2005回顧と展望



 2004年は我々の歩みでは、これまでのどの年よりも息苦しい年であった。身近な所では災いが起こらなかったとしても、大がかりな災害が世界と国内各地に頻発したし、社会の不公平に苦しむ人は増えて行く。武力のある国とない国の格差も広がる。我々は無意味な戦争を止めさせる良識がアメリカ社会にあると期待したが、アメリカの大衆は武力行使の続行を選択した。キリスト教は道徳的無力をさらけ出したのである。神への恐れが失なわれた。まして、もとから理想と正義の追求を知らなかった日本は、物質文明の行き詰まりの中でどんどん崩壊した。政治の崩れは目に余るものがあり、人道は失なわれ、人間も壊されて、苦難を負う人が巷に溢れるようになった。それが好転する兆しを持ち得ないままに2005年に入った。
 日本における主の教会も、敗北を繰り返す軍団のように、後退を続けており、頽勢を盛り返すべき後続部隊は育っていない。教会が正義の叫びを上げることを忘れ、無気力を露呈し、この世の人々からも信頼を失なうに至っている。教会の無気力について自嘲的に論評する人は或る程度いるが、この程度の自己診断では、今日の霊的危機を乗り越えることは出来ない。
 その中で我々の東京告白教会が、比較的元気のある教会の一つであり続けたことを感謝したいが、それだけでは殆ど意味はない。我々が元気であり得たのは、人の言葉でなく神の言葉に聞き従おうとし、そのような精神を信仰の父祖の言葉の中から再発見する学びを続けたからであり、特に、神の言葉の中から「少数者の使命に生きる」という己れの道を聞き取って来たからであろう。
 別の視点から見れば、聖書から読み取られた、神に仕えかつ隣人に仕える「ディアコニア」の学びが身に付くに至るとともに、その必要がいよいよ痛感されるようになったからである。我々の旗印はすでに以前かに学び取ったものであるが、その正しさが状況の推移のうちで証明され、我々の言って来たことに耳を傾けてくれる人は増えた。あるいは、我々の歩みに反対できないと感じ、黙らざるを得なくなったのである。
 教会が生ける御言葉を託されたものとして、そのような御言葉を伝えなければならないことは、開拓伝道の初めの時から叫んでいた事項である。その主張を口にする教会は、今では少ないとは言えなくなった。けれども、「御言葉に立つ教会」という原則を掲げる教会は増えても、教会が生ける御言葉によって生きているという現実は萎縮してしまったのではないか。「御言葉、御言葉」という建て前を叫びつつ、教会はますます内に閉じこもるようになり、無力化の流れに巻き込まれて行く。
 我々は建て前を建て前として掲げるのでなく、御言葉を聞く者の生き方が御言葉を聞くに相応しく整備され・充実しなければならず、御言葉に感謝し・応答する修練が行なわれねばならないということを、先人から教えられて、その教えを実行するように努めて来た。この学びと修練が近年ようやく軌道に乗ったと思う。我々はこの修練のお陰で活力に満ちていると言って良いであろう。したがって、我々の受けている益を他の人々と分かち合わねばならないが、この修練が実際に行なわれ、その益に我々が与っているのは、祈祷会においてであるということを語るべきであろう。
 祈祷会を個人の信仰の養いのための行事と位置付ける見方は、日本の教会では初めの時以来の通例であるが、一つの立場である。敬虔主義の影響のもとで18世紀頃から始まった試みである。そこには教会論的基礎がない。我々はこの風習を破壊しようとはしなかったが、祈祷会を個人的な領域に置くのでなく、教会を建て上げ、教会の働きを整えるための作業として捉えるように変わって来た。
 個人的な意味を持つ祈祷会があっても良いが、そういうものならば必ずしも集会でなくても目的を達し得る。教会の祈祷会は、教会をして教会たらしめるために営まれる。すなわち、御言葉が御言葉たるに相応しく語られるために、また説教が神の御言葉であるに相応しく聞かれるために、そして聖晩餐が正しく執行され、かつ相応しく受領されるために、祈りが結集される。この祈りがないならば、御言葉も聖礼典も「建て前」に終わる。そのことが分かって来るにつれて、我々の教会では祈祷会に費やす時間が長くなって来、祈祷会の充実が実感されるようになった。また、それだけに、祈祷会への出席が困難になるという問題が生じているが、その困難を人間の考え出す合理化によって処理すべきではないと思う。
 祈祷会に通常出席していない人は、上述の実態を見ていないが、このような祈りの結集があってこそ、説教が御言葉の力を堅持したものとして語られるのであって、説教者個人の鍛錬や修養によって、力ある御言葉が語られているのではない、ということを良く心得て置いて貰いたい。

 

