2008.01.20.

回顧と展望2008

日本キリスト教会東京告白教会


 1

 今年は我が東京告白教会としても、我々の住む日本国としても、また地球人類にとっても、大いなる緊張を要する年であることが予感されている。

 教会はこういう時に「恐れるな、落ち着いて、静かにせよ」という呼び声を、主から聞き取るのは勿論、これを教会の中に留めて置くのでなく、外に向けても、出来るだけ多くの人の胸の奥に届くように、発信しなければならない。多くの人がキリスト教のメッセージを聞きたがっている時代ではない。そういう人は依然として少ない。しかし、人が聞こうが聞くまいが、語る務めを持つ者はますます励んで語らなければならない。

 また、こういう時代に、キリスト教の側で、この機に乗じて、不安を煽る刺激的な言葉で、聴衆を獲得しようとする人はあろう。しかし、それはむしろ虚しさの恥を露わにするだけである。ただ、偽物だらけの時勢の中で、偽りのない言葉と生き方による証しが、人の目を引きつけるようになっているとは言える。我々の教会では偽物を掲げて売りつけることはしないように努めて来たが、他と比較してこちらは本物である、という自己宣伝によって己れを義とする道は取らない。今年は一層そのように生きる。

 2

 今年の受難週主日(321日)は我が東京告白教会の伝道開始50年の主の日になる。我々は十字架のキリストの御跡を追って行く群れであり続けたいと願って、受難週から歩みを始め、受難週を一年で最も大事な季節として守って来た。2ヶ月後に50年記念の特別行事を催す考えはないが、心に刻まねばならない半世紀の歴史であったことを覚えて御名を讃美すべきである。したがって、50年間恵みに支えられて走って来たことの意味と今後の課題を弁えたい。

 旧約の民は7年を7回繰り返した50年を全ての負債と拘束から解放される大いなる安息の年として守るべきを教えられた。ただし、旧約の歴史の中にはこのヨベルの年が実施された記録を一つも読むことが出来ない。ということは、これは旧約においては飽くまで約束であって、信仰者はその成就を信じて待つことを教えられ、成就は新約の時を俣たねばならなかったという意味である。約束のキリストが来られて、成就は始まった。

 教会においては或る意味での50年の成就が確認されて良い。しかしまた、未だ待たなければならない時の中にいることを把握しなおす機会である。

 3

 牧師が健康を害して、この年を迎えられないのではないかと危惧される時期が2年前に訪れた。人の生死は神の御手の内に置かれていることであって、騒ぎ立てるべきものでないから、教会も牧師もそのことでは騒がなかった。ただ、教会は神の計画の実現を、静穏な心で受け入れようと備えつつ、もし主が許したもうならば、説教職が空白にならず、牧師が今暫くは御言葉の説教と、聖礼典の執行、そして教会の僕としての務めを続けることが出来るようにと祈り、長老、執事の負担を増やし、伝道師の職務を新たに設けて、牧師の負担を軽くしようと図った。これが、牧師にとって、肉体的にも・精神的にも小さくない助けであったことは、論じるまでもないことである。そのような祈りと努力の結果として、牧師の健康は回復し、牧師解職願いを中会に提出する計画を撤回し、現役牧師の最高齢者として職務を続けることが出来ている。主が我々の教会に注いでおられる御心の深さがここで十分証しされたと思う。

 これ以上の恵みが増し加えられるならば、それを辞退しなければならないと言うわけではないが、すでに十二分に注がれた恵みに答えて、務めの報告を纏めて置かねばならない。牧師としてはそのように感じている。

 4

 十二分の恵みとして受け止められているのは、50年の勤労の実の結びと見られる出来事が近年、次々と起こっていることである。ただし、すでに昨年来強調されているように、務めを担うべき器を掘り起こすべきであるのに、それが出来ていない。だから、50年の勤労の実を語るのは烏滸がましいのである。それでも、50年間努力したことが空しかったとは決して言えない。

