◆説教2001.11.04.◆

ヨハネ伝講解説教 第95回

――ヨハネ9:13-17によって――

 「人々はもと盲人であったこの人をパリサイ人たちのところに連れて行った」。このあたりのことを素朴に読んで感じるのは、奇跡のことを聞いた時の人々の困惑である。彼らは聞いたのであって、見たのではない。目の前で奇跡が行なわれたならば、人々はただただ驚嘆し、圧倒される。不信は吹き飛ばされてしまう。ただし、それにともなって目撃者の内面に変革が起こる場合は非常に稀である。彼らはそういうことをまた見たいと願いはするが、そう願って主イエスの後を追って行っても、キリストの後を追うことによって彼らの内面は何も変わらない。新しい人は生まれていず、成長もしないとにかく、ヨハネ伝9章に記されるこの事件は、人々の目の前で驚くべきことが起こったという単純な奇跡物語りではなかった。生まれつきの盲人の目が見えるようになるという事件そのものは、誰も見ていない、主イエスもおられないところで起こり、福音書記者もその情景を描き出すことはしていない。我々も聞いただけである。この出来事については、癒された人自身の証言によってのみ人々に知られたのである。だから、見えるようになった人が、盲人で乞食をしていたその当人であることが証明され、また当人が如何にして見えるようになったかを証しすることが必要であったし、その証言を聞いた人が信ずることも必要であった。 
この人が盲人であり、乞食であったことを知る近所の人々は、彼の目があけられた現場には立ち会わなかったから、目撃者の感じたような驚きはなかった。この話しの意味を受け取るには「本当だろうか」という疑いを乗り越えなければならず、また「物乞いをしていた本人に違いない」ということを確かめて見なければならない。ところが、本人と確認されて、疑い切れないことが明らかになったのであるが、そのとき人々は素直に信仰へと飛躍するのでなく、困惑するのである。そういう困惑しかこの奇跡によっては引き起こされなかったのである。 
奇跡物語りとはいえ、ここには徴を見て信じた人は癒された本人一人だけしかいない、そういう奇跡物語りで、それ以外の人々はみんな困惑しているということを読み取らなければならない。我々も信仰の姿勢を正して読まないと、困惑する者の一人になるだけである。 
人々は盲人だった人からナザレのイエスによって癒された経過を聞いて、事実関係は理解したようであるが、その意味について、喜ばしいことだったかどうかの判断すら出来なかった。そこで、パリサイ派の律法学者の判断を仰ごうとして、彼らのところへ連れて行ったのである。生まれつき盲人であった者の目をあけるという業は、神から特別な力を授かっている人でなければ出来ないのではないか、と一面では考えられる。しかし、神から遣わされた人が神の掟を破って、安息日に泥をこねたり、癒しをしたりするであろうか、と人々は迷う。我々も知っているように、命に関わる病気でなければ、安息日に癒しを行なってはならないことになっていた。 
律法解釈を専ら研究し、民衆から信頼されているパリサイ派の律法学者の判定を人々は求めた。普通の人の知恵では判定が出来ないけれども、権威ある専門家なら判定出来るであろうというわけである。しかし、この記事を読み進んで行くうちに明らかになるように、専門家には一般民衆と比べて進んだところはなかった。彼らには自負や体面という余計なものがあって、自分たち以上の権威に判定を委ねるという素直な考えにはなれなかった。だから、判定を求められた手前、自分には無理だと言えないままに、判定してしまったのである。しかも、その判定は裁きになってしまうのであるが、そのように裁きをすることに対するキリストの裁きがこの章の結論である。「もし、あなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今、あなた方が『見える』と言い張るところにあなた方の罪がある」。 
パリサイ人のもとに、もと盲人だった人を連れて行った近所の人たちは、犯罪の裁判をしてくれと訴えたのではないであろう。まして、癒されたことが呪わしいことだと裁かれなければならないとは誰も思っていなかった。 
彼らが盲人だった人を連れて行った先は、裁判所ではない。裁判所とは当時は議会である。議会にはパリサイ人もいたが、パリサイ派に反対の議員もいる。「パリサイ人たちのところに連れて行った」とは、議会と全く関係のない人ばかりであったと考えるには及ばないが、パリサイ派の学者の集まりに連れて行ったことを指す。そういうものが当時あったようである。そこは裁判所ではない。しかし、彼らのなすことは結局、裁判になってしまった。そして34節の言うように、この人は会堂から追い出されるという判決を受けたのである。――「会堂から追い出される」とは、共同体から破門になることであり、そうする権能をこのパリサイ人らがもっていたのである。 
