2008.02.11.

烏山九条の会講演

信教の自由と現代社会

渡辺信夫


 はじめに


 211日は1966年(昭和41年)以来「建国記念の日」と定められている。その21年前に長い戦争が終わった。戦争のことを覚えていた者は、「建国記念の日」が昔の「紀元節」の復活だと感じ、悪夢の時代を戻してはならないと呼び掛け合うようにして現在に至っている。

 かつて紀元節を祝わせることが、外には日本の侵略政策を推進し、内には天皇を神とする絶対支配を強化して行く手段として、如何に巧妙にかつ強引に利用されたかを記憶する人は、1966年段階ではまだ相当数いた。だから、昔を知らない若い人たちに、昔の民衆の生活の惨めさと、彼らの蒙った圧政、近隣諸国の蒙った苦痛を教えることに力が注がれた。今でもそのことは言い伝えられねばならない。だが、昔を知る人の人口比は年々落ちて行き、今では紀元節の儀式を経験した人も少なくなっているので、昔のヒドイ状態に戻りつつある危険を訴えても、聞く人の心にナマナマしく響かないようになった。一方、紀元節復活を喜ぶ勢力は年々盛んになっているのではないかと感じられる。

 日本人が全体として質的に劣化したとは思わないが、日本の社会はどんどん陰惨になって行く。その中で表面に表れている現象、またマスコミによって捉えられ、報道され、増幅されて行く傾向の一つに、日本人が外に聞く耳を持たない偏狭な民族集団になって来ていることがある。一端を述べれば、慰安婦が軍隊の制度であった事実を事実として認定せず、被害者への補償を無視し、外国からの批判も忠告も拒絶し、これを「日本叩き」だとする動きがある。同類のものを挙げればキリがないが、満州事変の折り、国際連盟が調査団を派遣して判定した時、日本政府はそれを拒絶し、国際連盟を脱退した。あの時の国民輿論と同じパターンである。こうなったのは、一つは日本政府、あるいはそれを誘導する右翼勢力が、日本全体にヴェールを被せて事柄がよく見えないようにしたからである。そのヴェールは「国」、「日本」という名のもので、丁度、色ガラスを通して物を見るように、国が与える色づけを通してしか物が判定出来ないようになった。色づけなしで物を見るように教えてくれる力が働かなくなった。こういう変化の象徴が建国記念日の制定である。

 

 信教の自由を守る日

 211日が「建国記念の日」と定められた時から、我々クリスチャンで靖国反対運動をしていた者らは、この日を「信教の自由を守る日」と呼ぶようにした。もともと、靖国国営化に対する反対運動は、「信教の自由」という見地からのものであり、これをハッキリ掲げたのは実際に信仰をもって生きている人たちであった。信仰と無縁な人間だと思う人たちは、宗教の世界のことに関心を持たないために、宗教を利用した危険な状況が臨界点に近づいていることを感じなかった。私の言うのは国家神道の復活の危険が見逃されていたことである。

 キリスト教徒の大半はヤスクニ反対であった。もっとも、反対する主張には髄分の温度差がある。戦争中宗教弾圧を受けた新宗教にも同じ傾向はあったが、この宗教においては社会の問題に関して行動を起こすことに馴染まない体質がある。仏教はどうか。これは本来思想的な宗教であるから、一部では戦前から社会悪の問題、社会悪の中での人間苦をどう捉えるかを深く考える人がいて、当然、戦前には弾圧を受けたのであるが、その系列の少数者が戦後は靖国の問題に取り組んだ。――とにかく、宗教の中で一部の宗教人だけが信教の自由を思想的に捉え、靖国神社や護国神社、そこで行なわれる祭りの復興を危険なことと感じていた。他の人は宗教問題だから自分とは関係がないと考えたようである。

 近年になって、靖国神社が日本の始めた戦争を美化し、したがって戦争罪責という思いを忘却させ、要するに、日本が戦争をすることの出来る国に戻って行くための悪質な宣伝をしている中核部だと気付く人が増えた。これは宗教を利用した国家主義の動きであって、その行く先は権力により、信教の自由のみかあらゆる自由の抹殺である。このままでは間もなくそうなると見えて来た。「信教の自由」ということに関心を持たねばならないと考える人が近年かなり増えたと私は感じている。自分は無宗教だと思う人も、社会の公共の問題として信教の自由を保障する制度の確立を考えねばならない。

