2006.05.03.
憲法記念日記念講演・戦争責任と平和憲法
烏山九条の会・憲法集会
渡辺信夫
私は戦争を経験した者として、戦争で学んだことを将来に伝えなければならない責任を感じて、以前から戦争のことを公の場で語って来た。近年、戦争の生き残りが次々に世を去られ、また語るだけの体力をなくされた人も多く、しかも戦争のことをまるで知らない人が幅を利かせるようになっているので、いよいよセカされる感じで語っている。今日もその責任を感じて語るのであるが、先ず自己紹介を兼ねて、個人的な戦争経験のアウトラインを述べる。私の戦歴は短いのである。
1943年12月、学徒出陣で海軍に入り、予備学生として訓練を受け、44年12月25日海軍少尉になって、沖縄の第三海上護衛隊司令部に向かった。着任3日後から海防艦に乗組んで船団護衛に従事した。軍艦に乗ると士官としては一応全ての仕事をこなさねばならないが、特に課せられた任務は電測兵器の扱いと電測兵の訓練である。今言った中に今日では説明なしでは通じない言葉が沢山ある。解説の必要な方は後ほど質問して頂きたい。
生死の狭間を行く経験をしたのは45年1月から8月までである。正味はもっと短く、1月から4月の終わりまでだ。以後は護衛すべき輸送船もなくなって、九州北岸に機雷を敷設する敷設艦の護衛という仕事をした。それは船団護衛と比べ物にならないノンビリした任務であった。勿論、その期間に本土の焦土化が進んでいた。海軍でも陸上部隊は空襲に備える穴掘り作業で大変だった。軍艦は仕事がなかったが、艦船の乗組員を穴掘り要員に廻す訳にも行かなかった。
短い間に、戦争の苛烈さは十分味わった。3月の終わりに米軍の沖縄上陸作戦が始まるとの予想があったので、3月は非常に忙しく、しかも、出て行く船、出て行く船、船団ごと海没した。人員の殆んどは失われるし、輸送船に積んだ物資も全部喪われる。膨大な喪失経験である。今度こそ生きて帰れないと覚悟を決める日々が続く。覚悟の厳しさから言えば、特攻隊と同列であったと思う。日本では余り論じられないが、こういうことに関わった者にはトラウマが残る。戦争の後にはそのトラウマとの戦いがあった。だから、自分が生かされた意味は何か、生き残った使命は何か、それを61年考え続けている。
では、戦争の最も苛烈な現実を経験したということか。そう思っていた。が、そうでなかったことを復員して来る道で悟らせられる。――当時、私の家は大阪府の高槻にあって、佐世保軍港にいた海防艦から帰って来た。門司行きの汽車で佐世保を出、京都行きの復員列車に乗り換えたのは深夜、翌朝、広島に差し掛かる。原爆の被害はもう秘密ではなくなり、新聞で読んでいた。しかし、こんなに酷いとは思っていなかった。広島の焼け跡を見て、言葉を失った。
五日市の辺りまで来れば広島の惨憺たる模様は一望のもとに見渡せる。汽車はノロノロと走る。これでもか、これでもか、と言わんばかりに惨状を見せ付けられる。
戦争の悲惨さは十分見てきたつもりであった。何千人もの兵士の屍骸が海面に漂っているのであるから、悲惨というほかない。それを見て来た以上、戦争すべきでないと言い続けなければならないという考えは固まっていた。しかし、広島を見ないうちは、戦争の悲惨を語れないと悟った。その朝から、戦争について語るからには、もっと戦争の実態を知らなければならないという考えに変わった。
それまで、戦争の悲惨は部分的にしか捉えていなかった。戦争のさまざまの場面を見たことは見たのだが、一艦全員無事に帰って来た。遭難者を救助して、人工呼吸を懸命に施したが、やがて死んだという経験はあるが、戦友と引き裂かれる辛さはなかった。艦はあちこち傷んだが、航海には支障なかった。幸運な場面を渡り歩いたと言われるであろう。したがって、まだ見ていない陰惨な面があるから、戦争の辛さを見て来たとは言えないかも知れない。
