2009.03.02.

大阪北教会にて

綱要改訳版出版記念講演会

カルヴァン・教会・国家

渡辺信夫


 60年昔の話しだが、私はこの大阪北教会に屡々来ていた。60年前、すなわち1959年、その秋、私は日本キリスト教団で検定試験を受け、大阪教区で教師試補となり、高槻教会で伝道者としての生活を始めた。北教会を訪れたのは、この教会の小川武満牧師が私よりも少し早くここに赴任しておられ、新任の伝道者同士が屡々合うことが必要だったからである。小川牧師は陸軍軍医中尉として中国で軍病院に勤務し、戦後北京で現地除隊して、抑留日本人、すなわち戦争犯罪人の世話をし、日本人の逗留が許されない事態になったので引き揚げて、すでに日本キリスト教会教師となっていたので、焼け跡となった北教会を建て直すために招聘された。当時この辺りは一面の焼け野が原であった。先生は中国侵略の責任があるから、自分は出来るだけ早く中国に戻って医療伝道をする。ここは仮の住まいであると言って私を驚かせた。

 私は小川牧師より10歳年少で、1943年学徒出陣で海軍予備学生となり、45年の初めから前線に投入されて、沖縄方面の海域で海防艦勤務をした。戦後、学びのやり直しをして、一旦或るキリスト教主義の大学に勤めたが、伝道者としての召しを受けた。

 年齢も経歴も別々であったが、二人とも戦争の残虐性を直接経験したから、戦争反対の決意は堅く、また戦争中の教会の妥協を、已むを得ないものとして見ることが出来なかった。さらに、自分自身が戦争の悪に対して抵抗しなかった罪責を覚え、この点で意気投合していた。だから刎頚の交わりと言って誇張でないような同志であり、一緒に日本キリスト教団を離脱をして、日本キリスト教会を建てる戦いに加わったし、やがて靖国闘争をともに戦った。

 思い出話をしているように聞こえるかも知れぬが、私が証言したいのは、この方との交わりの中で、伝道者として歩みの初っ端に、謂わば鋼に焼きが入れられたように、生き方、学び方、仕える仕え方が、確固たるものとされたことである。すでに一生涯カルヴァンを学び続け、全生涯を通じて教会に仕え、生きる限り反戦・平和の歩みを続ける決意を持っていたが、その思いが燃え続けて、いまだ燃え尽きない火であり続けるのは、炎のように燃えて生き抜いたキリストの証人と出会ったからである。

 私はカルヴァン研究の志を以前から抱いていたが、伝道者として生きるべく召されたのは1949年である。通常、伝道者となる人は神学校に入って教育を受ける。私の場合は神学校を経ないで、主からの召しで伝道者になった。教育されなくてもそれだけの力があったというのではない。私の場合、走り出して、それから教育を受け始めた。そういうことであるから、訓練は今だに終わらない。

 どういう訓練を受けたか。簡単に語るほかない。幸いにして、カルヴァンという実物見本がある。それを追い掛ければ良かった。カルヴァンがしたように説教し、カルヴァンがしたように礼拝を捧げ、カルヴァンが守ったように教会の秩序を整え、カルヴァンがしたように自己訓練をする。そういう自己訓練を現代社会の中に出来るだけ復原して、それを実践しようとした。十分果たしたとは言わないが、目指す目標については迷うことがなかった。――そう言うと偉そうに聞こえるだろうか。そうではなく、戦争という巨大な悪の渦に巻き込まれ、当然死なねばならない破目まで押しやられながら、生きて還って来た者としては、この歩み一筋しかなかったのである。