 

 天皇制日本の中の信教の自由

 我々の教会では長年、この日の前後に、信教の自由を守る日の記念講演会を、教会の宣伝としてではなく、日本のために、日本の平和と人権を守るためのささやかな社会貢献として、催して来た。ただし、どこの教会でもそういう催しをしているわけではない。ハッキリ言って、そういうことを考えたこともないと言うクリスチャンの方が多い。そういうクリスチャンは憲法九条を守らねばならないとも思っていない。

 キリスト教は何と不一致なことよ、と笑われるかも知れない。そのことへの弁明や解説をしようとは思わない。この日と信教の自由とどう関連しているのかについて、説明をして置く。話しは1889年に遡る。119年前のこの日は何の日か?………「大日本帝国憲法」が公布された日である。そのような悪いものを記念するとは問題ではないか、と怒り出す人がいるかも知れない。もっともな意見だと思う。

 しかし、こういう事実があることを知って貰いたい。外国のキリスト教のカレンダーを見ると、211日のページに、日本が信教の自由を法的に認めた日、と書いてある。間違った記述だろうか? いや、明治憲法は日本人民に信教の自由を初めて法的に保障したのである。それまでは、法的には信教の自由は認められていなかった。

 その憲法に「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と書かれている。自由を法的に保障したと読むことは出来るが、臣民たるの義務に反するなら容赦しないぞ、と脅しているようにも読める。安寧秩序を害する思想は許されないという考えを強調しておいて、信教の自由という文言を加えただけである。日本政府は1925年に治安維持法を公布し、これをどんどん強化して行ったが、治安とか安寧とかの名目で政府の意向に反する者を取り締まることは容易に出来る。

 話しは替わるが、日本の最初のプロテスタント教会が建てられたのは1872310日である。正式には幕府のキリシタン禁制が続いている時代であった。キリスト教を教えることは許されていなかったが、宣教師が英語を教えるのを取り締まることは出来なかった。そして、英語を学ぶ青年たちが聖書も学びたいと願い、連日説教を聞いて決心して洗礼を受けた。その時の教会、これは現在も横浜の大桟橋の前にある日本キリスト教会横浜海岸教会であるが、その時の教会の様子は、明治政府が送った密偵によって詳細に報告されている。取り締まりではなかったが、監視されていた。

 それよりも早く1867年のことだが、明治政府は長崎の浦上村で名乗り出た3300人余りのキリシタンを流刑にするという残忍な処置をした。明治天皇が出席する御前会議でこう決めたのである。日本に来ていた外国公使たちはこれを大問題と見たが、政府はその異議申し立てを理解しようとしなかった。つまり、これから天皇を中心とする国を作って行こうとしている時、天皇を最高のものとしては敬わない民衆がいるということを、天皇も政府も恐れ、その信者を脅迫した。

 日本には信教の自由という思想はなかった。ただし、信仰を持つ者には権力を恐れぬ自由があるので、親鸞にしても日蓮にしても刑を受けている。浄土宗の人々が宗教の名による集団抵抗をした実例が戦国時代にはある。徳川時代初期の頃、キリシタンの乱があった。民衆が一揆を起こすことは珍しくないが、そこに宗教が加わると鎮圧に手が掛かる。幕府は信者の信仰と結束に恐れをなして、徹底的に弾圧した。これが日本人の思想の自由の芽を摘み取った。それを明治政府の天皇制はさらにこれを強化した。明治以後、宗教の関与した叛乱事件は起こらなくなった。自由な思想は今日においても盛んになれないような精神風土が出来た。

 

 近代の仲間入り

 明治の日本は開国して世界の中で存在を認められたいと思ったが、諸国の人々は異様な国というふうに見ていた。勿論、全ての点に亙って異様な民族として蔑視されたわけではなく、優れた点があると見た人もいるが、「信教の自由」がない国は、世界の仲間に入れて貰えない。そこで、ヨーロッパから輸入した「信教の自由」を掲げる憲法を作って、世界から認知されるようにした。

 では、憲法で保障されたとおり信教の自由は日本国の中に根付いたのか? それは文言の上であっただけで、実質的には自由の保障はなかった。多数者が少数者の信仰者を迫害しても、国は保護してくれなかった。国も「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という枠の中で自由だと言うだけで、その枠は権力の意のままにされていた。この枠は日本国憲法においては削除されるが、枠を宗教に掛ける必要はなかった。こうして自由は実質的に保障されるようになった。第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」。さらに第89条がある。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。

