2007.05.27.
東京告白教会伝道会
この時代が責任を問われる
渡辺信夫
「『この時代が責任を問われる』というテーマをチラシで見てギクリとした」というハガキを下さった方がある。他にもそういう感想をお持ちの方がおられるかも知れない。
私自身、何年か前、聖書の中でこの言葉の重大性に気付いて、これは大変な言葉だと思った。私は小さい時から聖書を読み、牧師になってからも何十年と経つので、この言葉を勿論知っていたのである。だが、何気なく読んでいた。
大して意味のない言葉だと思っていたわけではない。この言葉が語られた時代、その状況の中で、どういう意味があったかには気付いていた。また、この部分の聖書研究もしていたし、人に教えもしていた。しかし、現代の中で大きいインパクトを与える言葉だということには気付いていなかった。もっと早い時期に気付くべきであった。
私は、若き日に学問の道半ばで戦争に駆り立てられ、戦争から生きて帰った後の人生、その殆ど全てを、キリスト教の伝道者として過ごして来た。当然死んだはずの場面を何度か潜って生き延びた。であるから、敗戦によって死を覚悟しなくても良い境遇に戻った時、生かされたからには使命がある、と感じないではおられなかった。これは自分で考えたとか、選び取ったとか、決断したとかいうものでなく、謂わば体に意味が刻みつけられたのである。だから、年老いて、能力はかなり衰えたのであるが、使命を免除して貰おうという気持ちにはまだなれない。
自分自身の戦争経験については、今日は入り口だけで留めて置く。とにかく、戦争経験というものがあるので、それによって生じた自分の責任、戦争責任について、ずっと考えたし、考えたことを語って来た。そのような私にとって「この時代が責任を問われる」というキリストのお言葉はズシリと重かった。
自分の責任ということについて、私は考えないわけに行かなかった。ある人が死に、ある人が生き残る。それは戦争の常だと言われる。その通りであって、考えて見るほどのことでもなく、考えたところでどうにもならない。
しかし、爆弾が当たらなかったため生き残った当人にとっては、他の人が、謂わば身代わりになってくれたから、私は生きられたのである。私がその人に肩代わりさせて逃げたのではないが、結果として、彼が爆弾に当たってくれた。だから、彼とその家族に対して済まないという気持ちは残る。お前が殺したのではないのだから、自分の責任ということを取り上げて見たところで、埒があかないではないか。それは分かっている。だが、分かったからといって、当事者にとって、責任への拘りが解消するわけではない。
戦争の時代を知らない人にとっては、こういう話しは聞いたこともないであろう。それでも、言われれば、当事者にとって、こういう拘りがあることは分かる、と頷く人は多いのではないか。比較的身近なところでこういうことが起こるのが戦争であって、戦争経験と言われているものの大きい部分はそういうことである。
しかし、比較的身近に起こったことは感銘が深いし、忘れ難いのだが、比較的身近でなく、もう少し遠ければ何とも感じないということなのか。そういうものでもない。身近な者と身近でない者の間に、線を引くことは簡単ではない。言い換えれば、責任を感じる範囲は、考えれば考えるほど広がる。私は自分が戦争に駆り出されて戦争の実態を見て来たから、こと戦争に関して、自分の責任を考えないではおられなかったし、考えると責任範囲は広がって行く。
「この時代が責任を問われる」という聖書の言葉によってギクリとさせられた時、私がそれまで感じていた私の責任というのとは、スケールから言って大違いな問題が突きつけられていることに気付いた。
きょう、話しの初めに上げたような反応に接して、私はかなり驚いたのである。こういう題を選んで掲げたからには、適切なテーマだと考えていたわけで、反響を知っても、当然だと満足すべきであろう。ところが、そのような反応は私の予想以上であった。かつては私も、この言葉を知ってはいるが、何気なく読んでいた。そしてギクッとした。しかし、今日では、ギクリとする人が広がっている。これをひと事のようには読めない時代になっている。かつての時代について、今その責任が問われている。そういうことを感じさせるのが現代ではないか。
「今の時代が責任を問われている」というのは、キリストのお言葉である。が、キリストの言葉としてでなく、しかし、それに通じるものを秘めた言葉として、時々これを聞くようになったのは、私の経験の中では1970年頃からであったと思う。その頃言われていた「怒れる若者たち」、既成の権威や秩序に反抗する人々、そのうちのある者が言い出した。この動向は1990年代に向けてかなり広がった。
2000年には、これまで戦争の中で無視され・蹂躙されていた女性の人権の復権のために、東京で世界女性法廷が開かれ、世界的動向となった。この女性法廷の報道を抑制しようとした人が日本の総理大臣になったことから、今年、日本の政治に対する世界の輿論は厳しくなった。「今の時代が責任を問われる」とはこのことではないかと感じる人が多いであろう。
