◆説教2001.10.07.◆

ヨハネ伝講解説教 第92回

――ヨハネ9:4-5よって――

 道を通って行く途中、生まれつきの盲人を見て、弟子たちは主イエスに「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねた。彼らは苦悩や不幸という問題に真剣に悩んで、答えを求めたのかも知れないし、ごく軽い気持ちで話題にしただけかも知れない。しかし、それはどちらでも同じことである。世界の苦しみに関心を抱く人に我々が親近感を持つのは当然であるが、我々の学ばなければならない事柄はこの問いの中にはない。
 主イエスは答えて言われた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ、神の御業が彼の上に現われるためである」。主のこの答えを聞いて、深い感動を味わう人が多いことを我々は見聞きしている。しかし、その感動に酔っているだけでは、余り意味がないことにも気付かなければならない。それに続く主の言葉自体がそのことに気付かせるのである。彼は先に進みたもう。もっと高く登りたもう。
 「私たちは、私を遣わされた方の業を、昼の間にしなければならない」。
 「これは神の業が現われるためである」と主は答えられた。生まれつき目が見えないという不幸。生まれた時から見えないのであるから、見るということがどういうことかも分からない。したがって、見えるようになりたいとの願いを起こすこともない。しかし、それは神の業が現われるためであると説明され、また意味づけられたことは大きい感動である。歴史の書き換えが始まったと言えるほどである。すなわち、これまで、運命によって呪われた道が定められており、それに従って歩むほかないと諦めることが生きる知恵だと考えて来た人々に、主イエスは本当に生きる道は別にあると教えたもうた。
 もって生まれたハンディキャップを運命への屈服、泣き寝入りによって処理するのでなく、それを乗り越えて行く道が開かれるのだ。そこでは我々の頭を切り替えなければならない。――しかし、主は「頭を切り替えなさい」と教訓を垂れたもうのではない。「それは神の御業が現われるためであり、その御業に私たちが参与しなければならない」と言われた。そこへ踏み込んで行くのである。
 ここで、「私たち」がしなければならない、と言っておられることを見落としてはならない。主イエスは「私がこれから神の御業を行なう。あなた方は見ていなさい」と言われたのではない。「私たちがその神の業をするのだ」と言われる。
 実際は、主イエス一人がその御業を行なって、神の栄光を顕された。弟子たちは見ていただけである。にも拘わらず、「私が」と言わず「私たちが」神の御業を行なうのである、と言われる。「私たち」という言い方には、そこにいる弟子たちを含んでいることは言うまでもない。だが、弟子たちはここで何かをしたのか。確かに、何もしていない。では、「私たち」とは意味のない言いまわしだったのか。
 そうではない。主は何もしないし、何も出来ない弟子たちを抱え込んだその「私たち」が神の業をするのだと言われた。何もしない弟子たちは、何もしないながらに、そこにいるというだけで、神の働きに参与していると言われるのだ。これを奇妙な言い方と思ってはならない。むしろ、これが神の御業についての聖書の本来の言い方なのだ。
 小さい問題に触れるが、聖書本文でこのところを「私は私を遣わされた方の御業を昼の間にしなければならない」と書いているギリシャ語写本がある。この文章はこれとして内容的にも文法的にも誤りを含んでいない。だから、書き写す人は、聖書本文を改竄しようと思ったわけではないが、何げなく「私」と書いてしまったのであろう。しかし、昔から、聖書本文を書き写す人たちの大部分は、この箇所を我々が今読むように読んで来た。このように読むのが正しいと我々は考えるのである。
 一つの実例を思い起こすのである。歴代志下20章に記されたところであるが、ユダの王ヨシャパテの時代に、モアブ人、アンモン人、メウニ人が攻めて来た。その時、主の霊がレビ人ヤハジエルに臨み、彼は預言して言う、「ユダの人々、エルサレムの住民、及びヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなた方にこう仰せられる、『この大軍のために恐れてはならない。戦いてはならない。これはあなた方の戦いではなく、主の戦いだからである。明日、彼らの所へ攻め下りなさい。見よ、彼らはヂヅの坂から上って来る。
 あなた方はエルエルの野の東、谷の端でこれに遭うであろう。この戦いには、あなた方は戦うには及ばない。ユダ、及びエルサレムよ、あなた方は進み出て立ち、あなた方と共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。戦いてはならない。明日、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなた方と共におられるからである』」。これと同じ主旨の言い方が、聖書の至る所にある。
 説明の必要はないであろう。イスラエルが戦うのでなく、主が戦って勝利したもうた。
