◆説教2001.12.09.◆

ヨハネ伝講解説教 第98回

――ヨハネ9:35-41によって――

「イエスはその人が外へ追い出されたことを聞かれた」。――先に22節では「もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人はすでに決めていた」と書かれていた。そのことを前置きとして追い出す決定がなされたのである。
 では、この盲人だった人は、イエスをキリストと告白したのであろうか。そうではない。「それはどなたですか」と言っているくらいであるから、彼にはまだキリストとの現実の出会いが起こっていない。信じてもいない。まして告白には到底至らない。それだのに、ユダヤ人らは彼がイエスをキリストと告白したも同然だと看倣した。それは性急で予断に満ちた判定と言わねばならないのであるが、告白するのを予見したのだと言っても良いかも知れない。
 彼の立場を信仰への途上にあると規定することが出来るかも知れない。9章の物語りは、キリストと全く無縁であった人、キリストを求めさえしていなかった人が、次第にキリストに引き寄せられて行った道程であると見ることは出来なくない。そのように見て、この一連の事件から信仰への励ましを読み取ることもよく行なわれる。彼は初めからそのように方向付けられていたから、当然その方向に進んだのだとも見られ、一段一段階段を昇るようにして努力して昇って行ったとも見られる。その一段一段について立ち止まって考察するのは有意義ではあった。
 しかし、昇り始めた者が、当然の歩みとして、だんだん高く昇り、ついに絶頂に登り詰めたと解釈し、あるいは歩み始めた者が始めたことをあくまでやり遂げようと努力して遂に行くべき所に行き着いたと見るならば、これは実に浅薄で通りいっぺんの観察なのである。
 つまり、キリストが彼方に、目標として立っておられ、それに向けて少しずつ近付いて行ったと見るのは、間違いではないとしても、汲み取るべきことを十分汲み取っていない。この章の始めで見た通り、キリストは初めからおられるのである。最後にキリストに到達したということではない。むしろ、キリストが始め、キリストが完成させたもうた次第をこの章から学びとらなければならない。
 では、盲人だった人の側のことは何一つ考慮すべきでないのか。勿論、これを無視すべきだと言ってはならない。この人の中に変化が起こっているのを無視するのは正しくない。一つ一つが驚くべき変化であり、取り上げて考えて見るに十分価する。それは本人自身が努力して生み出した変化ではなく、キリストの恵みによって起こった変化である。しかし、恵みによる変化であるとはいえ、彼のうちに起こされた一連の変化に重点を置き過ぎてはならない。
 ユダヤ人たちはこの盲人だった人を会堂から追放処分にした。神の民の中に数えられてはならない悪質な者と判断したのである。彼の姿勢に変化が起こったことが認められたのである。
 この変化によって彼はすでに信仰の門前にまで来ていたという解釈がなされることが多いと思う。その見方は一見もっともなのだ。この人の場合、そのように見て殆ど問題はない。彼はユダヤ人たちからは追い出されたが、それに続いてキリストに受け入れられたからである。追い出されることは、キリストによって迎え入れられる前段階のように見ても良いであろう。
 だが、注意しなければならない。人から嫌われ、捨てられ、追い出された者なら、当然、自動的にキリストから受け入れられる、と取って良いのか。そう取るのは早計ではないか。この人は追い出されてしまった。キリストを知った故に追い出されたというなら、彼のうちに信仰の戦いが始まり、戦いによって信仰はさらに鍛えられて強められるから、彼はますます励んで信仰の道を行ったであろう。しかし、彼はまだキリストを知っていないのである。「私は盲人であったが今は見える」と言うことだけしか言えないのである。だから、追い出されることによって、戦いが始まるのではなく、戦いの拠り所もないまま、挫折して底知れぬ闇に落ちて行く他なかった。
 追い出されたから自動的に救われるのでなく、キリストが待っていて、迎え入れて下さったから救いに入ったのである。詩篇27篇10節に「たとい父母が私を捨てても、主が私を迎えられる」と歌われているように、主なるイエスは、捨てられた人を受け入れたもうた。癒しだけで終わったのではない。
 簡単に言えば、追い出されたことに重点があるのでなく、追い出された者に出会って下さるお方がおられることに重点があるのである。そこに目を注がなければならない。その方が彼の追い出されたことを聞きたもうた。
 今言ったことを別の面から見るならば、彼は「その方を信じたいのですが」と言っている。信じたいと思っている。しかし、まだ信じてはいない。だから、確かなものはまだ何一つ内に持っていない。その人が信じるように変えられて行ったのである。信じることの確かさが彼の中に芽生えて確立したというよりも、キリストが確かな隅の首石となりたもうたのである。