戦争について私の直接の知識は断片に過ぎなかったので、戦後、知識を補って行くうちに、戦争がどんなに残酷な人間破壊であるかがいよいよ胸に刻まれた。頭の中で戦争反対を考えるのは簡単だが、それだけでは弱い。戦争の実態についての私の把握はまだ浅いという思いが残ったので、ズッと戦争を問い続けるようにして来た。
私は戦争研究の専門家ではないし、自分が実際に経験した局面以外の戦争については、書くことも語ることもしない。しかし、戦争については広範囲にキチンと知らなければ相済まないと感じて、かなり調べた。私よりもっと辛い経験をした人が多いのだから、それを知らなければ申し訳ないのである。戦争が如何に大規模な悲惨事であるかをシッカリ捉えるためには、自分の経験を超えた所まで枠を拡げて、出来るだけ多くの事実を知っていなければならない。
「それは戦争経験こだわり過ぎだ」と言われるかも知れない。が、こだわって何が悪いか。こだわるだけの理由があるではないかと私は思っている。戦争を忘れないで、戦争経験を風化させないことは私の義務なのである。
私は1923年生まれであるから、物心ついた頃から日本の戦争と同時進行の形で成長して来た。したがって、私の考え方・感じ方には、長期間に亘って戦争が刷り込まれている。だから、刷り込まれたものを一つ一つチェックして行かねばならない。そうしないと軍国主義ノスタルジアに足を掬われるかも知れない。また、刷り込まれたのは戦争宣伝だけではなく、反戦の思想の材料となるものもあったはずだ。それを思い起こして確かな記憶にしなければならない。
さらにもう一つ、戦争にこだわらずにおられないもっと大きい理由が私にはある。それは自分を告発しなければならないという事情である。この事情についてはお分かりにならない方もあろう。が、分からなくても聞いて貰いたい。
私はクリスチャンの家庭に生まれ、クリスチャンとして育てられ、紆余曲折はあったものの、自ら納得して、自覚的なクリスチャンとして生きようとしていた。クリスチャンとして生きることは、生易しくない時代であったが、安易に生きるために信仰を捨てるのは卑劣なことであると思い、この意識をとにもかくにも貫いた。例えば、軍隊の中で、自分がキリスト教を信じていることを隠さなかった。ただし、クリスチャンであることによって非常な不利を蒙らねばならないという事件はなかった。海軍ではそれが出来た。海軍の方が開けていたということはあるが、陸軍でも基本的には同じであった。
実際にキリスト教迫害があったではないか、と実例を持ち出されることがある。その実例は真実だと思い、お気の毒でしたと言うほかない。しかし、それと逆な実例も語らねばならない。――これは戦前の日本社会の階層の構成と関係ある問題で、軍隊もクリスチャンを比較的多く含む階層を受け入れなければ、近代的軍隊として成り立たなかったという事情である。
見方を換えて言えば、天皇の軍隊は、クリスチャンがいてもいなくても、天皇の軍隊としての存立に影響がないと見ていたということである。本当にそうだったのか、という問題は残るが、それに触れないでおく。
私として触れないでおられないのは、キリスト教の側に、こういう体制への迎合というか、適応というか、順応というか、そういう姿勢があって、その姿勢についての自己検討が随分甘かったという事実である。その問題に目を開くキッカケが戦地を実際に経験する最初の朝に起こった。
1945年の1月、私は沖縄に向かったが、その頃はまだ「戦地」と「内地」の区別が私の意識の中にはあった。手っ取り早く言えば、内地勤務から戦地勤務に替わると、給料が倍になる。乗っている船が日本の領海を離れると、戦地なのである。実際、そこでは、何時死んでもおかしくない危険がある。その時点で日本海軍はすでに制空権も制海権も失いかけていた。守って貰えない所に出て行くのである。
