2009.04.29.

 

東京告白教会修養会主題講演

 

貧困から学ぶ

 

渡辺信夫


 今回の修養会の主題を「貧困から学ぶ」とすることは問題なく決まった。これまで我々の教会の中で、このテーマに絞って一緒に考える機会はなかったが、ディアコニアの問題としては終始「貧困」と向き合ってきた。教会としてディアコニアの業に取りかかったのは近年のことであるが、ディアコニアそのものについては初期から模索していたし、その模索の中で常に頭を離れなかったのが貧困問題だと言って間違いはない。

 その問題を教会に課せられた課題として取り組むことをしなかったのは何故か? それは我々の不勉強の故に、問題に取り組むだけの志も知恵もなかったからである。不勉強という言い方には説明が必要であろう。我々はかなり学んで来たつもりであった。キリスト教が貧困の問題にどう立ち向かったかについて、資料を集めて読んでいた。その学びではまだ足りないことにも気付いていた。つまり、学びの核心部になるところが捉えられていないという自覚があった。

 では、核心部に踏み込めなかったのはなぜか? それは貧困の問題を解明して行くのは経済学であろうという見通しが頭にあって、しかも経済学に取り組むには才能が欠けているし、その欠けを教会として補填することは、現実的に無理だと気付いていたからである。

 もう少し立ち入って言えば、本格的にこの問題に切り込んだのはマルクスの理論であって、その理論で一応説明がつくと考えていた。今日の貧困問題のもとになる経済破綻もマルクスの理論で予想されていて、昨年始まった世界的恐慌は、前からの予想通りであった。しかし、マルクスの理論で説明は出来ても、問題の解決は着かないし、解決しようとする時、別の面での大問題が起こったという経験に気付かざるを得ない。つまり、マルクス主義そのものの破綻が明らかになって、その克服には未だ成功していない。だから、手も足も出ない。

 ただ、目の前にホームレスの人がいる時、自分は何も出来ないから、何もしない、と割り切ることは、キリスト者には許されないと感じられる。貧困問題を解決する政策はないが、目の前に飢えている人がいるなら、自分の持つ物は僅かであるが、その人と分け合って食べることなら出来るのである。そこで、問題への答えと言うには足りないけれども、何かしようということになって、幾らかのことを始めた。

 人はこれを気休めと言うであろう。だが、我々がこれで気を休めているなら、その批判は当たっているのだが、我々としては、これでなすべきことを果たしているとは思っていないから、気休めにはなっていないと思う。

 

 修養会のテーマが決まって、準備しなければならないので、これまで自分が知って来たこと、考えて来たこと、知っていても考えが進まず、行き詰まっていたことを、突き破るべき新しいアイデアに出会えないものかと、幾つか新しい研究書を読み始めた。だが、自らの読み取り能力の低下もあったらしく、新しい見解は得られなかった。それで、これまでに学んだことの上に何かを加えるのをやめて、初めに戻って、一からやり直そうと考えた。

 その時に、先日日本プロテスタント教会の伝道150年記念の会があった。これは近年の教会の低迷を打開しようとの思いを籠めて、良く準備されたのではないかと感じられる、充実したものであった。その中で、日本の教会が貧しい人々への伝道をしていないとの批判が、20世紀の初めに、アメリカの長老教会の伝道局から出されていたという事実が紹介された。これは私には衝撃的な事件であった。

 衝撃を受けたのは、日本の教会が貧しい人々への伝道をしていなかったことを知らなかったからでなく、むしろ知っており、これで良かったのだと私が主張したわけではないが、特に取り立てて問題にすべき落ち度ではないと思っていたからである。また、日本の教会が貧しい層の人たちへの伝道を考えていないことを、アメリカから来た宣教師も宜しとしているように私は思っていた。

 アジアの教会との関わりが大事であるという事を私は70年頃から随分言って来た。アジア伝道の歴史も調べていた。そして、アジアの諸教会と比較して、日本の教会の著しく違う点の一つとして、それらの国々における伝道が、貧困層を対象にして始められた事実があるのに、日本ではそうしなかった、ということも私は論じていた。

 そこまでは分かっていたのである。しかし、これが根本的に問い直さねばならない問題であるとは捉えていなかった。むしろ、神の摂理によって、日本の伝道が、アジアの他の国々よりは恵まれた状況下で始まったことを感謝すべきだと思っていた。

 そう思ったのは、自分もそう思ったのであるが、初期の宣教師がそのように感じていたと教えられていたからである。私は日本の教会史を専門としてはいないが、割合広く史料を読んでいて、こういう認識は正しいのだと思っていた。

