2005.12.28.


第5回上田神学ギムナジウム主題講演


今、なぜ日基か

渡辺信夫


はじめに

 

 題を与えられているので、それから逸れない話しをしたいと考えた。しかし、題そのものが面倒な問題を抱えているように先ず思われた。だから、何も問題がないかのように、いきなり本論に入って行く訳には行かない。

 題のつけ方そのものにも問題があるのではないか。すなわち、題を見ただけでは、講演者が日基の存在意義を説き、宣伝アッピールをするつもりかと思う人もいるだろうし、逆に日基への深刻な不信感を吹き込む演説ではないかと勘ぐる人も出て来る。少なくとも、日基内に関心が限られていて、他の人は来るなと言っているように受け取られる。ここには日基外から参加された方がおられるが、奥の間に入らないで、出口の近くで小さくなっているべきではないかと気を使っておられるかもしれない。参加された方はそれぞれの所属教派の問題と向かい合っている人たちのはずだが、その上、日基の問題まで考えさせられて、ますます気の重さをお感じではないかと私は心配している。

私の決めた題ではないので、私から釈明することはないが、私に課題を与えた人たちは、日基の中で「なぜ、今日基なのか」と問うて、答えられない人が教職の中に多いのに危機感を持ったらしい。なるほどと思うことはあるが、私は違った考えを持っている。私は日基だけの問題ではないものを論じなければならないと考えている。だから、日基外の方にも参考になるのではないか、と言っておきたい。私はそういう視点で論じるつもりであるが、日基の中に視野を閉じ込めるのは、日基の視野狭窄の継承に他ならないではないか、と先ず心配になる。

日本のキリスト教会全体がかなり深く病んでいた。近年、いよいよ重態になった。そのことに気が付いて悩んでいる人がいるはずである。そういう人と連絡を取りたいが、今のところアンテナが送信・受信とも機能不全のままで、何処にどういう人がいるかも掴めていない。とにかく、自分だけが問題の深刻さに気付いて悩んでいるのだと深刻がることは、殆んど意味がない。我々の問題とは、そういう広がりの中で取り組むべきものなのだ。そういうわけで、問題が広がり過ぎて、全体を洩れなく論じようと力めば力むほど、散漫な話しになる恐れがある。だから、ここでは日基を実例として見て行く。が、そのことによって、キリスト教全体の病弊が見えて来る、ということになるのを意図した話しをしなければならない。

 

何が問われているのか?

 

 「今、なぜ日基か?」 という題を与えられて、私は困った。求められることの焦点は漠としている。私に問題を投げかけた人たちには分かっているらしい。だが、題を見ただけでは、何が問われているか、何を聞きたいのか分からない。題を見てそう感じる他者がいるということに気がついていないらしい、と私は思った。

私はどういう方向に向けて身構えれば良いのか。幾通りも答えが考えられそうである。「我々はどうして、今、日基なのか? これまで考えたこともないが、考えねばならないらしい。だから、教えて欲しい」と素朴に問うていると見ることも出来る。企画者たちがそのような単純思考のタイプでないことは知っているから、そういう問いへの答えを用意することは要らない。

逆に、もっと意地悪く、「あなたは、どうして、この危機の時代に、危機感覚があるように見えない日基に留まることが出来るのか」と挑戦しているのかも知れない。それらの、あれこれの問いをさらに突き詰めて考えると、いろいろなニュアンスに分類出来る。また、「あなたは何故、今、日基なのか?」 あるいは「あなたは何故、いまだに日基なのか?」、――それも、尊敬を籠めて問う場合と、侮蔑を籠めて問う場合とがある。

今、侮蔑という言葉を使ったが、くだらぬ話しは好い加減に止めてくれと思っている人のために、日基が全面的と言うのではないとしても、他派から侮蔑されていた時期があるということに触れて置いて無駄ではない。勿論、侮蔑した方が裁かれたのだが、侮蔑されることを気にした方も思慮の浅さを露呈した訳である。どういう事かというと、離脱当時、教団に残る旧日基派の或る人たちから「離脱派はみな無学だ」という悪宣伝が流された。次の時期には、広い範囲の教団人から「あの人たちはエキュメニズムの時代の流れに逆行する愚か者である」と言われた。それらの発信地がどこかということも分かっているが、具体的なことを知って、それで知性と品性が磨かれる訳ではないから、説明はしない。私はその悪宣伝を歯牙にも掛けなかったが、そういう噂はやがて消えた。チャンとした書物を書く人があれば、ヘンな噂は消える。