 カルヴァン自身も神学校を出ていない。もっとも、当時、神学校というものがなかった。神学校の範例になるものはカルヴァンによってジュネーヴに造られた。それは「アカデミー」と呼ばれた。そのアカデミーでカルヴァンは講義したが、学生は講義を聴くだけでなく、自学自習した。カルヴァン自身も自学自習によって学問を築きあげた面が大きいと思う。ただし、単独者として思想を鍛えたのではない。学んだことについて確認し合う仲間がいて、共同研究という形で学ぶ、それがこの頃の宗教改革者の学び方である。私もそういう学びをした。共に学ぶ仲間として小川牧師がいたし、そのほかにも同労者がいた。私はまた牧師が先生として君臨する形でなく、教会員と共に学ぶ姿勢を保たなければならないということも学んで来た。

 そういう学びであったため、伝道者として生きることと、カルヴァン研究とは矛盾しなかった。牧師をしていたからこそカルヴァン研究が持続され、深まった。ただし、牧師としての奉仕と矛盾するような、自分のための業績作りとしての研究はしなかった。しかし、牧師の務めをしながらの研究であるから、歩みは遅々たるものであった。主が私を憐れんで、比較的長く生存することを許したもうたので、人のする何倍も時間を掛けて、ようやく一人前の仕事の仕上げに近づく、という歩みであった。

 私の職務、それは教会に仕えることである。教会を大きくすることではなく、教会が真にキリストの教会と言えるものになるようにして行くことである。それは狭いとも言えるし、広いとも言える。その広い全域について語ることは今日はしないが、牧師の職務に関係があると思われることは、余計なことと見られても骨惜しみはしなかった。だから広い勉強をした。

 牧師の仕事のうち、私が最も時間と熱意を注いだのは「説教」である。もっとハッキリ言うなら、主が教会に集めておられる人たちに御言葉を届けて、御言葉の命に与らせることであり、それ以外はしなかった。

 今日の話しの第一点として、説教をカルヴァンはどう考え、どう実行したか、そして私はそれに見習いつつ、どういうふうにして来たかを語ることにしたい。具体的に言えば、カルヴァンは説教を聖書の解き明かしとして遂行したのであるが、それは聖書が神の言葉であると信じるこの原理に即したものであるから、カルヴァンがその原理をどう理解したかについて語らなければならない。

 60年前、カルヴァンの説教は日本では余り知られていなかった。すでに竹森満佐一牧師の訳と森有正氏の訳があったが、それが重要視されたとは思えない。それは翻訳が悪いのでなく、日本の教会と説教聴聞者が未成熟で、その価値を読み取ることが出来なかったからである。私も51年前にカルヴァンのイザヤ書53章の説教の翻訳を出したが、牧師たちの間で、これでは日本の聴衆には難し過ぎる、と評価する人が多かった。

 今日、様子が少しは違って来た。講解説教をする説教者は増えた。その人たちはカルヴァンの説教を模範にするようになって行く。2006年にカルヴァンのエペソ書説教の翻訳が「命の登録台帳」という名で刊行され始めた。何人もの有能な人たちが毎月集まって訳文を練って行くという方式で進められている。カルヴァンの説教に対する一般の評価はかなり高まったと言わねばならない。ではあるが、日本の教会でカルヴァンの説教、あるいはカルヴァンのような説教が喜ばれるようになったとは、まだとても言えない。だから、カルヴァンを学ぶ使命を持つ者は、さらに精進を積まねばならない。すなわち、説教の質を高めなければならない。

 少し本筋を離れるかも知れないが、カルヴァンの時代、彼の書物としては、神学書より説教集の方が一般の読者に喜ばれたらしい。そういうことが当時の出版の記録を見れば分かってくる。では、「キリスト教綱要」などの著書は「説教」より劣るものとして扱うべきか。そう言って良いと思う。しかし、この言い方は単純過ぎて却って誤解を招くかも知れないので、少し言葉を加える。

 救いは御言葉を聞いて信ずる信仰によるのであるから、御言葉の伝達である説教にこそ救いの力が置かれている。「綱要」はその信仰全体の大筋に向かっての教育である。日本語では「信仰の手引き」と訳されているあの小冊子と言葉の意味としても同じなのだ。ただ、「綱要」は版を改めているうちに、著者が初めに考えていたよりもズッと分厚い本になり、その内容の大部分は、個々の部分について言えば、説教と同じように説得力を持つ言葉である。実際、綱要の読者の多くは説教を聞くような気持ちでその本文を読んでいる。