 例えば、宣教師が来ても、まだ伝道が禁止されているので、表向きは英語教育を始めて日本人との接触を試みた。ところが、知識を求める青年たちが多く、英語教育の中にキリスト教の話しを採り入れて教えると、それも喜んで吸収した。そこで、信教の自由がまだ公認されていなかったのに、英語学校の活動の中で洗礼が行なわれ、受洗した青年たちによって教会建設の宣言が行なわれた。――このことが誇るべき歴史として今でも教会内で語られている。

 アジアの諸国においては、このような幸先よき出発はなかった。中国では阿片戦争で敗けるまで、政府はキリスト教の伝道を認めていなかった。認めた後でも民衆は無知であり、知識欲に乏しく、因習と迷信に囚われているため、キリスト教を受け付けない。突破口となったのは、貧民層が病気になった時、医師の治療を受ける経済力がないので、無料で診てくれる医療宣教師による西洋医学を用いての治療に縋るほかなく、その効力の大きさに触れて驚いたことである。こうして、外来のものを受け入れることは貧民層の中で始まった。彼らはキリスト教の教えを直ちに受け入れることにはならなかったが、とにかく聞き始めた。

 宣教師は医療と並んで、学校を建てて近代的教育を行なった。それらの学校のうちには、やがて最高の教育機関になったものもあるが、宣教師学校の殆どは庶民の子弟の初等教育機関であった。その教育の中に、信仰教育という要素をどれだけ入れるかについて、程度がいろいろあったと思うが、教育としては一般知識の教育が基本である。低層の子弟たちの教育を国費で行うということがなかったから、宗教の押しつけでない一般教育ならば、外国人宣教師の事業であっても民衆から受け入れられた。そして、学校教育を受けた者には有利な職業の道が開けており、貧しい親たちの子が学校を出たために階層がだんだん上がって行く。そのため、クリスチャンの階層が初めは低かったけれども、次第に社会的地位が高くなるということになった。

 日本の場合、向学心のある武士の子弟が、維新で武士の特権を失った危機感のなかで向学心の故に宣教師に接近したというケースが割合多い。そういう気風がプロテスタントの牧師の性格を作ったのではないかと言われる。

 それは、教会の中に出世主義が蔓延したということではない。むしろ、出世主義に心を向ける人は、政府の役人や、役人と関係を深くつけて国家の補助金で事業を発展させる起業家になる道が幾らでもあった。つまり、宣教師が始めた教育と並んで、これと競合して政府の教育が始まった。そういう中で、威張りもせず、金儲けも願わず、神に仕え、人にも仕え、志を高く保つ生き方を追求する道が、生き甲斐を感じさせると見る人が少数ながらいた。こうしてプロテスタントの生きざまが、大衆受けはしないが、尊ばれ、好まれた。

 私自身の生まれ育った家はそういう武家気質のものではなく、平民層の百姓の出であるが、明治維新以来何代か世代を重ねているうちに、上層志向の気風になったように思う。利益や栄達を求めはしないけれども、志は高くしなければならないと思うよう促された。私が軍隊に入って、将校という特権的身分になった時、身分差という矛盾に苦しむことなく生きられたのも、武人という生き方に適応できたからであろう。

 敗戦後、軍人の生き方を嫌悪してここから脱出したし、牧師になってからは、さらに一段と平等主義者になったが、或る面では一層サムライめいた潔い生き方になったのではないかとも思っている。つまり、日本に形成された牧師らしいタイプは、かなりサムライ的な要素を引き継いだものである。諸教派の中でも取り分け日基の牧師がそうである。良い悪いを論じる事は要らないが、こういう事情を客観的に考察しておれば、違った姿勢をとることが出来たが、そこまでは考えなかった。だから上流におもねることはないつもりでいながら、貧民層とは距離を置いており、この人たちと生活感覚を共にすることはなかった。

 下層階級に伝道しないで、必ずしも上流と言えないが、どちらかと言えば上流に属するサムライ階級に伝道したことについて、批判されているのを、そのまま受け入れて良いかどうか。ここは十分検討して見なければならない。

 日本に来た宣教師の中にも、低い層に伝道すべきだという意見の持ち主はいた。その試みもあった。長老派にそういうことをする人がいたとは聞かないが、他派にはいた。

長老教会でも、特殊伝道としてはそういう人たちのために伝道した宣教師がいる。旧日本キリスト教会の中にはハンセン病療養所内の教会が二つあった。ハンセン病者は貧民ではないが、当時の日本では社会的に排除されていたのであるから、最下層に零落したのと同格と見ることも出来よう。浪花中会は高松港外大島と、大阪市此花区外島にあった療養所教会を中会の教会として登録していた。しかし、この二つの教会は中会内の他教会との交わりをもっていなかったようである。例外的な個人はいたようである。――この二つの療養所教会は教会と看倣された面と、見なされなかった面と二つを曖昧に使いわけられた。