こういう馬鹿なことが二度と起こらぬようにして欲しい。が、数年のうちに起こるかも知れないという不安はある。その話しはここで止めて本論に戻る。

 

方向の設定

 

 私は頭がそれほど鋭くないので、この講演で何が自分に問われているか、掴めていない。それで、勝手ながら自分で方向を決めて、「私が、何故、いまだに、愚直に、日基にいるのか?」という意味に受け取って答えて見ようと思う。「そんな答えは期待しなかった」と言う人がいるかも知れない。そのように言う人は、それなりに考えて、或る期待を持ってこの講演を聞きに来たのかも知れない。その期待に副えないことについて、釈明のために時間を費やすつもりはない。この題を決めた企画者を詰問するならされてよい。それよりは、期待したのと別のことが答えられるメリットに気付いて、新しい発見が起こった方が有益であろう。

さて、ここに集まるほどの日基の青年は、それぞれかなり考えているのではないかと思う。だから、昨年の東京中会青年部の修養会に、この題で講演を聞くように企画された。そして、――ここから先は私の憶測を語らせてもらうが、その講演は食い足りなかった。その思いが募って、遣り切れなくなったので、責任を取らせるためか、第二球を私に投げて来た。なぜ私が昨年の講演のフラストレーションの責任を取らねばならないのか、理由は分からない。

しかし、昨年のことと関係なく答えるが、私は投げられた球をカッ飛ばすホームランを打つほどの技量がないので、デッドボールを受けたように、それでも一塁までは進む、その程度のことはしたい。

先に言った通り、私は「私が何故、いまだに、愚直に、日基にいるのか?」という主旨の話ししかしないつもりであるから、聞く皆さんも、肚を決めて、私の発信の波長に合わせて、つまり、簡単に言えば「自分はどうなのか」と自分に問うという身構えで、聞くようにして貰いたい。

  この題を貰った時、これでやろう、と結局は肚を決めたのだが、ハッキリ言って、 私には日基が崩壊に向けてどんどん落ちて行っているのではないかと感じられ、感じるところを黙っているわけには行かないから、「危機だ、危機だ」と叫ぶようになっている。したがって、このことを承知の上で、日基に留まっている理由について語らねばならない。それを語っているうちに、私の今日の話しの時間が尽きるのではないかと思うから、危機に関しては触れるだけで留める。

 

危機の到来

 

船乗りの間の言い伝えに、船に棲みついた鼠は、今度の航海で沈むと予感すると、停泊している間に船から去って行く、という話しがあった。クダラナイ話しとして聞いて貰って結構だが、私はこの話しを懐かしがって聞く。(私は今日の講演の中に、クダラナイ話しを幾つか交えると思う。普通なら人を笑わせる挿話であるが、私は今日は笑わせるために言うのでないということを理解して欲しい。笑わせるためではなく、考えさせるために仕掛けてある罠なのだ。笑わないで聞いて、考えて欲しい。笑ったら負けである)

多分、今ではこの鼠の話を面白がって聞く人はいない。船というものの雰囲気がガラッと変わって、製造工場か操作室のようで、船特有のペンキ臭さもなくなり、船乗り気質(カタギ)がなくなってしまった。良い悪いと別の、社会一般の変化の一端と見るべきであろう。牧師も変わった。牧師気質という言葉は使われていなかったと思うが、そう言えるものが昔はあった。私は戦後の牧師であるから、このカタギを身に着けてはいない。が、分かる。だから、鼠の話しを持ち出すことが出来る。分かって貰いたいと言うのではない。この鼠の話しには、語る人の気持ちが籠っている。「鼠は逃げ出す。俺たちマドロスは船と運命を共にするのだ。はかないものよ」、というペーソスを引き摺っていることがお分かりかと思うが、分からなくても結構である。

