◆説教2001.12.16.◆

ヨハネ伝講解説教 第99回

――ヨハネ10:1-6によって――

9章の終わりと10章の初めの間には、切れ目となる転換の場面がないように思われる。 
そこで、続きとして読まれるのである。しかしまた、何かの切れ目、場面の転換があったのではないかという感じも持たれている。内容的に、質的に違ったものがあるからである。では、何があったのか。そこは我々にはよく分からない。 
6節に「イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、分からなかった」と書かれている。この「彼ら」は前の章の終わりに出て来ている人たちのことであるに違いない。「あなた方が『見える』と言い張るところにあなた方の罪がある」と言われたその人々が、そのまま続けてここにいて、主の言葉を聞いて、それが分からなかったというのである。 
さらにまた19節に、「これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた」と書かれ、その分争の内容が次に記されている。すなわち、多数派のユダヤ人と少数派のユダヤ人の間に、ナザレのイエスの評価を巡って論争があった。20節に、「そのうちの多くの者が言った、『彼は悪霊に取り憑かれて、気が狂っている。云々』。そして、21節に、「他の人々は言った、『それは悪霊に取り憑かれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目を明けることが出来ようか』」とある所から明らかなように、盲人の目を明けた彼が、神から遣わされた人なのか、悪霊に憑かれた人かの論争がまだ続いているのである。この二点を見るだけでも、9章から10章に続いていると読むのが当然であろう。 
それでも、論争が引き延ばされているという面だけではない。9章の主イエスの御言葉からは読み取ることも出来なかった、深遠な、また崇高な真理が10章では開き示されるのである。すなわち、9章では、主イエスはただ、生まれつきの盲人の目を明けたお方である。世界が始まって以来聞いたこともない大いなる力の出来事をお見せになった。見た人はみな驚嘆する。それでも、人はその驚くべき御業に圧倒されるだけで、必ずしも信じて、新しい人生の入り口である悔い改めには至らない。ところが、10章では、主イエスは単なる癒し手、奇跡を行なう人、神から遣わされた人ではなく、11節にあるように、「羊の牧者」であり、「羊のために命を捨てる」方である。「命を捨てる」というようなテーマは、10章までは、表現としては全く語られていなかった。だから、9章ではキリストの死を度外視して、彼の憐れみと彼の絶大な力とを人々は読むに留まるのであるが、10章に続いて入って行く時、単に幸いを与えるだけでなく、自らの命を捨てて人を生かすという奥義が現われ出る。 
さらに16節で「私にはまた、この囲いにいない他の羊がある」と言われることも、これまで聞かされなかった言葉である。まことの羊飼いが来る、という約束は旧約以来のものであって、新しく聞いたものではないから、聖書を正しく読んでいた者ならば、比較的素直に受け入れられたはずである。しかし、旧約の知識だけでは、「この囲いの中にいない他の羊」がいるということを理解するのは困難であろう。 
そのように、10章に入って、我々は新しい真理を学ぶのである。9章で学んだことをご破算にして新しく学ぶというのではない。やりなおす必要はないのであるが、先に学んだだけでは完結していなかったことを知らなければならない。譬えて言えば、一階の工事が終わって二階の工事に取りかかるようなものである。9章で学んだことで十分感動的であったが、10章ではさらに重要な学びを上積みされるのである。 
さて、6節では、「主イエスが語られた比喩が何のことであるか彼らには分からなかった」というのであるが、我々はどうであろうか。1節から5節までに書かれていることが、我々には分かっているであろうか。とても歯が立たない、などと言ってはならないのであるが、簡単に分かると安易に考えてはならない。分からせて頂くよう祈り求めつつ読むようにしよう。 
1節の冒頭にある「よくよくあなた方に言っておく」との御言葉は、ヨハネの福音書で我々が聞き慣れている通り、主イエスが特別に大事な宣言をする時、前置きとして言われたものである。だから、第一に、これから重要な宣言をしようとしておられることは容易に分かる。よく注意して聞かなければならない。 
次に、この御言葉が、先に9章で語られた御言葉の続きであることに留意しなければならない。9章にあった出来事と御言葉は、それだけで我々に深い感銘を与えるものであったし、またこの10章は、前との繋がりを顧慮しないで読んでも、これだけで重要な教理であることを我々は認めることが出来る。けれども、今は続けて学んでいるということを忘れてはならない。 