私自身は、先ほど言った通りで、自分の戦争責任に拘り続けており、時代の責任を問う力量は自分にないと承知していた。キリスト教の中でも戦争責任を論じる気風が盛んで、私はそれを最も鋭く論じる一人だと目されていたが、責任者の追及はしなかった。なぜなら、私は自分が戦争中責任ある地位にはいなかったけれども、実質的には責任者と同罪であることを知っていたので、よそごとのように戦争責任を責めることが出来なかった。それでも、自分の責任だけでなく、時代の責任が問われていることは、ジワジワと分かって来た。むしろ、イエス・キリストが言われたような意味でこそ、時代の責任は見えて来るのではないかということは考えていた。
かつての時代の責任がズッと後の時代に問われるという思想は、人類の思想としてはハッキリ唱えられることがなかった。聖書にはあるが、それでも、キリスト教にはこれをキリスト教の思想であると捉えて、打ち出す努力はなかった。むしろ、先の時代の責任が後の時代によって担われるというのは、運命という考えであって、キリスト教に反するものであると言わんばかりの形勢であった。
運命というものが長い時代に亘って人々の生活意識を呪縛していた。そういう意識を解放してくれた最有力な解放者がキリスト教であった。キリスト教の、とくにプロテスタントの、わけてもカルヴァン派の教会は、「神の摂理」という教えを強固に建て上げた。一たびこれを受け入れると、運命的な考えは消えて行くのであった。だから、そういう所では近代化が進むということになった。もっとも、近代化が進む所ではキリスト教の生命力が著しく衰える。このことは今日は論じない。ただ、近代的なものの考えが進むと、今の時代がその責任を問われるという考えが薄れる、ということには触れておかねばならない。
初めに話したハガキを下さった方はクリスチャンではない。聖書についての幾らかの知識を持っている人でもない。この言葉が聖書から引かれたものであることをチラシによって知ったわけだが、初めて聞くその人の心にも、聖書のこの言葉がグッと食い込んだのである。それならば、まして以前から聖書に親しんでいる人は、もっと深い感銘を受けているのではないか。
ところが、どうもそうではないらしい。この言葉がキリストの語られたものだということも知らないクリスチャンが多い。この言葉を聞いてドキリとする方向と逆の方向に向いている。それはキリスト教の内部問題になるから今日は立ち入らないで、イエス・キリストが言われたことは何かを尋ねて行くことにしよう。
ここから本題に入る。イエス・キリストによって今日のテーマの言葉が語られた時の様子を見ることにしよう。
ルカ伝11章47節から52節を読む。「あなた方は禍いである。預言者の碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなた方の先祖であったのだ。だから、あなた方、自分の先祖の仕業に同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなた方がその碑を建てるのだから。それゆえに『神の知恵』も言っている、『私は預言者と使徒とを彼らに遣わすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。それで、アベルの血から、祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきた全ての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなた方に言って置く、この時代がその責任を問われるであろう。あなた方律法学者は禍いである。知識の鍵を取り上げて、自分が入らないばかりか、入ろうとする人たちを妨げて来た」。
私は聖書の朗読を学んでいる人たちに、つねづね言うのであるが、出来事や情景を書いた文章である場合は、目の前に見ているかのように読めば宜しいのである。見たことのない情景は心に描きようもない、と言う人があれば、想像力を使って、むしろ訓練して、そうしなさいと勧めている。文字面だけ間違いなしに読めたとしても、上手に読めただけで、リアリティーは伝わって来ない。見える光景を立ち上げれば分かり易くなる。
だから、皆さんにも勧めるが、想像力を精一杯駆使して、自分流の描き方で良いから、この場面を思い描いて貰いたい。とにかく、見えて来る形を捉えることから入り込むのがここでは良いのではないか。
どんな時も、このように絵に描くことから接近すれば良いと言うのではない。絵にすることの出来ない文章がある。見える世界から見えない世界に昇って行かなければ掴めないことがある。さらにまた、絵に描いて見ると、ますます分からなくなる文章がある。例えば、黙示録といわれる文書がある。自分はこうこういう幻を見たのだ、と書いてある。それならば、描いてみよう、と試みると、訳が分からなくなる。こういう場合は別のアプローチがある。