本人の話しを聞いて、安息日が犯されたのではないかと人々は気にしたのである。泥をこねるというような汚ない仕事は、安息日には当然避けなければならない。しかし、行なわれた業は世俗的労働ではなく、大いなる奇跡であり、人助けである。安息日に宗教的意味を持つ儀式が行なわれることはよくあったようである。例えば、目に油注ぎをするというようなことはあった。だから、目に触ったことがあるというので、安息日規定を破ったと騒ぎ立てて、杓子定規に裁くわけに行かないのは誰にも考えられるではないか。実際、律法学者の間でも意見が分かれたことが16節に記されている。 
それなら、先にも述べたように律法学者は、へりくだりを弁えて、自分たちには判定する資格がないと結論して意見を言うのを辞退すべきであった。ところが、彼らは自分たちの限界を素直に認めようとしなかった。彼らは、後ではあからさまに主イエスを罪人と断定するのだが、初めのうちは主イエスのなさった業について判定することを避けて、その代わりに、盲人だった人に主イエスについてどう思うかを語らせ、その判定を裁くことにすり替えるのである。「お前の目をあけてくれた人をどう思うか」と尋ね、その答えについて裁いたのである。そして結局、この人を会堂から追い出すという裁きを下したのである。 
パリサイ人たちはまた、18節が言うように、盲人であった人が見えるようになった奇跡が事実であることを認めたがらなかったのである。「そういう事実はなかった。何かの錯覚であり、単なる風評が立ったに過ぎない」ということにして置きたかった。また、見えるようになったとしても、イエス・キリストによってそうなったのではないということにして置きたかった。 
さて、人々がもと盲人であったこの人をパリサイ人のもとに連れて行った理由は、14節に書かれている通りである。「イエスが泥を作って、彼の目をあけたのは安息日であった」からである。ただ目をあけるだけなら、安息日でも問題にならなかったのかも知れない。「泥を作る」というような汚れ仕事を、安息日に行なって良いのかという疑いがあった。パリサイ人から尋問されたときの答えでも、この人は「泥」ということに触れている。これを問題にしたのは先ず民衆である。 
もう一つ、「泥をこねて目に塗る」という汚い怪しげな手段を癒しに用いて良いのか、それは魔術やマジナイではないか、という疑いがあったのかも知れない。魔術やマジナイは律法によって禁止されている。 
15節にあるように、「パリサイ人たちもまた『どうして見えるようになったのか』と彼に尋ねた。彼は答えた、『あの方が私の目に泥を塗り、私がそれを洗い、そして見えるようになりました』」。 
盲人だった人は、先に近所の人や、自分がかつて乞食であったことを知っていた人から問われて話したことをそのまま繰り返した。そして繰り返しによって、本人には事柄の意味が少しずつ深く分かって行ったと思われるが、安息日ということ、シロアムの池ということにここでは触れていない。 
16節に入って行く、「そこで、あるパリサイ人たちが言った、『その人は神から来た人ではない。安息日を守っていないのだから』。しかし、ほかの人々は言った、『罪のある人が、どうしてそのような徴を行なうことが出来ようか』。そして彼らの間に分争が生じた」。 
パリサイ派の律法学者も、一般人と違うところはなかった。意見が割れたのは二種類の人がいたということではなく、それぞれの人の中に二つの意見がせめぎ合っていて、黒白を付け難かったが、より強い意見が他の意見を抑えて表明されたという実情であったと考えた方が良いであろう。 
「あるパリサイ人たちが言った」とあるが、その意見の人は一部であった。「しかし、他の人々は言った」と書かれているように、反対論もあった。彼らの間で意見統一が出来ていなかった。当時の律法学者の間で、安息日に「何の業をもなすべからず」と言われている戒めをどう解釈すべきかが驚くほど詳しく論じられていた。しかし、その解釈を当てはめても、この日に主イエスのなさったことが良かったか悪かったかはハッキリ言えなかった。 
一方の意見は安息日規定に表面的・形式的にこだわっている。福音書でよく見掛けるパリサイ人の典型的な態度である。このこだわりは彼らにとって重要なものであったが、この論争においては、真剣に追求され、議論が深められたとも思われない。安息日をどう守れば正しいのかという議論にはなって行かなかった。 
もう一つの意見は、「このような大いなる奇跡を行なう人が罪人であるはずがない」という常識的推論である。もっともらしい言い分であるが、これも堅固なものではない。 
推論だから、告白にならない。パリサイ派内部で言い争いしている間にどこかに消し飛んでしまった。双方とも真剣に討論しなかったから、論争の焦点は曖昧になって別のことに転じてしまう。 
パリサイ人らは、盲人だった人に「お前の目をあけてくれたその人をどう思うか」と尋ねる。イエスが何者であるかという自分自身にとっての問いをはぐらかして、盲人だった人の意見を問題にする。 