それでは、日基という船が沈没すると分かっているのに、お前はどうして逃げ出さないのか、と問われるであろう。それに答えれば、この講演で私に課せられた課題は、かなりの部分、果たされたことになるのではないか。

それでも、おそらく、聞き手の側には不満が残る。「いきなり日基の沈没というような建徳的でない脅しを聞かされては困る。もっと分かりやすく穏やかな話しをしてもらえまいか」。そう言う人がいる。この場にもそのような人がいるかと思うが、そういう人たちはこのまま我慢して聞いてほしい。説明が出来ない訳ではないが、この講演はそういう性格のものではない。分からなくとも随いて行くうちに分かると信じて聞く、そういう種類の講演である。

またこういう不満もあろう、「あなたには生きる時間がそんなに残っていないから、沈没の悲哀を味わうとしても、小時間で事は終わる。しかし、まだ当分生きて行かねばならない我々はどうなのか」。……そういう不満、むしろ憤懣があるであろう。そこまで考えて上げるのが年寄りの親切だと言いたいのは分かるが、私はそれほどには親切でない。自分で考えよ。考えるのがイヤなら脱藩せよ。鼠になれ。ただし、人に迷惑を掛けないようにやれ。しかし、これまでいろいろやって来た年寄りが語るのだから、それを参考にして、沈没を食い止めるために頑張って見よう、というのであれば、本気で取り組まなければならないぞ、と言っておく。

 

ギムナジウム最終講義

 

 生涯を用いつくして、残り時間のない私が、沈没と分かっていながら逃げないと言っても、誰も感動して聞いてはくれないであろう。だから、沈むと分かっている船を見放さないことについて、私はお説教はしない。ただ、船を沈ませまいと全力を尽くすことについて、「それはむなしい労ではないか。沈没の時を先延ばしするだけで、結局は、浮上させ切れないまま沈没を迎え、被害を大きくするのではないか。修繕を早く打ち切って、総員脱出を提唱すべきだ」と言う人はいるだろう。それには答えなければならないかも知れない。だが、私は答えない。だから、「脱藩する者は脱藩せよ。もっとやって見ようとする者は、私が日本キリスト教会の沈没防止のためにかなり尽くしたが、浸水を食い止められなかった話しを聞いた上で、どこがなお欠けていたかを討論し、私に欠けていたところを充たして、やって見て貰いたい」と言う。

その議論は、私を相手にしてするのでなく、当事者である諸君の間で徹底的にやって貰いたいものである。沈没までには、まだ少し時間は残っているから、グダグダ言う議論でなく、贅肉のない議論を交わすならば掴むべきものは掴めると思う。問われても、私には答えられないという訳ではないが、私が答えても、殆んど意味がないから敢えて答えないのだ。この講演が終わった後は、私はもう何も言わない決意だ、と言っているのではない。あとの討論の中で憤然として語ることがあるかも知れない。助言することもあろう。しかし、若い者同士の間で議論する材料は出しつくして、私のギムナジウム最終講義とするつもりである。

 

日基との関わり

 

 日基というものを私がどのように捉えて来たかを先ず明確にした方が良いであろう。めいめいに食い違った日基像を抱いたままで議論していては、食い違いが大きくなるばかりである。だから、「日基」というキーワードを用いて私と議論しようとする人は、持ち時間の余りない人を相手にしていることを弁えて、無駄な時間をとらないために、なるべく私の表現と揃えた言い方をして貰いたい。

 そうは言っても、一人一人、一つの語彙について別々の解釈を持っているのが当然だということを私は知っている。自然科学の分野では用語は一定でなければならない。それぞれの業界でも、業界用語は一定している。けれども、教会は業界ではないと思うから、私は業界用語のような言葉遣いをしない。要するに、告白用語に準拠した言い方になるが、告白の言葉には公同的一致があるが、ホモジェナイズされた均一性とは一応無縁である。だから、無理な要求はしないが、対話の出来る大枠の中の言葉を遣ってもらいたい、大まかな線で合致しておれば、議論は空回りにはならない。

