◆説教2001.09.16.◆

ヨハネ伝講解説教 第90回

――ヨハネ8:54-59によって――

 主イエスは「私がもし自分に栄光を帰するなら、私の栄光は空しいものである」と言われた。ここには重要なメッセージが籠められている。先ず、これをどのように聞き取るべきかを考えたい。
 人は往々にして、自分自身をもとにしてキリストを理解しようとし、自分と同じように、あるいは自分を裏返したように見て、それで分かったと思ってしまう。今ここで主が語っておられる主題について言うと、我々が自分で自分の栄光を主張するならば、その栄光は空しいという生活経験があり、そのようにイエス・キリストも説いておられると見て、それで分かったということになり、終わってしまう。が、それで良いのか。
 自分が何であるかを主張し、あるいは評価することが大事なのだと今の世の人々は言っている。自己評価が出来ない人間は、人間として失格だとこの世では決めつけられる。
 だから、人々は争って自分を売り込む。私にはこれが出来ます。あれも出来ます。こういう資格を持っています。
 なるほど、そうかも知れない。腕の良い職人でも人に知られなければ埋もれてしまう他ない。「これが出来ます」と言う人にその仕事を頼めば、まずまず失敗はないというのが今日の常識である。出来ないのに出来ると言うならば、詐欺である。その常識が一応通用すると認めて良いが、一番大事なことが落ちているのではないか。
 例えば、「私が治療をしてあげる」と看板を上げている人はあちこちにいる。その人に治療してもらうと一応病気は癒される。しかし、何かが欠けていて、痛みは取れたが病気そのものは内攻して行くとか、肉体の健康は回復したが人間そのものは回復しない、という問題が累積して行く。
 こういう問題に気付いている人は、人間はもっと総合的に癒されなければならないのだと悟り、そう悟った人のうちから、自分こそ総合的な癒しが出来る人にならなければならないと使命を感じ、また自分をそのような者であると規定し、そう宣伝する人が出て来る。では、総合的な癒しが行なわれるようになったかというと、病気の治療などについては進歩したとしても、根本的な事柄については問題が先送りされただけ、あるいは問題がもっとコジレただけではないか。
 イエス・キリストは「誰でも渇いている者は私のところに来て飲むが良い」と言われる。これは真実な呼び掛けであるが、これを単なる自己主張であって、ただ語り手が完全無欠な方であったから真実なのだと取っては不十分である。「ほかの人には出来ないが私には出来る」という意味がここに籠められていることは確かであるが、人々の行なう自己宣伝と同列のものがここにあると見ては読み違いになる。彼はご自身の栄光を主張なさらない。キリストが或る意味でご自身を主張されることは確かであるが、それは例えば製薬会社が「ウチの薬はよそのよりもよく効きます」と宣伝するようなものと同列ではない。そこで、キリストの自己主張がどのようなものであるかを正しく捉えなければならない。
 キリストはご自身の名声を求めたまわなかったのである。そのことの意味をさらに掘り下げるのが今日の学びの要件なのだが、それに先立って、我々自身がここから何を学ぶべきかを見て置こう。自分を売り込むことが風潮となっているこの時代の中で、我々は自らの栄光をもとめたり、自己宣伝をしてはならないのである。
 自己宣伝必ずしも偽りと見る必要はない。他の薬では治らなかった病気が今度発見された薬で治るようになったというような事例は幾つもある。効かないのに人を騙して薬を売りつけるような悪徳商法が淘汰されて行くことは必要である。教会にもそのような意味での自己宣伝があるべきだという考えは成り立つであろう。淘汰されなければならない教会があることは事実だ。
 この問題にこれ以上深入りすることは今日はしない。主イエスがご自身の栄光を主張されなかったように、我々もそうすべきだということを見ておきたい。だが、それは我々が専ら遜りの道を行くべきだというだけのことではない。
 第一に、「私は自分に栄光を帰さない」と言われたのは、「私でなくて、私を遣わされた父に栄光を帰すべきだ」という意味である。そのように我々も自己主張をしないだけでなく、神の栄光を求めねばならない。そして、父なる神に栄光を帰するならば、父が私に栄光を帰したもうということは、我々の場合においても事実なのだ。
 ここで大事なのは、「私に栄光を帰する方は私の父である」と言われるその父が、如何なる方法によってキリストに栄光を与えたもうかである。自らの栄光を求めないで父の栄光を顕す者に父が栄光を得させたもうということは、一般的に言えることではあるが、それだけの理解ではまだまだ不確かなのである。特定の出来事との関連を学ばなければならない。
 最後の晩餐を閉じるに際し、17章の初めで主イエスの語られる御言葉をここで聞かなければならない。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すように、子の栄光を顕して下さい。あなたは、子に賜わった全ての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」。
