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ヨハネ伝説教 第9回

――1:17,18によって――

「律法はモーセをとおして与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストをとおして来たのである」。――ここでは、律法と恵みが対置され、したがって、律法の中には恵みがないと言っているように見えるかも知れない。しかし、それは正しい読み方ではない。ローマ書7章12節に「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」と言う。ヨハネ伝でも、7章19節に「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行なう者が一人もいない」と主イエスは言われる。律法は行なうべきものであると主イエスは言われる。律法のうちに恵みはある。ただし、我々に届かない。
 「律法」という言葉がヨハネの福音書に登場するのもここが最初である。説明なしでいきなり入って来たが、読む人はすでに幾らか知っているからであろう。ここで「律法」という言葉がどういう意味であるかを説明して置く必要があるかも知れない。だが、もし過不足なく論じようとするならば、少なくとも今朝の一回分は律法の解説に費やさなければならない。しかし、そう詳しくなくても福音書を読み進む支障にはならない。今はごく僅か二点に触れるだけで十分ではないか。一つの点は、キリストとの関係の中で律法を見て行くことである。17節はそれである。もう一つは、全く常識的なことであるが、律法は、或る場合には個々の戒めを指し、或る場合はそれらの戒めの全体系を指し、或る場合にはモーセの書を指し、或る場合には旧約全体を指す。
 神はイスラエル民族がエジプトで奴隷状態に置かれ、救いを叫び求めた時、イスラエルの先祖に対する恵みの約束の故に、これを救い出そうとし、モーセを立ててこの民族の指導者とし、エジプト脱出を決行させ、彼らが数々の奇跡を経験してシナイ山に辿り着いた時、十の戒めからなる律法を与えて、イスラエルと契約を結びたもうた。
 さて、17節を読んで、モーセとイエス・キリスト、あるいは律法と福音とが対立すると見るのは正しくない。対立的に捉える人がいることは事実であるが、その捉え方は根本的に過った観点に立つものである。例えば、9章28節にパリサイ人が「お前はあれの弟子だが、我々はモーセの弟子だ」と言っている場面がある。彼らはイエス・キリストとモーセを対立させて見ていた。彼らは偉そうに言っているが、モーセも知らず、キリストについても何も知らない。
 ローマ書の初めで、「福音は神が預言者たちにより、聖書の中で予め約束されたものであって、御子に関するものである」と言い、3章21節で「しかし、今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証しされて、現わされた」と言うのは、ヨハネ伝1章17節と同じ主旨である。また、ヘブル書の初めに「神はむかしは預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって私たちに語られた」と言うのも同じ主旨である。
 それでは、17節で言わんとするのはどういうことか。三つの点に纏めて心に留めたい。一つは、モーセが、キリストの来たりたもうのを予告し、予め証ししているという点である。第二に、律法の不十分さとキリストの完全さの対照である。あるいは、律法が呪いしか齎さないのに対して、キリストは祝福を齎したもうたことである。第三に、モーセが律法をとおして予め告げていたことを、イエス・キリストが成就されたことである。
 第一の点について見る。「モーセ」という名前についても我々はこの福音書では、ここで新しく聞く。人の名が出るのは二人目である。二人ともキリストの証し人という意味である。バプテスマのヨハネがキリストの証しのために来たことはすでに教えられたが、ヨハネは15節で、「私の後に来る人は私よりも大いなる方である。私よりも前におられたからである」という重要な証言をした。それと比べると、明瞭さにおいて劣ると言われるであろうが、モーセも似た証しをしている。それは申命記18章15節である。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、私のような一人の預言者をあなたのために起こされるであろう。あなたは彼に聞き従わなければならない」。 モーセがここで予告しているのは、キリストの到来ではなく、旧約の預言者たちのことだと解釈されるかも知れない。たしかに、預言者たちが神から遣わされて来ることもここで予告されている。しかし、マタイ伝17章5節が告げるように、イエス・キリストが高い山に登られ、栄光の姿を暫くの間だけ弟子たちに示された時、天から声があった。「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け」。この「汝らこれに聞け」との御声は、モーセの言っていた「あなたがたは彼に聞き従わなければならない」を受けていて、モーセの言ったのが究極の預言者であることを示している。