 矢張り貧民に目を向けていなかったことになる。そして、結局それ以外の伝道方式は定着しなかったと言われている。これがほぼ定説だと言って良い。まだ、サムライに伝道した方が、結果的に見て、比較すれば一番マシであった。そのサムライは結局、大部分は天皇制の忠君愛国に巻き込まれて消えてしまったり、妥協してキリスト教の実質を失いかけたものが多いのではあるが、節操を守ってキリストに忠誠を尽くす人の歩留まりが比較的多かったということなのかも知れない。

 もっとも、その反論もある。

 かつてキリシタン迫害があった時、比較的簡単に信仰を捨てた者と、命を懸けて信仰を貫いた人とがいるが、階層として捉えるならば、武士階級では主君が信仰を捨てれば、家来にも信仰を捨てる者が多く、信仰を守った人の多くは農民の内にあった。と言われている。

 社会的階層としてどれに属していたかは、信仰と関係ないと結論すべきであろう。信仰は恵みによって上から与えられるものであるから、その人の生まれや、育ちや、経歴や、個性や、身分、階級、境遇、努力、およそ条件と見られるものからは自由だと言わねばならない。

 したがって、貧しい人に先ず伝道しなければならないという原理を立ててはならないと思う。貧しい人でなければ福音を受け付けなかった時に、貧しい人にしか伝道出来なかったのは、処置としてはそれで正しい。だが、ここに固定的な原則があるという事ではない。

 だから、日本では、初め武士階級しかキリスト教を聞こうとしなかったとすれば、武士階級にしか伝道できなかったことについて、咎めを受ける謂われはない。聞く人がいれば、その人に語ることから始めるのは当然なのだ。

 問題はその次である。初め聞いてくれた人と同じ層、同じ様な考え方の性質の人にだけ福音を広めるままで良いのか、という問い直しが当然なければならなかった。福音の伝達は、主イエスの語っておられた時には、殆どユダヤ人だけに語られ、ユダヤの言葉だけで語られていたのだが、五旬節の日に聖霊が下ってからは、天下の全ての言語で語られるようになった。これは人の分け隔てがないことでもあるから、階級の上下差もなくなった。

 キリスト教では、この無差別、無格差がとにかく原理となった。その原理が実践されたかと問われると、たしかに問題はある。しかし、この原理と矛盾するような現実があってはならない、という声は繰り返し叫ばれた。日本ではその声は上がったのか? 上がっても、その声がもみ消されたのか。声が上がっても何とも思わない聞き流しが定着したと言うべきか。こういうものが殆ど体質のようになってしまった。それが日本のキリスト教の特質である。外国を見た目で日本のキリスト教を見たならば、変だと感ずるはずなのに、外を見ようとしないから、何とも感じなかった。

 日本の教会は、初めはサムライだけであって、それはそれで事実だったと言うほかないが、次の段階では、サムライ以外の層にも働きかけて行くべきであった。効果があるなしに関わらず、長期に亙って忍耐強く継続すべきであった。その面の開拓がなかったのである。始まっても長続きしなかったのである。いつまでも、一定の階層以外に働きかけようとしなかった。そして、このような狭い見解ではいけないと考えることもなかった。隣り人はもはやサムライだけでない人員構成になっているのに、或る層以外には関心を向けようとしない見解の狭さが、体質になってしまった。

 宣教師による伝道が始まって、150年を経て、伝道の低迷が目に余るものとなって、我々はようやく気付きはじめたのである。

 「貧困」という問題を我々はこれまで、少なくとも教会の課題であると捉えることをして来なかった。今では、他教会においては兎も角、我々の東京告白教会においては、急激に貧困層が増えて、巷に溢れるようになっている情勢の中で、「ディアコニア」との関連で、貧困を自分に突きつけられている問題として捉えなければならないと覚悟している。

 しかも、先程の議論の続きになるが、階層の分け隔てということを打ち破って行かなければならないのだから、「貧困」を外の問題、――仲間内にはないが隣人である人々の負っている重荷として捉え、同情してモノを与える、「施し」として行なうだけでなく、貧困を負わせられている人との福音の共有までを課題として負っていると考えなければならない。

 イエス・キリストのもとにバプテスマのヨハネから遣わされた使いの者が来て、「来たるべき方はあなたなのですか。それとも、他に誰かを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」と問わせた時に、答えて言われた。「行って、あなた方が見聞きしたことをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、癩病人は清まり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。私に躓かない者は幸いである」。………ルカ伝7章である。

 「貧しい人が福音を聞かせられている」こと、すなわち貧しい人たちが施しを受けることでなくて、福音を聞かせられていることが、メシアが来たことを確認させる決め手の証拠として挙げられている。

