2005.04.11.


日基神学校研修会


説教者として生きて来て

渡辺信夫


一たび捨てた命

 

 説教者としての召命を受けて以来56年、私は一筋にこの道を走って来たと思っている。牧師の忠誠の鑑(かがみ)として自分を示そうというのではない。戦争から生還した時、死ぬべきところを生かされたと感じていた。だから生かされた恵みに答えるだけの、一生懸命の生き方をしなければいけないと心に決めた。それとともに、まだよく分かっていなかったのだが、大きい間違いの共犯者になったという罪責感が疼いていた。日本によって侵略された国の人たちに対する加害責任については、事実を知らないながらも、残虐行為については何かあると感じていた。
 同時代の者が多く死んで、自分は生き残ったという立場の者には、複雑に屈折した感情がある。しかも、私の場合、キリスト者としての戦争罪責をどう考えるかという問題を自分で自分に突きつけざるを得なかった。
 今度こそは誤魔化しのないキリスト者にならなければ、生きて還らせられた意味がなくなる、と自分に言い聞かせていた。すなわち、戦争の中で真実に生きようと思っていたことは一応事実であるが、或る限度まで真面目であったとしても、その先は誤魔化しであった。だから、好い加減な理由付けをして戦争に出て行ったのである。戦争という己れも他の人も巻き込む悪魔的な仕掛けを、自分なりに理屈づけ出来たつもりであったが、実際に体験したのは、考えたのとは全然別の、禍々しい虚構であった。自分の物の考えが如何に甘く杜撰であったかを思い知らされた。
 だから、キリスト教の真理を明らかにするためには、如何なる手抜きも、好い加減さも許されないと考えて、自分のうちに隠れている好い加減さ曖昧さを摘発してくれる勉強をしようと模索していた。その転換をした後、何年かして説教者となる召しを受けた。説教者になって、生活はいろいろな面で変化したが、戦後に始めた人生の出直し、生きる道の模索は貫かねばならなかった。
 キリスト教の勉強をしていたので、あるミッション系の大学に勤めていた。そのうちに私の属していた教会が無牧になり、戦後の、牧師の絶対数の不足した時代であったから、私が教団の検定試験を受けて、教師の資格を得、教会を支えて貰いたいという強い要請があった。それでも、人間の意見によってこの務めを選ぶべきではない、ともともと考えていたので、人からの求めは理由にならない。主の召しであるかどうかが確かめられたので伝道者となった。そして大学教師の道は捨てた。捨てなくても良いように大学の教師たちが取り計らってくれたし、自分でも二つの道を同時に歩くことが出来ると思っていたが、丁度教団離脱の時期と重なっていたので、教団と関係あるところで神学を教えて禄をはむのは恥だと考えた。
 そのように、自ら志を立てて伝道者になったのでなく、むしろ自分ではその気がなかったのに、神によってこの場所に立つことを命じられ、全面的にそれに屈服したのである。だから、それ以来、この務めが嫌になったことや、他の務めに移ろうと迷ったことは一度もない。さらに、説教者の任務を定年まで勤め上げたなら、あとは好きなようにして余生を過ごそうという考えも浮かんだことはない。私の聞き取った召命には「定年」という条件がついていなかったからである。務めに居座って教会に迷惑を掛けてはならないのだが、生き長らえてこの務めを行なうことが出来ている限りは、肉体の衰えを何らかの形で補いつつ説教をして行こうと思っている。
 私は説教しか出来ない人間であることを恥ずかしいと思っていない。召されてこの務めにあることを光栄と意識しているからである。このように語ると、「お前は説教以外の事をやりすぎているではないか」と詰問する人がいるかも知れない。その人に対して私は開き直って、「説教者として召されているからこそ、これをしているのが、あなたに分からないのか」とたしなめたい。ただし、そういう反駁の議論を実際に行なったことはない。陰ではいろいろ言ったらしいが、面と向かって私を責める人はなかったからである。――この問題をこれだけで取り上げても十分有益な議論が出来るが、今日私に課せられている課題を外れてしまうから、これ以上は触れない。ただ、一言付け加えて置くが、直接説教職への召命と関係があるとは見えないことに手を出す場合、人に与える躓きには警戒し、それが召しであるとの確信と証しを失ってはならない。安易にサイドワークに手を出してはいけないのである。