 日本国憲法は宗教条項に関して、国家神道の横暴が起こらないように、行き届いた配慮をした。しかし、戦後の日本人の中に戦争被害の意識はあっても、それが国家神道や靖国神社をもとにしたものだという認識は低かった。

 戦前、軍備のため国民の富は大部分吸い上げられ、勤勉な人たちは働いても働いても暮らしが楽にならなかったが、敗戦で戦争を放棄したため、国民の富はどんどん回復した。こうして、富への関心に比して人権の回復の欲求は弱かった。

 

 自己責任?

 近年、政府側の人が言い出して気になる言葉の一つに「自己責任」というものがある。失業してホームレスになった人に、「自己責任ではないか」と言えば済むと思われていた昔からの発想である。これで割り切れる部分はある。しかし、割り切れない部分があることがますます見えて来るようになったのが現代である。失業者の自己責任を言うのは国の責任逃れだということは今では良く見える。今さら持ち出しても愚かであるが、信教の自由も、自己責任の問題にしてはならない。

 大多数の人が信教の自由に無関心な時代に、少数の人が、自分の信教の自由を守るのは自己責任なのだと考え、人一倍の責任感をもって生活して、それでその人の信仰を周囲の人から認められるようにしたことが空しかったとは思わない。けれども、自己責任ということに肩代わりさせてならない国の責任を言うのが信教の自由の持つ意味だということ、そしてこれは信教の自由のみでなく、人権に関わるあらゆる問題の根にあることを無信仰な人も考えなければならない。このことはますますハッキリして来た。

 日本国憲法のもとにおいても、信教の自由の文言と実情の食い違いが至る所に起こっている。その象徴的な表れは、靖国神社の好戦的姿勢で、小泉内閣のもとで最も肥大化し、アジア諸国だけでなく、欧米でも問題にされて、その後やや鎮静した。しかし、これを推進しようとする人たちは、思想変革をしていない。今はおとなしくしているが、反省して思想を作り替えて行ったということではない。彼らにおいては宗教が良心の事柄になっていない。「絶対者の前に立つ良心によって自分反省して、自分が作りなおされることを祈り求める」、これが宗教と認められる最低条件であると我々は考える。このことについては今日は論じないが、こういう宗教であってこそ自由を保障されるに価するということはどなたも納得出来ると思う。

 靖国神社は全国に一箇所だけあって、そこで象徴的な意味を持つ儀式を演じるだけでない。各県にその分身と言うべき護国神社を持ち、全国的組織を整備しようとしている。また、護国神社という名ではないが、靖国神社が全国規模で演じる国民の統合を、小規模な形ながら各神社が地区地区で演じて、形が小さいためその危険が目こぼしにされている実例は無数にある。これを我々は「町のヤスクニ」という名で呼んでいるが、十分対応出来ていない危険である。

 このようなものを抱え込んでいるから、日本は信教の自由という法律用語はあってもその実態はない。いや、これだけでなく、国民の主権というものも、平等というものも、戦争放棄というものも、言葉だけに終わらせている。

 

 自由の実質の獲得

 では、言葉だけに終わらせないためには何をなすべきか? 言葉の内実を戦い取らなければならない。論ずべきことは山のようにあり、それを論じるだけで何年も過ぎてしまう。だから、論じるのでなく、何かをすることが大事である。それは何か? 各自の足許にあるものを掘って行くべきであろう。足許に横たわっている物は何か? それは人それぞれに違う。だから一律に論じても余り意味がないかも知れない。が、論じるのでなく、足許の問題に取り組み、それが何であるか、掘り起こして見る。そうすると何かが見えて来る。銘々に見えているものは違うようであったが、掘り起こして突き合わせてみると同じ問題であったということになる。

 議論を止めて各自足許を掘ろう!というのが今日の結論だと言っても良いが、それで講演が終わっては肩すかしを食らったようにも思われる。私としても、もう少し論じなければならない。それで、信教の自由について、これが神を信じる者にも、信じない者にも共通の問題だということに、もう少し言及し、次に、神を信じている私にとってはどうであったかに触れることにする。

