はそのように単純に割り切るのも危険だと思う。原理主義になって行く傾向は昔からどこにでもあったが、原理主義は昔はなかった。近代のキリスト教の生温さへの反動から、キリスト教原理主義が起こったのであり、その勢力が一向に衰えないのは、一つには、生温く煮えきらないキリスト教が戦闘的原理主義を育てているからだと思っている。

 いささか回り道をしたようであるが、私たちは「考えないキリスト教」から極力遠ざかりたい。旅人として遠くのことを望み見ているが、手近のことも見て考える。そういう基本姿勢を取りたい。

 話しの初めに戻って、今この時代、これを私たちは危機の迫っている時代ではなく、すでに崩壊の時代に入ったと捉えている、しかし、「最早なすべきことはない」と諦めて投げ出すことはしないのである。では、今なすべきことは何か?

 ここまで語って来たのを聞いて、「崩壊の時代に傷ついて倒れている人を助けよ」というのか?と思った方があろう。私は少し違った言い方を探りたい。

 この崩壊して行く時代の中で、一挙に全人類が絶滅するのではない。譬えて言えば巨大な船が沈んで行く時のように、全員一瞬に絶命するのでなく、多少の時間差を置いて順々に水没する。傍にいる人を助けても結局は死ぬのだから、助けることに意味はない、と言ってはならない。隣り人を助けるのは、より長い余裕のあるところにいる人のすべき義務である。

 そのような意味で、私たちの今なすべきことがいろいろある。この格差社会の中では、先に水没させられる人、先に食糧を食い尽くす人、先に太陽が没する所に住む人、というように時差がある。そういう事態の中で、遅く飢える人は、先に飢える人を助けるのである。飢えの心配のない人が飢えている人を助けるのでなく、やがて飢える人が、先に飢えた人を見殺しにしないで、同類の人間としての連帯の助け合いをして行く。これは務めである。それを軽んじてはいけない。教会がその務めを無視したならば、殆ど犯罪に加担していると言うべきである。

 教会は「神の恵み」ということを初めからズッと語って来た。それは当然であったと思う。だが、自分たちは神の恵みの中に入れられ、謂わば特権階級になっており、恵みに与れなかった人たちに憐れみを惜しまないで、幾らかの施しをしてやるのだ、という優越感に基づいて善行をしているなら、人はそれを賞賛するかも知れないが、神は決して褒めて下さらない。

 神が上におられ、神を信じる人がその次の中間層に引き揚げられていて、信じない人は低い層に留められるので、中間層の者は低い層の者を憐れんで助けなければならないというのではない。神が上におられ、人間は、信心があろうとなかろうと、豊かであろうと貧しかろうと、等しく下の低い所に置かれているのである。神の助けはあるからそれを求めるが、それと別に、低い人間同士の助け合いがある。崩壊の時代になって、神の恵みを受けている者が崩壊を免れるということにはならない。「裁きは神の家から始まる」と聖書は教え、私たちはその通りだと信じている。

 それでは、この崩壊の時代に対して私たちの特に言うべき言葉は何か? それは「崩壊の彼方」、「崩壊を突き抜けた向こう側」を指し示す言葉である。崩壊で終わりになるのでなく、「崩壊の次に来るもの」がある。崩壊の次にこそ、私たちの目を注ぐべきものがある。それは神から与えられる「回復」である。こうして、「希望」が見えて来る。最早希望はない、と思っている人たちに、気休めとしてでなく、確かさのある希望を示さなければならない。

 「崩壊」と言われてもピンと来ない。まして「崩壊の次に来るもの」と聞くと、一層関心が持てないと言われるかも知れない。しかし、そう言う人でも、崩壊という言葉が以前よりは分かるようになったと感じていると思う。今では崩壊というキーワードで時代を解読すると、かなり良く見えて来る。

 しかし、「崩壊の向こうにあるもの」と言われても分からないと思う人は多い。初めて聞く人にとっては無理もないことだと私は思う。これは理解の領域を越えているものからである。理解を越えたものはもう解説できないのか? 必ずしも出来なくはないが、今日、この話しを続けてそこまで説き及ぶには時間が掛かり過ぎる。

 そこで私は、解説としてでなく、崩壊の向こうにあるものを示唆する一つの事実を語って、今日の話しを閉じたい。

 これは旧約聖書エレミヤ書32章に記されている。本当は本文を朗読した方が良く分かると思うのだが、時間が掛かるから、筋書きを紹介するだけで許して貰う。後でこの32章だけでも読み返して貰いたい。

 これはフィクションではなく、あったままの記録である。人物は全部実在した。年代も全くハッキリしている。だから、書かれたままに登場人物の仕草を演ずれば、臨場感を生み出すことも出来る。