沖縄に行く最も早い手段は鹿屋航空隊まで行って、南方行き定期便に乗ることである。私もそのコースを予約した。しかし、毎朝、予約した輸送機まで行って乗り込むが、どこかで空襲警報が出ると、その日の便はキャンセルになる。こういうことが1週間も続いた。飛行便を諦めて船便にした方が結局早いではないかと考えて、鹿児島に出てみると、今夜出航する沖縄行きの船団がある。その護衛艦の一つ怒和島という敷設艇に便乗を頼んだ。敷設艇というのは機雷を敷設するための船であったが、船団護衛に転用されたので、機雷の代りに爆雷を一杯積んでおり、便乗者は爆雷の上で寝起きさせられた。
その頃、沖縄行きの輸送船団は夜の12時に錨を上げて、日の出前に鹿児島湾口を抜け出るようにしていた。爆雷庫の生活は感じの好いものではなかったので、私は湾口を出たことが揺れの変化で分かったから、景色を観に甲板に出た。初めて経験する爽やかな南海の朝の景色であった。
佐多の岬はすでに後方に去ろうとしていた。これが日本内地の見納めであろう、という感傷もあったが、何よりも感銘を受けたのは山と海の美しさであった。海水が綺麗なのである。波が砕けて水玉になり、朝日をキラキラと照り映えさせる。それを眺めながら、私が死ぬのはこういう美しい自然の中においてなのか、と考えた時にゾーッとした。死が恐ろしかったのではない。死の恐れを感じ取るほどには人間が成熟していなかったと言うべきであろう。私はむしろ、この美しい自然の中で、私もその一人である一団の人間が、死んで行く様を誰からも知られずに、ムザムザと殺されて行く、哀れさと言っても旨く言い当てたことにならないその「虚しさ」を感じてゾーッとした。それから直ぐに考えたのは、沈没の通報とともに、海軍省のデスクの上で「渡辺少尉は何月何日、南方洋上において壮烈な戦死を遂げた」という作文が書かれるであろうということであった。
壮烈でも何でもない。祖国のための犠牲という意味づけも出来ない。すなわち、私がそこで死んでも、日本のためには全然ならない。誰かを助けるための身代わりでもない。それを「お国のため」と意味づけるのは、間違った戦争を始めた者の責任を隠すための誤魔化しに過ぎないではないか。
死の虚しさを、虚しい言葉で美化するというさらに大きい嘘、その虚しさに気がついた。国が戦争を始めて、自国民も他国民も殺し、自国民については「お国のため」と意義付ける。戦死者が戦争宣伝に利用できる場合は再利用される。そういう虚しいことを何とも思わずやってのける不真実に思い至った。その虚しさを助けるピエロの役割を私はこれまで演じていた。
と同時に、私自身、自分が戦争で死ぬことについて、深く考えることを抜きにして、国のために犠牲になって死ぬことの意義付けをしていた、その考えの好い加減さにも気がついた。しかも私は意味のない死に意味づけすることを、大真面目に、積極的にして来た。その愚かさに気付いて恥ずかしくなった。
幼い日からクリスチャンとして生きて来たという話しはした。クリスチャンだから、神のため、また人のために尽くさなければならない。人の嫌がることでも、喜んで犠牲にならなければならない。今日のクリスチャンにはこのような気風は余り濃厚でないように思われるが、昔はかなりハッキリしていた。
戦争に引っ張り出されることを多くの人は嫌がる。しかし、政府と軍部の宣伝があって、戦争に行くことが名誉だという建前が強くなると、本音はなかなか言い出せない。しかし、本心からそう思う人は殆んどいない。学生たちが徴兵猶予の特権を取り上げられて兵役に服する。これは多くの学生にとって全く不本意である。同じ気持ちを持つ者らが集まるところだから、休憩時間になるとその不満がボンボン出る。その鬱憤晴らしでストレス解消になって、元気がまた出て来るのが分かっているから、不満を言うな、と仲間をたしなめるような堅苦しい人は先ずいない。
私もそういう時には一緒に笑っていたのだが、真面目人間であった。本音を言う人を咎めはしないが、自分では不満は言うまいと心掛けた。したがって、国家の方針にもっとも忠実な臣民になっていた。そのことが問題だと気付いたのは、この朝である。国家の言いなりになって自分の犠牲の意味づけをしていたのである。