 私は日基の中で生まれ育った。教会像として先ず日基が刷り込まれた。それで道が決まったとは言わないが、その枠が基本になって教会理解が出発した。教団にいた一時代はある。特に戦争中は、行けるところにある教会に行くほかないので、日基でない教会で礼拝を守り、その交わりを戦後まで、教団を離脱して後も持続した。それでも、戦争が終わって後は日基の教会に戻り、以後、他派の教会に行こうと思ったことはない。

それでは、日基の信者の子として生まれたなら、誰でも私と同じ考え方かというと、そうではない。日基の中で生まれたけれども、日基から脱出してしまった人は結構いるようだ。その人の脱出の動機について理解できる部分はある。だが、その人たちと論を構えようとは全然考えていない。冷淡と言われるであろうが、別の道の人だと思うからである。

また、日基から離れなかった人なら、今、私が考えるのと同じ考えかと言えば、そうでないケースもある。その人と議論したかと言われると、していない。何故かと言えば、私と同世代の者は非常に少なく、その中のクリスチャンは少なく、日基の人はもっと少なく、議論の成り立つ機会がないからである。戦争によって、ある世代の者がゴッソリ死んだことはご存知であろう。私の年齢は大量に死んだ年齢層の下限である。私の年齢は前線に送り出されたほぼ最後の年齢である。クリスチャン一般としては、同年齢層がいなくはないが、多くは教団の人である。旧日基の人でも殆んど教団に行っている。

 そういう訳で、日基の問題を私の世代として同年齢の者の間で論じ合う機会はなかった。私が人と交わらず、独りで考える傾向の強い人間であったとも言えない。相手がいれば、話すことは嫌ではない。例えば、小川武満先生とは随分語り合ったが、同年齢ではなく、私は10歳年下であった。――とにかく、私は日基で生まれて、日基の枠の中に育ち、日基には猛然たる反抗心、怨念を抱く面と、愛着を抱く面と、両方を持っている。私が日基から脱出しなかったのは、戦前のことで言うならば、他派に対して、日基よりもっとつまらぬグループ、という偏見しか持たなかったからである。その偏見は、必ずしも当たっていなかったが、当たっていたところもある。当たっているにしても、当たっていないにしても、それは日基の枠の中にいて、そこで作られた規範に合わせて見ていたものである。

 戦後は事情が変わる。私は戦後4年で、伝道者として生き始めた。その時点では日基は存在せず、身辺には教団しかなかった。教団には入って早々、教区の牧師会に出て、失礼ながらウンザリした。何故か。私は自分自身の救いの確かさを追い求め、自分の救いのため、信仰の確認のために、哲学を学び、神学を学んだ。人を救うとは尊いことであると思うが、私には自分の救いを見出して確認する以外のことまでは考えられなかった。

 教団の教職となって、いろいろな教師に接し、非常に驚いたことは、私が自分の救いについて悩んで、模索して来たのに、そういうことは考えたこともないらしい人が牧師になっていたことである。牧師とは随分安易になれる職業だなと感じた。そういう牧師が多いなかに、旧日基の、やがて教団を離脱しようと考えている牧師たちは、かなりまともであった。ただ、彼らが自分の救いのことで探求した挙句、伝道者になった訳ではないようであった。それでも、召命は確認していると感じられた。そういう人たちとは前から知り合っていたので、交わりを深め、教団離脱の時には、躊躇なく行動をともにした。

 私の日基観は反教団だと言えば一面は言い当たる。これは教団の人と衝突ばかりしているということではない。日基の者で教団関係の会合に講師として招かれたり、雑誌に寄稿を頼まれたりする頻度は私が一番多いのではないかと思う。議論はするが喧嘩はしない。私はずっと昔から、「教団は個々の教会の集まりであっても教会でない。教会でないものも混じっている」と公言していて、それは知られている。

 

日基の欠けを補う

 