 ユダの国の都エルサレム、その王宮の一角に政治犯を監禁するコーナーがあって、預言者エレミヤが囚われていた。預言者エレミヤについて説明があれば良いのは当然であるが、省略する。したがって、お聞きになる方は或る思い入れをもってエレミヤの行動を想像できないが、彼が無表情で、あたかも石の塊のようにそこにあるだけでも良いことにしてこの場面を思いめぐらせて貰いたい。

 この時エルサレムは、バビロンからの大軍に取り囲まれ、バビロン軍は持久戦の戦法でエルサレムを陥落させようとしていた。エルサレムの城壁は堅固で、難攻不落と言われていた。王宮には武器や必需品の蓄えがあった。城内には湧き水の泉が何カ所かあって、飲み水は確保されていた。これまで敵の軍勢に攻撃されたことは何度もあったが、その都度はねかえしていた。

 この時、宮廷内には、バビロンに降伏し、賠償金を支払って講和すべきだという少数意見はあったが、多数意見は、今度の戦いにも勝てるから、徹底抗戦をしよう。我々には神の助けがある、というものであった。

 神の助けがあると信仰を鼓吹するのがエレミヤであったかというと、全く逆である。預言者エレミヤは、それ以前から一貫して、エルサレムの王と民衆に偶像礼拝の罪があって、神がその罪に対して滅びという罰を与えたもうから、滅びを免れようと思ってはならない。悔い改めよ、滅びは来ていると叫んでいた。

 そういう意見を語る者が、取り締まられないままでは、戦争遂行の妨げになるので、エレミヤは逮捕され、監禁された。ただし、預言者に対する尊敬があり、王自身も時々エレミヤを訪ねて、神の託宣を求めたりしているから、手荒な刑罰を受けていたのではない。外には出られないが、外から人が訪ねて来ることは出来た。とにかく、ここではエルサレムが敵軍に取り巻かれ、エルサレムの中ではエレミヤは監禁されているという二重の監禁状態である。

 ある日、監禁中のエレミヤを従兄弟が訪ねて来て、自分が持っている先祖の地を買ってくれと言う。この事情は良く分からないが、従兄弟はアナトテという村に先祖から引き継いだ土地を持っていた。恐らく、敵に取り囲まれることになるから、身一つで安全なエルサレム城内に避難した。そして、籠城が長引いて、生活費に困ったので、アナトテの土地をエレミヤなら買う権利があるから買ってくれ、という主旨であったと推定される。ユダの国では先祖からの土地取引は禁じられ、近親者の間でだけ許可されたという事情だったからである。

 こういうことが起こるという神の託宣が、予めエレミヤにはあった。だから、エレミヤは迷わずに神の指示に従うのである。そして、証人を立てて、この取引が執り行われたと確認させ、執り行われたことが事実であることを証言させるようにした。

 金を払って、土地の所有の名義を書き換え、証書を受け取り、証書は大事件が起きても安全に保たれるように壺に納めた。しかし、肝心の土地そのものは、エルサレムを取り囲んでいるバビロン軍の彼方にある。しかも、エレミヤはバビロンの攻撃が一時的なものなのでなく、エルサレムは壊滅し、人々は捕囚とされてバビロンに引かれて行くのだと預言している。そしてエレミヤ自身は幽閉されている。

 こういう状態で、彼方の土地を買うということに何の意味があるか? と人が訝るのは当然であろう。預言者のしたこのことは、勝利が期待出来ると言う人を抑えて、この国の崩壊を言うだけでなく、むしろ崩壊の彼方にある回復への期待と確信であった。

 まだ得心しかねている人も多いと思うが、この事件に象徴されている事柄が全く分からない人はいないであろう。何かを感じた人は、それをこれから継続的に追究して行って貰いたい。真面目に探求して行けば必ず何かが見えて来る。

 しかし、「希望が来る」と呼び掛けておられる神は、彼方にひたすら目を注ぎ、手近なところにあるものには目をつぶれと教えておられるのではない。「あなた自身を愛するのと同じだけ、あなたの隣り人を愛さなければならない」と厳しく言われるのである。

 ところが、それは随分無理な話しではないか。ここをどう説明すれば良いのか。私はここでも説明をしないで、一つの情景を暗示として示し、「これを見よ、この人を見よ」と言うに留める。

 イエス・キリストが十字架につけられるために法廷から引き出されて、刑場の方に追い立てられて行った。沿道には多くの女性たちが悲しんで泣いていた。イエス・キリストは女たちに言われた。「エルサレムの娘よ、私のために泣くな。あなた方とあなた方の子たちのために泣きなさい」。

 この時、エルサレムには破滅が迫っていた。大殺戮が行なわれようというのに、人は誰も知らない。人々は間もなく殺されようとしているイエス・キリストの悲劇を知っているのでそのために泣くのである。しかし、イエス・キリストはここで悲しみを転換しなければならないと言っておられる。その言葉が私たちに投げ掛けられている。悲しみの転換が簡単に出来るものでないが、差し迫った世界の崩壊を直視する目を、希望へと転換することは出来るのである。

 

終わり

 

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