2009.06.16.
金田隆一記念講演
渡辺信夫
金田隆一兄弟とは特別に親しい関係にあったわけではない。地理的には遠く離れていた。しかし、私が北海道に来る機会には殆どいつも会っていたように思う。また彼が日本キリスト教会の大会に長老の代議員として出席している時には必ず言葉を交わしていた。日基の中で反靖国の戦いをして来た戦友であった。二人を結ぶもう一つの糸があった。どちらも海軍にいたという繋がりである。
この繋がりに意味があるとは思っていない。一般に同じ戦争の時期を軍隊で過ごした者同士の間には、その部隊が全く別の場所にあったとしても、軍隊にいたというだけで「戦友」という言葉の引き出す連帯感が起こる。特に海軍にはこの傾向が顕著である。私はそれを忌まわしい感情であると思うが、金田隆一さんは私がそうである以上に海軍を嫌っていたであろうと推測している。どういうことかと言えば、海軍では醜いことを美しく見せる技術が発達していたということである。「海軍のスマートさ」と得意になってふれ廻る人が多いが、スマートでない私には煩わしいことであった。彼もそうだったに違いない。「予科連」と巷では少年たちの憧れの的にされたが、その日常生活は惨憺たる奴隷生活そのものであり、しかもこの惨めさは隠蔽された。さらに、傷痍軍人とされた後の彼がどのように忌まわしく感じたかを私は心のうちで考えていた。
私自身、戦争が遠くなって、もう64年経つが、何かにつけて戦争に関わることどもを、つい先程のように思い起こし、それを口にせずに意識の奥に葬り去る場合の方が多いのであるが、心の底に沈んでいる記憶の重さをしじゅう噛みしめている。戦争というものは、人命と人の肉体を破壊するだけでなく、精神を汚染し、汚染は二次・三次の汚染として浸透し、これから浄化される回復には非常な困難がある。
彼と軍隊の時のことを話し合ったのは一度だけで、しかも短時間であった。彼の負傷の事件を聞いて、私は話しをそこで打ち切った。それ以上のことを聞くには私の側に用意がなければならないと気付いた。続きを聞くためには時間を置かなければならないであろう。しかし、それ以上聞く回を重ねなかったのは、十分な時間を取る機会を作れなかったからである。
彼がいたのは航空隊であり、私のいたのは艦船部隊である。航空隊の方が艦船勤務よりも苛酷であることを海軍部内では誰も知っていた。私の勤務していた艦は沈まなかったが、同じ海上護衛隊の艦船はほぼ同じ時期にみな消滅するという、言葉にならない経験をした。彼は前線に出なかったが、前線よりもっと残虐で非人道的屈辱を、訓練の中で受けた上、一生その身体が担い続けなければならない障碍を負わされた。その傷と痛みについて語り合うことが出来れば、かなり多くのことを聞き出せたと思うが、それを語らせることは酷であると考えた。
その傷は肉体の傷であるばかりでなく、心に刺さる棘にもなったであろう。そして、その傷がある故に信仰への飛躍があったという証しが聞けたかも知れない。
時間を掛けて語り合う機会を作らないうちに彼が世を去ったことについて、暗然たる思いとともに申し訳なかったという思いがある。私が先に死んで、彼が後まで生きている、という年齢的前後関係しか考えていなかった。
また軍隊の話しに戻るが、1945年8月15日の夜、応召で来ていた家庭持ちの兵は明朝から順次帰って行くことになっているので、顔が揃う最後の機会であるから、分隊の者を集めて、労をねぎらい、少しばかり話しをした。戦争には全面的に敗れたけれども、君たちが懸命に持ち場を守ってくれたから、艦は相次ぐ危機を乗り切り、戦死者を出さずにみんな生きて家に帰れることになった。これからも一生懸命生きてくれ。大事なことは何故戦争に敗けたかを知ることだ。私は勉強をやり直さねばならないと思っている。君たちの中の若い者は、事情が許すなら、学校に入り直して勉強してくれ。そういう主旨の挨拶をした。時に最年少の兵士の年齢は16歳であった。その殆どの人とは連絡が絶えてしまったが、部下のうち学校に入り直した者はいなかった。人々にはそんな余裕はなかったのである。
その回想と金田隆一さんのことが重なるのである。金田さんは軍隊によって傷つけられた体を鞭打って、大学まで行って学を積んでくれた。私自身は戦争で失った多くのことを取り戻さなければならないので、いや、もっと適切に言えば、戦争態勢のゆえに獲得の機会を得なかったものを育成するために、知的飢餓を覚えつつ遮二無二学問に励んだが、彼もそうであったと感じている。――次の世代は豊かな環境で育った。知的飢餓感を知らない。それは幸福であるかも知れないが、それだけで良いのかという疑問が残る。
彼を偲ぶために、彼が一時期を過ごした軍隊のことに多くの言葉を費やしてはならない。その後、彼は市民として、キリスト者として、歴史研究者として生きた時代の方が遥かに長い。その功績を顕彰することは彼自身も好まないから今は触れないが、彼がして来たこと、しようとしたことには意味があるから、同じ志をもって歩んで来た我々はこれを認めて、同じ課題を担って行かなければならない。