それでは、この日から戦争についてキチンと考えるようになったのか。そうではなかった。その年の8月15日になるまで、私は戦争の虚しさについて考えることを凍結させねばならなかった。「妥協ではないか」と言われるかも知れない。その批判は甘んじて受けるが、私が勤務を放擲して、自分の考えに耽り、守っているべき一角が空白になり、それで一艦全滅ということになれば、死んだ人とその家族に申し開きの出来ない責任になったではないかと思っている。
私が乗った海防艦は危ない目には逢ったが、一人も死なないで帰って来た。それは全艦一致して見張っていたからだと思う。潜水艦の発射した魚雷は、空気の泡の列をしたがえながら突進して来る。この白い線は暗夜でも見える。この航跡を、命中の1分前に発見すれば、海防艦なら方向を変えることが出来る。実際、我々はそういうことを何度かやって生き延びた。物を考えるゆとりはなかった。そういう経験があったから、私は考うべきことは棚上げして、宛がわれた任務は手を抜かずに果たそうとして来た。
それは結局、現実を受け入れる口実ではないかと言われる。私はそう言われる批判を甘んじて受け入れる。弁明はしない。弁明しないで、あの時に出来なかったことを後から取り戻そうと懸命に考え、また努力した。その努力を誇るつもりは毛頭ない。それどころか、やってもやっても取り戻せなかった喪失感が大きい、と述懐せずにおられない。だから、我々の世代の者が取り返せなかったことを、次の世代、あるいは次の次の世代の人たちが取り戻して欲しいのである。
さて、戦争が終わった時、まだ「戦争責任」という用語は、戦争裁判との関連以外には、思想的な言葉としては余り広がっていなかった。数年して或る哲学者が「懺悔道としての哲学」という本を書いた。戦争に行く前、私はこの哲学者の物をよく読んだ。私が戦争に嵌まり込んで行ったのは、一つはこの哲学者の影響だと思う。彼が懺悔道ということを言い出した気持ちはよく分かる。しかし、戦後、私は人の言葉に随いて行くことをしなくなった。自分の言葉で考えるほかないと思うようになった。
「戦争責任」ということを自分の脳味噌を絞って考えた。軍人の中に責任を感じて割腹自殺をした人が少数いる。その人は潔癖な人だと思うが、敗戦の責任や天皇に対する責任を感じる点では私と感覚が全然違う。
私の戦争経験は、多くの人の死を見た。そして自分は死なないで生かされた。だから、生かされた責任がある、という点に中軸を置いて捉えられたものである。他の人がそれぞれに捉える戦争責任に異論を言うことは余りないが、自分の戦争責任は自分で捉え、自分で掘り下げるほかない。
他の人の戦争責任を考えない訳ではないが、それを追及することには熱心になれなかった。ただ、客観的に明らかである人の戦争責任を不問にしようとする試みには、反対せざるを得ない。だから、昭和天皇の戦争責任という問題には無関心ではなかった。追及すべきだ、という考えはある。ただし、私が先頭に立って天皇の戦争責任を追及しようと考えたことはない。自分の責任を明らかにする方が先決ではないか、という考えであった。私が私自身の戦争責任の問題を掘り下げて行く。私が本当に深く自分の戦争責任を掘り下げたなら、自分の足下に大きい穴を穿つことによって、相手の足下を脅かし、己れの戦争責任を考えるまいとしている人の立場は崩壊せざるを得ないであろう。
私自身の戦争責任は、上に述べたところで明らかにしたように、クリスチャンである私の責任の追及を中心としたものであり、それはキリスト教の責任追及でもある。これを生涯かけてやって来た。ただし、キリスト教の組織の代表だった人の責任追及ではない。私はその任に堪えない。私は戦争の中で踊らされた被害者だと言うことは出来る。しかし、下級将校とはいえ、号令を掛けた人間である。掛けられた人に対しては明らかに加害者責任を負わねばならない。だから、自分としては被害については語らず、加害者側に立ったことだけを問題にして来た。
そういう訳で、キリスト教の責任についても、よそごとのように客観的に論じるのでなく、自分自身を俎板に載せるようにして論じて来た。