 説教のことに戻るが、宗教改革は非常に重要な原理を確定した。それは、神の言葉の解き明かし、すなわち説教は、神の言葉であると確認するという原理である。

 この原理の確認に至るまでの経過を追って見ると、神の言葉は「聖書のみ」であるとするルターの確認を先ず押さえなければならない。ルターが95箇条提題によって「免償」を否認したことで宗教改革が始まった。その改革を否定する根拠として、ローマ・カトリック教会の論者は、「聖書のみ」でなく、教会内に言い伝えられて来た様々な「伝統」が教理の根拠であると主張し、ルターはそれを却けて、断固として「聖書のみ」を主張し、これが宗教改革の骨髄となった。

 しかし、「聖書のみ」とは、聖書という書物を硬直的に絶対視することになるではないかという疑問が出るので、「書物となった御言葉」というよりは、「神の言葉として聞かれる言葉でなければならない」という認識が当然、成立する。ルターは「書かれた書」とともに「活ける声」としての説教の重要性を力説した。改革派の宗教改革でも「活ける声」という呼び方は好まれたが、「第二スイス信仰告白」(1566)の中で、聖書の言葉の解き明かしである説教が神の言葉であるという定義づけをした。

 これは重要な定義付けであるが、定義付けを几帳面に守るだけでは、この定義を用いて、聞く人に説教への絶対服従を強要し、また説教者にとっては免責条項として利用されるに終わる危険がある。カルヴァンはこの定義付けを振り回すのでなく、「聖書の解き明かしが神の言葉である」ということが、聞くことのうちで確認される実践、そこに重きを置いたと私は理解している。その実践は、御言葉を語る者が、語られる言葉を自分も聞き、それによって砕かれ・かつ慰められつつ語る、そのような修練であると思う。カルヴァンがこういう表現をした訳ではないが、私は彼の思いをそのように読み取っている。

 宗教改革時代の説教は殆ど全て聖書講解であったということを知っている人は多いと思う。宗教改革以前の教会では、聖書は朗読されていたし、説教にも用いられ、「聖書は神の霊感による言葉である」との説明も知られていた。だが、神の言葉だから聞くという実践とか修練ということは、行なわれていなかった。せいぜい「こういうものだ」という解説が聞かれていただけである。しかも、宗教改革直前の時代には、改革者が指摘しているように、教会用語は民衆には分からないラテン語だった。

 宗教改革期の説教者は、「聖書の言葉を聞くとはどういうことか」、聞くことによってどんなに生命に満たされるか」を味得できるような説教をした。が、後の時代、説教の活力は次第に低下した。説教は「御言葉」だと言われていても、本当に神の言葉として聞こうとする人は少なくなって行く。また、神の言葉を語る事が自らに委ねられた使命だと弁えて、それを語ることに精進する説教者も少なくなった。今や説教の氷河期である。これをどうやって抜け出すかを論じることは緊急の課題であるが、別の時にするほかない。

 説教が聖書講解として聖書本文に忠実でなければならないことを宗教改革者たちは考えた。その実際について述べる時間も今日はないが、カルヴァンの聖書註解や説教は日本では翻訳で読むことが出来るから、読んで貰いたい。

 また、今日における説教の衰頽、辛うじて体裁は保たれていても、気の抜けた話しになっている原因についても、今は語る時間がない。カルヴァンの精神を復興させれば問題の解決になるではないか、と言われるが、どうやって現代においてカルヴァンの精神を復興させるか。――私自身、生涯をここに投入したと言えると思っているが、何も出来ていないことも事実である。直面する問題が多過ぎるからである。


 