 ところで、我々の教会に弱点があることも勿論である。その一つとして、牧師はすでに耐用期限を過ぎた老人である。年齢がそうであるだけでなく、肉体の衰えによって実行出来なくなっている作業も現に少なくない。雑務はともかくとして、通例「牧会」と呼ばれる分野のことが出来なくなっている。それらの欠陥は教会員の働きによってカヴァーされている。
 牧師は元気だと見られているが、戦後育ちの牧師たちが引退して行く中で働き続けているから、目立つし、また人の見ている所で元気そうに振る舞っているだけであって、説教以外の点では力に満ちているわけではなく、牧師としてなすべきことの欠落がある事実は承知して置きたい。ただ、主の召しによって務めについたのであるから、主からの明白な引退命令、あるいは主の声に代わる何らかの声がないのに、自らの判断によって務めを辞すべきではないと考えている。
 それよりも、牧師のみでなく、教会全体が老齢化し、教会のために実際に働いている人々の多くも老齢に達していることに注目して置きたい。これを弱点、問題点と見ることは当然出来るのであるが、逆の面から考察することも出来るであろう。すなわち、牧師が定年という制度に従って早々に引退して行くことが、今日多くの教派においては当たり前と考えられるようになっているが、そのようなところでは、教会全体の精神の沈滞が著しいのである。ということは、御言葉を宣べ伝える務めが、この世の労働基準によって測られるものとなり、神の召命に依存していない行為となったところでは、説教職が職業化し、神からの委託が忘れられ、そのため、神の言葉が語られているとしても、御言葉の本来持つ力は殺がれ、聞く人の良心と信仰に届かないものとなったということであろう。
 ただし、召命の絶対視が、信仰的であることを装いつつ、保証された地位への執念の口実に過ぎず、老朽化した牧師の居座りによって教会の実質的修練が破綻する場合もあるから、慎重に考察しなければならない。神の言葉の名を掲げながら人間の言葉が語られ、それが容認されているならば、神の栄光を著しく汚すということを弁えねばならない。そのような冒涜が行なわれないように、教会の小会は常に目を覚まして、御言葉が語られる責任を遂行しなければならない。
 そのように、牧師の老齢化は、牧師職を担う者単独の問題として対策を講じられてはならない。長老・執事の職にある者の老齢化も別個の現象ではなく、共通していることである。したがって牧師が老齢化に屈しないで奮闘していることは、他の職務においても同様に実行されていなければならない。

 

 我々の教会は、牧師老齢化の問題を、一応解決していると見られるかも知れないが、本当のところ、その都度その都度、破綻を回避しているというだけのことであろう。定年制によって教会の問題を処理しようとした発想が、不敬虔ではなかったとしても、世俗的発想に浸食されたため、マイナス面が大きかったということに心ある教会人は気付きつつある。けれども、我々の取ってきた方針、人為的には無方針で行くという方針が、絶対に堅実だと自負するわけには行かない。
 我々の小会では牧師の代替わりという問題を如何に考えるべきかの課題を自覚している。我々の教会としても、これまで常に目前の諸問題に追われて、しばらく後には必ず考えなければならなくなることが分かっていながら、何もしていなかった。ところが、予期しなかったことだが、牧師交替の時期が延びたため、時間を掛けて考えることが出来るようになった。
 牧師の交替は非常に難しいということが日本では教会常識であった。極端な場合は牧師が代われば教会員が代わる。長老制の教会では流石にそのようなことはなかったと思うが、長老制が建て前に終わるところでは、同じ問題がその都度繰り返され、教会は激震を蒙り、知恵の蓄積は行なわれなかった。我々の教会ではその知恵を前もって蓄積して置きたいと考えているのである。
 もっとも、近年の新しい動向として、牧師交替にともなう複雑な問題が大幅に減ったことが見られる。それは牧師職の客観的理解が進んだことにも依るが、その職業化の故に教会員が冷めてしまって、霊的賜物を欠く牧師に余り期待しなくなったことの一面であるケースも多いと思う。そのような冷えた教会で牧師交替が何事もなかったかのように行なわれるのは、生臭い戦いが熱く交わされるのと比べて、より祝福された状態であるとは言えないのではないか。
 我々の教会では、牧師が日本キリスト教会の中で、命をすり減らしても守ろうとしたもの、また長老たちも同じく守ろうしたものが何であったかを明らかにしたい。それは個人的な傾向や好みではなく、我々の教会の50年に近い戦いの中で証しされて来た神学である。これは初代の牧師が独創的に作り上げたものではなく、日本キリスト教会の中で汲み上げかつ受け継ぎ、検証しかつ学問的に高めたものを伝えたのである。牧師の交替とは、真に伝えるべきものを受け継ぐという単純なことである。誰が受け継ぐかは小さい問題であり、大事なことは何を受け継ぐかである。この纏めが長くても後数年で終わる。

 

 老齢化はそれだけでは自然現象であり、それだけでは問題にならない。これが深刻な問題であると気付かせられるのは、後続世代が育っていないというもう一面の事実があるからである。
 我々の教会では開拓伝道の初期以来、こういう問題が起こることを予想して、かなり抜本的に教会教育の構想を練ったし、新しい試みをした。それは、登山キャンプや教育協議会において具体化されたが、信仰と、知性と、時代を見る目と、体力と、奉仕の精神を総合的に養う修練の道であった。この教育には教育者自身の体力を必要とする故に、長期に亘る継続は無理であった。しかも、その教育の成果は極めて貧しいものに終わった。我々の考えと志への共鳴はある程度外部に広がって行ったが、この教会の中で育ち上がった例は僅かである。この問題は未だ解明も克服もされていない。深刻に考えるに価する問題である。他に責任を転嫁して済む問題でないことは言うまでもない。しかも、我々の教会が考えて来たことがこの成果によって否定さるべきでないということも一方で明らかになっている。自己破産はすべきでない。
 行き詰まりの時代である。破産の時代である。戦後のキリスト教界における多くの試みが破産を呈するのがこの年である。敗戦60年の年は精神的敗戦の年にならなければならないのか。だが、神が預言者エレミヤを通じて囚われのイスラエルに示したもうた、「あなた方に将来を与え、希望を与える」との約束は、今の我々にも当てはまる。神の民は、試錬の時代にも、その試錬が人間の予想を越えて長く続いたとしても、神の民として立ち続ける。
 その証しを立てるべき時が来ている。□

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