これから言うことは私もその一員であるグループの共通の考えであるが、日本のキリスト教はキリスト教本来の歩みから逸れたということに主軸を定めて、20年余り共同研究として、1930年代以降の日本のキリスト教を検討している。
この着眼は間違っていない。しかし、これだけでは足りないのではないか、という疑問がやがて持ち上がって来た。キリスト教は、日本に入って来た時にすでにおかしくなっていたというところまで捉えて置かなければ、問題を十分に理解出来ないのではないか、というところまで我々は行きついた。
それはどういうことか。今は簡単な説明で済ませることを許して頂きたいのであるが、キリスト教国の多くが植民地を持つ国になり、植民地支配はより高度な文明に民衆を与らせるのだから良い制度だと考える考えが、欧米のキリスト教で支配的になった。日本のキリスト教はそういうキリスト教の輸入であった。欧米のキリスト教で悪いと思われていないことは、日本のキリスト教でも悪いと思わなかった。
もう一つ、奴隷制度を容認する考えが制度としてはなくなったが、精神の中には清算しきれずに残っている。これは、人種差別、階級差別、少数者差別という形でアメリカのキリスト教にはまだ根が残っている。日本社会にも強固な因習として残っているのでアメリカを批判する資格はないが、これを払拭する機能をキリスト教は果たし得なかった。
植民地主義についてだけ論じるが、今日の日本で、植民地主義は悪であると考える人は圧倒的に多い。しかし、日本が植民地主義の最悪の実例だと承知する人は非常に少ない。どうして植民地主義についての自己検証が日本人には足りないのか。――私の考えを言うならば、日本で最も良心的な人が帝国大学で植民政策を教えていたからである。その人は戦争中、東大から追放されたから、平和を守った殉難者と見られている。確かに、日本の植民地で行なわれた数々の犯罪行為がこの人の責任である、と言うなら、全くの暴論である。彼は有名なクリスチャンである。彼は悪い植民政策を採らないようにと教えた。しかし、彼はそうでない植民地を作ろうとしたけれども、植民地に反対した訳ではない。
だから、植民地主義についての反省が日本では深まらなかったし、クリスチャンの間でも深まらない。
日本の植民地の始まりは北海道である。ここは、もとアイヌの天地であった。幕府時代からアイヌを踏みつけて、人間以下のものに貶め、日本人が開拓者として自由闊達に振舞うことが出来る土地を開いた。アメリカからクリスチャンの教師が招かれ、この教師は帰る時に「少年よ、大志を抱け」と呼びかけた。それが北海道の開拓神話になった。この少年たちが札幌バンドと呼ばれるクリスチャン・グループを作った。その精神は立派と言える。これらの開拓者たちには、踏みつけられたアイヌの悲しみが殆んど分からなかった。
その次に日本の作った植民地は沖縄である。「琉球王国」という独立国があったのに、それを暴力的に潰して、東京の政府のもとに服する「沖縄県」とした。日本人の多くは、神奈川県も沖縄県も同じ県だから平等だと思っている。それどころか、日本政府は沖縄県のために特別に多額の補助金を注ぎ込んでいると言われる。金を注ぎ込んでいることは本当である。しかし、その金がどう流れて行くか。防衛族の代議士の地元の土建屋が仕事を請け負って、金を本土に還流させているのではないか。
長々と話すことは止めて、沖縄が今なお、いや返還後ますます、植民地化されていると言わなければならない。植民地であることが本土からは見えにくい。しかし、米軍基地を沖縄に集中させて、その痛みを感じないのは、それが植民地だからこれで良いと思うからではなかったか。