 カルヴァンは御言葉を語る働き人として、教会を建て上げて行った、という点を今日の講演の第二部として位置付けたい。

 彼の説教が、聞く人に信仰を起こさせただけでない、ということがカルヴァンの特筆すべき成果である。それを社会的影響と捉える人もあろうが、私はそのように見るよりも、説教によって教会を建てあげることこそカルヴァンの努力目標であって、その教会が社会に影響を及ぼしたのであると解釈している。

 キリスト教は「教会」という形で生き続けて来た。教会は信仰者の交わりであるが、小さい群れから大きい群れまで様々の大きさのものがあり、各地域の群れは結集して一団の広域に亙る教会をなす。それはローマを中心とする西方のローマ・カトリック教会、東方のギリシャ正教会、ロシアの正教会、オリエントの教会というふうに、それぞれ特色を持ちつつ、地域に定着し、国家と密着し、時には教会が国家に近い体制を取って存立し、あるいは国家と分離した形を取る。さらに、それぞれの教会の歴史を見ると、歴史の段階によって多様に変化している。この多様性を把握することは実際にはなかなか困難なのだが、教会は時代を超えて連続性を持つと信じて、我々はこれを一括する。

 さて、ローマ・カトリック教会の中に起こった宗教改革運動は、原理的には「教会と国家」の区別を打ち出した。実際に教会と国家の分離が実行され始めたのは、フランス革命に伴う国家の法制の整備によってである。分離を意識的に行なうようになったのは19世紀で、まだ分離し切れていない面も多いが、原理として教会と国家が別のものであることは、ほぼ定着した理念である。

 カルヴァンの系統の宗教改革が教会と国家の分離を推進する思想的指導力であったことも、説明の省略を許されると思う。教会は社会的存在としては大きいが、国家の持つような権力や富は持とうとしなかった。教会の持つ権能は霊的権能に限られる。それだけに、カルヴァン系統の教会は己れに委ねられた務めが、世俗と距離を置く純粋性を保つものとなるように努めることが出来たのである。

 現代の日本において、宗教の自由は完全に保障されているように見られている。本当に自由なのかと厳密に問われるなら、政教分離は極めていかがわしい状態であり、宗教の自由を容易に破滅させる要素が育て上げられる危険が濃厚にある。が、今は自由が保障されていると看做して置こう。

 こういう自由社会の中で、キリスト教の自由をどのように掲げれば良いかが、かなり分かり難くなっていると思う。「キリスト教会」と名乗っているが、キリスト教ではなく、カルトになっている運動がある。キリスト教と名乗る原理主義が、日本ではまだ弱いようだが、強大な力を持つものになるかも知れない。その逆の方向で、もっと穏やかであるが、キリスト者のアイデンティティーが見えなくなった、単なるサークルに過ぎない群れになっている例も少なくない。

 この時期にカルヴァン復興を叫ぶ人が各国で起こって来たのは当然であろう。カルヴァンが教会の改革を御言葉によって進めた時、「教会」という名はあっても、実体は得体の知れぬ物になったまま、というようなことは有り得なかった。教会は真の教会であろうとする信仰によって、真の教会と主から認められたのである。

 カルヴァンが「教会とはこういう物である」と説明したのは、説明によって分かれば良いという主旨ではなかった。また、あるべき教会を理想として設定して、理想追求の努力をする目標、というものを掲げたのでもなかった。

 教会は信ずべきもの、信じられているものである。したがって、教会とはこういうものだと説明するのは、そういうものとして信じるためである。したがって、そう信ずるとは、神が我々の信ずることを成し遂げたもうという意味であり、同時に、信ずる我々は、信ずるに相応しく、そのことの成る時を目指して進んで行く、という意味である。そのことの成る時というのは、終わりの時であるから、教会を信ずる人は終わりを待ち望む人である。

 教会を論じるとは、教会の終わりまでを見据えた議論であるが、終わりを見据えることは、その初めに遡って考えることと繋がっている。カルヴァンが教会を論じる時、この初めと終わりとが見通されているところに理解の鍵があると思う。