 挿入された1節をおいて、また言われる、「私は私にさせるためにお授けになった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を顕しました。父よ、世が造られる前に、私がみそばで持っていた栄光で今み前に私を輝かせて下さい」。
 この祈りの終わりに近いところでまた言われる、「天地が造られる前から私を愛して下さって、私に賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。天地の造られる前からキリストはおられ、キリストは栄光を持っておられたが、常時その輝きが見られたのではなく、それが現われ出るのは、特定の時なのである。
 その特定の時とは、十字架の時である。キリストの栄光を理解する鍵は十字架である。
 彼が父の栄光を顕したもうたのも特に十字架においてであるが、彼の栄光の現われたのも十字架においてである。そこまで踏み込まなければ、8章で語っておられる栄光を正しく把握したことにはならない。
 同じように我々の栄光も、十字架を抜きにしては理解したことにならない。すなわち、ここで言う十字架は、「めいめい自分の十字架を負って私について来なさい」と主が言われた我々自身の十字架である。
 次に、主イエスに栄光を与えるお方が神であると言っておられる点を見たい。
 先ず第一に、私は自分自身で栄光を求めもせず、主張しもしないと言われることとの関連を見なければならない。主はここで、謂わば「人々の間では自分の栄光を求めるのが当たり前だが、私は自分の栄光を求めない。私は自分では求めないが、私を遣わされた父が私に栄光を与えたもう」と言われるのである。
 主イエスがそうであっただけでなく、他の人においても、栄光は神から与えられるものである。人々の「栄光」と言っているのはホントウの栄光ではなく、人間の作り上げたもの、栄光まがいのものであって、譬えるならば、王が自分の制定した最高勲章を自分の胸につけるようなものである。子供が勲章をこしらえて飾って喜ぶのと本質は何ら異ならない。もっとも、子供と同じことをしているとは見られないように、功績や実績のある人にも勲章が与えられる。そのように、自分の栄光を求める人は自分だけを誉めていては信用されないことを知っているから、人を誉めることも怠りなくやっている。
 しかし、真の栄光であるかどうかの区別はつく。神が本来持っておられる栄光、そして神がそれを与えることをよしとして与えたもう栄光、それが本物である。その本物は永遠のものであって、一時的にしか続かず、やがて恥に帰するものは偽物の栄光である。
 「あなた方はその神を知っていないが、私は知っている。もし、私が神を知らないと言うならば、あなた方と同じような偽り者であろう。しかし、私はその方を知り、その御言葉を守っている」。
 主イエスはユダヤ人とご自身とが比較にならないほど違っている肝心の点を示しておられる。第一に、神を知る点である。第二は、御言葉を守ることである。ユダヤ人は自分は神を知っていて、それが神なき異邦人との違いであると思っていた。なるほど、エペソ書2章11節以下には、今キリスト者になったエペソの人々も、かつては「肉によれば異邦人で、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく。この世において希望もなく神もない者であった」と言う。約束を知っているか否かの違いは絶大である。だが、ユダヤ人らの知っている程度では、知ったことにならない。
 なるほど、彼らは神の約束を或る程度知っている。神の戒めも或る程度知っている。しかし、直接に知るのでなく、全て間接的に知っているのである。神と人との間に介在するもの、言葉によって知っている。それも正しくその言葉を知っているとは言えない。
 ところで、ユダヤ人が神を知らないと言われるのなら、我々も神を知っておらず、言葉を通してしか知らないことになるのではないか。また、それしか知る道はないではないか。まさにその通りであるが、我々が言葉を通して知るというその言葉、すなわち、肉体となりたもうた言葉を、我々は心から重んじている。ユダヤ人は、かつて石に刻まれ、今書物に書かれている言葉を重んじると自慢するが、せいぜい文字を知っているだけである。肉体となって世に来たりたもうた言葉、「言葉は神そのものである」と言われるその言葉を無視するから、彼らは生ける神を知らない。
 主が「私は神を知っている」と言われるのは、そこから来たから、そこから生まれたから、直接知っているという意味である。すなわち、神ご自身が直接ご自身を示したもうのと同じだけ直接的にキリストは我々に神を示したもう。だから「私を見た者は父を見たのである」と言いたもう。
 さて、次に「あなた方の父アブラハムは、私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そして、それを見て喜んだ」と言われるのは、先祖アブラハムの態度と子孫のユダヤ人の態度がまるで逆ではないかということを指摘されたものである。