私は戦争で先ず沖縄に行った。沖縄にいたのは3日だけで、後は海上での勤務になったから、沖縄を見る機会はなくなったが、沖縄の原風景は心に焼き付けられた。感傷的な話しをすると言われるから、今は黙って置くが、沖縄に行くたびに悲しみが深まる。初めて見た時、沖縄の貧しさに胸打たれた。今は見た目には必ずしも貧しくない。しかし、沖縄の悲しみを分かろうとしない日本人によって、金が注ぎ込まれれば注ぎ込まれるだけ、沖縄は貧しい地域になって行く。私は特別な経緯で、沖縄に関心を持たざるを得ないから、沖縄の痛みがかなり分かって来た。日本人の多くは、私の見るところ、沖縄に対して随分冷たい。同情はあっても安価な同情である。
植民地としては、まだ台湾と韓国について語らなければならない。そして、語るべきことは沢山ある。というのは、1974年以来、韓国と台湾に神学校の講義のために招かれる機会が多くなったからである。多くの友人が出来、彼らの本心を聞くことが出来た。深い交わりが出来たのはキリスト教によって結ばれていたからで、そういう特権を恵まれた者は、得た理解を日本にいる隣人に語らなければならない。しかし、憲法の話しに入って行かねばならないので、この話は今日は省略する。
戦後、占領下で憲法論議が盛んになった。私は論議に加わらなかった。戦争放棄に反対だったのではない。むしろ、良くぞ言ってくれたと思った。それだのに、乗り気にならなかったのは、権力の指導に乗っかって人を指導する気風がまた盛んになるのが見えて、耐えがたく感じたからである。
1930年代の終わり頃から日本は急激におかしくなった、と私の年代の者は感じている。それ以前から危険な兆候があったと言うべきだが、私の年代の者はそれに気付かなかった。しかし、旧制度の中学の後半には気付き始めた。これは軍国主義の傾向という言葉で一括りにされることが多い。それはそれで大いに問題にしなければならないことだが、ようやく世間というものを見るようになり始めた若者にとって、「人間の浅ましさ」というものが気になった。
どういうことかと言うと、情勢が変わり始めたのに便乗して、自分を認めさせようとする者が浮上して、威張り始めたことである。かなり露骨に威張ったのは40年、日本が「紀元2600年」と言って浮かれた時期である。思慮ある人々は黙った。「虎の威を借る狐」という諺が古くからあるが、その狐が大きい顔をしていた。
間もなく太平洋戦争になり、そのオピニオンリーダーがそのまま「大東亜戦争」を遂行する民衆指導者として用いられた。その人たちが、一旦敗戦になると、その大部分が敗戦社会の権力機関、すなわち占領軍の軍政部の言いなりに動き始めた。
私自身、戦争の中では軍の将校になっていたから、戦争を遂行したことについてはかなり重い責任がある。それを自覚したから、指導者側につかないようにとズッと控え目にしていた。アメリカの軍隊と戦う組織の中で号令を掛けていた者が、敗けたからといって、掌を返して占領軍に迎合するようなことは出来ない。だから、占領政策に基づく平和宣伝にはとても協力出来ないと感じた。
それは単なる依怙地に過ぎないではないか。時の権力の威光を笠に着るほかないと感じている卑しい人への優越感ではないか。そう言われると、その通りなのだ。日本は戦争を放棄して生きるほかないと悟ったのだから、占領軍が宣伝を流そうが流すまいが、お前は平和がこの国に根付くように基礎的勉強をしなければならなかったのではないか。その通りだ。私は大変愚かで、高慢であった。
幸か不幸か、私が平和のために働かねばならないと感じる日が間もなく来た。戦後5年にならないうちに、占領軍による平和宣伝は終わった。朝鮮戦争が始まった。日本を占領していた米軍部隊は続々と玄界灘を越えて出動した。国中が戦争の空気になった。「平和」、「平和」と叫んでいた声はピタッと止まる。自衛隊の前身である警察予備隊というものが作られた。戦争放棄を語ることを憚る人が増える。
朝鮮戦争は第三次大戦になって行くに違いないと私は危機感を募らせた。今止めないと、核兵器による殺し合いになり、人類は全滅するほかない、と私は感じた。その時、私はキリスト教の伝道者として戦争で生き残った命を捧げる、と決めていたので、キリスト教の平和運動を始めた。同じ考えの人が各地にいた。