 我々が努力を傾注して来た目標は、「御言葉によって教会が建つ」という証しを立てることであった。「シッカリした教会が建ったと言えるのか?」と問われるならば、我々は恥じ入る他ないが、それでも、「これが主の教会である」と信ずることの出来る教会が建っていることは言い切って良い。主は御言葉に忠実ならんとする我々よりもなお一層忠実に応答し、信ずる者の期待を裏切りたまわなかった。50年前には、「そういう神学理念では教会は建たないのだ」と経験をもとに断定を下す多くの人に我々は圧迫されていた。

 ただし、語られ・また聞かれる「御言葉」は、御言葉と通例呼ばれている「お話し」ではなく、宗教改革の時に聞かれたような、聖書の忠実な解き明かしとしての、本当に活きている御言葉でなければならない。そのような声の見本として、開拓伝道開始の直前、カルヴァンのイザヤ書53章の説教が刊行された。この書物は少数者の間以外では存在すら認められず、無視されていたが、50年の後にオンデマンド出版として復刊されるようになった。また開拓伝道の初めから語られたマルコ伝の説教、創世記の説教「アブラハムの神」も忘れ去られる書物にならなかった。小さい伝道所の中で、ニーゼルの「教会の改革と形成」の読書会をしながら真摯に論じられた「教会論入門」は、何度も版を重ねた。ここに同じ主旨で書かれた著述の近年の出版を加えることが出来る。これらの事実は、我々の教会形成の志に同調する人がいて、外から或る意味で我々を支えていることを意味する。主がそれを宜しとしておられると我々は理解している。

 上記のことは自画自賛のように取られる恐れがあるから、余程慎ましく述べなければならないが、我々が確信する点については、主が応答して下さること、また同じ志を持つ兄弟たちが支援してくれることを、低く評価してはならない。

 5

 50年前に全てが見渡されていたとは言えない。しかし、50年前に見えていたこと、すなわち御言葉によって教会は建つという大原則があったから、御言葉のもとに立ち続けて歩むうちに、その後、いろいろなことが見えて来た。例えば、60年代の終わりからの教会の靖国闘争。――これは出発時の我々には見えていなかった。開拓伝道発足後10年して、日本キリスト教会の交わりの中で、この問題が見えて来た。初めから「告白教会」と名乗った名の意味がここで分かって来た。それは10年前に見えていた視線を維持したから見えて来たものである。

 さらに思い巡らすならば、牧師がかつて戦争に身を投じるという過失を犯し、それにも拘わらず、その滅びの淵の中から生きて帰ったため、その命を主の教会のために捧げるように導かれるに至ったことがある。これは個人の私的経験ではなく、教会に仕えさせる準備としての訓練であったとしか考えられない。

 個人の経験が教会の姿勢に拡大されることは正しいことではない。しかし、戦争によって重大な過誤を犯した者が、己れと教会の罪責を深くまた的確に把握し得たならば、これは全体の益のための神の配剤であったと言うほかない。これは聖書の示す罪とその赦しの宗教改革における再確認の継承である。

 こういう牧師がいたために、信仰者たる教会員は戦争経験の有無に関わらず、御言葉の光りの照らすもとで、靖国問題や平和の問題に関与せざるをえなくなり、教会として罪責を負う教会、アジアとの関わりを担う教会、またディアコニアの教会となった。これも摂理と言うほかないであろう。

 ディアコニアは多くの労を要するが、収穫を期待する業ではない。この世で見返りを得たならば、神の国における報いはもうない、と主イエスは教えておられる。ということは、来たるべき世を確信する者には、労苦そのものが祝福であるという意味であり、我々はすでにその実りを味わいつつある。