9章では、行きずりの盲人の乞食に憐れみを掛けたもうたことを読んだのであるが、それを今度は見直して、羊飼いと羊の関係として捉えなおさなければならない。羊飼いと対照的なのは、盗人、また強盗として示される人々、また後で2節に出て来る「雇い人」であるが、それはこの盲人を会堂から追い出したユダヤ人のことを指す。羊飼いでないのに、羊を占有しようとしている。「追い出す」ということは、彼らがこの群れの主権者の主権を侵害していることである。 
このように示すことによって、謂わば新しい強烈な光りを与えるようにして、主は今、9章の事件が何であったかを明らかにしたもうのである。すなわち、他の誰もが癒し得なかった先天性の病いを癒したという程度のことではない。盲人だった人に向かっては、「あなたを追放した者らは盗人であり強盗であった」と言われ、「あなたは私の羊である。私こそあなた方の主である。だから、私に随いて来るのは当然であった」と言っておられるのである。 
9章を読んでいた時、この盲人がだんだん主イエスに引き寄せられる次第が示されているのに気付いた。主に引き寄せられて行くのは、当たり前といえば当たり前である。しかし、何故そうなるかの説明は我々には出来なかった。この10章に入って、この盲人が主イエスに引き寄せられた理由が明らかになった。すなわち、彼はまことの羊飼いに属する羊であって、これまで離れていたけれども、羊飼いの声を知っていたから、彼自身としては何故か分からぬながらに、来ざるを得なかったのである。だが、先天的に主の声を聞き取る能力があったと言うならば、それは間違っている。自分で聞き取って近付いて来たのではない。彼でない者が彼を引き寄せた。要するに、彼の内面で何が起こったかを考えても答えは出ない。こので選びの事実を踏まえなければならない。 
ここで、「よくよくあなた方に言って置く」と言われる。これは盲人に対してだけ言われたものではない。「あなた方」と言っておられる人々の中に、主イエスの弟子たちや新しく弟子になった盲人だけでなく、ユダヤ人が入っていることは、19節以下の記事から十分推定出来る。だが、6節の「彼らにこの比喩を話された」の「彼ら」、また「彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、分からなかった」というところの「彼ら」、これが誰を指すのかは、必ずしも自明とは言えない。 
「よくよくあなた方に言って置く」と言われる言葉は、我々がすでに見て来た通り、おおむね弟子たちに対して示された教えである。今回のところも、人々一般でなく、主イエスに随いて行こうとしている人々、我々もそのうちにいるのであるが、その者らに向けての言葉である。 
では、「彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか分からなかった」というその「彼ら」は、聞いていた人々の中のユダヤ人だけなのか。それとも我々にも当てはまるのであろうか。 
この問題は平易とは言えないが、このことについて長々と議論する必要はない。「羊はその声を知っているので、彼に随いて行く」と言われる通り、キリストの羊はキリストの声を聞き分けるのである。キリストの羊でありながら、キリストの声を聞いても分からない、ということは、本来はないと言わねばならない。必ず分かるという確信があるのが当然なのである。 
ただし、正直に自分自身を考察する人なら知っているように、我々もこの御言葉を聞いて、直ちに良く分かったと言えるであろうか。それが何のことであるかの戸惑いを覚えない人は、まれではないのではないか。正直に言えばそうなのである。ただし、我々は主の言葉を主の言葉として聞くことが出来るから、聞いて良く分からなかったならば、投げ出して、聞かなかったことにしてしまうのでなく、その意味が何であるかを主に問い尋ねるのである。そして必ずその意味を悟ることが出来るのである。キリストの羊なら、「分からない」と言って投げ出すことは決してない。 
さて、教えの場面の説明でなく、教えの内容そのものに入って行こう。「よくよくあなた方に言って置く。羊の囲いに入るのに、門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は、羊の羊飼いである」。――これは、御自身が何であるかの宣言であるとして先ず聞き取ろう。 
旧約の約束の焦点と言うべきもの、それはいろいろな表現を採るのであるが、その一つにエゼキエル書34章にあるイスラエルの牧者の預言がある。「私は自ら我が羊を飼い、これを臥させる」。神御自身が牧者になると約束される。牧者になぞらえられるのはメシヤである。したがって主イエスは、メシヤ到来の約束は成就したと宣言されるのである。 
これは、9章のやり取りの中では「あなたはもうその人に会っている。今あなたと話しているのがそれである」と言われるところ以外では、読み取れなかった重要な教えの提示である。あなた方はまことの羊飼いの約束を聞いていた。今やその約束は成就した。あなた方と話しているこの私が真の羊飼いである。 
ここではまた、門から入る正規の羊飼いと、柵を乗り越えて侵入する無法者との区別が重要だと言っておられるのである。これは、第一に、当面する問題については、ユダヤ人の教師であると自認している律法学者と、御自身との違いを語っておられる。しかしまた、第二に、今後起こる課題として、キリストの民の中に、正式に門から入らず、柵を乗り越える不作法をして入って来る偽教師、異端の教師がいるから、これに警戒せよという意味も籠められている。 