キリスト教の平和運動は戦後しばらくは華やかであった。そこで華やかに踊っていた人たちは、朝鮮戦争の勃発とともに口をつぐむようになり、それまで黙っていた人たちが入れ替わって平和を叫び出した。指導者が入れ替わったとは言えない。古い指導者は依然として指導者ぶっていた。
キリスト教の恥じ曝しのようなことを言うのは心が痛む。しかし、ここには避けて通ることの出来ない問題があるのを見て置きたい。平和だけのことではないが、大事なことは少数者が覚悟を決めて担わなければならないのである。少数者であるから敗北するかも知れないが、敗北しても、遂には必ず勝利するという確信、またその確信の支えとなるだけのシッカリした思想を持たなければならない、と私は思う。
それでは、まるで宗教ではないか、と言われるかも知れない。なるほど、宗教に似た面がある。が、宗教に関しては私は専門的に60年以上宗教哲学を考えて来ているから、自信をもって言うが、憲法第九条は宗教ではない。宗教と矛盾はしないが、宗教の助けを借りなければ理解出来ないというものではない。世俗的で非宗教的な社会の理論で十分説明がつく領域のことである。
憲法九条の思想を宗教的なものと考えている人はまだ少なからずいる。そのうちの或る人たちは、自分のような俗人にはとても随いて行けない高尚な理念だ。だから、現実に適合するように改正しなければならない、と言う。ある人は、これは宗教的なものだから、ここで一つ宗教家に頑張って貰って、憲法を支える柱になって貰わなければならないと考える。宗教家の中にも、今こそ自分の出番だと思う人がいる。こういう考えは善意ではあるが、危険ではないかと私は思っている。
長い時代に亘って、平和思想は主に宗教によって支えられていた。今でもその関係は無視できない。だから、宗教を抑圧する権力は自己崩壊して行く。では、宗教は平和主義か。そうでない宗教が大いに跋扈している。そういう宗教を取り上げて批判しても余り意味はないので、今考えている問題と関わりが深いと思われる宗教だけを取り上げる。私が取り上げるのはキリスト教である。
キリスト教が平和思想と関係が深いのだと論じる必要は今さらないであろう。私はその常識を修正することをお勧めしたい。例えば、アメリカでは大まかに言って90パーセントの人がキリスト教を信じている。そして、90パーセントのクリスチャンを抱えたアメリカが、キリスト教の精神に適ったとはとても思われないような戦争を次々にしている。その過ちを反省する声はキリスト教の中から余り起こっていない。
では、アメリカのキリスト教は、そのような戦争を精神的に支える役割を演じているのか。そういうキリスト教もあるが、必ずしも皆がそうなのではない。イラク戦争が始まる時、アメリカの教会の大多数はイラク戦争に反対する声明をした。しかし、戦争を止めさせることは出来なかった。と言うよりも戦争を止めさせるだけの行動を本気で始めることはなかった。「平和を作り出す人は幸いである」というイエス・キリストの言葉は、今でも唱えられている。しかし、その言葉は、力ある言葉として信じられているわけではない。イエス・キリストが「これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち私にしなかったのである」と言われた言葉は多分忘れられたのであろう。
「少数者」、「僅かの残りの者」になっても叫び続けなければならないという覚悟はない。多数派指向のキリスト教なのだ。キリスト教と平和主義は一応結びついているが、いつでも簡単に切り離せるような結びつきである。アメリカにおいてそうだというだけでなく、日本でも同じだ。
宗教は或る程度人を集め、形は一応成り立っている。しかし、真の生命はあるのか、という問題がある。このことについては、今はこれ以上は言わない。とにかく、宗教を担ぎ出さなくても、憲法九条は守れるのだ。