 

ディアコニアの枠の中で

 

 私の受けた召しは御言葉を語れということであって、それ以上に幅広い務めを指定した召命ではなかった。だが、御言葉を宣べ伝えよ、とだけ命じられたパウロが「キリストのために何でもする」と言ったように、キリストの代理人を命じられて、指定された地域に立っている者は、必要があって、ほかに人のいない場合、「それは私の務めではない」と言って逃げるのでなく、そこに、臨時のものであるが、召しに関わる業があると覚悟しなければならない。そうでなければ、半死半生で道端で倒れている人に気付きながら、道の反対側を通って行った祭司と同じになってしまう。
 ここには、教会の「ディアコニア」の問題が関わっており、そこから論じ始めた方が議論を尽くすことが出来るが、このことも今日課せられた主題でないので、触れない。だが、説教という務めがディアコニアの大枠の一部であるという理解が欠けていると、大事なことを見失うと警告して置く。使徒たちは「御言葉へのディアコニアを差し置いて、貧しい人々の食卓のディアコニアをしてはならない」と言った。それまでは食卓のディアコニアも引き受けていたのである。貧しい寡婦が増えて、手が廻り切れなくなり、不公平が生じ、これはディアコニアそのものの障碍だと気付いたので、食卓のディアコニアのためには他の人を立てるべきだと提言したのである。
 一般論を言うならば、教会の務めは複数であって、謂わば専門化・分業化している。だから、自分に負わせられた職責に専念すべきである。しかし、一般論としても、緊急の場合には通常の規定を適宜越えて出なければならない。緊急であるにも拘わらず、職分外であると言って不作為を通そうとするのは、職務違反に問われる。だから、説教者は説教の事だけを学んでおれば良いとは言えない。説教以外のことをせざるを得なくなり、それに取り組むことによって、説教についてさらに深い認識を得たという経験があり得る。これは、あれもこれもやって見なさい、という意味で言うのではない。ディアコニアの真髄を掴みなさいということである。僕であるなら、主人の意向に従わなければならない。
 今日は召命をテーマとした講演ではないので、召命を強調しようとは思っていないし、それが如何なる意味を持つかについて説明したり、熱っぽく説得したりもしない。説教者が召命によって立っているということは当然の前提である。当然の前提であることに賛成できないなら、この先を真面目に聞くことは出来ないから、即刻退場して貰いたいと私の方からお願いしたい。

 

余芸でなく、全身を打ち込んで

 

 説教者としての召しに答えて生きるとは、一面では、この務めのために捨てるべきものを捨てることである。もっとも、何を捨てるべきかは一概には言えない。端的に言えば、一切を捨てる用意が出来ているということであるが、それを法則にしてはならない。具体的な決断については、その必要が生じる都度、御霊の導きがあると約束されているから、人間の理論を先立てても意味がない。
 もう一つの面で、召しに答える者は、この務めが最も良く機能するように、己れを整え、かつ鍛えて置くということがある。ところが、人間の性として、鍛えて置くべき領域を無意識のうちに狭め、自分と関わりのない領域に押しやってしまい勝ちである。そのために、あのエリコ街道の祭司のようなことになるのだと思う。
 その反対に、関心の領域を拡げ過ぎて、あれにもこれにも手を出し、話題は豊富で面白いが、召された召しのための修練へと焦点が絞り込まれていないケースもある。そういう人たちと事を構えようとは今日は思わないが、私はそれとは違った生き方を、少なくも戦後はズッとして来た。あれこれに手を出す人は、務めのための修練を積もうとは考えていないのではないか。好きなことを楽しんでいるだけではないか。結果として役に立つことはある。主がそれを役立てて下さったのであるが、いつもそうなる訳ではない。また、自由人には人に迷惑を掛けない限りは勝手なことも許されると思う。それでも、説教者は全くの自由人ではなく、キリストの奴隷として課せられたノルマは果たさなければならない。ただし、我々が召された者として心の思いまで規制されていると言うのは正しいとしても、そこまで考えないで、すきでやっていたことが主のために役に立つという場合はある。だから、務めのための勤勉さは大事であるが、全てをピシッと整えるというのとは違う。
 「修練」(エクササイズ)ということも精神主義的要素の濃厚な訓話になりやすい。今日は精神訓話をなるべくしないで置こうと考えているので、どういう修練をすべきか、どういうフィールドが訓練に有益かについて、精神訓話はしないで、神学的考察だけにしたい。その前にずっと考えさせられて来た一つのことを語って置きたい。