 イスラエルは信頼に固く立っておれば、主の勝利に与ることが出来るのである。ただ、イスラエルは主に何もかも任せて、退いて寝ころんでいるのでなく、目覚めて、雄々しく立って、前進して、主と共にいて、主の勝利を見なければならなかった。これが主の民の戦いの原型である。
 単に戦いだけでなく、全ての主の御業はこのようにして遂行される。そのことを確認するのが信仰の真髄であると言わなければならない。これが分からないならば、信仰について分かっていないのである。イエス・キリストが盲人の目を開きたもうた御業、それを「私たち」のなすことと言われたのも同じである。
 信仰を持つ人が持たない人よりもズッと良い行ないをする。だから、信仰は素晴らしいことだ、という見解が何となく人々の間に受け入れられている。そこで、我々は人一倍頑張って成果を挙げようではないか、それが信仰の証しである、と考える風潮がクリスチャンの間にも強い。しかし、その考えに「待った」が掛けられる。我々が戦うのでなく、主が戦いたもうのである。我々が主体であって、我々が積極的に戦わねばならない。我々が積極的にならなければ神の助けは得られない。神は我々の働きを支える役であると見る見方が我々の間で盛んであるかも知れない。それは積極的人生観として世の人々の高い評価を得るかも知れない。しかし、主の教えと縁がない。
 先にも触れたところであるが、ヨシャパテの時もそうであったように、主が戦いたもうからと言って、イスラエルが引きこもって昼寝でもしておらば良い、と思ってはならない。イスラエルは出て行かねばならない。主の戦いたもうところへ行って、主の業を見なければならない。そう命じられる。
 主イエス・キリストが盲人の目を開きたもう。その時、弟子たちは、自分に関係のないことだ、自分の出番ではないのだと言ってはならなかった。見ているだけだと言えば、たしかにそうなのだが、傍観者あるいは偶々居合わせた目撃者として見るのではない。
 弟子たちもそこに乗り出して行かねばならない。身を乗り出してこそ、主の御業を見ることが出来るのである。そして主の御業に参加する光栄を受ける。
 このことをさらに詳しく立ち入って教えられなければならない。この事情を解明する鍵になる言葉がここにある。主イエスは「私を遣わされた方」と言っておられるが、視点を変えて言えば、「私は遣わされた者である」と言っておられるのである。父が私を遣わされたという言い方は、これまでも屡々なされた。我々はもう十分理解したつもりになっている。が、それを今日は改めて教えられ、肝に銘じるのだ。「遣わされた者」、これがこの9章を読み解くキーワードなのだ。「遣わされた者」というのがキーワードであるというのは、素晴らしい着想というほどのものではなく、初めからハッキリしている。
 ハッキリしていると言ったが、誰でもハッキリ分かっていたということでは必ずしもない。事柄自体はハッキリしているのに、読み落とす場合が多かった。我々もそうだったのではないか。主は盲人の目に泥を塗って、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。我々は読み落とし勝ちなのであるが、ヨハネ福音書の記者は読者のために、親切にも、ここに「遣わされた者、の意」と註釈をつけている。単なる奇跡物語りではない。どこかの池に行けば良いということで、池の名を指定されたのでもない。謎がかけられ、謎は解かなければならないが、解くことが出来るように、ヒントが与えられた。
 それでも、我々は鈍くて、なかなか悟らなかったのである。
 盲人が目を開くとは、単にこれまで見えなかった景色が見えるようになることではなく、「遣わされた方」に対して目を開くことなのだ。それは肉体の開眼ではなく、信仰の開眼である。信仰の開眼とは、神から遣わされた方が来ておられ、その方が使命を持っておられ、その方によってこそ目が開かれたのだと確認することなのだ。
 我々はこの出来事を他人の身の上の事と見てはならない。我々自身も「遣わされる」ということに目を開かなければならないと悟ろう。すなわち、第一に、私に対して、またこの世に対して、この時代に対して、神が御子キリストを遣わしておられることをキチンと把握しなければならない。
 そして第二に、「私が遣わされている」という事情を読み取らなければならない。主イエスの言葉も、その意図も、全くハッキリしているのであるが、人々がそれをハッキリ読み取っているわけでは必ずしもない。先に言ったが、謂わば、謎を掛けるような形で、「シロアム」という言葉が差し出されている。これを単なる地名としてしか読み取れない人が多い。その地名の意味、その地名から示唆されることまで読み取らなくても、この物語りの含む内容は実に豊かであり、かつ圧倒的であるから、読む人は簡単に満足してしまう。そして、それ以上深く意味を読み取ろうとはしない。この盲人自身も、シロアムという池の名前に対して直ぐには目を開かなかった。