 ここには、「信じたいのですが」という言葉が使われているが、これを願望や決意の表明と取るならば正確ではない。信じようとする意志、その熱意という方面に重きを置いてしまうと、読み違いが起こるかも知れない。確かに、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」と主イエスが教えたもうたように、「求める」ということは重要な命令である。この物語りでも、求めることの意義を考えるのは良い。けれども、この文章の主旨はそういうところにはない。
 ここは、そのまま訳して見れば、「主よ、それ(すなわち、人の子)とは誰ですか。私がそれを信じるためには……」という言葉になる。信仰への願望、渇望という含みを読み取って間違いとは言わないが、私は信じたいのだという意志表明の言葉ではない。「人の子を信じるか」と問われて、「信じるためには、人の子が誰であるかが分からなければならないではないか」と答えているのである。
 人の子とは誰なのか。すでにヨハネ伝では何度も出て来た言葉で、今ここでは簡単に、キリスト、あるいはキリストなる私という言葉に置き換えて良い。
 この人は勿論、「人の子」という聖書用語の解説、あるいは教理の解説を求めているのではなかった。解説ではなく、人の子の実物、人の子との現実の出会いを求めているのである。この盲人もユダヤ人であるから、初歩的信仰訓練の中で「人の子」の到来の約束を教えられて、或意味では信じていた。解説を聞かなくても分かっている。また、人の子の来臨の待望へと励まされることも、不必要とは言えないが、今とくに必要を強調する問題ではない。
 大事なのは実物としてのキリスト、「あなたはもうその方に会っている」という現実である。このことは我々においても同じである。人の子についての解説も必要であろう。
 だが、解説で分かったことによっては知識が増えまた整うとしても何も始まらない。来たるべきキリストを待ち望む励ましも有用である。けれども、励まされているだけでは解決にならない。
 我々が主の日に礼拝に集まるのは、「あなたと会っているこの私がそれである」と言われる方と出会って、出会うだけで終わらず、これを拝するためである。人の身に起こったことを物語りとして聞いてなにがしか励まされるのではなく、我が身において起こっている事実を確認するのである。
 主イエスがそのように「あなたと会っている私がそれである」と答えたもうた時に、この人は「主よ、信じます」と言わざるを得なかった。そこに至る準備過程があったと言って良いだろう。積み上げられた準備がここで一挙に結晶したと言って良い。その準備過程について思いめぐらすことは当然なければならない。けれども、それは「主よ、信じます」と告白することの次に来るのであって、準備過程について思いめぐらすだけでは出口のない堂々めぐりである。
 この人が人々の噂の的になっている時、面倒な関わりを避けて、知らぬ顔をして過ごすのでなく「私がそれである」と答えたことの意味について何度も触れた。けれども、そのことで感心していてはならない。この人が「私はそれである」と言ったのと、主イエスが「今あなたと話しているこの私がそれである」といわれるのと、言葉は同じであっても重みは全然違うのである。と言うよりも、イエス・キリストの「私はそれである」があてこそ、我々の「私はそれである」は安定する基礎を見出すことが出来るのである。
 39節からは9章全体の纏めである。それは宣言である。「私がこの世に来たのは、裁くためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
 「裁く」という言葉は、我々の常識では、罪を裁いて、罪を犯した者には刑罰を課することとして捉えられる。しかし、見える者が見えないようになり、見える者が見えないようになることがここでは裁きだと言われる。刑罰とか、報復という意味を遥かに越えている。
 ここで用いられる「裁き」という言葉の意味は、我々の常識の範囲ではないとしても、旧約では珍しいものではない。神こそが本来王であり、裁き主であるが、悪人を裁いて罰し、善人を保護するために、神はその務めを通常、地上的権力に委ねておられる。その権力の裁判はほんとうは神の正義を顕すものでなければならないのであるが、多くの場合そうでない。そのために、我々の常識がずれて、神の本来の御業である裁きを見忘れることもある。
 神の本来の御業としての裁きは、終わりの日に行なわれることにおいて最も明確に示される。神の義が十全に顕されるのである。本当の意味では見えていないのに、見えると思ったり言ったりしていた虚偽がその日に露わになる。
 キリストがこの世に来られたのは、最終の事態を明らかにするためであった。多少人よりもものが見えているつもりの者が「見える、見える」と主張すると、この世では通用するのである。しかし、本当に見えているかどうか、それがキリストによって明らかになる。キリストによって明らかになることは最終的なことなのだ。それが終わりになってもう一度逆転するということはない。