日本国憲法、特に第九条を宗教的なものと考え過ぎないようにしなければならないと私は言って来た。これは宗教の立場にある者が、その立場の主張を弱めて、宗教を持たない人に妥協しているのではないか、と疑わしく感じながら聞かれた方があるかも知れない。しかし、私は宗教的でない人たちに遠慮してこう言うのではない。「宗教と政治の分離」が大事だと考えるからである。宗教と政治の分離という考えはキリスト教の独占物ではないが、これはキリスト教が、キリスト教の中でもプロテスタントが、長年に亘って一生懸命に育んで来た思想である。
プロテスタントキリスト教は16世紀の西ヨーロッパの宗教改革以来、「政教の分離」という原理を次第に強めて来た。18世紀の終わりにはフランス革命があり、アメリカ合衆国の独立があって、西ヨーロッパの憲法に政教分離の原則を織り込むことがボツボツ始まった。20世紀にはソヴィエト革命が宗教の排除をしたが、これは世紀の終わりまでは持続できなかったので、今日は取り上げないで置く。持続できなかったから駄目だったと言うわけではない。
政教分離の思想の発端は宗教改革にあった。それ以前のキリスト教はさながら一つの国家であって、教会は膨大な領地を抱えていたし、軍隊を持っていたほどである。宗教改革のキリスト教は国家の持つような要素を教会から切り離そうと努めた。その過程で切り離せないものもあることに気付いて、「抵抗権」という考えを生み出したが、「抵抗権」と内容は別だが、極めて近い関係にあるのが「教会と国家の分離」という思想である。
私はキリスト教を問い直すことを戦後ずっとやって来たと言ったが、私のやって来たことは、手っ取り早く言うならば、キリスト教の抵抗権思想と政教分離思想の再発見であった。この二つがどうして結びつくのかは、長い時間をかけて発展して来た思想であるだけに、時間を掛けて説明しなければならず、それを今省略することをお許し頂くほかない。
さて、政教の分離について、日本国憲法第二〇条は、世界で最もキチンと書かれた条文である。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。
今日は憲法九条に力点を置いて論じなければならない。九条も世界で最も良く出来た条項であると我々は確信している。他にも卓越した条項があるが、ともかく、九条と二〇条の結びつきを今日は強調したい。憲法九条を覆そうとする人たちが梃子として用いているのは首相の靖国参拝である。これが正しいということになれば、靖国神社という戦争指向の宗教が特権を回復し、国民を統括して戦争に向かわせることが出来るようになる。
こういう動きが1960年代に始まり、その運動との対決も始まった。そちらの対決も今、大詰めに来たことはご存知の通りである。我々が「靖国闘争」と呼ぶこの運動が始まった時、「あれは神道とキリスト教の宗教戦争だ」と茶化して言う人が多かった。しかし、今ではこれを宗教戦争と見る人は、物を考える人の中にはいない。宗教的な考え方が出来ない人にも、靖国参拝が宗教の問題でなく、政治問題、しかも愚かな政治思想による宗教利用だということは分かっている。
それと全く同一視するのは粗雑な論法であるが、憲法九条の問題が宗教の問題ではなく、非宗教的常識の問題だと言うのと通じるところがあるということに気付く人は多くなっていると思う。人間の一般的常識は良い意味でも広がらずにおられない。「戦争の放棄」は今ではかつてのような彼方の高尚な理念ではなく、日常的な次元のこと、常識によっても手の届くことになった。
戦争ばかりではない。地球の破壊が進んで行く。人間の道徳心の崩壊も進んで行く。道徳教育が大事だと一見もっともらしく聞こえることを言う改憲派がいるが、彼らは人間の崩壊がどうして起こって来たかを根本的に考えようとはしていない。人間の社会を立て直さねばならない最後の機会が来た。その建て直しの足がかりになってくれる最後の線は、憲法九条ではないのか。憲法九条を思い巡らし、誠実に考えることを排除しようという思想から生じるのは、日本のさらに悲劇的な崩壊しかない。
終わり。