 カルヴァンが信仰の全体を論じる時、旧約に論じ及ぶことが実に多い。そのため、キリストの福音よりは旧約に重心が移されているのではないかと疑う人は少なくない。これは近代のキリスト教が新約偏重の弊に陥っていたことの反映ではないかと私は思う。約束があって、それの成就がある、というこの二つの焦点が聖書の勘所であると、使徒たちは把握した。カルヴァンもその理解を受け継ぐ。「キリスト教綱要」の論述もそうなっている。

 教会も旧約において約束され、アブラハムとその一族の選びと召し、イスラエルの歴史は神の民の初めであるが、それは来たるべき福音の時における教会の雛形であったとカルヴァンは捉える。その捉え方があってこそ、キリストの教会の終わりの時までの歩みが見えるのである。それが教会の持つ希望である。

 この教会がこの時代の中で如何なる務めを果たすか。この点について未だ一般には理解が行き届いていないのであるが、教会の務めとして「教える務め」、「治める務め」、「仕える務め」の三つを挙げたことまでは広く知られている。そのうちの「仕える務め」ディアコニアについての理解が、カルヴァンの後継者の間で手薄であったのではないかと私は近年ますます考える。

 キリスト教は何時の時代にも貧しい人のことを考慮し、何らかの助けを与えていた。しかし、教会の務めとしてそれを遂行することは比較的少ない。教会内のヴォランティアや修道会がこれを行なった。使徒の教会は貧しい寡婦の給食の世話のため七人を選んで按手したが、こういう教会は稀になった。カルヴァンはこれを回復しようとした。

 カルヴァンがジュネーヴで貧困者、孤児、病人、難民のために実際に援助活動をしたことは知識としては行き渡っているが、これを人道的社会実践としてでなく、「教会の務め」として捉えたことまでは理解していない向きが多いように思う。そういうことがあるために、今日、カルヴァンの流れを汲む教会であると自認しながら、巷にはホームレスの隣人が溢れているのに、教会の問題のそとのことだと考える場合が多い。

 このことについても、私は今日は舌足らずの議論しか出来ないが、カルヴァンの精神の復興を志すならば「教会のディアコニア」を日本の中で展開すべきであると叫びたい。

 


 今日の講演の第三部として位置づけたいのは、「国家」の問題である。教会はこの世にあっては小さき群れに過ぎないのであるが、神に属する民として、自己のためではなく、他者のための執り成しの祈りの務め、また預言者的警告をすることが出来、またすべきである。視点を換えて言えば、先に述べたディアコニアの務めを隣人の中で、隣人のために行うことが出来るし、行なうべきである。――そのような広い領域に亙る課題の中で、今回は国家の問題に絞って考えて置きたい。

 カルヴァンが国家の問題について比類なき思想家・理論家であったと言う必要はないし、そのように言って持ち上げる意味もない。カルヴァンが国家論について大きい書物を書いた訳でもない。むしろ、そういう書物は書かなかった。この問題について彼が論じたのは、一つの書物においてでなく、一つの書物の一つの章においてである。

 その書物というのは「キリスト教綱要」であって、その本の最後の巻は教会論であるが、その巻の最後の一章である。では、教会論の重要な一部として国家についての知識がキリスト者に不可欠であるか。ここで簡単に「然り」と言ってしまうのは問題なのである。教会にはそのような務めが負わせられているわけではないし、そのような務めを果たすだけの機能も持たない。しかし、「否」と言ったならば、世にあって生きるべく地上に配置されている教会の存在意味がなくなる。

 「キリスト教綱要」がキリスト教の教えを全体に亙って述べており、教会について、この種の同類の書物と比べて、教会論の諸項目が充実していることは広く認められていると思う。だが、教会論を論じる時、教会そのものについてではないが、これを論じて置かなければ、教会を論じる議論が機能しなくなってしまう要石のような部分があると彼は感じた。だから、綱要では国家の政治についての議論が最後の版に入った。それまでの版では、なくて済むと思っていたと言うのではない。ここに入っている要点は、綱要の初めの版でも語られていて、「キリスト教自由について」という章の中に、自由の問題と併せて論じられた。これでは体系全体として不十分だと考えて、組み方を換えて、国家については教会論を外側から支える、いわば支柱のようなものとして据えた。