 6

 来月11日、烏山九条の会が、「信教の自由」の主題で、この教会を会場として講演会を開き、講演を当教会の牧師に嘱することになっている。これは、先方の自発的な企画によるものであって、教会側からの勧誘や申し入れがあったのではない。こういう企画が生まれたのは、この地区における長年の告白教会の平和活動の証しの果実であると見て良いであろう。今後引き続き教会の声を聞いて行くということでは必ずしもないし、これが実りだと言うのは軽率と見る他ないが、地域の平和団体が告白教会の声を聞こうと踏み込んで来ていることは確かである。地域への伝道が行き詰まっていると言われている時代に、教会の声を聞く人が周囲にいるということは大きい恵みと言わなければならない。

 我々の教会は、数字の上では成果を上げたと言えないが、伝道の労苦は惜しみなく注ごうとした。教会にとって中核的な業である礼拝・祈祷会の他に、やや外延に位置付けられる伝道会、さらに外延的と言うべき平和講演会、信教の自由の講演会、聖書を読む会などの行事を続けた。これらの行事の中で、キリスト教の自己宣伝や入信の勧誘は行わず、今の世の問題と自分自身の問題に目を向けている人々に一緒に考えることを呼び掛けて来た。この外延的な講演会の聴衆の中に定着する人が近年出るようになったのである。

 これは長期的な成果を意図する宣伝活動と見られるかも知れないが、成果を期待しない奉仕活動であると位置付けるのが正しいであろう。また、成果を期待しないことが分かってこそ、真理を聞く耳ある人は聞いてくれる。

 7

 昨年夏から始まった「キリスト教綱要」の新訳の出版は、すでに訳者の手を離れ、3月頃には終わる。これは、牧師の個人の業績で、教会の業とは無関係であると思われているかも知れないが、教会の業であって、東京告白教会が立っていなければ、この訳業は成り立たなかったのである。この書物も50年の教会活動の実りであることを、告白教会内部の者は弁えていると思う。勿論、この書物の教会的貢献を我々の功績として独占すべきではない。日本には綱要に支えられ、綱要を支える教会、また教会に属する人が多数いる。そういう人は日本キリスト教会の中だけでなく、外の方に多くいるかも知れない。この人たちは綱要の新訳版を信仰の戦いの旗印、あるいは前進の後押しとして受け取っているように思う。

 感謝すべきことに、綱要全巻の音読の録音のため、東京中会の「朗読奉仕の会」が活動を始めている。この活動によって朗読者自身の受ける益、聴取者の受ける益、それは個人の受ける祝福に留まらず、教会の受ける祝福となり、祝福される群れは群れの外にも祝福を及ぼすことになる。

 東京告白教会の50年の年と綱要新訳の出版の年が重なることも有意義だと思う。東京告白教会の今後とキリスト教綱要は深く結び付いていると思われる。すなわち、日本の教会の無気力化からの立ち直りは綱要と関係しているからである。

 8

 50年を記念する行事は、感謝という点では必要であるかも知れない。だが、記念行事そのものが自己目的化の方向に歪曲し、自己礼賛・自己満足に陥る危険がある。我々としては、むしろ「来たるべき時」に目を向けて行くべきである。来たるべき50年について問われる時、我々は言葉を失うのではないか。

 この新年に聞いた言葉のうち、幾つかは、地球が今世紀の間もたないかも知れないというものであった。危機意識はそこまで進んでいる。そういう人たちの間で、我々は神の言葉に寄り縋る信仰を問われている。

 告白教会のこれまでの50年、我々は多くの課題を眼前に見据えざるを得なかったため、体を前に伸ばしつつ、常に全力を尽くして走って来た。それは大きい祝福であった。では、今、眼前にどういう課題を見ているか。その解決の原理を御言葉によって把握しているか。50年前と比較してその覚悟はどうなのか。それを人から問われる前に、自ら問わなければならない。その問いに対する答えを聖書のうちに読み取るならば大いなる祝福がある。そこにこの2008年の課題がある。

終わり

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