 しかし、彼の心の目は徐々に開かれて行く。「見えるようになった。そして帰って行った」というところで物語りの結末になるのではない。彼の心の目が開かれて行く過程が歴然としており、それがこの章では重要なのである。彼がシロアムという言葉の意味に気付いたとは書かれていないが、当然、気付いたと読み取らなければならない。すなわち、自分自身が遣わされた者であることに目覚めたのである。彼が遣わされた者として証ししていることを我々はこの章の後半で読むのである。
 そこから、さらに考えなければならないのは、我々はどうなのかということである。我々も遣わされた者としての自分自身に気付かなければならない。ここで思い起こさなければならない御言葉がある。ヨハネ伝20章21節である。復活の主イエスは言われる、「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」。キリストが「遣わされた者」シロアムであるように、癒される盲人もシロアムの池に行けと命じられただけでなく、彼自身がシロアムとなるのだ。そして、ここに居合わせた弟子たちもシロアムとなるのだ。
 「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」。私に対して神が御子を遣わされるというだけではない。私もキリストから遣わされて、この世と向かい合う。
 ここで、遣わす者と遣わされる者とが重ね合わせられる。
 そこで、「私たち」という言葉を主がお使いになる意味がハッキリして来たではないか。私たちとは、遣わされた者としての私たち、ということなのだ。「私たちは私を遣わされた方の業を昼の間にしなければならない」。あなた方が遣わされた者であることは、あなた方にはまだ分かっていないが、いずれ分かる日が来るのだと言っておられる。
 これは弟子たちもやがて遣わされて、キリストのなしたもうたような業を行なうことを暗示したのだという解釈がある。考えられない解釈ではないし、こういう解釈を排斥する必要はない。心の目を開けることは使徒の務めである。だが、先に示したような、キリストお一人が働きたまい、それがキリストとキリストに従う者との共同の業と看倣されるという解釈を優先させなければならない。
 「私たちは神の御業を昼の間にしなければならない。夜が来る。すると誰も働けなくなる」。ここでは遣わされた者が業をなす時について考えることを促されている。第一に、我々の参与する業について良く理解しなければならない。第二に、その参与に時がある。主が働いてその御業をされるならば、我々は今は引き下がっていて、後で見に行っても同じなのではないか。そうではない。主の御業を後から行って確認するだけなら、確認にはなっても、それはお話しである。驚くべきお話しに過ぎない。後になって「主の御業は大いなるかな」と叫んだところで、主の御業が大いなるものであることはその通りであるが、その叫びには大して意味はない。主の業には時があり、我々がそれに参与するには時がある。
 「夜が来る。すると誰も働けなくなる」。これは、一つには、ご自身の時が限られていることを語られたものである。第二に、我々の時も限られている。さて、第一の点であるが、永遠なる神の子が時間の限定のもとにおられたとは解せない、と言う人があるかも知れない。だが、それは違う。彼はすぐ続いて、「私は、この世にいる間は世の光りである」と言われるが、「世にいる間」は限られているのである。
 「世にある」とは、肉体をもって地上に生きるという意味である。彼は「世の終わりまでいつもあなた方と一緒にいる」と約束され、その約束が真実であることを我々は知っている。それは御霊において我々と共にいたもうことであって、肉体をもって共にいたもうた時のような仕方で共にいたもうのではない。だから、ヨハネ伝12章8節で言われたように、「貧しい人たちは、いつもあなた方と共にいるが、私はいつも共にいるわけではない」のである。
 真理というものは常に変わらないと我々は承知している。それは決して間違った理解ではない。けれども、真理を求めるのはいつでも良い、年中無休、24時間営業のコンヴィニエンスストアのようなものを空想してはならない。主イエスは12章35、36節で言われる、「もう暫くの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない。光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」。光りの子となる時は限られているのである。
 これは彼が去って行かれる時が来ようとしていることを特に指したものであるが、同時に、もっと一般的に、ご自身との出会いに時があることも含めておられる。イザヤ書55章6節は「あなた方は主にお会いすることの出来るうちに主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と言う通りである。「いつでも呼び求めたくなった時に来なさい」と言われるのではない。
 遣わされて務めを果たす時も、いつでも備わっているということにはならない。夜が来れば働けなくなる。世界の終わりが来れば、働けなくなる。そのような夜が迫っているのだ。  

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