 カルヴァンの頃まで、この世で正式の制度と見られていたのは、教会と国家だけである。それまでの時代にも、同業者組合とか、都市間の同盟とか、ある程度法的に定めを守る連合体があった。その後、そういう団体の存在は次第に大きい意味を持つものになって行くし、時代が経過すればする程、教会の重味はなくなって、教会は他の種類の非営利法人の一つに下がっている。それでも、教会の持っている法的意味、法的思想、法制定機能は長い歴史を持っていて、一般の法人とは同列にならない。むしろ、教会が培って来た法制定機能が国家に対する指導力を発揮したと言えるのではないかと思う。

 すなわち、国家の古い形態は圧倒的に王の支配で、人民の支配や、選良(エリート)の支配もあったが、王の支配の例が最も多い。そして王の支配が支配の原理となっていた。このような支配に歯止めを掛ける先駆けとなったのは13世紀のイギリスのマグナ・カルタで、これが王の支配が恣に振る舞うことを禁じた。16世紀以後、マグナ・カルタの先例に倣うものが増えたが、それは憲法を建てて、王にはそれに従わせるという方式を取る。そのような憲法制定は今日では殆ど例外なく各国に普及したが、憲法(コンスティテューション)を整えて、国の政治を行うという思想はカルヴァンの教会理解から来たものである。すなわち、コンスティテューションを持つ教会が建って行く時、その国もまたコンスティテューションを備えなければならなくなる。

 キリスト教会の中には「世との対立、あるいは隔絶」という構図で教会像を描く傾向があり、この傾向を助長することによって教会内の士気を鼓舞するやり方が喜ばれる。そういう表現は聖書にあるにはあるが、世を敵視し、福音宣教を征服と同じ様なものと捉えるのは問題である。神が世を愛したもうという重要な原理が消え失せ、自分も征服者としてこの世に君臨しようとすることになる。

 教会は第一義的に神の所属でなければならないが、世もまた神の所有と支配に属する。神の支配に属する秩序として、「教会」と「国家」がある。世は神を知らないから、神の支配のもとにあることも知らない。だから、それを知っている教会は、知ろうとしない国家にそのことを分からせる務めを持っている。

 教会と国家は単なる二つの領域ではなく、神の支配を実行する二つの秩序である。その二つの秩序、これは二つの権能(権力)として捉えることが出来る。二つの「王国」として捉えても良い。

 聖書はローマ書13章で言うように「全ての権威は神に基づく」と教える。だから、神の民は権威に従わねばならない。「治める」ということは人民のためであるということが出来るが、それならば、人民から権能が由来すると言えるか。キリスト教の立場からはそれは言えない。あくまで神に由来するからこそ、雑多な者の間の一致が得られる。

 ただ、神から権能が来て、それが王や王に属する為政者に留まるのでなく、上位の者の義務不履行の故に、その下位の者に権能の行使が移行するという議論が昔からある。カルヴァン自身の理解はここまでで留まったのだが、その弟子たちは先生を乗り越えるというモノモノしい意気込みでなく、ごく当然のこととして人民に主権行使が認められるという理解になって行った。このような理論の移り行きについて、今は十分説明することが出来ないが、今日の世界の良識に照らして、呑み込んで貰えると思う。

 国家の問題に関してカルヴァンが「戦争と平和」のことをどう論じたかが屡々話題になっている。カルヴァンは「正しい戦争はあり得る」と言った。私は今日の話しの初めで少し触れたが、戦争というものの実際を知ったからだが、正しい戦争はあり得ないと思っている。