教団にいた頃は日基を慕っていたが、離脱後、日基の問題はいろいろ見えて来た。ただし、その問題と戦うべし、というような抱負は余りなかった。教団にいては堪らないという経験があったからである。欠けがあるならば、気付いたところは気付いた者が、ソッと補って置くべきだと思った。教団の牧師とも付き合いはあったが、彼らが教団にいながら、教団の悪口は随分言う。それが不思議でならなかった。私は日基の中では日基批判を割合言うが、日基の外、特に教団の人と一緒になって日基批判をすることはない。昔気質の人間だからかも知れない。今でもその姿勢は基本的には変わっていない。

しかし、若干考えが変わった。黙って補って置けば、欠陥が克服されるとかつては思ったのであるが、欠陥は埋められなかった。それどころか破綻の修繕が追いつかない。善意に善意に解釈し、そのうちだんだん良くなって行くのではないか、と期待しても、期待外れに終わる場合が非常に多かった。ただし、期待が間違っていなかったと感謝するケースはある。例えば、日基の古い、実直な牧師の中に、かつては私と政治に関することで衝突する人がいた。その人たちは靖国闘争の中で変わって行った。私はその人たちに、意見の違っていた時から敬意を表していたが、変化の後には一層尊敬するようになった。

だが、そういう年齢層が世を去った後、近年は危惧が大きくなり、私の日基考察が変わったと言う方が正しいかも知れない。実直な人が非常に少なくなった。これまでの私の日基批判が甘すぎたのではないかと感じている。が、自分としては変わらずに行きたいと思っている。それは、具体的にはどういう生き方かと言えば、人に命令して何かをやらせるのでなく、しなければならないことは、自分の体を打ち叩いて、し遂げるという生き方である。

私が力を注いだのは、牧師本来の職務、特に説教であるのは当然だが、そのほかに、本来的とは言えないかも知れない三つの領域がある。一つはカルヴァン研究である。広く言えば神学、さらに広く言えば学問一般、ここにおいて日基は欠けを持ち、その欠陥を取り繕おうとして知ったかぶりが蔓延る。それは非常に見っともないが、本人には分かっていない。私は幸いにして、知らないことは知らないと言えるようにならなければ駄目だということを知り得る環境にいた。カルヴァン研究者の学問上の成果だけでなく、研究という営みに携わる者の生き方として、この見っともなさを矯正して貰いたいと考えた。カルヴァン研究は戦争から生きて帰れたら一生この勉強をします、と神に誓ったから止める訳に行かない。何もないところから、人の手引きなしにやって来た。

もう一つはアジアとの関わりである。自分で打開したのではない。アジアに対する罪責は分かっていたが、戦争に加担した責任者だから、直接関わる資格がないと考えていた。ところが、韓国のカルヴァン研究会から、そして同じときに台湾の神学院から招きがあった。自分で志を立て、苦労して渡って行く人は偉いと思う。教団にはそういう偉い人がいたが、私の場合は客として招かれたので、何の苦労もない。それでも、日基の牧師としてアジアの問題に関わる人はいなかったので、ここに神の御旨があると私は悟った。日基は日本にしか目を向けない。アジアに対しては蔑視し、そのことに気付いていない。

第三は沖縄との関わりである。沖縄の司令部に着任した時、ここが私の死に場所だと思った。ところが、海防艦に乗せられ、これで死の時期は一段と近づいたと覚悟したが、結果として戦争の終わるまで死ななかった。後で分かったのは、死の覚悟をした私が生き残り、死ななくて良かった沖縄の住民が沢山殺されたことであった。私にとって、沖縄は単に所謂「沖縄問題」としてでなく、さらに言うならば生涯の課題とか使命とか言うものでもなく、私の実存に結びついていた場所だから、占領中から訪ねて行かずにおられなかった。その道をつけてくれたのは、その前から関わっていてハンセン病の兄弟たちとであった。

これらの三つの関係は私が発意したのでないし、私が努力して道が開かれたのでもないから、神の御旨であって、神が私を用いて何かをさせようとしておられると信じた。そして、その三つの仕事を私は教会のために役立てようと思った。そのため、牧師としては風変わりなことをしたが、神の御心に決してそむいていないと確信している。

 

牧師としての本務

 

