◆説教2001.12.02.◆

ヨハネ伝講解説教 第97回

――ヨハネ9:24-34によって――

「神に栄光を帰せよ」とユダヤ人は厳かに語った。この言葉は我々がすでに知っている通り、聖書の中では頻繁に用いられ、神の民たる者にとって、全てのことの行動原理になっていた。Iコリント10章31節に「飲むにも食らうにも、神の栄光を顕せ」と勧められるとおりである。
 ここで思い起こして置くべきは、この言葉が裁判にも用いられたことである。裁判に際して必ず語られる決まり文句になっていたかどうかは分からないが、ヨシュア記7章19節を見ると、この言葉が裁判に際して重要な語句として語られている。すなわち、主に捧げた奉納物をかすめ取る者がいて、神が怒ってイスラエルに禍いを下され、アイの人々との戦いで惨めな敗北を喫することになった。そこで、神を怒らせる罪を犯したのが誰であるかが、籤を用いて割り出され、ユダ族が割り出され、次に、ユダ族の中のゼラの氏族が割り出され、ゼラの氏族の中のザブデの家族が割り出され、その家族の中からアカンが容疑者として割り出された。そのアカンに対してヨシュアが言う、「我が子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主を讃美し、あなたのした事を今私に告げなさい。私に隠してはならない」。「主に栄光を帰する」という言葉の威力の前に、アカンは隠せなくなって、戦いのぶんどり品を秘かに自分の物にしたことを告白する。
 確かに、神に栄光が帰せられる時、人間の罪が隠れたままに見過ごされることは出来なくなる。己れの罪を隠していた人も、事実を告白せずにはおられなくなる。だから、黒白を明らかにする裁判において、神の栄光が覚えられたのは適切であった。そういう事情から見て、かつて盲人であったこの人がユダヤ人から問われたのは、単に質問されたということではなく、「ここは神の名において開かれた法廷であるぞ」と言い渡した後の尋問であることが分かる。
 神の栄光のもとで真実が明らかにされねばならないことはそのとおりであるが、これは実際にはどういう意図で語られた言葉であるか。それは、彼らがここから押し進めて行ったことが何であるかを見れば分かる。すなわち、自分たちに反対する意見を先ずもって萎縮させて、排除し、自らのしようとすることを遂行するための、有効な、しかし陰険な手段であると考えられていたことは明らかではないか。
 神の栄光という殺し文句を用いて、相手に反論の余地を与えないやり方が、神を知ると言っている者らの常套手段であることを知るのは容易であろう。神を知らない、あるいは神をいい加減にしか信じていない人たちは、滅多に「神の栄光」というものものしい言葉を口にしない。「神の栄光」という言い方をするのは、必ず、神に対して熱心な、あるいは自分で熱心だと思っている人に限られるのである。
 しかし、神の栄光という言葉が、人を決めつける殺し文句として使われるのは正しいかどうか。それは容易に判断できる。すなわち、神の栄光が現われ出るところでは、相手の罪が隠せなくなるだけでなく、それと同じだけ確かに自分の罪も露わになってくるのである。そして、自分の罪が露わになっているにも拘わらず、それを認めまいとする傲慢、不遜、不敬虔がある所では、神の栄光は冒涜される。
 今、我々に考えさせられている事柄は、そんなに難しい高度な問題ではない。最も基本的で、最も初歩の教えの実践と言うべきである。すなわち、「汝の神、主の名をみだりに口に挙ぐべからず」との戒めによる修練の範囲内のことである。だから、神の栄光について語るとき、語る人自身が恐れおののいて、神の栄光を己れの利益のために利用しないよう、己れを慎まなければならない。
 さて、「神に栄光を帰せよ」とユダヤ人が盲人に言ったのは、「お前の目が開かれたのは、神の力と憐れみによるのであるから、神にこそ栄光が帰せられなければならない。
 つまり、お前の目を開けてくれた人に栄光が帰せられるのではなく、神に栄光が帰されなければならない。たとい目を開けてくれたのがイエスであるとしても、イエスを持ち上げ過ぎて、神の栄光を忘れてはならない」。――そういう意味であると論じる人があるが、それはその通りである。ユダヤ人は神の栄光とキリストの栄光とを対立するものとして捉えたのである。
 「神に栄光を帰せよ。神のみだ。イエスに栄光を帰してはならない」という含みがここにあると読むならば、話しの筋は分かり易くなると思う。民衆はナザレのイエスの持つ癒しの力に驚嘆していた。律法学者たちはそれを危険な現象と見るのである。民衆は現世の御利益に目を奪われて、神の栄光という第一義的なことを忘れ、判断を狂わせて、人間に栄光を帰しているのではないか、と学者たちは憂慮した。
 その考えは民衆に対する批判・危惧として、必ずしも的外れではない。目先の利益、目に見える効果によって人々の判断が狂うことは稀でない。しかし、そういう判断をしている自分自身はどうなのか。この「自分自身」、「自分が自分である」という問題が、9章の盲人の癒しの物語りにおいては非常に重要な要素になっていることに我々はすでに気付いている。それが他の奇跡物語りとの違いである。この章の結尾にある主イエスの言葉、「もし、あなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなた方の罪がある」との御言葉は確かに自分自身を問い直すことについての鋭い指摘である。