 言葉を通して知るだけならば、我々もユダヤ人と同じではないか、という疑問が我々のうちに生じるかも知れない。確かに、この点は考えて置いて良いのである。我々も生ける御言葉に聞くのではなくて、文字面をなぞっているだけ、文字にこだわっているだけに過ぎないかも知れないから、自己吟味が必要なのだ。
 今、我々に与えられているのは、聖書の言葉を通じて神を知るという道である。それは間接的な知り方ではないか。確かに間接的である。キリストを通して神を知ると言っても、そのキリストも見ているわけではなく、証人の証言を通じて、しかも文字になった証言を通じて知っているのだ。
 だから、聖書の文字を知るだけでなく、文字を通して生けるキリストと出会わなければならない。それは聖霊によって現実となるのであって、昔を偲んで、あたかも昔に逆戻りしたかのような感じの思い出に耽ることではなく、今天にいますキリストが御霊によってここに来て、キリストとの交わりを現実化したもうことである。
 アブラハムの場合は我々の場合と違って、キリスト以前であったし、キリストの来臨について誰かが証言したわけではないが、直接にキリストの日を見たし、キリストとの交わりの現実を楽しんだという点では同じである。だが、アブラハムがキリストの日を見ようとし、また実際に見たというのはどういうことか。
 そういうことがあり得るかという疑惑に対しては、ユダヤ教のラビたちのうちに、アブラハムには来たるべき日が示されていたという解釈があったという事実をもって先ず答えて置くことが出来る。この時のユダヤ人がそのことを知っているから主がこういう言い方をされたのかも知れない。
 ところが、ユダヤ人はともかく、今の人にそれを承知させるのは無理ではないかと言われるかも知れない。だが、アブラハムは「信仰者の父」と言われるように特別な人であった。神は直接に彼に現われて、約束を与えたもうた。アブラハムは神と共に歩んだ数少ない人の一人である。彼は必要な限りの全てのことを示されていた。彼にとっては来たるべき日の幸いは、遠い彼方の、現実性の稀薄なことではなく、現実のことであった。これこそ彼が「信仰の父」と言われる理由の最たるものである。
 これを聞いてユダヤ人はあざ笑うのである。「あなたはまだ50にもならないのに、アブラハムを見たのか。あなたが生まれる遥か昔にアブラハムは死んでいたではないか」。
 これと別の場合であり、問題になっていることも同じではないが、或る意味で似ていることを思い起こす。マタイ伝22章とマルコ伝12章に記されているが、復活を否定するサドカイ人が主イエスに論争を挑んだことがある。一人の女性が七人の兄弟を次々夫にせざるを得ない事情になった。復活の日に彼女は誰の妻となるべきか、という愚劣な質問である。主イエスは答えて、「あなた方がそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」と言われ、そして「神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
 人は次々に死んで行く。アブラハムも死んだ。イサクも死んだ。ヤコブも死んだ。死ねばもうどうにもならないではないか、死んだ人が甦っても混乱を重ねるばかりではないか、とこのサドカイ人は言う。主はあなた方は神の力を知らない。「アブラハムの神」とは、かつてアブラハムの神と言われたもの、死者の神という意味であろうか。人間の時が過去に呑み込まれて行くように神の力も過去に押しやられると思っているのか。アブラハムの神は今もいつまでもアブラハムの神だということを知らないのか。神の前ではアブラハムはいつまでも現在のアブラハムである。そう主は言われた。
 ヨハネ伝8章の終わりでも、同じように言えるであろう。アブラハムは死んだとあなた方は言うが、アブラハムを遥か遠い昔の人と見てはいけない。神の前では時は過去に埋もれて行くのではなく、未来、まだ来ていない時もなく、常に現在なのだ。そして、アブラハムは神の前に常に現在なのだ。
 アブラハムだけを取り上げても神が死人の神でなく、生ける者の神だということが言えるが、キリストがここに関わって来られると、もっと大事なこととが明らかになって来る。彼は「私は甦りであり、命である。私を信ずる者は死んでも生きる」と言われる。
 彼の前にアブラハムは死んだということを持ち出しても意味はなくなる。
 「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」。これは彼が万物の造られた初めからおられることを語られたものであるが、初めから生きておられたこと、したがってアブラハムがキリストを見たことを捉えただけでは足りない。イエス・キリストはへブル書13章8節に言われるように、「昨日も、今日も、とこしえまでも変わりたもうことがない」。このことの確認が必要である。
   

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