この三つの分野については多少名を知られたかも知れないが、本務である説教のためにはもっと力を入れた。それは毎週私の説教を聞いている人たちに分かっていれば、それ以上周知させることではないと思う。余計なことを言うのかも知れないが、若い説教者、またやがて説教者となる人は、この悪しき時代の中で、ギムナジウムに関わっている老牧師たちが、従来考えられていた牧師本来の務め以外に、あれこれ忙しくやっているのを見て、自分も多面的な活動をしなければならないのではないかと焦っているかも知れない。

その気持ちはよく分かる。仕事を減らし、行動領域を縮小しなさいとは言わない。しかし、説教準備から手を抜くな、と言って置きたい。特に、若い説教者は、来週の説教準備をするだけでなく、将来まで残るものを作っているのである。若さがカヴァーしてくれる時期は早晩終わる。それでも、説教をしなければならないという御言葉の飢饉がもう来ている。自分を養うことによって説教の聴衆を育て、教会を建て上げなければならない。

本務外の話しに戻るが、意味のあることなら、それを提唱し、賛同者を募り、人に手伝わせて、若手を育てながらやり上げるのが事業として正しいではないか、と言われる。それが正論だということを私も認める。だから、教会形成に関しては、自分独りが走り出すことはしない。みんなと一緒にやる、あるいは自分で出来ることでも人にやってもらう。そういうことをして来た。だから、歳をとってヨボヨボになっても、教会員が助けてくれるから牧師が務まる。私は説教だけ懸命にやっておれば、教会は立って行く。

しかし、意味あることだと分かってはいても、まだ道のついていないことを人にやらせるのは、間違いとは思わないが、私には無理である。リスクを恐れているのではない。自分が生来そういう仕事に向いていないということでもない。どういうことかと言えば、私は戦争に行ったため、その後遺症で、号令を掛けて人を働かせることが出来なくなった。号令を掛けることのトラウマから、自分でやってしまう。ただし、自分で出来る限度のことしか手を着けなかった。それしか出来なかったことは欠陥であるという面がある。けれども、人を動かして何かをさせていたら、何かが仕上がったか。何も出来なかったであろう。

日基の中で、私がしたような、責任を一人で背負い込み、黙々と仕事を仕上げる人があと数人いてくれたら、日基はその志から見て、もっと霊的にも、学問的にも豊かな教会になれた。それだけの人材はいたのである。そうならなかったのは、主に、個人の業績を憚る気風が強かったからだと私は解釈している。ここには二点の欠落があった。一つは、――ここでは神学に限って言うことにするが――本当の神学は、労苦に関しては個人に負わせられるものであるが、成果は教会の共有財産なのだ。このことが分かっていないから、神学のために労苦することは、自己中心ではないかと恐れて、打ち込もうとしない人が出て来る。

確かに、自分の名を挙げることしか考えず、学問の業績をあげることに熱中する人は日基にもいた。そういう人がいたから、神学を余りやってはいけない、という気風が助長されたことはあろう。しかし、教会を建てるに役立つ神学と、そうでない神学の違いはハッキリしている。自分の宣伝をしている、と批判されるかも知れないが、私は少なくとも神学校で教えていた時には、これだけは分かってくれ、と言い続けた。そして、それは馬鹿にされた。あれもこれも満遍なく学ばなければ、偏った教会になり、日基は建たない、という風潮が牢固としてある。だから、知ったかぶりが蔓延る。どんどん神学のレヴェルが下がって来た。

今日はハッキリしたことを言わなければならない。神学のレヴェル低下はもう止めてくれ。今日からは水準を上げてくれ。この水準を越えないと、伝道は出来なくなる。そして、水準を上げるためには、勉強しているフリをするのでなく、読むべき本を実際にマスターするのである。実直に刻苦勉励するのだ。

ただし、刻苦勉励する教師たちがいても、日基のレヴェル・ダウンは食い止められなかったという事実がある。とにかく、ナマナカなことでは日基の墓穴を掘る作業しか出来ない。

 

戦争責任

 