 第二点に移るが、ローマ書で、律法そのものは善であると言う。それだのに、善なるものが我々を罪に定めることしか出来ないのは何故か。それは我々の罪の故であり、その罪を克服する力が律法にはないからである。律法は「これを行なえば幸いを得られる」と約束し、その約束は裏切らないのであるが、罪人はその存在そのものが歪んでいるので、律法を守ろうともしないし、たとい律法を行なおうと決意したとしても、それを正しく果たすことは出来ない。出来ない者に、ただ要求することしか、律法には出来ない。それと対照的に、イエス・キリストは、罪人に要求するのでなく、罪人の罪を負うことによって罪を解決し、呪いを克服したもうたのである。
 第三点は、第一の点に含めても良いと思うが、イエス・キリストは律法と預言者によって予告されて、来臨された。預言されたことが成就したのである。その預言の方式であるが、予告の仕方は三通りであった。一つは直接的な予告である。先に申命記から引いた「私のような一人の預言者が送られる」というのはこのタイプである。預言者たちが語ったキリスト来臨の預言はこのような直接的な形であった。
 二つ目は象徴という形である。象徴あるいは影を示して、来たるべき本体あるいは実体を待ち望ませるのである。主として、律法の規定するさまざまの祭儀である。例えば、犠牲が捧げられるのは唯一の全き犠牲の象徴的待望であった。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を負う神の小羊」と証言したのは、小羊の犠牲によって象徴されていたものが実現したという意味である。安息日を守るのは、安息日の主の来臨を待つためのものであった。このことについては9章で学ぶことになっている。
 コロサイ書2章16節に「あなたがたは食物と飲み物とにつき、あるいは祭りや新月や安息日などについて誰にも批評されてはならない。これらは来たるべきものの影であって、その本体はキリストである」と言われた。本体が来たから影は消えたのである。 この部類で特徴あるのは、3章13節で主イエスが「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない」と言われたケースである。ここにモーセの象徴的な予告の働きが述べられている。彼が蛇を上げたというのは民数記21章にある故事であるが、荒野のイスラエルが神に向かって呟いたために、蛇に咬まれるという禍いにあい、民らの中に悔い改めが起こった時、モーセは青銅で蛇を造り、これを竿の上に上げて人々がこれを仰ぎ見ることによって禍いが過ぎ去ったのである。これはイエス・キリストの十字架を示すものであった。いずれ繰り返し強調されるが、「上げられる」という言い表わしに注意しておきたい。
 三つ目の示し方は、律法が人々に罪を自覚させ、キリストによらなければ救いがないことを悟らせて、その来臨を待ち望ませるやり方である。人々がキリストを求めていないのは、その必要を感じていないからである。しかし、自分の罪の現実がどんなに深刻であるかを知ったなら、真面目にキリストを求めざるを得ない。律法は人々に自分が神の求めておられることをどんなに無視していたかを自覚させる。ローマ書7章7節に「律法によらなければ私は罪を知らなかったであろう」と言われる。
 以上のように、モーセがイスラエルの民に律法を与えたのは、彼らをキリストの来臨に向けて方向づけるためであった。そこに一貫した神の計画を見ることが出来る。律法はモーセをとおして与えられた。恵みとまことはイエス・キリストをとおして来た。「与えられる」と「来る」との違いがある。「来る」と訳されたのは、3節で「出来た」と訳されたのと同じ言葉であって、実現である。
 「イエス・キリスト」という呼び名がヨハネ伝ではここで初めて出て来たことに我々は気づいているのであるが、福音書の序論の部分を述べて来て、序論を終わるところで、準備が整った段階になったから「イエス・キリスト」の名がフルネームで出たのである。しかも、ヨハネの福音書では御子のことを「イエス・キリスト」と表記するのは極めて珍しい。あと一回、17章3節があるだけである。
 「恵みとまこと」、これは14節で一度聞いた言葉であるが、今日学ぶ要点と言って良い。いや、聖書全体のテーマであると言って良いであろう。旧約においてすでにこのことはハッキリ示されている。出エジプト記34章6節「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ること遅く、慈しみと、まことの豊かなる神」とご自身を名乗りたもう。律法を授けるに際してこのように御自身を示したもうたのである。これと同様な言葉が、旧約聖書の至る所にあるのを我々は知っているのである。神はご自身を「恵みとまこと」ある御方として示したもう。また、「恵みとまこと」を抽象的なものとして理解してはならない。神において見ることの出来るものである。恵みについては直ぐ前の節でも「恵みに恵みを」と聞いたところである。