 それでは、私は「カルヴァン、カルヴァン」と言っていながら、反カルヴァンではないのかと疑われるであろう。私は胸を張って弁明することが出来るが、私はカルヴァンが追っていた真理を追い求めていたから、この結論に達したのである。大雑把に語ることしか今日は出来ないのであるが、正しい戦争はあり得るとカルヴァンが考えたのは、彼が欺かれていたからである。しかし、それ以後、カルヴァンの弟子であれ敵対者であれ、作り話でない戦争の実態の学問的検証をするようになり、「正しい戦争」という言い分は時代を経るにつれて、いよいよいかがわしいものになった。

 戦争には法の網を被せて規制しないと、無法なことをしたい放題にする、ということをカルヴァンの次の世紀の人は考えるようになって、戦争法規を作り、国々が批准して、違反した国は裁かれることになった。戦争の法を造ったのは、忠実なカルヴィニストではなく、「予定論」に反対の「レモンストランス派」のグロティウスであったが、しかし、戦争の問題についてカルヴァンと考えが相違していたとは言えない。とにかく、戦争に法の網を被せて、戦争が出来難くする試みはその後も弛みなく続いている。

 では無法な戦争はなくなったかというと、そうではなく、戦争の残虐性・無法性はいよいよ苛烈になった。第一次世界大戦の始まる間際には、戦争反対の機運はかつてなかったほど盛んになり、幾つかの試みが始まった。が、時を失して、戦争に入るのは止められなかった。

 だから、戦争反対の実行は「良心的反対者」が処罰に甘んじることによって、良心の反対の証しを立てることによってなされた。そして、起こってしまった戦争の結果は、予想よりも遥かに大規模な殺戮であった。そのため、第一次大戦後、もう二度と戦争を起こさない機構を造らねばならないということになって、国際連盟が作られた。

 この国際連盟を無力化する最も悪性な行為をしたのは日本であって、満州事変の発端となった柳条湖の事件を国際連盟の視察団が調査して、事実を事実として解明したことに、日本政府が反発して、国際連盟脱退によってこの連盟を崩壊させた。しかし、日本以外の国々も国際連盟の失敗を日本だけの責任に押し付けることはしないで、今度こそ失敗しない機構を作ろうとして、国際連合を作った。それも十分な成果を挙げるに至っていないし、国連に機能を十分発揮させないようにしたのがアメリカであることは周知の通りである。それでも、今のところ国連は解体はしていない。

 戦争反対の試みは失敗ばかり多いのだが、それでも、如何に反対すべきかを追い求める人は増えている。アメリカのウィルソン大統領は第一次大戦の時、アメリカの参戦を食い止めようと随分努力した末、ドイツの潜水艦の無差別攻撃の宣言のため参戦した。だが、彼は平和の原則を提示している。彼には戦争に反対するだけでなく、また戦争法規違反の取り締まりに留まらず、戦争違法化を試みるまでになった。ウィルソンがカルヴァンをどれだけ学んだかを私はまだ調べていないのだが、長老派の牧師の家に育ち、プリンストンの政治学の教授に迎えられた人であるから、かなり濃厚なカルヴィニズム環境にいたことは確かである。

 つまり、カルヴァンも戦争を法のもとに検討したのだが、彼の戦争認識が浅かった。さらに、当時の軍事技術は戦争の悪魔性を露わに示すほどになっていなかったから、正しい戦争があり得るという空想は当時は維持できた。

 しかし、今なら戦争の美化を許さないほど、人類の知識と叡知は進んでいる。人間の知識が進んで核兵器を生み出すに至ったのであるから、人間の知性の到達を尊重して、核抑止を肯定すべきか。それとも人間の知性が漸くにして獲得した線を固守すべきか、論ずるまでもないのではないか。

 その叡知は次のように表現されている。「我々は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。我々の耳に馴染んだ日本国憲法第九条である。

 ここで言われていることがカルヴァンの主張の発展だというのは、乱暴な議論であるが、真理に逆らったものではない。

終わり

 

 

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