 

群れの牧者たる者

 

 主は、初めの時から世の終わりに至るまで、御自身の民を率いて歩まれる。聖書的比喩を用いるならば、羊飼いが群れの先頭に立って行くように歩まれる。この統率機能に仕えるために、全ての時代に、大牧者に奉仕する小牧者としての働き人が召されて立てられる。こういうふうに召された者の一人が私である。その私はどのようにしてこの務めを遂行するか。私は自分で良いと思われることを目標に一人で頑張るのでなく、至らぬところはあるが、徹頭徹尾主のご意向に仕えようと求めるのである。だから、当然、第一に主の御旨が何であるかを知らなければならない。それに尽きると言っても過言ではない。このことについては今日は省略する。皆さん銘々ここはシッカリ自分でいつも考えて貰いたい。
 余り論じられていないように思われる二つのことを語りたい。一つは、主と主の民とに仕える務めを、ともに担う人たちとの「共同の学び」としてする必要また義務ということである。主に仕えるための学びは、一人で成績を上げる学習ではなく、ともに学ぶ学びである。神学校在学中は勉強をするけれども、卒業後学びを続けない人がいるが、それは共に学ぶ仲間を持たないからであろう。私自身はそういう仲間を持ち得たから、この歳になっても学び続けることが出来る。
 学ぶということについて、それを学校で学ぶことに狭め過ぎて考える人が若い人のうちに多いように私は感じる。彼らにとっては人生の経験が乏しいのだから、学びを学校にいるうちに限るのは無理もない。しかし、長く生きて来た人が、学校が終わったところで本当の学びが始まると言うのであるから、この言葉には信憑性があると考えてもらいたい。
 教職同士の交わりの実質の大半は、御言葉の学びの共同研鑽である。中会が本来そのためにあることは歴史を学んだ人には分かっているはずである。残念ながら実情はそうでない場合が多い。だから、教会的秩序としての共同研鑽でなく、同志的結合になるのはやむを得ない。ともに学ぶ相手は必ずしも近距離在住者でなくても良い。牧師というのは優雅な閑職でなく、ある意味で苛酷な仕事であるから、出会った時に慰め合う必要はある。だが、その慰めはリラックスした談話でなくて良い。リラックスはプライヴェートな領域で行なうべきで、務めについている者は、実際的なことと若干の距離を保つが、本質的には務めに関わる学びによってリフレッシュされる。この学び方を身に着けて置かないと、息が切れて務めを持続することが出来ない。

 

神の民の初めと終わり

 