 主の言われた「貧しい人」とはどういう人かを読み取らねばならない。この一連の言葉から分かる一つのことは、見えるはずのない人が見る。歩けるはずのない人が歩く。汚れている人が潔められる。死人が生きる。それらと同列のこととして、福音を聞くことが出来ない境遇に置かれていた貧民が、福音を聞いているということではないだろうか。これはイエス・キリストによって奇跡的な事件が起こって、福音を聞くことのなかった貧民が聞いている、と取っても良いと思うが、貧しい人は何故福音を聞くことが出来ないのかという疑問が解決されていない。貧しい人こそ福音を求めると考えるのが自然ではないのか。

 主のこのお言葉は解釈が若干難しいのであるが、一つの解釈としてこういう解釈が成り立つのではないか。貧しい者は貧しい故にイスラエルの共同体の中から落ちこぼれ、あるいは疎外されていて、そのために、キリストの到来の約束とその成就のメッセージを聞くことが出来なくされているのであるが、今や、キリストの福音が貧しい人たちのもとにまで届けられるようになっているではないか、という意味に取ることが出来るのではないだろうか。

 実際、ユダヤ人の社会の中で、差別や排除が行われていた。例えば、癩を患う人がそうであった。この病者を主が憐れみをもって受け入れておられることは当然であるのに、それが見えないどころか、その逆に、汚れたものであるから聖なる神、また聖なる民に近づいてはならない、という規定を作った。取税人や罪人の疎外がそれであった。貧しい人たちも、貧しい故に汚らわしいと見られて疎外されたのではないだろうか。意図的に排除されたのでなくても、無意識のうちに見落とされたということはあろう。彼らがいなくても、人々は何とも感じなかったのである。

 福音が届けられねばならないはずの人の内に、ここにいなければならない或る種の人々が加わっていない。しかも、そういう人たちがいないことに人々は気がついてもいない。そういうことを主イエスはいろいろな機会に触れて注意を喚起されたことを我々は思い起こす。

 「貧しい人たちが福音を聞かせられる」ということの、これは一つの解釈である。ルカ伝では貧しい者は幸いなりと言われたとなっている箇所で、マタイ伝は「心の貧しき者」と言っているから、解釈の幅を広げなければならない。が、ほかの解釈が出来るとしても、今言った解釈が十分成り立つことを我々は認めざるを得ないのではないか。今はこの一つの解釈だけで間に合うと思う。

 我々はキリストの御言葉のもとに呼び集められている、と言っている。こんな数では少な過ぎるではないかと感じて、もっと多くの人を呼び集めなければならない、と力説する場合はよくある。それもそうだと我々は感じる。しかし、もっと大事なことは、ここには或る程度衣食足りて、住む家もあり、安定した職についている人たちしか来ていない。寝る所も、その日食べる糧もない人たちが自分たちの中にいないことについて、我々が不思議とも何とも思っていない。その点が問題ではないか。

 もう少し視野を広げて論じるなら、日本の教会には、初め知的な求めのある人しか集まらなかったかも知れない。その事実は事実なのだが、いつまでもそのままであってはならないから、人を増やすというのとは別の意味で、層が厚くなるように努めるべきであったのではないか。

 かつて我々の教会の礼拝に、砧公園で野宿する一人の兄弟が、1年余り、欠かさず参加していた。彼が一人加わっていることによって、礼拝の充実感が増し加わったことを我々は記憶している。それは雰囲気の緊張というようなものでなく、福音と福音を聞く者の交わりの、本来もつ広がり、その豊かさを味わわせてくれるものであった。

 彼が教会に来たことは、我々の教会に対する主の贈り物であった。彼が教会の中にいたことによって、我々は多くのことを学ばせられた。野宿者を他者として、距離を置いて見るのでなく、同じ交わりの中の兄弟として、至近距離から、細部にわたって知った。そして主は彼を地上の労苦から解き放して、みもとに召したもうた。それなら、彼の亡き後、彼から得た学びを受け継いで、彼の残してくれた遺産をさらに豊かに発展させることが出来る。

 彼がいた日のこと、彼が死んでその肉親が駆けつけて語ってくれたことを、我々は忘れていないが、思い出のうちにしまって置くのでなく、彼が残してくれたものをさらに豊かなものにして行く努力に欠けていたことを認めなければならない。

 昨年、「貧困」という課題が教会に課せられていることを多くのクリスチャンは気付いたと思うが、我々としてはもっと進んだところまで実は導かれていた。對馬さんの残した遺産を受け継いだのに、その遺産をチャンと守って来なかった。

 貧しい人は持つべき物を持っていないと言える。その人が持つべき物を獲得できるように援助しなければならないという一面がある。それはそれで真実なのだが、別の視点から見て、持たないことの豊かさという真理があることを我々は知っている。それを知ることの故に、持たない人に対する単なる同情でない接近が出来る。簡単な事ではないが、道は開けるのである。

 

 

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