彼が過ごした短い軍隊の期間、意味から言ってマイナスの期間と呼んでも良いこと、それに触れたのは、彼がこの期間に味わった苦々しいマイナスを、残った人生において大きいプラスとして返したと言いたいからである。市民としての平和の活動、反靖国の活動、教育者としての活動、キリスト者として、キリストの教会をキリスト教会たるに相応しくして行く奉仕、具体的には日本キリスト教会が同じ過ちを繰り返さないでマトモな教会として立ち抜くよう叫び続けること、その研究を書物にしてこの世と教会に送ることであった。
大きいプラスとして返すと言ったが、報復とか復讐という言葉を使いたい人があればそう言って良い。彼は彼を痛めつけた天皇制に報復した。そして教会に対しては教会が天皇のものでなくキリストのものであることに立ち返れ、失ったものを取り返せ、と叫んだ。教会内で通常聞かれるよりは厳しく聞こえる声だったかも知れないが、自分を痛めつけたものが何であるかを知っている彼としては極く当たり前の表現であった。
私の側の思い込みに過ぎなかったかも知れないが、とにかく、そういう目で彼を考察しているから、彼の書いた物は思いを込めて読んでいた。次々と書いた物が贈られて来た。その文章が好きで愛読していた訳ではないが、強烈な訴えが感じられ、その訴えの強さについては納得した。
96年に出版された「昭和日本基督教会史」は、心血を注いだライフワークである。彼の業績の総決算と言うべきであろう。私はこれを隅から隅まで読んだ。彼を偲ぶにはこの書を繙いて、彼が言ったこと、言わんとしたことを読み解いて、受け継がなければならない。また継承するためには、欠け部分も読み取って、それを乗り越えなければならない。そのような欠けを洗い出すことが同じ志を持つ者の義務であろう。
今回、金田さんの友人たちによって、彼の残したもの、その志、これを受け継ぐための催しが企画された。私は必ずしもこの道の専門家ではないと心得ているが、同じ志を持つ者として参加するよう呼び入れられたので、有り難く加わらせて頂いた。彼の掲げていた灯火を消してはならない、と一緒に叫ばねばならない。そして、灯火を消さないためには、油の蓄えを怠ってはならないという確認が第一の仕事である。
灯火を消してはならない、という点について、この席には異論を唱える人はいないが、そとにはいるはずである。すなわち、心から賛同するのではないが、著者が非常にハッキリ言い切ったため、反論が出来なくなったと感じているだけの人は多数いる。彼らは折りがあれば先師の名誉回復のために、一矢報いたいと願っているが、もっと悪性の思いの人もいる。それが教会の中にも澱のように淀んでいる。世がだんだん良くなるというのは幻想である。
つまり、教会が新しくされなければならないということが、ただ掛け声である限り、教会は新しくならないし、古き教会は自己讃美の声を上げたがるのである。「昭和日本基督教会史」を焚書にするという教会決議がなされることも十分あり得る。だから、単なる戦いでなく、革新の呼び声の持続だけでなく、聖霊による覚醒を乞い求める宗教改革の祈りが、日本キリスト教会の中に起こらなければならない。この書物が叫んでいることを無にしてしまうような説教がなくならねばならない。
書物の標題にある「昭和」という文字に違和感を持つ人が多いと聞いた。それは昭和時代に対する不快感の投影であって、書物の側に問題があるわけではない。そのような感じを持たれている「昭和」時代を、ありのままに捉える時、このネーミングになる他なかった。大正に生まれ、昭和を生きて来た人間は「昭和」という称号を汚名として引き受けなける覚悟がなければならない。
私は昭和時代の始まる3年前に生を受けた者で、生まれる前の年に父は洗礼を受けたので、自分としては昭和時代の日基の全コースを走って来た。全部を知っているとは勿論言わないが、昭和を部分的ではあるが感覚的には知っているという感じがある。ところが、この書物を読むと、読んで納得することばかりであるが、私がジカに触れて来た昭和の日基とは随分違うという感じを受ける。――これは金田さんの本が「福音新報」を材料として書かれ、私が実地に触れて来たことの大部分はそこに書かれていなかったからであろう。だが「福音新報」に載らなかった事項は、教会史から除外されて良いということではあるまい。昭和日本基督教会史も記述の中に「福音新報」の記事以外の文章は多く採り入れられている。そこに偏りがあると言いたいのではない。むしろ、偏りがない方ではないかと私は思う。しかし、あの重苦しい時代にあった実際の町の中の教会の雰囲気まで掴んで歴史を書こうという眼差しはないと思う。そこまで批評するのは酷であるかも知れない。それでも、オーラル・ヒストリーと折り合いのつく歴史が欲しいのである。この書物の視点に対する攻撃があった場合、それに答えるには、この点を踏まえて置かなければならない。