 私が日基のある面で愛想をつかしながら、日基から出て行かなかった大事な点は、教会とは何か。教会を信ずとは何か。こういう問題をずっと考え続けたからである。それを考え続けることは日基の中では、とにかく出来た。日基が良いからではない。ただし、悪いから、敢えて留まってこれを変革しようとの使命感に燃えたということでもない。私の判断を超えたところで路線が敷かれていた。私はこの路線を踏まえてしか、考えることが出来ない。

 これを運命論と決め付けないで欲しい。運命として割り切っているのではなく、これは中身のある教会論である。もう少し立ち入って論じるなら、私は自分がもともと立っていたところ、自分の足元を掘って行った。そして、水脈を掘り当てた。それが私の神学、私の教会論である。それは日基が私に与えてくれたものか。そう言える面があるが、そう言えない面もある。私は日基系の教会にずっといたのだが、日基的な教えは直接には受けていない。私の育った教会の牧師は日基だという意識を持つ人であったが、日基が何であるかは分かっていなかったし、教えなかったし、後年、教団離脱もしなかった。そういうことだから、私は日基に憧れ、日基の牧師の説教を時々聞いたし、「福音新報」をレーマンであるのに読んでいた。全体として捉えて、日基から吸収したと言うほかないが、人格的師弟関係はなかった。それでは、もし私が日基の信者の家庭に生まれていなかったなら、どうなったか。その場合は間違いなく、これと異なる道を行ったであろうが、そういうことを論じても意味はない。我々は意味のあることだけを論ずべきである。

 そのような私が、教団で試験を受けて、補教師となり、そこを離脱して日基の創立に参加した。勿論、教団の教団的要素は捨てて来た。したがって、残ったものは日基的なものしかないと一応言える。それでも、駆け出し当時の私から教団的要素を剥ぎ取ったなら、牧師的生存を維持するだけのものもなかったと言うのが正しいであろう。だが、日基的な実質があったわけではない。日基志向、あるいは日基欲求があっただけである。その頃の私はいわばヴァキウムカーのように強引に吸い取っていた。しかし、何でもかでも吸い取ったわけではない。旧日基に対して、私は随分厳しい批判をその頃持っていた。

 最大の批判点は、福音新報が合同反対を読者に焚きつけていながら、ある時からその議論をピタッと止めたことである。編集者が更迭され、書き手が入れ替わったのかも知れない。しかし、読者に対しては思想的一貫性を守る義務があったのではないか。この沈黙が権力への恐れの表れであることは私でも分かった。教会の務めを担う人への不信感はその時に始まる。釈明は沢山聞いたが、不信感の克服には全然なっていない。

 

教会と国家

 

 これは重要な項目であるから、独立させた方が良いと思う。日本の教会の全体に対し、日基も教団も、そして私自身も含めて、その戦争罪責を私は問い続けて来た。なお、少し余計なことかも知れないが、戦後、アメリカの資金を注ぎ込まれて、戦時中の日本の在来の教会と関係のない歩みを始めた教派がある。その教派は教派としては合同に関与していないし、およそ戦争に関わる教会としての罪は犯していない。私自身もその教派には関係がなく、よく知らないこともあって、当初、それらの教派の戦争責任については考えなかった。しかし、それらの教派も日本という罪深い国に置かれている教会であるからには、責任を負わないでいることは出来ないであろう。

 今では、私は戦争中教団に合流させられた教派と、当時日本には存在しなかった教派の区別をつけることは形式的手続きに過ぎぬもので、それらの新しい教派を構成している人間の頭の中身は、「聖戦完遂!」と叫んでいた教会人と同じであり、同じ質の姿勢を持つ故に、同じ罪責を問われるべきであると考えている。しかも、この人たちには責任が免除されているという安心感があるらしく、考えないし、考えようとしても足を踏まえる場所を持たない。

 「戦争責任」と一口で言うことは出来るが、責任追及をするのは同じ罪の再犯防止のためであるから、その人が戦争に関して犯した事、すべきであるのにしなかった事について、具体的かつ個別的に罪を問わなければならない。勿論、責任が重なり合う部分があるので、戦争に関わる教会の罪責を全て挙げ、またキッチリ分類整理することは出来ない。