 日本において信教の自由が空文化されたことについては触れた。これが空文化されたから、法の抜け穴を通り抜けて、靖国神社の好戦思想が肥大化された事情にも触れた。そして、自己宣伝のように聞こえたかも知れないが、信教の自由ということに熱い気持ちを持つ者が、危険を人よりも先に察知したということも述べた。

 宗教そのものに無関心になっている現代人に、信教の自由についての関心を持たせることはそもそも無理なのではないか?という問いを持つ人があろう。その問いに答える言葉を私は未だ語っていないし、今日は語るつもりもない。しかし、先ほど、自分自身を問う良心、また自己反省から自分の作り替えられることを求めずにおられなくなることについて述べたことが、答えの切り口になっていると考えて頂ければ幸いである。

 このことについて十分論じていないので、問題が積み残された感じはあると思うが、議論をもう少し先へ持って行く。

 

 抵抗権の思想

 「信教の自由」という思想が歴史のなかで確立するにつれて、人類社会の不条理は一つ一つ消されて行ったのか? 解決した面はある。人権思想はだんだん確立した。それでも、日本における人権状況はヨーロッパに比べて遥かに惨めである。そこで、ヨーロッパの実例を学ぶことは大いに有益である。ヨーロッパでも、アジアと違っていない惨めな人権状況から問題を克服して来たのであって、そのような転換を生み出した良心宗教の社会的影響を論じるのは、限られた時間の中では断念しなければならない。ただ、「抵抗権」という思想が信教の自由と結び付いて成り立ったことは言っておく。

 抵抗権の思想はキリスト教では最も古くからある。イエス・キリストの直弟子がキリスト教信者の第一代目であるが、弟子の中で代表者であるペテロとヨハネという二人が、キリスト教の伝道が始まった時に捕らえられてユダヤの議会、これは同時に最高裁判所でもあるが、ここに引っ張られて行って、「今後、イエス・キリストの名のもとに説教してはならない」という判決を受けた。

 この二人は「神の言葉と、人間の言葉と、どちらに聞き従うべきであろうか。我々は断固として、キリストの教えを宣べ伝える」と答えて、ユダヤの最高権威に従わなかった。これがキリスト教会の基本姿勢である。これが抵抗権の宣言であったと言って差し支えない。やや詳しく言い直すならば、こういうことである。「我々はあなた方が持つ権威を尊重し、その権威に従うことが神の支配しておられる世界の平和、社会の正義のためであると看做して服従する。けれども、神の命令と矛盾する場合は、神の命令に従い、人間の命令は拒絶する」。

 キリスト教では初めからこうだった。だが、常にそうであったとは言えない。妥協して、この世の権威に屈した例もある。また、抵抗権が理論化されていなかったために明快に主張されることは少なかった。ではキリスト教で抵抗権はどのように打ち出されたのか。――抵抗権の理論化を行なったことで有名なのは、明年生誕500年記念を迎える改革者カルヴァンである。

 彼が抵抗権という思想を確立したと言うと、それは不正確である。抵抗権の実例は旧約聖書の中にも珍しくない。神を信じるなら、それと矛盾するような地上の権威に逆らうのは当然であって、その権威に逆らって殺されたとしても、神の祝福を信じていたのだから祝福なのだということは説明の必要もない。しかし、これでは抵抗権、抵抗することの正しさ、その権利が保障されたことにはならない。

 カルヴァンとその弟子たち、特に彼の後継者としてジュネーヴ教会の牧師になったド・ベーズ、さらにその弟子筋であるフランス・プロテスタントの思想家たちが論じた論法は、神の言葉に従った故に王に逆らった実例を集めて整理することであった。さらに、聖書の中に実例を求めるだけでなく、諸民族の持つ民族法の中からも実例を引き出す。例えば、昔ギリシャのラケダイモンの国は、王国であったが王の権威にスグ続く権威を持った副王という務めが立てられる制度になっていて、王がもし間違ったことをして、非を改めないならば、その王を廃止しなければならないようになっていた。

 では昔のことを持ち出すだけで、現代の問題には触れないではないかと思われるかも知れない。しかし、カルヴァンは彼の時代の問題にも触れている。それはヨーロッパにあって、彼の生まれた国フランスで一番進んでいた「三部会」という制度である。これは三つの身分、聖職者、貴族、平民、それぞれの代表者からなる議会を随時開くという慣習であるが、この議会が王権の誤りに際して、その権力を制限するという機能を持った。今は三部会がある、という言い方は当時としては相当に重く響いた。

