2009.01.18.

回顧と展望2009

日本キリスト教会東京告白教会


 1

 2008年受難週主日に、東京告白教会は、式典や祝会を挙げることもないまま、静かに御言葉を聞き、また祈りを捧げることによって伝道開始50年を記念した。諸教会に感謝の挨拶を送ったが、50年史とか記念文集の発行というような行事も行わなかった。

 それからやがて1年になろうとする時を回顧することになっている。だが、この1年の前の50年について、まだ行なっていない総括が先ず必要であろう。我々は50年の歩みの総括もしていなかったのである。それは総括を試みても、浅薄で技巧的な作文に終わるのではないかと恐れるからである。総括というものが、過去から抜け切れていない者による主観的な思い出話や、自己弁護や、自画自賛に終わるならば、しない方がましである。そこで我が教会は、客観的に総括するための史料を調える作業を、有志の努力でなく、教会として昨年開始した。この整理が或る程度まで進んだ段階で、初めの50年の総括に取りかかることが可能になるのではないかと考えている。その時には、最初の50年を知る者は世を去っているに違いない。それでこそ客観性のある総括が成り立つであろうと思う。――とにかく、51年目の歩みも本格的には総括できない状態であることを弁えつつ回顧と展望に取りかかる。

 

 2

 前項の営みに対応する作業として、残された史料を読み取り、理解し、分析し、その総括をしつつ、将来を開いて行く人材を一方で養い、かつ器としての厚みを増して置かねばならない。すなわち、器の掘り起こしと育成である。そして、器の掘り起こしを提唱してからも1年の余が経過したが、成果はまだ少しも見えて来ない。史料だけが整って、それを用いる人材がいないということになるなら、1958年以来の東京告白教会の歴史は、恥を残すだけのものでしかなかったことになる。

 そういう事態になるかも知れないという恐れは必要であろう。しかし、主が51年前に起こしたもうた出来事には意味があったと信じたい。「器の掘り起こし」とは、ただの掛け声でなく、新しい精神を呼び起こして行く力をもった知恵の言葉でなければならない。

 

 3

 ただ、これまでの歩みには、史料になりにくい部分があった。これについては幾らか語られたこともあるが、感慨を口頭で伝えて置かねばならない。それは東京告白教会に加わっていないが、その志を或る程度理解し、これを有形・無形の支援によって後押ししてくれた力があったことである。我々は旺盛な独立心を表明していた。それは誰も助けてくれるものなく、全て自分でやったということではない。むしろ、必ずしも我々の志に近いところにいたわけではないのに、好意と包容力をもって支援してくれる人が少なからずいた。その支えがなかったとしても、我々が挫折や崩壊には至らなかったと思うが、今よりはもっと窮迫した姿を曝していたであろう。

 このことは、立場を換えて見れば、我々が自教会の維持・温存・発展よりも、むしろ他者と他教会への奉仕を考えていたことと結び付く。具体的に言うならば、牧師の著作も、教会の発行する印刷物も、借り物でなく告白教会の実践の中から考え出した、諸教会のために役立つ知恵の提供、社会還元であった。そのようなものが発信されていたから、支援があったと見られるかも知れない。だが、ことの順序としては支援の方が先であった。如何なる意味においても成果が見られているとは言えない初期段階で、好意と期待をもった支援があり、小さき群れはそれに答えて行こうと励んだのである。

 最も初期に、我々の伝道所は「世のための教会」という言葉は使わなかった。主旨として反対すべきことではないが、発想の原点が違うと感じた。そのような合言葉を流行に乗って唱えても、世への妥協、あるいは空虚な抽象論にしかならないと予想していた。我々はむしろ「諸教会に仕えるための教会」でありたいと公言した。そのことは「教会論的思考」の普及、御言葉によって教会が建つことの証しとしての説教の出版、教会と国家の関係の思想確立のための探求と行動、アジアのキリスト者との連帯、そして近年に至って、教会のディアコニアの道の開拓により具体化されて来た。近年のようになれば、世のためと言って良いし、そう言うほかないが、その前に教会が教会であるとは何かを問うたのである。

 「世のための教会」とは言わず、「諸教会のための、この教会」という目標を掲げた時、我々は自己については厳密な規定を考えたが、仕える対象としての諸教会については厳しい規定を押しつけなかった。時にはそれは教会に属する自覚も持たない漠然たるクリスチャンであるが、「キリスト教はこれで良いのか?」との疑問を抱く人たちであった。そういう人たちが、中にまでは入って来ないが、外から取り巻いて、好意的に我々の教会を見ていてくれた。我々が50年間押し潰されないで立っていたのは、一つにはこういう事情があったからである。

 

 4

 この50年間に限って見ても、「教会はこれで良いのか?」と問題提起をした人、実践を始めた人は必ずしも少なくなかった。そして、その実践は殆ど潰れた。あるいは「これではいけない」との意識を放棄した。我々が潰れず、使命を失わなかったのは、その人たちよりも幾分本格的に教会を考え、かつ教会の歴史を学んでいたという点はあるが、見守っていてくれる味方がいたからであろう。