 戦争責任の問題を多岐に亘って論じることは、私にとって望ましいことであるとはいえ、この会合の主旨に沿わないので、私が自分より年長の教会人の責任追及のポイントであると思っている一点だけを指摘するが、それは「教会と国家」の神学を構築しなかった思想的責任である。その責任追及はないものねだりの的外れだと言われるかも知れない。それよりは、基本的条項に関わる信仰の節操とか、守るべきものを守る勇気の欠如とかいう観点から追及すべきではないかと考える人がいるだろう。私がそれをしないのは、道徳的非難になってしまうからである。道徳的に追及することが出来ないというのではない。それは出来ることではあるが、告発と釈明の争いにしかならないのではないかと私は憂える。

 戦争責任の追及は、我々の見聞した範囲では、責任ある地位にいた者に対する、責任ある地位にいなかった者の攻撃と見られる形を取ることが多い。それは事柄としては当たっている場合が多いのだが、不毛な論争になるので、避けた方が賢明であろう。

 この思想問題を取り上げたのは、その問題意識を持っていた者が持たなかった者に対する優位を誇示することにならないと思われるからである。すなわち、告発する私は戦争中こういうもの、思想的優位を持たなかった。だから、なかったという点で私は彼らと同格である。敗戦によってゼロから出発した私は、その後何十年も掛かってまだまともな論理を築き上げるに至っていないのだが、それでも戦後、短期間に自己を糾問して行く方向は見定めた。戦争中の指導者、また指導者というほどの地位にはいなかったが、責任を逃れられない位置にいた人は、戦後の自分自身の方向付けが出来ず、過去への復帰によって自分を権威づけることしかしなかった。恐らく、教会の秩序を大事に考えたい彼らは、古い者が秩序を象徴していているので、彼ら、そしてそれに続く自分も、権威付けられねばならない、と考えたのであろう。だから、教団の中では、戦争責任について、また戦争責任を契機にして考えて行かねばならないことについて、神学的に考えることは出来なかった。若干割り切り過ぎであるが、教団の中で戦争責任について考えられる時、神学的要素を抜きにして、所謂「社会派的発想」によって考えた。神学的な要素にこだわる人たちは、戦争責任については何も考えなかった。

  

終わりに

 

 では、日基はどうか。五十歩百歩である。しかし、日基にはこの問題を論じる公の機会と機関があるからまだマシである。それでも、神学的思考力が鍛えられていないからお粗末であり、自己のお粗末さに気がついていない。それは、他派との交流がないからではないかと私は考える。例えば、改革派ではある程度似た姿勢を持ち、似たことをしているが、交流がない。教会と国家の問題や、戦争と平和の問題についてはバプテストがかなりの成果を上げているが、日基の人は九州中会は別として交流しない。

 何故、交流しないのか。閉鎖的だからか。そういう集団的体質はあるが、多分、むしろ自信がないという個人的資質からであろう。個人的なものだから、心掛け一つで修練によって変革出来る。それをしない。型が出来ていて、それを破りたがらない。修練しなくて良いのだから、その方が安易なのである。

恥をかきたくないという弱気と、日基のプライドとが合体している。人間にはいろいろあるから一概には言えないが、傲慢と謙遜、大胆と臆病が表裏一体の関係になっている場合が非常に多い。大体において一方を表に立てていて、それがその人の性であるかのように見られているが、非常事態には逆転がおこり、本性が露呈される。こういうことは戦争の中で見えて来るが、教会の現実はそのような逆転を引き起こすほどの力がなく、仮装がほんもののように思われている。人を見る目が教会では培われていない。私自身もこの点貧しい。日基の人間性も貧しい。

教会における人間性の貧困、ということが結論のようになって私の話が結ばれては、余りにも貧困な神学ではないか。だから、もう一歩だけでも進んでからでないと止められない。

教会は人間に余り目を向けていなかったと言えるのではないか。教会の機構、教会の財政、教会を取り巻く力、そういうところに目が移り過ぎて、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい、という御言葉が真剣に聞けなくなったように思う。もう一つ、「まことの神にして、まことの人」という告白条項が空白化し、「まことの人」に目を向けなくなっていることがあると私は指摘したい。

終わり

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