 この奇跡がどのような事実であったかをキチンと捉えることは第一に大切である。律法学者はこの人の両親を呼んで、本当に生まれつき彼が盲人だったかを問いただそうとする。つまり、主イエスによってなされた事実をキチンと認めないようにしようとしたのである。また、第二に、その奇跡を行ないたもうた主イエスが何者であられるかを正しく判定することはさらに重要である。彼らはこの点でも失敗した。だが、この物語りではそれだけに留まらず、第三のこととして、奇跡と奇跡をなした人を判定するだけでなく、自分自身を判定することが欠けていてはならないと教えられる。
 この盲人だった人が25節で言っている証言は重要である。「私はただ一つのことだけ知っています。私は盲人であったが、今は見えるということです」。ここには、誰によって見えるようになったかの証言が省かれているから、甚だ不十分だと言えば言えるであろう。また、これはただ事実を述べただけの言葉で、当たり前であり過ぎて、余り意味がないと見られるかも知れない。それにしても、彼は自分が自分であるというその単純な事実、恵みを蒙ったことをシッカリ捉えて証言していた。
 これは先に9節でこの盲人が「私がそれだ」と言ったのと一連の自己証言である。「私がそれである」と言った「私」は、先には見ることが出来なかったが、今は見える「私」である。見えるようになったことがそのまま再生なのではないが、私がそれだ、というのは、再生した人間の自己確認を暗示している。
 我々も自分が自分であることをシッカリ捉えないままに、奇跡の問題に興味を持ったり、ユダヤ人の罪を論じたりしているならば、ヨハネ伝9章を深い関心をもって読んでも、結局何にもならないのだということを弁えよう。
 話しの本筋に戻って見て行くと、ユダヤ人らはこの人の両親を呼んで、主イエスに不利な証言をさせようとしたが、思い通りに行かないので、もう一度本人を呼んで、威圧を加えて、自分たちの判断を押しつけようとした。「神に栄光を帰するがよい」と言明したユダヤ人は、すぐ続いて、「あの人が罪人であることは、私たちには分かっている」と結論を押しつけて来る。あの人が罪人でないと言うなら、神に栄光を帰しないことなのだと申し渡しているのと同じである。
 彼らは初めから結論を持っていたと思われる。その結論について初めは自信がなかったから言わなかったが、自信がだんだん着いてきたらしい。
 「あの人が罪人であることは分かっている」とは、安息日規定違反の罪を確認しているという意味である。これが有罪かどうか、初めのうちは躊躇いがあり、断定を避けていたらしい。しかし、人々とのやり取りの中で、律法学者としての自負心はだんだん固まって来る。人々には判定が出来ないであろうが、我々には見えている。ここでは「私たち」というところに強調点がある。自分たちは律法と律法解釈を学んでいて、一般人とは違うのだから、我々が結論をハッキリ出して、迷いやすい一般民衆を教えなければならない。そう考えて、神の栄光を持ち出した上で、主張を押し出して来たのである。
 ここで、律法学者たちと盲人だった一人の人との対決になる。律法学者らは学者としての矜持と義務感をもって「あの人は有罪である」と結論する。彼らは絶対優位に立っているつもりである。反論する盲人が何を言っても、「お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えようとするのか」と言って、取り合わない。
 この章の初めで主イエスによって斥けられた通俗的な謬説、すなわち、生まれながらに盲人であるのは、両親の罪であるか本人の罪であるかはともかく、罪によって呪われている証拠であるという多くの人の迷信的解釈、これに律法学者らがまだ囚われていることが彼らの言葉の中に読み取れる。
 そして主イエスは親の罪の故でも本人の罪の故でもないと言って迷信を斥けて、「神の栄光」が現われるためであると答えたもうが、その通り、神の栄光が現われたのがこの物語りの骨子である。そして「栄光が現われた」とは、生まれながらの盲人が見えるようになった奇跡のことを指すだけではない。「神に栄光を帰するがよい」と偉そうに宣言して、自分たちこそが神の栄光を顕す務めを持っていると思っている人々の優位の立場が逆転して、見えない人が見えるようになり、見えると言う人が見えなくなることにおいても、神の栄光は現われ出るのである。
 神の栄光の現われの前では、「あの人が有罪であることは我々には分かっている」と裁いている人自身が罪に定められるという逆転が起こるのである。そして彼らの下した裁きには二重の意味で間違いがあった。第一は、イエス・キリストについての全く誤った判断である。神から遣わされた事実を認めず、罪なきお方を罪ある者と決めつける。自ら見えると思っていて、実は見えないから、判断が狂うのである。
 もう一つ、彼らはもっと一般的に言って、自分には裁く資格があると信じて、人を裁いている。「お前は全く罪の中に生まれたではないか。そのお前に何が分かるか」と決めつけるこの態度、ここに間違いがあることは我々第三者には割合よく見えるであろう。