 カルヴァンが抵抗思想とどう繋がるかは、いま資料を持ち出して細かく説明する場所でないが、大まかな関連を上げることは困難でない。カルヴァンが指導した宗教改革の系列では、スコットランドの宗教改革は議会が王権の制限を行なうことによって成立した。イングランドでは17世紀になってからであるが、宗教改革の思想を持つ議会が王を法によって裁く。このピュリタン革命では王を法によって死刑にするということさえした。フランスにおいてはカルヴァン派の思想家の中にモナルコマキ(王を殺す者)という異名で呼ばれた思想家群が、実際の行動をしたのではないが、王を死刑にすることも場合によっては合法だと語られるような思想基盤を作った。だからフランス革命が成り立った。

 抵抗権は、自分が正しいと信ずるなら、その信念を貫けと言う精神ではない。簡単であるが一つの理論である。第一のポイントは、この世には公権力が立てられ、その公権力を支えるのは神であるというところにある。公権力の形態は一人がそれを行使する王制、複数の者が行使する貴族政治、民衆の全てが行使する民衆政治、いろいろあるが、その権威に従う。公権力が神を信じているか否かに関わりなく、神に立てられた機関であるから、神に従う者は公権力に従わねばならない。公権力が神を信ずるものでなければ従わなくて良いという理論は初めからない。そこまで論じるなら原理主義になる。

 第二のポイント。神に立てられたものであるにも拘わらず、神に反する命令を出して、実行させようとするならば、神を信ずる者は服従してはならない。抵抗になる。抵抗しても是認されるという意味でなく、抵抗しなければならない、というふうに強化されるのである。ここに抵抗権思想の特色がある。

 第三のポイントとして、神に立てられたはずの公権力に対する抵抗であるから、抵抗権行使者は神から召された公的使命を持つのであって、私人として抵抗するのでない、ということがある。

 

 抵抗はされたのか

 カルヴァンの抵抗権思想と言っても大したものではないではないか、と思われるならば、その通りである。単純なこと、当然のことなのだ。人民主権の思想の母体ではあるが、人民主権を主張してはいない。王制転覆の精神を鼓吹したとも言えない。しかし、王権を絶対視することは全く成り立たない思想の地盤を作り上げる。

 ここまで論じたところから、すでに疑問を起こされた方もあろうかと思う。カルヴァンのそういう考えが日本に持ち込まれたなら、天皇制と真っ向から対立したではないか?そこはどうなったか? 驚くべし! 何も無かった。抵抗もなかった。そして弾圧もなかった。書物の没収もなかった。カルヴァンの書物は戦争中でも伏せ字なしで読まれた。一体どういうことか?

 カルヴァンは必ずしも革命家でないのだから、天皇制公権力のもとで平穏に生きる道を教えたと解釈できるかもしれない。日本のカルヴァン派、これは日本キリスト教会という教派に纏まっていたのであるが、そこからは天皇崇拝を拒否せよと教えた牧師は一人も出なかった。したがって治安維持法で有罪にされた人はいない。カルヴァンの説を知らなかったのではない。抵抗権を説いた彼の書物は日本語に全訳されていた。

 

 韓国における抵抗

 日本ではそういうことであったが、当時日本の支配下に置かれていた朝鮮のカルヴァン派、朝鮮では長老派と言うが、そこでは事情は別であった。朝鮮総督府はクリスチャンにも神社参拝を強制した。長老派はなかなか従わなかった。総督府は圧力を掛けて、神社参拝をしないキリスト教学校を閉鎖し、教会も閉鎖した。大部分の人はやむなく従ったが、神の命令に背くことは出来ない、と信じて、ついに殺された人はいる。彼らは例えば創氏改名というような理不尽な押しつけには従ったが、神でない者を礼拝して生き延びるよりは、殺されて神の約束された永遠の祝福に生きる方選んだ。

 韓国でなされたことが日本ではされなかった。それはどういうことなのか?とクリスチャンでない方は訝しく思われるであろう。

 キリスト教が絶対王制に抵抗するだけの信仰と思想を持つのだと語るだけなら、比較的簡単だ。材料はタップリある。それを語って日本の抑圧された同胞を勇気づけるのは良いことだと言っても間違いではない。