今読んだルカ伝の言葉は、単純に、書かれているままに描けば良い。登場人物はイエス・キリスト。この方を主人公として描くのは当然であろう。対論相手はユダヤの学者たち。その人たちをキリストが随分激烈な言葉で非難されたので、これは余程下劣な人間であったと思い込んで、醜悪な人間を描く人があるが、間違いである。彼らは人々の間で尊敬されていた。付添人としてイエスの弟子がおり、民衆が取り巻いている。場所はエルサレム神殿の一角である。ここで討論されていた主題は聖書の解釈である。かなり真面目な議論をしていたと思うべきである。
それだけの説明で、この場面を思い描くのはまだ無理である。しかし、とにかく、これこれの人が集まっている場面で、ことが始まる。その中でキリストのお言葉が鳴り響く。
「世の初めから流されて来た全ての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなた方に言っておく、この時代がその責任を問われるであろう」。
世の初めから、預言者はみな殺された。当然、キリストは殺される。これはキリストの語られた言葉である。こういう種類の言葉だけによってキリスト像を描き上げてしまうと、偏ったものになるのではないかと思う人があろう。私もそう思う。しかし、この捉え方が間違っているとは言えない。
この方が立派な方であったと思い描きたがる人は多い。そのように思う気持ちは私にも分かる。しかし、立派な方であっただけに、結果的には権力者に憎まれ、彼を尊敬し依存していた無力な民衆は彼を支えきれず、彼は死んだ。………こういう筋書きで、素晴らしい人だったのに敗北者となった悲劇の人としてナザレのイエスを語る人がいる。
それは違う。キリストは初めから「預言者はエルサレム以外の所では死なない」と言われた。そういう道の上に、十字架という焦点に収斂して行く道の上に、今我々の見ている場面がある。その場面で、今日我々が聞こうとしている言葉が語られる。
「世の初めから預言者はみな殺された」。こういう言い方によってイエス・キリストは預言者の歴史を総括しておられる。
「預言者」とは、神がその御心を知らせるために、御自身の民の中に、必要と見たもうた時に、派遣された者である。昔から多くの預言者が遣わされて来た。その人たちは皆殺されたのだとキリストは断言される。このようにして殺された人たちの足跡、その連鎖、それが神の民の歴史であった。代々の預言者は、殺されることによって神の民の歴史を作って来た、と言われたと取っても、これはキリストの語られたことの全てではないが、間違いではない。
先ほど聞いたルカ伝11章49節で言われる。「それゆえに『神の知恵』も言っている。『私は預言者と使徒とを彼らに遣わすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』」。………旧約聖書の預言者から、新約聖書の使徒に至るまで、遣わされた者らは続々と死んで行くのだとキリストは言われた。
預言者が次から次へと殺されて行った。これは事実である。目を背けたくなる。本当ではなかったと信じたい。だが、預言者の死は記録として残っており、少なくとも、殺されないで、安楽に死んだ預言者は一人もいない。
このようにして殺されて行った預言者の語った言葉は、その人の最期が悲惨な死であったにも拘わらず、神によって語らしめられた言葉、つまり神の言葉として、書き留められ、伝えられた。その言葉を読み連ねて行くならば、そこに、神が語りたもうた歴史が浮かび上がる。そのようにキリストが言われた、と私が言うとすれば、やや乱暴であるが、それでもキリストの言われた言葉を覆したのではない。むしろ、キリストの言われた言葉が、このように捉えられた時に、生き生きと伝わって来るではないだろうか。実は、私たちは、このように語り継がれて来た神の言葉を、このようにして今日に伝えなければならないと信じている。
「それでは、お前は、世々の預言者がみんな殺されて行ったのと同じように、殺される日を待ちながら、預言者のように振る舞いつつ伝道をしているのか」と問われるかも知れない。このことには簡単には答えられないし、簡単に答えない方が良い。簡単に答えることに問題があるというのは、キリスト教には古くから「殉教」という答えがあるからである。それが問題だと言うのは、殉教者が出ると信仰が盛んになるという実例があるので、殉教美談造りに熱心になる。しかし、信仰そのものがそこでハッキリして来るかというと、そうでない。そこに問題性がある。
日本人のクリスチャンはこのことで憂鬱な思い出を持っている。私の年齢の者なら知っている事件であるが、かつて日本帝国は人民に神社参拝をクリスチャンにも強制した。同じ日本の統治下にあっても、当時の朝鮮と内地では反応が別であった。朝鮮では反対であった。全員が反対だったというわけではないが、反対の人は頑として反対し、そのために殉教の死を恐れなかった。殉教ということをハッキリ掲げる人が一人いたならば、その一人の支えによって、他の万人の信仰が守られた。ところが、日本のキリスト教会の中には殉教の証しを立てようという人は一人も出なかった。だから、日本のクリスチャンの意識的な人の内には殉教コンプレックスがあり、殉教について語りたがらない屈折した思いがある。そうでなくても、殉教というテーマは論じにくい。