 第二の項に進む。共に学ぶ学びとして、今は同時代人間の共同作業という面を見たが、主の民は過去から将来まで続いている生命体であるから、それらの人たちとの共同ということも考えざるを得ない。この繋がりを覚えることが第二に言いたいことである。勿論、過去の人も将来の人も現存しない。いない者をいるかのように仮想するのは偽りである、だから、その人たちと共に学ぶということは、同時代人と共に学ぶ学び方とは全然違う。
 しかし、例えば、我々が来たるべき時代に、不毛な荒廃しか遺産として残さなかったとする。そうすると我々は、死後ではあるが、あたかも生きているかのように、責任を追及されるのであって、時の隔たりは責任を不問にするものではない。この関係は「共同」という言葉では言い表さないのが普通である。将来を見る目を養って、将来から現在に照り返すものを受け取る目を養えば、将来と或る意味で対話する共同の関係になる。将来から現在を見返す目が欠けているという反省が、今日いろいろの学問の研究者たちの間に広がっているが、教会に関しては最も真剣でなければならないのではないか。私自身、今になって気付いていることだが、将来についてこそ共同作業としての洞察が有効だったのではないか。
 もっと大きい場所を占める学び は、過去からの学びである。将来からの学びには期待通りに行かないというリスクがあるが、過去から学び取る時はすでに実績があるから、学びになるかどうかを判定することが出来る。その選択は難しいという人がいるかも知れぬが、学びの志向を持つ人ならば直観的に分かるのではないか。分からなければ人に聞けば良い。
 私は神学研究を一生の仕事して考えるようになる前から、したがってそれは戦前に遡ることになるが、教会というものに「こだわり」の感情、あるいは敵意のような複雑な感情を持っていた。信仰さえハッキリしていないのに、教会を考えるということがあろうか、と疑う人もあろう。この辺りの事情について今日は詳しい話しはしないが、私の両親は牧師のいない田舎の町で、クリスチャンが人家族しかいない教会を支えていた。親が子供を犠牲にして教会に身を入れ過ぎ、しかも、その教会は子供の目で見ても随分好い加減なのである。チャンとした教会なら、教会の自己規律ということを考えるはずであるが、その教会に自覚がなかった。人は来ても崩れて行く。
 だから、教会のあらゆることに躓いた。教会に躓いていながら、それでも、教会はこういうものではないはずだ、という思いがあった。端折った話しになるが、大人の信者になって教会に仕えるようになると、モヤモヤした情念でなく、教会についての明晰で堅固な把握をしなければならない。その時、私はその段階でもまだよく分かっていたとは言えないながら、歴史的存在として、あるいは歴史的生命体としての教会を考えるようになっていた。こういう考え方を教えてくれた人はいなかったのであるが、小さい時から身に付いた感覚と言うか、蓄積された怨念が結晶してこうなったと言うか、――過去の教会との繋がりの中で現在の自分の信仰が生かされているという意識を持つようになっていた。
 だから、説教者が使命を帯びて教会を建て上げ、シッカリ建て上げられたその教会が歴史を築いて行くという一面もあるが、むしろ歴史の営みの中で教会が生み育てられて行き、その教会の中で私が形成される、という方に重点を置く捉え方になる。
 そういうわけで、説教者は、昔から続いている教会の歴史と精神的遺産を受け継いで身に着ける、と言うよりは体に刻み付けて、説教をしなければならないのだ、と召しを受けた初めの時にはすでに漠然と考えていた。その漠然とした想念は経験を重ねるにつれていよいよ確固たるものとなっている。身に着けるとか、体に刻むという表現では情緒的になって、神学的に考える支障になるかも知れぬが、頭の先で問題を処理することになってはもっと困った結果になるので、仮にこういう言い方をした。
 その後、教会論について模索し、模索がやがて思索となり、その思索を練り上げ、自分なりの教会論を纏めるに至った。その時には、もう怨念などというものは掃き潔められていたが、教会をますます歴史的存在、歴史の中を生きているものとして捉えるようになった。その歴史は、使徒行伝2章に遡るのでなく、もっと前、創世記12章、アブラハムが召しを受けたところまで遡らなければ把握出来ないものと考えるようになった。――それ以上に遡らなかったのは、遡らなくても許されると思うからである。そこまでは地続きの平面をドンドン奥まで行けば良いのだが、そこから先は謂わば秘境であって、踏み込むことを許されないとは思わないが、歴史として把握することは極度に難しい。伝えられたままを受け入れるだけである。それにしても、説教者として身に着けなければならない歴史は随分奥深い。
 この間の時代は神の民の時代であるが、それは聖書時代と聖書が出来上がって以後のキリスト教会の時代に分けられる。神の民が時間の中を生きているという点では連続性があるが、キリストが完成したもうたという点では、そこで断絶した。我々は聖書を書き続けることは出来ない。 

 

 務めのために歴史を知る

 