 「見える者が見えない者になる」という言い方は、なるほどと思われる格言のようにも見られる。一見豊かそうな生活が実際は貧しく、一見賢そうな人が実は知恵の浅い人である、という意味のことを語る格言があちこちにある。だから、主イエスが、見えない人が見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」と語られたことを、まことにその通りと感心する人はいるかも知れない。
 確かに、主イエスの語りたもう知恵は、多くの人に分かる面を持つ。何となく分かるように感じる人はもっと多いかも知れない。だが、多くの人がキリストの言葉を最終の言葉として聞いているということではない。
 「そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たち」というのはどういう人であろうか。
 一緒にいなかった、つまり反対側に立っていたパリサイ人がいたが、イエスの側についていたパリサイ人もいたということであろう。一緒にいたと言っても、密着していたわけではない。そして、かなりの距離を置いていたことがその後の対話で明らかになる。
 それでも、終始イエス・キリストと対立していたユダヤ人とは別なのだ。
 彼らはある種の親近感を感じて主イエスの側にいた。しかし、主イエスが「私がこの世に来たのは、裁くためである。すなわち、見えない人が見えるようになり、見える人が見えないようになるためである」と言われた時、自分たちも裁かれていると気付いたのである、しかし、自分の見えないことを心から認めたわけではない。この人たちはパリサイ人の中の良識派であったと思われる。パリサイ派の多くが主イエスに対立した時、中立の立場を取る人がいたことをは7章50節で見ている。そういう良識派がここにもいた。
 彼らは誇り高い人とは言えないであろう。少なくとも、そのように見られることはなかった。パリサイ派が一般に、自分たちは見える、と偉そうに言う時、この人たちは偉そうに言うことはなかった。だから、「見える」と吹聴する人よりもっと良く見える人たちであった。誇ってはいないが、見えると自分で思っていたことは確かである。
 そういう人たちにとって今主イエスの語りたもうた御言葉は驚きであった。彼らはより良く見えるように求めつつ聖書の研究をしていた。律法学者であるから読み取った真理は確信をもって世の人々に伝えていた。最も良く見える人という自己宣伝はしないが、見えているという確信は強かった。その人たちは自分が裁かれたと感じた。
 彼らの言葉から、自分が裁かれるのは心外だという思いを読み取るべきか、そういう不満でなく、主イエスの御言葉を自分自身に適用して、自らが盲目であると裁かれたことに気付いた自己意識の高さを取るべきか。
 これにつて論じ始めたなら、なかなか決着がつかない。それは差し置いて、我々自身もここに居合わせたならば、自分が盲人であると指摘されたのではないかと考えて見ることは必要であろう。いや、我々にこそそれが必要なのである。キリスト者という人たち、真実なキリスト者であろうとしている人たちは、人一倍見えるようにならなければならないと思っている。
 それだけに罠に落ち易いということに気をつけなければならない。天使の中の最高位の者が地獄の一番深いところに落ちたという神話があるが、より高く昇る者ほど危険なのである。露骨に誇っているパリサイ派の多数者よりも、誇りを自制する良識派パリサイ人の方が落とし穴に落ちる危険は大きい。パリサイ派よりもキリスト教会の方が思い上がる危険がある。キリスト教会の中でも少数者の道を行くものの方が道を踏み外す危険は大きいのである。
 だから、我々は見ようとして、見えるようになった時、実は見えなくなる裁きに陥ることはないか、良く考えなければならない。ということは、良く見えるようにならなくても良い、むしろ、そういう精進はしない方が良いということなのか。そうではない。我々は矢張り良く見えなければならない。真理を明らかにしていなければならない。そうするとより良く見える。見えたことは「見える」と言わなければならない。では、それを言えば言うだけ盲目に逆戻りすることになるのか。そうだとすれば、我々はどこまで行っても進歩のない堂々めぐりを繰り返すだけであろう。それが我々の最終の形態であろうか。
 我々は見るし、より良く見るよう進歩するのである。ただし、それを自分が見たと誇ってはならない。我々が見るのは、見させられ、示されるからである。
 「今あなた方が『見える』と言い張るところにあなた方の罪がある」。見えることが自己主張であったり、自己実現であるような見え方は裁かれ、そして見えると思っていたものが見えなくなる。救いが見えているつもろでも、最終の日には見えなくなる。そうならない見方をしなければならない。
 
 

目次へ