キリストはこのことについて深い洞察のこもった指示を与えておられる。47節である。「あなた方は禍いである。預言者たちの碑を建てるが、しかし、彼らを殺したのは、あなた方の先祖であったのだ」。預言者を殺す方と、殺された預言者の記念碑を建てて、これを顕彰することとが同一の根で繋がっていることを見抜いておられる。殉教美談が造られることは「偽善」だと実に見事に論じられた。偽善はどこにでも根を伸ばすことが出来る。神の名のもとに堂々と偽善が行なわれ、している人自身これが偽善だと決して認めないこともある。キリスト教以外の宗教にもある。
手っ取り早い実例をあげるなら、近年イスラムの世界で頻々と行われる自爆テロがある。純真な青年男女が神のためと信じて自爆テロを決行する。大量の無差別殺人がなされる。彼らの自己犠牲の動機は純真であるとしても、それが彼らの信ずる神の意志に適っているであろうか。こういうことでは彼らの信ずる宗教の野蛮性の証明にしかならないではないか。そういうことをイスラムの人も心配している筈である。
同じイスラムでも、こういうやり方を重んじる流派から、テロ要員は続々輩出される。指導者は自分自身ではテロを実行しないで、実行者を賞賛するが、自分は生き残るという構造がある。
キリスト教ではもっと抑制されているが、殉教を意味づけるために、証しをした人を持ち上げる。その時、神の恵みによって救われるという最も根本的な線は消えてしまう危険がある。だから、人間の功績でなく、神の純粋の恵みということを強調するキリスト教では、こちらがドンドン殺されている時でも、殉教精神を煽り立てて争うようなことはしない。しかし、命を捨てて証ししなければならない時になっても、死への決断を避けるのか。そうではない。ただ、人間が考えて、これは効果が上がると思うような線で信仰を盛り立てることはしない。
さて、イエス・キリストは結びとして言われる。「それで、アベルの血から、祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されて来た全ての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなた方に言って置く、この時代がその責任を問われる」。
アベルとかザカリヤとか、その他説明の必要ある項目が沢山あるが、それらについての説明は省略しておこう。もっと重大なこととして、世の初めから最後に流される預言者の血について、今の時代が責任を問われて、それに答えることが出来るのか、いやその前に初めの時以来の責任を問うことに意味があるのか、という疑問があるであろう。その疑問に答えることも省略することを認めて頂きたい。
ただ、「問われる」というのは誰からか、ということは言って置きたい。神から問われるのである。世の初めから正しいことを語った預言者がみな殺され、その責任が未だに問われていない。このまま、悪が跋扈するかのように見えるが、そうなのか。そうではない。神が問われる。キリストがここで言っておられるのは、旧約聖書に出ている限りの殺された預言者の血のことだが、そこに名の出ていない人々の死についても、勿論、神はその責任を問われる。そして正義は回復する。今日はそのことにも触れられないが、キリストがここで言っておられる言葉のなかに、この問題は或意味で含めることが出来る。
キリストの言われたことは決して聞きやすい言葉ではない。また、何を言われたか分からないと感じる人もいるであろう。しかし、分からないながらに、イエス・キリストがここで決定的なことを言われたと感じることは出来る。それが掴めたならば、分からないことは、これから調べれば分かる。
この時代に責任が問われるとは、この時代が終わらないうちに終わりが来る。預言者を次々に殺して来た歴史は、このままでは済まず、決着が付けられる。という意味であることは分かる。それを具体的には語っておられないが、紀元70年にユダヤが滅び、エルサレムも滅び、ユダヤ人は追放されてこの地域には住めなくなる。そのような破滅が来るという預言であることは明らかである。
この時代とは、世の初め以来預言者が次々殺されて、ついには最後に来られた預言者キリストも殺されたのであるが、それを最後の区切りとして、ここまでの時代の全てが問い直されると言われたのである。それは何なのか。それが何であるかは今は言わない。今言わないとは、分からないから言わないという意味ではない。限られた時間では言い尽くせないのである。
責任が問われることは確かであるが、問われて何が答えられるか。何も答えられない。だが、何一つ答えられない人のために、その人々に代わって、キリスト御自身がそれに答える。そういう意味が籠っている。我々はつねづねそのことを聞いており、聞いたことを語っているのである。それを一口に言うのは無理があるが、それでも敢えて一口に言うならば、キリストが答えて下さる答え、それを福音というのである。