 しかし、当時日本領であった韓国で、長老派の牧師が抵抗の道を行って殺されたその時期に、同じ系列の信仰に立っていながら抵抗をしなかった私が、カルヴァンの思想はこうであると大きい顔をして言うのは差し控えねばならない。ただし、自分の過ちを明らかにしながら、本当はこうでなければならなかったと言うならば、それは言うだけの意味がある。

 信教の自由を保障せよと権力に対して主張するのは、単なる生存権の主張ではない。単なる生存権を貶めるために言うのではないが、信教の自由を生存の自由以上のものとして把握しているから、その価値は優先させねばならない。だから、信教の自由を、謂わば橋頭堡のようにして確保して、人権のための足場を切り開くことになる。先にも言ったが、「絶対者の前に立っている良心によって自分反省して、自分が作りなおされることを祈り求める」という証しが立たねばならない。

 

 積み残された諸問題

 信教の自由について論ずべき問題の積み残しが沢山あるが、この言い方だけでは解決のつかない問題が多いということを語っておきたい。明治憲法的なものが多く残っている日本では、信教の自由というキーワードでどんどん解けて行く問題はある。だから、まだまだ信教の自由の学びは続けなければならない。それと深い関わりのある抵抗権の学びもいよいよ必要である。

 しかし、これは日本が本当の意味で近代化せず、西洋の近代化の上辺を模倣しただけの近代化であったから起こって来ている不条理だということであろう。この歪みを是正しなければ、問題も良く見えてこない。

 私にはまだキチンとしたことが言えないのだが、西洋の近代化にも問題があった。これは地球温暖化の危機に取り組んでいる人たちには見えて来ている歪みであるが、その歪みを是正する知恵を養わなかった愚かさが近代にある。この責任はキリスト教にもある。キリスト教が妥協しない精神を培って、信教の自由や抵抗権の思想を開拓したことは評価されなければならないであろう。しかし、キリスト教の生み出した近代の中にさまざまな問題がある。それに目をつぶって良い点だけ取り上げるのはおかしい。

 特に、近代の西洋のキリスト教国は、おしなべて植民地を開き、植民地人の犠牲の上に自分たちの生活と文化を置いた。キリスト教国が植民地を作ったことにキリスト教会は必ずしも賛成ではなかった。批判的な人も結構いた。それでも、植民地を作って行く大勢を覆すことはせず、結局は助長した。キリスト教の中で最も良心的であろうとする分子が宗教改革を行ない、抵抗権を立ち上げて来たが、良いことづくめだとは決して言えない。

 

 おわりに

 昨年は中国キリスト教200年の記念の年で、私も些かの関わりを持ったが、この年を覚える幾つかの催しがあった。お祝いをした人はいないと思う。200年前、清国は阿片戦争に敗れてキリスト教伝道を受け入れざるをえなくなった。そして中国革命以後この国はキリスト教の外国ミッションを拒否し、ただ政府公認の三自愛国運動のキリスト教だけは認められた。しかし、政府公認という形に対する民衆自身の反発もあって、非公認の教会が次第に強力になって来た。その実態を私は把握していない。中国政府によっても把握出来ていない。

 今日は日本のキリスト教における信教の自由の状況を主として語ったのであるが、私が歯切れの悪い話しをしたかも知れないが、日本における信教の自由の状況そのものが極めて捉えにくい。私がしたように、日本の政府と民衆と日本の教会をザックリと切り裂くような言い方では、全体として正しいけれども、それで片付いたわけではない。

 中国の宗教状況は何もかも違っていると言えるようである。日本側は中国では政府公認の宗教では戦時中の宗教統制と同じではないか、信教の自由という原理も知られていないではないか、と言うかも知れない。今日の日本人は何かにつけて中国を見おろしたがる。批判が当たっている面はあるが、例えば中国では、三自愛国教会も非公認教会も、日本の教会より遥かに貧しい中で民衆の支持を得て生き生きしている。それに見習えと言っても意味はないが、彼らが植民地支配と組合わさったキリスト教伝道によって、日本の軍事侵略によって、戦後の文化大革命の失敗によって、苦難に続く苦難を嘗めて来ている。この苦難に学ぶことが日本における混沌状態を切り開く手がかりになる。恐らく、日本の失敗をさらけ出して、彼らも失敗を掘り起こし、ともに学ぶことで、互いに得るところは大きいであろう。

 

おわり

 

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