 戦争から帰って来て、自分のキリスト教理解の欠陥がどこにあったのだろうかと頻りに考えた。信仰そのものの欠陥は簡単に論じるべきではないが、明らかな欠陥として気付いたのは「無知」であった。自分は知らないのだということを知るのが知識のはじまりである、という位のことは知っていたが、それで賢くなっていたわけではない。つまり、物を考える土台としての知識量がないのに、知識というよりは知識の断片でしかないものを弄んで、それで思索だと思っていた。そのことに気付いたので、実質的な知識を多くを獲得することに相当力を入れた。主に書物によって吸収した。ただし、知ったことを人に語るのは控え目にしていた。知識をひけらかすことは人のためにも自分のためにも良くないからである。学んだ知識を説教の中に全部織り込んで語らなければならないと考えている説教者が多いようだが、間違っている。
 多く語れば、聞く人は説教者の博学振りに感心してくれるかもしれない。しかし、必要以上に語るとマイナスになる場合もある。学識があって、その学識を見せびらかさないで置くと、その蓄積は学識以上のものになって、持ち主の品位となる。
 知識量が要求されていることは、説教者になっていよいよ感じるようになった。その知識は、人に聞かせるためではなく、自分を養うためである。説教者は聖書の歴史について博学にならなければならないということはないと思う。その語ることが神の民の紡いで来た歴史のリアリティーを感じさせ、歴史の厚みを実感させてくれれば良いが、それだけの学識の修得は簡単でない。物知りではあるが歴史のリアリティーの感じられない話しは聞いてもらえない。
 さて、そのような膨大で奥深い学びは、凡才である自分には到底出来ない、というふうには私は考えたくなかった。召したもうた方は真実であられるから、召しを果たすに必要な賜物をも与えてくださるに違いないと信じた。私にとっては説教者たるべき召命は、そのような確信を伴うものであるから、その召命意識に基づいて、召命を全うするために、かなり沢山の学びをしたと思う。相当な苦労をしたことも事実である。が、戦争から生きて帰ったからには、苦労を厭ってはならないし、生かされたことに見合うだけの深みある学びをしなければ申し訳ないという気持ちがあった。だから、才能の足りないところは努力で補った。
 ただし、知識、情報として多くの量を摂取することは非常に困難な場合がある。その場合、出来なくても無理をして、しなければならない、というのとは違うと私は考えた。それは、出来ないところは手抜きしても良いという意味ではない。凡人の努力の範囲内で出来る容易な形で行なう道が与えられているという意味である。例えば、モーセはカナンの地に入ることは許されなかったけれども、代わりにピスガの頂きから約束の地の全体を俯瞰することが許された。そのように、容易な手段に置き換えることは許されるのではないか。では私はどうすれば良いか。神の民の歴史をつぶさに調べ上げる代わりに、断片を拾って行く。断片と断片の間は埋める知識がないから、想像あるいは予感で埋めて繋げるのである。
 過去については、過去それ自体を体験することは出来ず、残っている言葉、あるいは遺物、ないしはそれについて語られた言葉、それを書いた書物、あるいはその断片を見て、全体を想像力によって構想し、それで過去の現実を知ったと看倣すだけである。過去がどんなに精密に復原されたとしても、過去そのものとは全然別である。そういう限界を承知した上で、我々は歴史を学んでいる。それは事実と言うよりは事実の代用物であるが、それによって、謂わば細い水道によって外海と繋がっているように、かろうじて現在は過去との繋がりを保つのである。こういうものは歴史研究の専門家でない人でも、意識的でないかも知れないが、人間としての「知恵」また「共感」として身に着けているはずである。説教者においてはこれがもう少し意識的に学ばれているのだと思う。この意識と共感が乏しいと、聖書のあるくだりを解き明かしても、内容の乏しいものになる。
 説教を語るということは、聖書を語ることではあるが、聖書の歴史を今に引き寄せて実感させるということとは違うと思う。過去を語るのではなく、神の民の歴史を新しく書き加えて行く現在の行為である。説教者に歴史感覚が必要なのは、聖書の一齣があたかも目の前に見えるかのように上手に語って聞かせるため、というふうに受け取ってはならない。説教とは神がかつて語りたもうたということを聞かせるのでなく、説教そのものが、今神が語りたもうことそのものである。そのことが成立するのは、召命によってである。

 

 説教のための修練

 