「福音新報」は日基の顔のような役目を果たした雑誌であり、日基の全体が反映している点では良く出来ていると評価されねばならないが、東京で編集され、東京的視点で見られた日基である。東京から見えないものは存在しないことになってしまう。執筆者は限られ、情報量も少なく、全国に目は届いていない。例を絞って言うが、樺太伝道は北海道伝道との関連があったので触れられているが、沖縄については何も書かれていない。台湾についてはかなりシッカリした論述があるのに、その手前にある沖縄が視野から抜け落ちている。それは日本人の多数者が、知識人や革新思想家を含めて、沖縄を見落として何とも思わなかったのと同一の精神構造であり、それだけの視点でしか日本の教会を捉えなかったことを示す。
沖縄の記述がないということは、その部分を貼り合わせれば解決するという問題ではない。それはアジア的視点の設定が出来ていないことでもある。東京的であることを克服するのは、全国的スケールに巨大化することではなく、アジアが見えて来るようになることである。「福音新報」のこのマイナス面に著者は気付いたと思われるが、アジア的展望の欠けはこの書物でも克服されなかった。
沖縄問題と別に見なければならないが、先住民族の先住権を長期に亙って無視して来た罪責も、日基は教会として取り上げなければならないであろう。我々の大半はこの問題に近年になるまで気付かなかった。ただし、先覚者がいることは知っていた。金田さんも知っていたが、樺太に言及した節の中でアイヌ問題に僅かに触れるに留まった。日基ではアイヌ問題を教会的に取り上げたことがないが、その欠落について説明の責任が問われることになる。問題の継承のうちの新しい一つである。北海道の友人たちによって特に担われる課題であろう。
大正から昭和への切り替えを象徴するのが、「植村」から「高倉」への変換であると金田さんは捉えた。この辺り異論の出る所と思うが、著者の力説したいポイントであり、記述は明快である。私もその見識に賛成である。が、この構想は金田さんの着想というよりは森岡巌さんとの合作であろう。他にも北海道に残る高倉の影響を金田さんは受け取ったと思う。
ただ、著者が高倉神学を咀嚼した結果を、それ以後の歴史の記述に反映させているのかという問いは残る。高倉神学の系譜は辿られていない。埋没したかのように扱われているが、それは苦渋する系譜として残ったと見、それを追跡すべきであろう。もっとも、その苦渋は必ずしも生産的でなかった。
神学を扱う扱い方がジャーナリズムの話題の扱い方の程度になっている。ジャーナリズムを排除せよというつもりはない。キリスト教ジャーナリズムは存在意義を持つものであり、福音新報は神学ジャーナリズムの領分でもっと活躍すべきだったと言いたいのだが、神学ジャーナリズムを神学史の記述として転用することは出来ないと私は思う。ジャーナリズムならば、記事の裏付け調査をしさえすれば十分なのであるが、神学としては、一段深い層まで掘り下げ、思考の脈絡を掘り起こして納得するまで考えるという手続きが必要である。一見無駄と思われる地味な労苦が積み重ねられねば、見えて来ないことがいろいろある。
教会人、主の教会の管理を託された者、――そういう者が、主の教会を主の意図に反する方向に導いてよいのか。彼らが国家に忠実であろうとしたことは、表面の装いに過ぎなかったとしても、キリストに忠実であろうとしていなかったことは隠れもない事実である。その論及はその通りである。それだけでなく、警告は将来にまで届かねばならない。
神学者の言葉が神学者にあるまじき破綻を示す事件が戦時中枚挙に暇ないほど起こった。書物の巻末に近づくにつれ実例は目を覆いたいほどになる。その失態を追求することは今なら容易に出来る。しかし、今いる我々は考えていなければならない。神学の言葉が、どうしてそのように崩れたかを調べなければならない。私の予想では、幾つかのパターンがあって、そのパターンに沿って人間が崩れて行った。精神主義的掛け声では防止できないという実例は十分豊富にある。崩れの前兆になる兆候を先回りして掘り当てて置かねばならない。
崩れ易い神学思想と崩れ難い神学思想の違いがあることを、先人はある程度知っていて、言い残してくれた。日基の中にはそういう気風が他と比較して多少濃く残っていた。それは一応分かって、我々は先人の知恵は継承しようと思っていた。しかし、知恵を定式化しても、それで伝わるとは限らないし、思想としては形はそのまま受け継がれても、それを担う人間が崩れてしまう場合があった。そういうことがまた起こると予想は出来るが、予防措置を取る知恵は我々にはまだない。
昭和が遠くなった今、昭和よりもっとオゾマシイ時代が来ているのではないか。日本基督教会史がそのもっとオゾマシイ様相をさらけ出したものとして書かれることになるのを覚悟しよう。しかし、それでも、キリストに望みを置く我々の望みは崩れないのである。
終わり