 問題提起をするだけで労することをしない人は多かったが、今では殆どすべて沈黙し、その運動も消滅した。その人たちを批判するのは簡単であるが、批判しても意味がないことが分かっていたから、我々は初めから関わりを持たなかった。すなわち「教会を信ずとは何か?」を神の言葉から先ず聞くことをしないまま、いきなり「教会はこれで良いのか?」とう問いをぶつけても、せいぜい自己自身への問いとなって跳ね返って来るだけで、その問いに答えるだけのものを持たないから、自問自答しつつ自滅に至るほかなかった。それでも、「教会はこれで良いのか?」と疑問を感じつつ、声を出すことを躊躇し、あるいは、その疑問を感じもしないで教会の現状肯定をしていた人よりは、まだ意味があったのかも知れない。

 さて、これまでの50年はさて措き、これからの50年にはもっと苛酷な事態になる。キリスト教の地盤はどんどん弱くなった。集会を維持できなくなった群れが増えている。「これで良いのか?」との疑問すら起こらない教会状況になって来た。だから、51年前に揚げた声が今揚がっても、それを理解し、共鳴し、何かの形で支援する人はずっと少なくなったはずである。教会の主がこのことのために何かの処置を講じたもうことは信ずるが、それ以上のことは言えない。それが我々の現状である。「我は教会を信ず」との信仰をシッカリ掴んでいなければ立てないのである。

 

 5

 3年間の2月に台湾に行った機会に体を壊し、肉体的に限界だと悟り、活動は大幅に削らなければならなくなった。この危機は一応乗り切れたと思う。しかし教会の活動においても変化が起こり、それは復原されていない。牧師としての外での活動が出来なくなったため、内面に転換せざるを得なくなり、ここには精神的な深まりがあったと言えるが、外面の行動が出来なくなった欠損面が生じ、その欠損は補充されていない。

 すなわち、日本の教会はアジアの教会との協力と対話を開拓して行かねばならないと叫び、力を注いでいた、その道が途切れる危険が生じたままである。この協力と対話はデスクの上の作文でなく、実際に足を運んで、自分の目で見、顔を合わせて話し合い、一緒に汗を流さなければ成り立たない。そうしてこそ、そこから学びと益を得ることが出来、その益を日本社会と教会に還元することが出来ていた。

 この働きが停滞して3年になる。このままで放置することは出来ないので、昨年は中国訪問を実行した。得たところは多大であったが、それを今後にどう繋げて行くかについては何の具体案も生み出していない。ただ、個人的に細々とした繋がりが残されているだけで、教会の活動はできなくなった。器があっても掘り出せない状態である。台湾との交流も停滞したままである。器となるべき人材はあるのだから、掘り起こさねばならない。

 

 6

 昨年後期に露わになった世界経済の崩壊は、我々の経験を越えており、これからどうなって行くかは掴めない。だが隣人に仕えて行こうと志す我が教会としては、この変化に即応して、この世の問題についての知識と洞察をもっと深く学ばなければならないと思いはするが、教会としてこれまで目指してきたディアコニアの姿勢を一貫して持ち続けるほかない。

 我々は教会の運営に関して金銭的な考え方に重きを置くことをせず、経済に関しては非常識な決断を何度か行なって来た。それでも、これまで経済のことに無頓着であっても支えられていた。しかし今回の経済危機では、違うかも知れない。教会の体質が衰弱していることに経済の崩壊が重なるのであるから、教会の存亡に影響を及ぼすであろう。ただでさえ衰頽の一途を辿っていた教会は、この機会に全面的に崩壊してしまうかも知れない。

 神のなしたもうことを我々が先取りして、先のことを考えるのは良くない。預言者が御霊によって先のことを予告したからといって、我々が確かめることもせずに、預言の賜物と使命が自分にあると思ってはならない。しかし、神の御旨が常に恵みと繁栄を約束していると誇るべきでないことは確かである。むしろ、聖書に照らして、驕り高ぶる者、安逸を貪る者の没落こそ神の御旨ではないかと我々は思わなければならない。教会と名乗っていた者への裁きが始まったのではないか。これまでは切り捨てられる弱者に目を背け、教会のうちに閉じ籠って、神の寛大のうちに安逸を貪る人は、教会の名を安心のために利用していたかも知れない。しかし、今ではそうではなくなったのではないか。――全世界的に教会の没落が進んでいるのは事実である。

 しかし、神が残りの民を残したもうことを、我々は聖書から教えられている。我々がその残りの民ではないのか。その証しを主に求むべきではないか。神が我々をここまで教えて来られたのは、我々に残りの民としての確信と、生き残って主の民に仕える使命を果たさせるためであった。

 

以上

目次