 説教に関しては、一つの告白共同体の中では、方法論と形式とが安定していなければならないと思う。日本キリスト教会は告白共同体であるから、説教の型が同一でなければならないと私は思う。しかし、実状は違い過ぎる。これは大問題である。必ずしも一定の型に嵌まらなくても、聖書的メッセージは伝わると言えるし、その実例を挙げることも困難ではない。しかし、型がある程度揃っていることは、信仰告白による一致を目指す教派としては必要であろう。
 すでに宗教改革は説教の一定の型を打ち出した。すなわち、聖書講解説教という型である。そのことの根拠となる告白的条項も確定されている。すなわち、聖書は神の言葉であり、聖書の言葉を正しく説き明かさなければならない。そして、神の言葉を正しく解き明かす説教は神の言葉であるという、第二スイス信仰告白の命題を確定したのである。
 この原則を守るために説教者が各自励むことが必要であり、その努力が欠けるならば、説教はどこかの人間の見解を伝えるだけのオハナシになり、神の言葉ではなく、したがって救いを来たらせることは出来なくなる。そのような危機が今日世界を覆うに至った。我々の身近なところでも、不一致がある。
 宗教改革の打ち出した型による説教の実例は、今では日本語訳でも読むことが出来るほど普及した。しかし、それに従って実際に行なわれている説教は数少ない。主たる原因は説教者の力不足、あるいは力の出し惜しみ、またそれの原因としての召命の把握の不足、修練の不足である。あるいは、もっと深刻な問題であるが、説教者として本当には召されていない者が、召されたと思い込んでおり、そう思い込んでいるゆえに、自己検討も修練もなく、職業的にこなしているだけだからかも知れない。
 もう一方の理由は、聴衆の側に聴く力が不足しており、また現代日本語の品位とキャパシティーの低下、したがって説教に用いられた言語が、伝えるべき内容を伝え切れていないことである。言葉については改善の努力の余地があると信じるが、言語の変容については受け入れるほかない面もあると思う。
 我々の踏襲する説教の型は連続講解説教であると私は説教者としての召しを受ける前から、理由もよく分からぬままに考えていた。戦前、すでにカルヴァンの説教の日本語訳は出版されていた。それを読んで十分には分からなかったところがあるが、新鮮な迫力を感じた。だから、自分が説教をすることになった時、迷わずその型を守ることにした。その頃、連続講解説教をしている説教者は少なかったので、聞き慣れていないというだけの理由でこれを敬遠する人は多かった。私は御言葉そのものが語られたならば、人間の語り口は稚拙であっても、御言葉そのものが生きた力を発揮すると確信してこの型を通した。聞き慣れていない人にもこの型で語ることを止めなかった。「羊は羊飼いの声を知っている」と主イエスは言われたが、神の民は神の言葉が語られる時喜んで聞くという経験を積むことが出来た。
 聖書のテキストが与えられているのであるから、そこに含まれるメッセージを誤りなく伝えさえすれば良い。語る者にとっては、平易と言えば平易である。非凡な才能に恵まれている者でなくても、この務めを担うことが出来るようにされたのである。
 語るためには、先ずそれを把握し、悟り、そこから聞き取られる命と力を聞きとっていなければならない。自分で良く分かっていないことを語ると、聞く人には難しいと感じられるのである。語る人が十分良く分かって語ると、聞いた人は分かる。そうなるためには聖書の勉強、聖書釈義の勉強をしなければならない。この勉強が足りないと、説教の聴衆によく伝わらない。だから、説教者は勉強する。勉強すればするほど話しが難しくなると言われることがある。それで怯えて、聖書の勉強をしなくなった説教者もいる。それでどうするかと言うと、「分からない」と言わせない平凡なことだけ語っておく。なるほど、分からないとは言えない。が、その程度なら、語らなくても分かるのであって、聞き手は初めのうち辛抱して聞いてくれるかも知れないが、やがて辛抱が出来なくなる。
 もう一つ、語るべく託されたのは御言葉であり、それを伝えるとは御言葉を聞いた感動を伝えるのでなく、御言葉の中味である。それは教理と呼んで良い。だから、教理の研究は絶えず続けなければならない。教理についても、良く分かって教えなければならないのは言うまでもない。
 説教は神の言葉を神の民に伝える器官である。それが苦渋に満ちたものとして伝えられるはずはない。けれども、実際には喜ばしいメッセージとしては響かないことがある。若い説教者は駄目だと言わんばかりの批判を聞くことは昔もあった。私も若い時はそう言われた。私は気にしなかった。年とった説教者の説教が福音を伝えていない場合が多いことを私は感じていた。
 老練な説教者は経験を積んでいるから、説教が聞きやすいものになっているということはあるかも知れない。しかし、神の言葉を求めている人は、説教者の若さゆえの多少の聞き難さを何とも思っていないはずである。だから、若い説教者も怖じ気付かずに、自分が神に立てられて御言葉を語っているとの確信をもって語るべきである。