 「恵み」とは何か、と問われて、ハタと答えに行き詰まる人が多いのではないか。恵みということについて説明すべきだというのは、普通の信者には無理な要求だと言われるかも知れないが、「恵み」という言葉をいい加減に使うことがないよう心すべきであろう。例えば、今日の説教によって大変恵まれた、というような感想を言う人がいるが、それは何か心を動かされるものがあったというだけのことで、本当の恵みを捉えていない場合が多い。恵みはキリストによって来るのであるから、キリストに与っていないならば恵みはない。
 では、キリストに与ることによって受けた恵みは何か。それは先に教えられたように「満ち満ちた」恵みであるから、簡単な言葉では言い表わせない。大事なのは、観念としてでなく、実際に捉えていなければならないという点である。罪の赦しという恵み、新しい命という恵みを捉えて居なければならない。
 次に、「まこと」とは、「真実」であり、「真理」である。神の真実は契約を守ることにおいて示される。真理は自由を与えるのである。
 さらに加えて、「恵みとまこと」に富む神は、人々にも恵みとまことを要求したもうことを学ばなければならない。すなわち、神の恵み、まことに、神の民も与るのである。こうして我々は偽りなき者、真実を語る者となる。神のまことに答える我々のまことは信仰である。
 したがって、イエス・キリストが来られるまでは「恵みとまこと」が地上になかったと取ってはならない。旧約の人々は神の恵みとまことを御言葉によって知っていたし、日常の生活経験においても味わっていたのである。では、イエス・キリストをとおして恵みとまことが来たとはどういうことか。
 イエス・キリストにおいて来た恵みとまことが単なる教えであると考えてはならない。すでにキリストが光りであることを教えられたが、光りが照ったならば、闇は消えたのである。恵みとまことの到来は我々の変革なのである。
 18節を学ぶ。「神を見た者はまだ一人もいない」。これは正確な捉え方である。「神を見た」という表現は旧約聖書の中にも珍しくはない。しかし、正確に言うなら、彼らが見たのは、神そのものではなく、神の栄光、あるいは神の栄光の輝きであって、神の現臨を示すしるしである。神は人間の感覚では捉えられない。
 「見た者はいない」とは、神については何も知ることが出来ないという意味ではなく、神については御言葉を聞くことによってしか知り得なかったという意味である。しかし、言葉が肉体を摂って我々のうちに宿り、人々のうちに往き来したもうた。だから、肉体となった言葉において神を見ることが出来たのである。彼は来ておられたけれども、こちらからは見ることは出来なかったというような在り方は、彼の地上への来臨に関する限りはない。人となって来たりたもうたナザレのイエスを神秘のヴェールで包んではならない。ヨハネの第一の手紙が「私たちの聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの」と言うように、肉体をとった神は我々の手の届くところまで降りて来られた。
 それは父の懐にいる「独り子なる神」である。独り子なる神において見えざる神は現わされた。ヨハネは独り子という彼独自の言い方をする。我々は使徒信条において繰り返し「その独り子」という言葉を唱えているから、この言葉に親しんでいるのであるが、福音書を調べて見れば分かる通り、この言葉はヨハネの文書にしか使われていないものである。ヨハネ独特の思想というわけではないが、言葉としてはヨハネ独自である。 「独り子」という言い方をしなくても「御子」でも意味は殆ど違わない。この部分の原典の写本が「独り子なる神」というのと「独り子なる御子」というのと「独り子」というのとがあり、二番目のものが最も信用されているが、今日本語で聖書を読む我々にとってはどちらでも同じである。
 その「独り子」は父の懐にある。これは父親が小さい子を懐にいれているイメージで捉えられることがあるが、その場合、御子が小さい子として思い描かれるのは正確な理解にならない。ベツレヘムで生まれた幼子が、幼子のままで王座につく場面を考える人がいるが、そこまで考えるべきではない。
 父の懐にあるとは、神とともにあったと言われた御方が常に神とともにあり、神の最も深いところをも知っておられるということなのだ。
 その方が神を現わした。啓示された。これは説明ではない。説明ならば、ある程度知った人ならば誰にも出来る。しかし、説明はどこまで行っても説明に過ぎない。説明において神そのものに出会うことはない。イエス・キリストは14章9節で、「私を見た者は父を見たのである」と言われた。これが神の啓示である。
1999.07.04.
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