 だが、我々自身が当事者になる場合、我々も同じ誤りをしながら、自分の過ちには気が付かないでいるかも知れない。
 律法学者がそのように自信に満ちているのに対し、それに立ち向かうのは、生まれつき盲人で乞食だった人である。歴然たる罪人ではないか、生まれつき呪われた者だったではないか、人々の憐れみに縋ってようやく生き延びて来た最下層の者ではないか、と律法学者らは見下している。世の全ての人も彼が律法学者の権威の前に一たまりもないと見ている。そういう人である。しかし彼は負けなかった。
 彼には拠り所は一点しかなかった。それは「私は盲人であったが、今は見える」というこの一ことである。これは9節にあった「私は私である」という確認の延長線上にある確認である。「私はかつて盲人であったが、今は見える」。この事実は動かないし、動かせない。そして、この事実を知っている故に、彼はけなされ、斥けられたけれども、ひるまずに学者たちに反論したのである。
 律法学者の拠って立つところは彼らの知識であり、また社会的地位・名声である。盲人だった人の拠って立つのは知識でなく、事実である。学識よりも理論よりも、事実の強みがあるということは、ここでは見逃せないことであるが、余り大きく取り上げる必要はない。けれども、理論や知識よりも事実の方が強いのは確かである。ただ、今ここで、事実が力を持つか、理論が力を持つかということを学んでいるのではない。
 ナザレのイエスが何者であるかについて、事実が有力か、学識が有力かということでは答えは明らかである。勿論、ここでは事実に力があるのであるが、それを特に強調しないと先に言った。なぜなら、イエス・キリストを証しするのは単に事実であるだけでなく、聖書ではもっと詳しく論じているからであって、律法と預言者の証しということを言うのである。またIヨハネ5章7節には違った視点からであるが、「証しするものは三つある。御霊と水と血である」と言われる。
 しかし、すでにヨハネ伝5章36節で聞いたところであるが、主イエスご自身が、「私にはヨハネの証しよりも、もっと力ある証しがある、父が私に成就させようとしてお与えになった業、すなわち今私がしているこの業が、父の私を遣わしたことを証ししている」と言われた。この5章で、「この業」と言われたのはベテスダの奇跡であるから、9章のシロアムの奇跡と同列のものと考えて良いであろう。すなわち、盲人の目を開けた業は、主イエスが神から遣わされたことの証しなのである。そのことはこの盲人にも分かった。
 32節でこの人は「生まれつきの盲人であった者の目を開けた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあの方が神から来た人でなかったら、何一つ出来なかったはずです」と言い、この事実一つで主イエスが何者であるかが殆ど証明出来ると言い切っているように思われる。キリストの証しは、上記のように詳しく論じることが出来るし、詳しい証しが必要な場合もあるが、今は父が私を遣わされたことの証しであると主ご自身が言っておられる「御業」を見るだけで十分と言って良い。
 盲人だった人は主イエスが父なる神から遣わされたと信じた。それは事実を基にした結論である。ユダヤの律法学者は彼らの律法解釈をもとにして、彼イエスは神から遣わされた者でなく、罪人だという結論に固執した。それに対して、盲人だった人は初め、「あの方が罪人であるかどうか、私は知りません」としか言えなかった。
 しかし、「私は生まれつき盲人であったが今は見える」という転換の事実を押し立てているうちに、「あの方が罪人であるかどうか、私は知りません」などという曖昧な言い方は出来ないことを悟るのである。これは単に事実があるというだけでなく、方向があり、事実は指し示すべきものを指し示すという意味が含まれている。
 この盲人の主張、これは律法学者の主張と比べて全く正しいのであるが、これはまだ十分な信仰とは言えない。彼が十分な信仰を得たのは35節以下で起こる出来事であって、主イエスが「あなたはもうその人に会っている。今あなたと語っているのがその人である」と言われたその御言葉で目は完全に開かれる。確かに、目が開かれたのは、み業によってではなく、御言葉によってであった。
 それでも、この盲人はキリストに向けて謂わば押し出されるようにして近付いて行く。
 この説明は上手には出来ないのであるが、見えぬ力が働いたと今は言っておく。ユダヤ人は「お前はあれの弟子だ」と言う。そして、彼を外に追い出した。追い出したというのは会堂から追い出したということであろう。会堂から追い出すのは、22節にあったように、イエスをキリストと告白した場合であって、この盲人が追い出されたのは、その振る舞いがキリストを告白するのと同じだと見られたからである。正確に言えば、まだそこまでは告白していなかったから、乱暴で不当なな判決だと言えるのであるが、判決のやり直しを求める必要はない。キリストは受け入れるべく待っておられたのである。
 

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