 

 説教者の学び

 

 釈義についてはもっと語ることがあるが、今日はそれを語るだけの時間がない。釈義は出来るだけ厳密にやって貰いたい。若いうちに多くの良質の註解書を読むことを勧めたい。今日は釈義の先について語る。釈義としては相当に勉強したらしいが、釈義の試験の解答としては立派であるとしても、説き明かしが聞く人に良く伝わらないことがある。
 この問題は真剣に取り組んだならば、必ず克服できる。しかし、今日は精神主義は余り持ち込まない方針を貫きたい。精神主義的に一生懸命に語ると、悟性によっては分からなくても精神主義的に分かってしまうということがある。それも、一種の分かり方である。そして、人が「分かった」と言う時、なにがしか「分かったと感じる」という感覚が入っている。それをいけないと言うべきではない。
 しかし、悟性によって分かる部分が増えて行くように導かなければならない。この点をシッカリ押さえて置かないと、戦いに耐えられない。
 そのためにはどうするか。キチンとした言葉で語り掛ける必要がある。キチンとした語り掛けでなくても、人と人との間には通じ合う要素があって、分かり合うのである。だから、不便を感じない。このことでは気難しいことを言わないで分かり合うことが大事だと見るべきかも知れない。しかし、他の人に対しては言葉について難しく要求すべきでないとしても、説教者ならば、自分では本当に分かった言葉を使って語るように自分を訓練しなければならない。
 七面倒なことを言う、と感じる人がいるだろう。このことは今日はここで留めて置くが、これからの困難な時代に教会が生き残って戦い続けるためには、言葉を磨かなければならない、と私が言い残したことを覚えていて貰えれば幸いである。
 説教者は御言葉を伝える道具、スピーカーであると譬えることが出来る。スピーカーならば音量が十分なければならない。音質も良くなければならない。良い音質のためには、そのスピーカーの本体が良質の共鳴をするかどうかが重要である。我々が口で語る御言葉が電気振動を音響にしたものだとすれば、良質の共鳴は我々の日常生活に当たるのではないか。
 我々自身が良質の共鳴板になるためにはどうすべきか。私自身の生活が御言葉によって振動していなくてはならない。平たく言うならば、自分の語る説教によって自分自身が悔い改めを促され、信仰の確信が固くなるならば、それを聞く会衆も悔い改めと信仰において成長するのである。

 

 よく響く共鳴箱になって

 

 説教者の修練としてどういうことがあるか。このことについては公けに発表した文章があるから、付け加えることも変更もない。ただ、これまで語らなかったことがあるので、それは語って置きたい。
 ありのままを言うならば、年とって体力も知力も精神力も大幅に衰えた今の私には、昔できたことが出来なくなっている。だから、手を抜くというのではない。昔以上に努力しないと課せられたことを果たし得なくなっている。
 それでも何とか働いているのは、新規に修得することが少しであっても、若いうちに身に着けておいた蓄積が役だっているからである。ここで今日は話さないことにしていた教訓的なことを多少は語らなければならない。年を取ると、脳細胞が減って行き、若い頃ほどには学びが出来なくなるし、作業に時間が掛かる。老人になってもなお成長出来るのだと励ましてくれる人はいるが、その人の善意は尊重するとしても、気休めみ過ぎないという気がする。
 私は老いの生き方の手ほどきをしようというのではない。今の時、懸命に走って置かなければいけない、ということだけを言いたい。今蓄積して置くべきは、将来役に立たなくなるような流行の情報でなく、長く人の役に立つ知識である。どういうものが役に立つ知識であるかについては語る必要はない。
 皆さんの中には80歳を過ぎても説教をするのは異常なことで、自分はそんなことはしたくないから、そのような年寄りの話は聞かないと思っている人もいるに違いない。それは正解かも知れない。
 異常事態が始まっている。だからこそ、とっくに消え失せて良い老人が、消え去ることが出来なくて、説教し続けている。説教の翌日、講演を二つもする。全く異常事態だ。この異常事態が短期間で終わることを望む。しかし、慢性化しているのではないか。説教者の数はもっと減るであろう。少ない数の説教者が働き続けなければ間に合わない時代が来ていると思わないわけに行かない。

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