ここで思い起こすのは、マタイ伝16章に記された一つの場面である。「イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時、弟子たちに尋ねて言われた、『人々は人の子をだれと言っているか』」。こう問われて弟子たちは口々に人々の言っていることを答えた。 
しかし、人々が何というかは問題ではなかった。「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなた方は私を誰と言うか』」。――人が何と言っているかを語っていても意味をなさないのである。私がイエスを何と言うかが大事なのである。 
だから、パリサイ人たちは盲人だった人に問うのでなくて、「私は彼をどう思うか」と、自分自身に問わなければならなかった。パリサイ人の間でもナザレのイエスが何者であるかは一大関心事であったではないか。先の8章30節でも、「多くの人々がイエスを信じた」という言葉を読んだ。7章45節以下のくだりでは、「パリサイ人の中で一人でも彼を信じた者がいるだろうか」ということが論じられていた時、指導者の一人であるニコデモは、ことを慎重にかつ公平に扱わなければならない、とたしなめて、彼自身の態度表明はしなかったが、主イエスについて人が態度表明するときにはこれを重んじなければならないと諭した。そのように、パリサイ人の間でイエスは何者であるか、自分たちはどう態度表明をすべきかが問題になっていたのである。だから、もと盲人であったた人に、見えるようにしてくれた人をどう考えるかを言わせたのは、自分たちは言わないでおいて、人に言わせることであった。 
問われた人が「預言者だと思います」と答えると、パリサイ人はまたまた困惑する。預言者であれば、それを信じないことが問われるのである。そこで、問題をこれ以上紛糾させないように、話題を切り替えて、「彼がもと盲人であったが見えるようになった」ことは信じられない、と言い出したのである。18節で見る通りである。 
この人が「お前の目をあけてくれた人をどう思うか」と問われて、「預言者だと思います」と答えた時、彼は一歩踏み出したのである。彼はイエスという方が自分の目をあけて見えるようにして下さったことまでは知っていた。そのイエスという方がどういう方であるかは知らなかったようである。人々から問われて、「イエスという方によって目が見えるようになった」と答えた時、その方がどういう方であるかを述べていないが、どういう方であるかを捉えていなかったからである。実際、それが分かっていたなら、目が見えるようになって、そのまま帰ってしまうことはなかったであろう。感謝を表明するために主イエスのもとに行ったのであろう。 
「預言者である」と理解したのは、彼の中に少しずつ固まりかけていたものが、パリサイ人から問われて一挙に答えになったのであって、こうとしか考えられない結論ではあるが、まだハッキリしたキリスト告白にはなっていない。引き回されて、答えさせられているうちに、主イエスがして下さったことを何度も思い起こし、また恐らくシロアムという地名の意味も悟らずにおられなかったのであろう。このことについては30節から33節まででもう一度聞くが、「私の目をあけて下さったのに、その方がどこから来たか御存じないとは、不思議千万です。私たちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞き入れになりませんが、神を敬い、その御心を行なう人の言うことは聞き入れて下さいます。生まれつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあの方が神から来た人でなかったら、何一つ出来なかったはずです」と言っている。 
「預言者である」とは、神の言葉を語る人であり、また神から「遣わされた者」、「シロアム」であると悟ったことを意味する。しかし、彼はまだ主イエスから預言を聞いていない。「神を敬いその御心を行なう人」に違いないとは信じたが、その方の御言葉を聞いて、これは神から遣わされた方だと確信したのではない。信仰は御言葉を聞いてこそ生じるのである。生まれつきの盲人の目をあけるような大いなる力を持つのは預言者に違いないというのは、信仰というよりは推測なのである。この大いなる力に触れて信じますと言わざるを得ない場合はあるが、初めに触れたように、その信仰は一時的に信じないではおられないのであるが、持続しない場合が多い。悔い改め、生まれ変わることがなければならない。 
では、この人は信仰以前であったのか。彼が38節で「私は信じる」と言うまでは信仰はなかったのだが、彼が目を開いたことは信仰の目を開くことの象徴である。「私は世の光りである」ということを主イエスは8章12節で言われたが、この人の目を開ける直前、9章5節でも言われる。つまり、光りが照っており、その光りを見る目が今開かれると宣言されたのである。我々の目も今開かれなければならない。

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