考えなければならないのは、「門から入る」と言われるその「門」とは何をさしているかである。ところが、7節に「よくよくあなた方に言って置く。私は羊の門である」と言われる。門から入るのが羊飼いだという言葉と、羊飼いである私は門であるという言い方とは、矛盾はしていないが、門とは何かという問いに対する答えにはならない。7節にある主イエスのこの言葉は、門から入るかどうかで羊飼いであるか盗人であるかが分かる、という主旨の2節の言葉をもっとハッキリ言い直したものである。 
そこで「門」とは何かについては、別の手がかりを求めなければならないが、門というものは3節にあるように「門番は彼のために門を開く」と言われる「門番」の比喩によって示されたのが何かを見れば解くことが出来るであろう。すなわち、門番は羊飼いが羊を連れ出しに来た時、羊飼いのために門を開くことを任務として、ずっとそこに張り付けられていた人である。それは羊飼いの下働きをするために雇われている僕である。 
羊飼いが来るまでは門を開けるな、と命じられていたに違いない。神の民をキリストの来たりたもうまで守る役目であった。 
そういう特定の人物がいたのであろうか。そういう役柄の人を旧約の中から取り上げることは容易である。例えば、エゼキエル書33章で、「人の子よ、私はあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする」と言われた「見守る者」はその門番である。こういう例は沢山あるから、特定の個人と見てもよいが、それよりは一つの体制、秩序と見た方が適当であろう。 
それは「律法と預言者」であると取るならば、かなり明快に解決される。ローマ書3章21節に、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかし律法と預言者によって証しされて、現わされた」とあるのを思い起こそう。この聖句は直接にキリストが来られたことを言っているのではなく、神の義が現わされたことを述べるのであるが、「律法と預言者によって証しされて」、すなわち、それが正当な神の義の現われであるのを、律法と預言者が証しするのである。 
門番というものは、黙って門を開けるだけでよい。「羊たちよ、お前たちの羊飼いが来てくださった」と言う必要はない。聞かされなくても、羊は羊飼いの声を知っているからである。本当は、門番が門を開けなくても、羊飼いが自分で戸の掛け金を外して入って来られても良いのであるが、この羊飼いの務めに仕える体制があることを示すために、こういう比喩になったのである。 
イエス・キリストの到来は律法と預言者に証しされてであった。あるいは聖書の言う通りという言葉でこれを言い換えても良い。要するに、羊を保護する柵があって、保護のために門が閉めてあったが、約束の本当の羊飼いが来た時には、門が閉ざされたままで羊飼いも入れなかった、というようなことではなく、キリストは入って来られるようになっていた。 
約束の羊飼いが来た時、その羊飼いは御自身の何であるかを示されたのであるが、いきなり奇跡を演じて、人々を圧倒するようなことはなさらなかった。奇跡によって御自身を示すことが出来るのは確かなのであるが、直接的に驚くべき御業を見せるというのはキリストの正規の手順ではなく、門番が門を開き、それから羊飼いが入って来て、羊の名を一つ一つ呼んで連れ出して行くのが正常な手段であった。 
したがってまた、この後、キリストの教会に、羊飼いを装った強盗が入って来る時、門番が強盗のために門を開けてはならないのである。そこにはキチンとした教会の秩序、務めの秩序があって、偽羊飼いを見破って、それが入れないように一応なっている。ただし、その体制は一応出来ているが、うっかりしていると、偽教師が入り込むから注意を怠ってはならない。 
さて、主イエスは御自身を羊飼いに譬えることによって、御自身と導かれる者との関係を説明される。私は羊飼いであると宣言されるだけではない。羊飼いと羊の実際の関係が説明される。第一に、羊飼いは羊の名を一つ一つ知っていて呼び出す。羊泥棒にとっては羊は一頭二頭である。ただの数である。しかし、羊飼いにとっては一つ一つに名前がある。 
第二に、羊飼いは羊の先頭に立って行く。キリストが羊飼いとして統率たもう群れは、主の御守りのもとに草原の上に臥したり、草をはんだりするだけでなく、羊飼いに随いて行く前進する群れである。 
第三に、羊はその声を知っている点を重視しなければならない。他の者の声と聞き分けることが出来る。その能力を身につてよと要求されるのでなく、あなた方はすでに知っているのだとと言われる。 
それはとても難しいことだと思う人がいたなら、その人は間違っている。9章で学んだ盲人がどうであったかを思い起こそう。彼は主の羊である故に主のもとに来た。我々も同じである。 

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